連合艦隊

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山本五十六(後編)

日米戦争は、一大凶事なり

昭和16年11月26日。30隻の艦隊が、密かに日本を出港しました。その任務は、アメリカの軍事拠点、ハワイ、真珠湾を撃破すること。この作戦を立案し指揮を執ったのは、連合艦隊司令長官、山本五十六。

「日米戦争は、一大凶事なり。」山本は大正時代から昭和にかけ、ときに命を狙われながらも、一貫して日米戦に反対してきました。しかし山本の願いは届かず、日本は開戦を決定。皮肉にも、そのとき連合艦隊司令長官の職にあった山本が、日米戦を指揮することになりました。巨大な敵から日本を守るにはどう戦えばいいのか。山本は戦艦ではなく、当時まだ未知数の戦力だった航空機を使い、敵の本拠地を叩くという奇策を立案します。海軍首脳部は、前代未聞の作戦を受け入れません。しかし山本は、そこにしか、日本が生き残るすべはないと考えたのです。

そのいっぽう、山本は戦争回避に向けて行われている外交交渉に、最後の望みをかけていました。和平の道が開ければ即座に作戦を中止し、引き返すよう指示を出します。タイムリミットは、刻一刻と迫ります。そして12月8日、運命のとき。ハワイ沖合の6隻の空母から、183機の航空機が発進。真珠湾を目指しました。その時歴史が動いた、真珠湾への道、後編。山本五十六が苦渋の末決行した真珠湾攻撃。その作戦の全貌を描きます。

 

真珠湾作戦の戦略立案

東京防衛研究所。ここに山本五十六が真珠湾攻撃の作戦をまとめた機密文書が残されています。「戦備ニ関スル意見」。昭和16(1941)年1月7日。対米戦争の準備が進むなかまとめられた、作戦書です。その作戦方針。

「敵主力ノ大部隊、真珠港ニ在泊セル場合ニハ、飛行機隊ヲもっこれヲ徹底的ニ撃破シ、かつ同港ヲ閉塞へいそくス。」

開戦直後、アメリカの軍事拠点ハワイ真珠湾を航空機で先制攻撃するという作戦です。山本は、海軍の作戦を統括する軍令部に、自ら立てたこの作戦を提案します。しかし軍令部の反応は冷ややかなものでした。あまりにも、ばくち的に過ぎる。当時海軍の戦い方は、戦艦同士が雌雄を決する、艦隊決戦が支配的でした。戦艦の補助的役割しかなかった航空機を主力にして敵の本拠地に乗り込むという山本の作戦は、あまりにも現実離れしていると却下されました。もちろん山本自身も、作戦の奇抜さは承知の上でした。「桶狭間と、ひよどりごえと川中島を合わせて行うようなもの。」

しかし、大国アメリカを相手にした場合、従来の戦い方では長期戦となり、日本は持ちこたえられないと山本は考えていたのです。しかも山本は、この作戦の鍵となる航空機に、誰よりも自信を持っていました。それが、零式艦上戦闘機、ゼロ戦や、97式艦上攻撃機。速度、航続距離、攻撃力、いずれも、当時世界最高性能を持った航空機です。山本は作戦の5年前から、地道に技術開発に取り組んできた航空機を自らの作戦の切り札としたのです。

山本は作戦の了承を得られぬまま、具体的戦術の準備を始めます。敵艦隊を確実に破壊するために山本が選んだのは、実戦ではほとんど使われていなかった、航空機による魚雷攻撃でした。しかし課題がひとつありました。魚雷は着水すると、水深60メートルまで沈みます。真珠湾の水深はわずか12メートル。海底にぶつかってしまうのです。それを避けるには、従来より低空から発射するしかありません。

低空魚雷発射訓練

山本は密かに訓練を始めます。場所は鹿児島湾。水深が浅く、真珠湾に地形が似ていました。パイロットたちは、これまでにない飛行訓練を命じられます。「魚雷発射の高度を10メートルにせよ。」通常の発射高度100メートルより、90メートルも低く飛べというのです。

