零戦 4.ゼロ戦よ永遠に
珊瑚海海戦
昭和17年5月7日。南太平洋珊瑚海において、史上初の空母対空母の決戦が行われた。日本は、南方侵攻作戦の第2段階として、東部ニューギニアにあるアメリカの戦略拠点、ポートモレスビー攻略を目指し、MO作戦を開始。暗号解読により、日本の動きを知ったアメリカは、空母ヨークタウンとレキシントンによる機動部隊を派遣してきた。
MO機動部隊の艦載機は、零戦、九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機、合わせて約140機。
いっぽう、アメリカ機動部隊の艦載機は、F4Fワイルドキャット、ドーントレス爆撃機、デバステーター雷撃機など、約140機。航空兵力は、全くの互角であった。
F4F
ワイルドキャット
SBD
ドーントレス
TBD
デバステーター
まず、攻略部隊の祥鳳が、アメリカ艦載機の集中攻撃を受けて沈没(写真左)。翌8日、両攻撃部隊の索敵機が、ほぼ同時刻にお互いの空母を発見した。瑞鶴、翔鶴の攻撃隊69機は、2隊に分かれ、レキシントンとヨークタウンを攻撃。アメリカの攻撃隊84機のほとんどは、翔鶴に殺到した。このとき瑞鶴は、約8キロ前方を航行しており、激しいスコールに身を隠していたのである。激戦の結果、アメリカ側は、レキシントンが沈没。ヨークタウンは飛行甲板が大破したが、沈没だけは免れた。
攻撃隊の零戦18機は、敵機50数機を撃墜、また上空直衛の零戦19機も、40数機を撃ち落としていた。零戦はここでも無敵であった。攻撃を一手に引き受けた翔鶴は、飛行甲板が大きく破損したものの沈没には至らず、自力航行が可能であった。
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「初めて目の前に母艦という、大きな、自爆の姿を、見ましたけれども、これが戦争かということでもって、がんっと…緊張しますね。ところがそのあとは、上にいる敵機がもう、右往左往しながら降ってきますからね。零戦が下へ行ったんだから、下へいるうちにつかまえろっていうことでの作戦でしょう。中間にいる攻撃隊、相手の艦爆隊あたりが、容易に攻撃できるように、上から降ってくるわけですね。そういったふうな乱戦に巻き込まれまして。――9機編隊だと思ったんですよね。そうしたら(敵機が増えて)18機になりましたね。だから日本のほうでは、攻撃隊に力入れると、守るのが手薄になるし、非常に難しい…ちょうど難しい機数が、常時…活動…やりくりですよね。攻撃隊に全部行っちゃっても、あとたくさん残ってるから心配するなってんだったら、こらぁ、よかったんですけど。そういう編制で飛べることは一回もなかったから。」
戦果だけを見れば、日本側の勝利に思われるこの珊瑚海海戦。しかし、ポートモレスビーの攻略に失敗したことや、搭乗員と艦載機を消耗した第五航空戦隊が、ミッドウェー海戦に参加できなかったことなどを考えると、日本海軍初めての敗北といえるだろう。MO作戦の頓挫により、ポートモレスビー攻撃の任務は、ラバウル航空隊に託されることになる。
ミッドウェーの大敗とガダルカナル~ラバウル
(写真左右:昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦)珊瑚海でつまづいた日本海軍は、昭和17年6月のミッドウェー海戦で主力空母4隻を失い、大敗。以後、航空戦力は、基地航空隊が中心にならざるを得なかった。
MO作戦と呼応して、ツラギを占領した日本軍は、ソロモン方面の前進基地として、隣の島、ガダルカナルに目を付けた。しかしアメリカ側も、飛び石づたいに飛行場を北上させる反攻作戦の拠点として、ガダルカナルに着目していた。この平和な島が、約7か月に及ぶ、日米の壮絶な死闘の舞台となったのである。
昭和17年1月23日、ソロモン及び東部ニューギニア方面に睨みをきかす戦略拠点として、日本軍は、ビスマルク諸島、ニューブリテン島のラバウル(写真左)を占領した。しかし、当初ラバウルには、九六式艦上戦闘機が少数配備されただけであった。台南航空隊の零戦が、特設空母春日丸に運ばれて進出したのは、4月になってからである。
ラバウルからガダルカナルへの初遠征と戦果
(写真左:昭和17年8月7日 アメリカ軍ガダルカナル上陸)8月7日、日本軍が飛行場を建設していたガダルカナル島に、アメリカ軍が突如上陸を開始してきた。同日、ラバウルの台南航空隊は、急きょ予定を変更し、7時50分、零戦17機が陸攻隊を護衛してガダルカナルへ飛んだ。距離は片道560カイリ。約1,037キロである。この日が、ラバウルからガダルカナルへの初めての飛行となった。零戦が経験したことがない、長い飛行距離であった。