当時の訓練に参加したパイロットの前田武さんは、異常な低空飛行に戸惑いました。

「高度10メートルになるとプロペラで波を巻き起こして、しかも投下するときの飛行機の角度はアップ1度。これは非常に難しいんです。1度というのは上げ過ぎてもいかんしね。」

なんとか10メートルで飛べるようになったものの、魚雷はやはりうまく進みません。作戦の要点となる魚雷攻撃は、壁に突き当たっていました。

最後の日米交渉

山本が真珠湾攻撃の準備を進める最中さなか、アメリカに一貫して強硬姿勢をとってきた日本政府に変化が生まれます。昭和16(1941)年4月16日、日米戦争を回避するための、外交交渉が始まったのです。交渉の場はワシントン。駐米大使、野村吉三郎は、アメリカ国務長官、コーデル・ハルと交渉に臨みます。当時日本は、ドイツ、イタリアと三国同盟を結び、アメリカ、イギリスとの対決姿勢を強めていました。さらに日本が、軍を北部仏印、現在のベトナム北部にまで進めたことで、フィリピンに植民地を持つアメリカを極度に警戒させていました。

こうした問題を解決するため、日米は初めて、交渉のテーブルにつき、模索を始めました。海軍出身の野村は、国際協調派として、これまで山本と考えを共にしてきた間柄でした。野村さんなら何とかしてくれる。山本は、野村に戦争回避の望みを託していました。

昭和16(1941)年7月28日。日本の陸軍部隊が、南部仏印に進駐。アメリカが警戒していた日本の南方進出は、さらに拡大。昭和16(1941)年8月1日、ローズヴェルト大統領は石油の対日輸出禁止を決定。石油の七割をアメリカからの輸入に頼っていた日本は窮地に追い込まれます。

9月、山本は、首相の近衛文麿から私邸に呼ばれ、日米戦の勝算について尋ねられました。山本は答えます。

「初め半年や1年は、暴れてご覧にいれます。しかし、2年3年となっては、全く確信は持てません。日米戦争回避に、極力、御努力を願います。」

浅海面魚雷

鹿児島湾で魚雷攻撃の訓練を続ける航空隊のもとに、山本が改良を命じた魚雷が届きました。新型魚雷には、大型のひれが取り付けられ、深く沈み込まない角度で着水できるよう工夫されていました。

鹿児島で訓練していたパイロットの吉野治男さんは、さっそく新型魚雷を試みました。

「魚雷は走るなと思った。中へ突っ込まないで、浅いけどちゃんと走っているということですよ。」

演習を見ていた山本はつぶやきます。「よろしい。満足した。」

いっぽう、海軍軍令部は相変わらず、山本の作戦を承認しません。しかし山本は現場の責任者として、今回の作戦には強くこだわりました。

「作戦が認められなければ、日米戦をやり通す見込みはない。そうなれば、自分と連合艦隊全幕僚は、辞職する覚悟でいる。」

山本のかたくなな姿勢に軍令部の永野総長は、それほど自信があるならと、ついに了承しました。昭和16(1941)年10月19日、軍令部は真珠湾攻撃を了承。作戦立案から9か月、山本の作戦は現実的な段階へと進んでいったのです。それは、真珠湾攻撃の、51日前のことでした。

 

航空艦隊

昭和16(1941)年10月18日、東条英機を首相とする内閣が成立。東条内閣は、日米開戦の是非を議論しました。直ちに開戦するか、それとも、外交努力を続けるか。意見は真っ向から対立します。結局結論は出ず、戦争準備と外交交渉とを並行して進めることになりました。ただし外交交渉は、12月1日までと、期限が定められました。もしそれまでに和解できなければ戦争を決行。その開戦の日は、12月8日と決定されたのです。

昭和16(1941)年11月、海軍は開戦に向けて準備を開始、真珠湾攻撃に参加する艦船、30隻が各地から集められました。その中心は、赤城、加賀など、6隻の航空母艦です。山本は航空機による作戦を実現するため、戦艦ではなく空母を主軸にした、世界で初めての航空艦隊を編成したのです。

赤城

加賀

飛龍

蒼龍

瑞鶴

翔鶴

艦隊の集結地は、対馬列島にある単冠ひとかっぷ湾。パイロットたちはこのとき初めて、今回の作戦について知らされました。

元真珠湾攻撃隊パイロット 吉野治男さん「そのとき初めて、なんだそうだったのかと、わかったのはそこですよ。それまではわからなかった。誰もハワイと気づかなかったでしょう。すごいなと思いましたよ。」

40本の新型魚雷も、出港直前に、空母加賀に運び込まれました。

元真珠湾攻撃隊パイロット 前田武さん「ぎりぎり間に合った。魚雷が。いちばん最後にヒトカップに入ったのが加賀だった。」

百年兵を養うは、ただ平和を守るため

交渉期限が12月1日と定められたことを受け、アメリカの日本大使館では交渉が急がれました。昭和16(1941)年11月20日、日本は、和解案をアメリカに提出します。日本はこれ以上アジアへ進出するのをやめ、南部仏印から軍を撤退することなどを提示。日本政府は、これだけ大幅に譲歩すれば、アメリカの態度を軟化させることができると期待していました。

このころ、真珠湾攻撃に向けた作戦の最終打ち合わせが行われました。山本は、一堂に会した連合艦隊の幹部にこう告げます。

「ワシントンで行われている対米交渉が妥結したならば、ハワイ出動部隊は、直ちに反転して帰投せよ。」

すると南雲忠一中将など、何人かの指揮官が反論します。

南雲忠一中将「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません。」

これを聞いた山本は珍しく声を荒げました。

「もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、即刻辞表を出せ。百年兵を養うは、ただ平和を守るためである。」

山本はこの時点でも、まだ戦争回避の可能性をあきらめてはいなかったのです。

新高山登レ

昭和16(1941)年11月26日、事態はそんな山本の願いを打ち砕くことになります。日本が先に出した和解案に対するアメリカ側の対案が示されました。アメリカは、日本に対し三国同盟からの脱退と、仏印――現在のベトナム、ラオス、カンボジアだけでなく、中国大陸からも、全ての日本軍を撤退させよと要求してきました。明治以来築き上げてきた権益のほとんどを放棄せよと言うアメリカ。日本政府には、とても受け容れられないものでした。

同じ日、26日。ヒトカップ湾の航空艦隊は、錨を上げ、ハワイ真珠湾へ向け出港しました。艦隊を率いるのは、南雲忠一中将。司令長官の山本の姿はありません。自ら立案した作戦を、前線で指揮することを強く希望したものの、あくまで日本で役目を務めるように命じられていたのです。山本は呉に停泊する戦艦長門に置かれた司令部で指揮を執ることになりました。

ヒトカップ湾を出た航空艦隊。ハワイまでは遥か6,000キロメートルの距離です。アメリカに察知されないでハワイまで移動するため、北太平洋航路が選ばれました。冬は激しく海が荒れ、船舶の往来がほとんどないからです。

昭和16(1941)年12月1日、日米交渉の最終期日。ついに日米関係の改善はみられぬまま、この日を迎えました。午後2時、宮中で御前会議が開かれました。東条首相は述べます。

「事ここに至りましては、米英蘭に対し開戦のやむなきに立ち至りましたる次第であります。」

ここに、アメリカとの開戦が、正式に決定されたのです。開戦決定を聞いた山本は、知人に語りました。

「万事休すだ。もし交渉がまとまったら、出動部隊をすぐ引き返すだけの手は打っているが。どうもね…。」

しかしこのころワシントンでは、戦争回避への最後の努力がなおも続けられていました。日本大使館は、昭和天皇とローズヴェルト大統領による、元首同士の直接対話の実現に奔走していたのです。