ガダルカナルには、連合軍の大船団がいた。日本軍は、その物量に圧倒されていた。この日出撃した坂井三郎一飛曹(写真右:坂井三郎一飛曹〔当時〕)は、F4Fワイルドキャットと初めて空戦を交え、巴戦に引き込み、撃墜した。そのほか、ドーンとレス艦上爆撃機を3機撃墜したが、その際後部の旋回機銃(写真左)に撃たれ、瀕死の重傷を負いながらも、ラバウルに帰還した。17機の零戦隊は、この日だけで77機の敵機と戦い、36機を撃墜。零戦の未帰還は、1機だけであった。
零式艦上戦闘機三二型 A6M3
(写真右:零式艦上戦闘機三二型 A6M3)ラバウルには、台南航空隊のほか、新しく編制された第二航空隊と、ミッドウェー海戦ですべての零戦と多くの搭乗員を失った第六航空隊が進出。ガダルカナル島攻撃の増強が図られた。新しく補給された零戦は、零戦三二型 A6M3だった。
第三艦隊
ラバウルから、ガダルカナルへの連日の飛行。問題は、片道1,000キロ以上の行程であった。搭乗員の疲労と零戦の消耗は、限界を超えていた。日本軍は、飛行距離の障害を取り除くために、昭和17年10月、ラバウルとガダルカナルの間にあるブーゲンビル島、ブインに、ようやく飛行場を設営した。第六航空隊が進出し、長期化するガダルカナル攻撃の前線部隊となった。
ミッドウェー海戦後、機動部隊は翔鶴を旗艦とする第三艦隊として再編された。所属する空母は、第一航空戦隊、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳。
第一航空戦隊 | ||
---|---|---|
第三艦隊旗艦 翔鶴 | 瑞鶴 | 瑞鳳 |
第二航空戦隊、飛鷹、隼鷹、龍驤。
第二航空戦隊 | ||
---|---|---|
飛鷹 | 隼鷹 | 龍驤 |
司令官は、再び南雲忠一中将である。昭和17年10月17日、第二航空戦隊、空母飛鷹と隼鷹の零戦18機、九七式艦上攻撃機17機がガダルカナル島攻撃に向かった。このとき、飛鷹零戦隊の第三小隊長だった原田要一飛曹(写真左:原田要一飛曹)は、約30機のF4Fワイルドキャット(写真右:グラマン F4F ワイルドキャット)と交戦。当時、F4Fワイルドキャットは、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機であった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「約500メートルくらい左上方に、だうんがあったんですね。私も、どうも嫌な残雲だなぁという予感はしたんですけども…それでもこう警戒していたところ、ぱやぱやっとやっぱり光って、12機くらいだと思うんですが、一斉に降下してきて、我々を狙わないで、艦攻隊を狙った。見てる間に6機が火を噴いちゃった。2機も煙を吹いて下へ落ちて。だから全滅じゃないですか。ところが、私も、戦闘機隊がすぐ、向こう(ガダルカナル)で(攻撃を終えて)引き揚げたから、それを追撃したわけ。そしたところ(敵機のうちの)1機だけ、(戦闘機隊の)後ろへくるっと回ったんですよね。だから私は一番後ろの小隊長ですからね。その飛行機を、後ろからまたやられると、今度は日本の、我々の戦闘機隊がみな、後ろからやられるから。私はこれ(敵機)とまあ、差し違えるつもりで、反転したわけです。ところが、もう南方(ガダルカナルへの長征攻撃)で体力も消耗してたし、まぁ暑さにも負けてたんだと思うんですがね、いつもだとそんなことないんだけども、私がこの、反転したときに、Gがかかり過ぎちゃって、目先が真っ暗になっちゃった。で、操縦桿、緩めたら、目は見えてきた。そしたらもう、向こうで私を狙って降下してきてる。ちょっとでも避ければもう、完全に私はやられるから、こうなったらもうしょうがないから、もう差し違えでもいいから、というので、不利な体勢から撃ち合った。ところが、両方の弾がうまく当たったみたいですね。それで私、左腕を撃たれて、もう帰還できなくて、ジャングルの中へ、不時着したわけです。まぁ墜落同様の…不時着ですから、あとで見たら、私が行った(落ちた)ヤシの葉っぱがばっと来たと思ったら意識なくなったんですがね。そんとき、右の翼が吹っ飛んじゃったみたいで。右の翼吹っ飛んで、こうなってがーっとおった(機体がひっくり返って強い衝撃で叩き付けられた)から、潰れちゃって、もう出らんないんですよね。燃料タンク穴空いてるから、ジャージャージャージャーこう、燃料かぶって…まあ、息が止まりそうに苦しいんですよ。だから仕様がないからね、外へ顔だけでも出そうと思ったけね、風防が潰れてるから出られなくてね。しょうがねぇからもう、これ(手)で、掻いて。どうやら頭を外へ、出して。ほっとしました。」