いっぽう作戦開始に合わせて、予定は着実に進められていきます。

12月2日、午後5時。呉の司令部から、全部隊に電信が撃たれました。

新高山にいたかやま登レ 一二〇八」

12月8日に、作戦を実行せよ。それは、真珠湾攻撃の6日前のことでした。

山本五十六の長い夜

昭和16年(1941)年12月5日、一路ハワイを目指す航空艦隊の艦内ラジオから、不意にのどかな洋楽が流れてきました。ハワイのラジオ番組が受信されたのです。

元真珠湾攻撃隊パイロット 吉野治男さん「色々な音楽が流れて、すごくのんびりしているような状態だから、日本軍が近づいていることはわかっていないんじゃないかと。」

そのころ、ワシントンでは最後の打開策が進展を見せていました。12月7日、ローズヴェルト大統領から、昭和天皇への親書が送信されます。国家元首による直接対話により、開戦はぎりぎりで回避されるのか、それとも、真珠湾攻撃へと突き進むのか。山本は、もし和平への動きが見えれば即時に作戦を中止する手筈てはずを整え、結果を待ち構えました。このとき、司令長官付きの士官だった佐藤嘉三かずおさんは、山本の様子をそばで見ていました。

元司令長官付き士官 佐藤嘉三かずおさん「長官(山本)は夜、甲板の上を歩きながら、いろいろ考えられるんでしょう。何か考えながら、静かに静かに歩かれる。ただ歩かれるのではなく、コツ、コツ、コツ、という感じですね。」

山本の厳命

12月8日、航空艦隊はハワイ北方426キロメートルの攻撃発進地点に到着します。攻撃開始予定時刻は、現地時間午前8時。6隻の空母では、パイロットたちが機内で発進命令を待っていました。そこに、一つの指示が出されます。

元真珠湾攻撃隊パイロット 前田武さん「そのとき一番しつこく言われたのは、山本長官の命令で、8時より前に爆弾を落としたり機銃を撃ったりしてはいけないと。」

山本は国際法上、日本の正当性を守るため、攻撃前にアメリカに事前通告を行うよう、日本政府に約束させていました。その刻限である7時30分より前には、絶対に攻撃しないようにと全軍に厳命したのです。

現地時間7日、午前6時。8時の攻撃予定時刻に合わせ、183機の攻撃隊が一斉に発進。真珠湾へ機首を向けました。7時30分。先行していた偵察機は、真珠湾の状況をつぶさに確認し、攻撃隊に向け打電します。「敵艦隊、真珠湾に在り。」

同時刻、長門司令部。ワシントンで開戦の事前通告が行われる時刻です。もし連絡があれば、和解が進んだしるしであり、作戦は即時中止。連絡が何もなければ、最後まで戦争回避の可能性に賭けた山本の願いが、完全に潰えたことを意味します。じっと待つ山本。しかしついに、連絡は入りませんでした。

 

真珠湾攻撃開始

そしてそのとき。昭和16(1941)年12月8日、現地時間7日、午前7時55分。真珠湾の真上に到達した攻撃隊は、一斉に降下していきました。停泊するアメリカ艦隊や飛行場に、魚雷と爆弾で襲い掛かる攻撃隊。この日のために改良された魚雷も、効果を発揮しました。

元真珠湾攻撃隊パイロット 前田武さん「左の前方、フォード島の後ろの方向に、一本バーッと水柱が上がった。どす黒いね。あれは魚雷が当たったなと思った。」

真珠湾のアメリカ軍は、空から突然襲って来た日本軍に、ほとんどなすすべがありませんでした。8隻の戦艦をはじめとした計18隻の軍艦が、撃沈もしくは大破。200機以上の航空機が損壊。作戦はわずか2時間で、アメリカ太平洋艦隊に壊滅的な打撃を与えたのです。