南太平洋海戦
(昭和17年10月26日 南太平洋海戦)昭和17年10月26日、ガダルカナル島奪回支援のため、第三艦隊主力は、第二次ソロモン海戦に続き、出撃した。しかし、空母エンタープライズ、ホーネットからなるアメリカ機動部隊が待ち構えており、南太平洋海戦が起こった。
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「ガダルカナルあたりから、(日本にとって)押せ押せの状態の戦場が続いてましたよね。そうすと、ソロモンからガダルカナルへんにかけて、あすこが天下の分かれ道とばかり、アメリカが、あそこで踏ん張ったところですからね。戦闘始まるごとに、10機同士、あるいは20機同士で仮に、よーいどんで戦ったとしてもだ、アメリカのが…ちっきんぉあたぇ…で行くんですよ。そんな差があるわきゃないと思って取り掛かったのに、アメリカのほうが非常に、意気盛んなところがあるんですよね。私の感じでは。」
P-38 ライトニング
(写真左右:ロッキード P-38 ライトング)このころ、ソロモン諸島で零戦と戦ったのが、ロッキード P-38 ライトニングである。P-38ライトニングは、零戦と同じ年に開発が始まり、1941年8月、まずアラスカと、アメリカ西海岸沿岸地区に配備された。実践への投入は、1942年夏の、ヨーロッパ戦線からである。エンジンは、液冷式V型12気筒。スーパーチャージャー以上に効率のよいターボチャージャー付き1325馬力のエンジンを2基搭載。最高時速は、時速636キロと、零戦を100キロも上回っている。高高度性能と、急降下速度に優れていたが、旋回性能や低速での操縦性が悪かった。
(写真左:小福田租大尉)最初に戦ったのは、ラバウルの第六航空隊飛行隊長、小福田大尉だった。旋回性能のよくないP-38ライトニングは、格闘戦になると直線的にしか飛ぶことができず、零戦の格好の餌食となっていった。ヨーロッパでは双胴の悪魔などと恐れられた戦闘機も、零戦にかかっては、ぺろっと食える、ぺろはちでしかなかったのである。
ボーイング B17 フライングフォートレスとの戦い
空の要塞と恐れられたボーイングB17フライングフォートレスは、太平洋方面では昭和16年5月に、フィリピンのクラークフィールドと、デルモンテフィールドに35機が最初に配備されていた。全幅が31メートル、全長が20メートル、大型機でありながら、時速500キロ以上も出せる、高速爆撃機だった。飛行中のB17は、機銃が機首、上部前方、上部後方、下部、胴体左右、尾部にあり、ほとんど死角がない。しかも防弾装備が頑丈で、機銃を撃ち込まれても、簡単には火を噴かなかった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「B17ともやりましたけども。こっちの弾は当たらんね。当たるそばまで行けばこっちが先やられちゃうからね。だから結局B17撃つときは自分でも滑らせてるんです。そうすると向こうの弾は当たらないからね。その代わり自分の弾も命中率悪いです。B17とは少しやりました。B29とは…(手を振るしぐさ)。あれはもう、全然置いてかれちゃうんだから。」
台南航空隊は、3機編隊を縦一列に組み換え、前方斜め10度から10度の角度で突っ込む戦法をとった。この角度だと、B17の胴体左右の機銃は、自らのプロペラに邪魔され、射撃することができない。
零戦は1番機から順に攻撃を加え、急反転して退避する。このとき、B17の大きさに距離感を見誤り、遠くから撃ってしまうミスが続発した。照準器からB17の機体が大きくはみ出すまで、射程距離には達しないのだ。また、上昇急反転して退避するときが、最も危険であった。B17の上部銃座から攻撃を受けてしまうことと、お互いが接近しているため、かなりの速度ですれ違い、衝突の危険もある。
また二〇四航空隊は、B17の前下方から、燃料タンクがある翼の付け根あたりを狙った。そしてB17の胴体下をすり抜けて退避するのである。このとき下部の機銃から狙われることも多かった。この場合も、照準器からB17の機体がはみ出すぐらい接近しなければ、当たらない。しかしこの戦法も衝突の危険性が多く、実際衝突し、太平洋に沈んでいった零戦も多かった。
また12機の零戦で、4機のB17を1時間30分も追尾して、やっと全機を撃墜したこともあった。B17との空中戦は、それだけ大変なことだったのである。