長官付き士官の佐藤さんが、次々と届く真珠湾の戦果を司令部に報告しました。

元司令長官付き士官 佐藤嘉三かずおさん「いろいろな参謀やその他が欣喜きんき雀躍じゃくやくといいますか、躍り上がって喜ぶような雰囲気だったんです。長官は腕組みして、ウーンと言われて、表情があまり見えないんです。」

午前10時30分。ハワイ洋上では、攻撃を終えた航空機が、次々と空母に帰還します。しかしまだ、真珠湾基地の燃料タンクと船を修理するドックを攻撃していませんでした。さらに真珠湾には、アメリカの空母の姿がありませんでした。実はこのとき、アメリカの2隻の空母はハワイ近海に出かけていたのです。

再び出撃し、攻撃し残した施設や空母を攻撃するか。実は現地指揮官の南雲には、軍令部から、日本の航空艦隊を無傷で連れ帰ることが、重く課されていました。南雲は命じます。「航空機を格納庫に収容せよ。日本へ帰投する。」

元真珠湾攻撃隊パイロット 吉野治男さん「なんだ、やらんのかという。おかしいな、なんで母艦(空母)を探しに行かんのかと、みんなそう言ってましたよ。」

日本の司令部では、攻撃がまだ不十分だと、参謀たちが山本に詰め寄りました。敵をこの一撃で徹底的に撃破すべし。それが、山本の当初の作戦構想でした。しかし山本は告げます。「ここは、航空艦隊指揮官に任せておこう。」この瞬間、真珠湾攻撃は終わりました。

だまし討ちと取られた真珠湾攻撃

ローズヴェルト大統領「いわれのない卑劣な攻撃が、日本によって行われた…。」

作戦後、山本は思いがけない知らせを受けます。アメリカへの事前通告が、攻撃開始後55分も後だったのです。最も心配したことが起きていました。日本はだまし討ちをした。アメリカ世論は、一気に対日戦支持に傾きます。山本は攻撃に成功しながら、作戦書で意図したように、アメリカ国民の戦意を失わせ、戦争を早期に収束させることは、できませんでした。

やがて、巨大な産業力を背景にして、軍を立て直したアメリカの逆襲が始まります。真珠湾攻撃から3年8か月。国土は焦土と化し、日本は降伏したのです。

山本五十六の最後

真珠湾攻撃の直前、山本五十六は久しぶりに家族のもとに帰っています。そのときの様子を、この取材にあたり、山本の長男義正さんが、手紙で伝えてくださいました。

「私たち一家が、父を交えて最後に食事をしたのは、昭和16年、12月3日の、夜でありました。テーブルに並んだ品々のなかに、ひときわ目立ったのが、一尾の赤い鯛でした。まだ幼い妹や弟たちには、何を意味するものか解らなかったでしょう。けれども、真ん中にあった鯛には、最後まで誰も箸をつけませんでした。」

真珠湾攻撃は、この5日あとのことでした。日本はやがてアメリカの反撃に遭い、昭和17年6月、ミッドウェー海戦で敗北。8月、ソロモン海戦、敗北。翌年2月、ガダルカナル島撤退。

山本は手帳に、帰らぬ部下の名前と故郷を、一人ずつ書き留めていました。そして度々その手帳を見ながらつぶやいていたといいます。

「もうどのくらいになったかな。この手帳もいっぱいになって、数えるのも難しくなった。」

山本は戦況が悪化するにつれ、求めて最前線で指揮を執るようになります。昭和18(1943)年4月18日、山本は周囲の猛反対を押し切って、ラバウル基地から、敵が多い危険地域に飛び立ちました。しかし、あの真珠湾を攻撃した司令官を躍起になって探していたアメリカ軍に待ち伏せされます。山本の搭乗機は、16機の戦闘機の猛攻を受け、密林に撃墜されました。享年60。死の7か月前、密かにしたためていた手記には、こう記されていました。

「ああ、われ何の面目がありてまみえむ大君おおきみに。将又はたまた、逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし。いざまてしばし若人ら、死出しでの名残の一戦を。華々しくも戦ひて、やがてあと追ふわれなるぞ。」≪終≫

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