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「上空の、対、相手と自分との相対するその…形。とか、いわゆる位置、高さ。自分の優位な位置で、上空でうまく接敵できるかとか、そういったとこの変化によって、結果がずいぶん違うんでねぇ…。態勢によって、やはり、相対するときに三号爆弾落っこっても、両方ともスピード、全速になりますからね。100キロ出てるったら200キロの相対するスピードですからね。こんなところで爆弾落としたって当たるわけないすこれ。だからこれはあくまで、反攻はだめですね。で、だいたい、同方向。同方向で後上方がいちばん、後上方が一番戦闘には向いてるんだけども、いちばん被害が大きいし、いちばん、いい態勢のはずなのに、犠牲が多いんですよね。だからこれも、よほど状況のいいとき以外は、接敵を中止して。できるだけ接近しなければ、命中率が少ないんですよ。ところが怖いもんだから、いちばん命中率のいいところまで接敵してこのへんで(爆弾を)ぽとんと落とすような、そこまで元気のいい人はいませんから、そこで攻撃の態勢とか姿勢をいろいろ研究して、その…お互いに対向車線はだめだと。とにかく、すくなくとも斜めあたりから行けとか、後上方はなるべく、垂直上方みたいにやらなかったらーーふつう訓練のときにやる何度かの、これとこれとの間の何度かの度数の形で追っかけていってこのへんでぽとんと落とすなんて虫のいいこと考えたってそれだめだと。いうようないろんな研究の結果、それぞれのお得意とする攻撃法から、接敵の角度なんかを勉強できたいい時期ではあったんですよね。」
SBDドーントレス
TBFアベンジャー
B25ミッチェル
B26マローダー
B24リベレーター
「い号」作戦~山本五十六長官の死
昭和18年2月 日本軍 ガダルカナル撤退
ガダルカナルでの消耗戦が続くなか、日本軍は、戦病死を含め約2万人の戦死者を出し、ついに撤退を決めた。海軍航空隊では、893機の航空機と、2,362名の搭乗員を失っている。敵戦闘機は零戦には襲い掛からず、爆撃機を第一標的にしたため、その大半は、一式陸上攻撃機や艦上攻撃機、艦上爆撃機などであった。
昭和18年2月、全軍が撤退すると、アメリカ軍はさらに航空兵力を強化、ラバウル方面に迫っていった。
これに対抗すべく日本軍は、昭和18年4月、「い号」作戦を発動。連合艦隊司令長官、山本五十六大将が、自ら前線の指揮を執るため、ラバウルに司令部を置いた。
ラバウルには、空母瑞鶴、瑞鳳、飛鷹、隼鷹の搭載機約180機、基地航空隊約200機、合計約380機の大部隊が集結した。
4月7日、作戦1日目。250機の大編隊が、ルッセル島とガダルカナル島を攻撃。続く11日と12日は、ポートモレスビーを攻撃。そして「い」号作戦の最終日、14日、山本長官は、ブナカウア飛行場にて七五一航空隊と七〇一航空隊の出撃を見送った。この時のニュースフィルムは、山本長官を記録した、最初で最後のものとなった。作戦は予定通り終了し、アメリカ艦隊と航空機に、多大な損害を与えた。
山本長官機の撃墜
昭和18年4月18日、午前6時。山本長官は、ラバウルからショートランド方面、ブーゲンビル島ブイン基地などを視察するため、二〇四航空隊の零戦6機の護衛を伴い、一式陸上攻撃機で出発。アメリカ軍は、暗号を事前に解読し、山本長官機撃墜作戦を計画、実行した。ガダルカナル、ヘンダーソン基地から飛び立った、18機のロッキード P38 ライトニングは、ブーゲンビル島で予定通り飛行してきた山本長官機を、低空から上昇して攻撃。一瞬にして、山本長官と宇垣参謀長搭乗の一式陸上攻撃機2機は火を噴き、墜落した。海軍の士気が落ちたのは、いうまでもない。6機の零戦は反撃に出たが、目的を達成したP-38が全速力で引き揚げたため、なす術もなかった。唯一、柳谷謙治飛行兵長(写真右:柳谷謙治飛行兵長〔当時〕)だけが追尾に成功、一機のP-38を撃墜することにとどまった。
アメリカ軍機のアップグレード
当時、アメリカ軍は、徹底的に零戦を研究していたが、P-38もまた、落下式増設タンクを取り付ける改造をしている。これは明らかに、零戦を研究し尽くした結果である。その後、F6FヘルキャットやP-51ムスタングにも、落下式増設タンクが装着された。
零式艦上戦闘機の改良と派生型
昭和18年1月、零戦三二型の不評から、翼を元の12メートルに戻し、新たに翼内燃料タンクを増設した、零戦二二型 A6M3が制式採用され、ラバウル基地に配備された。
(写真左:零式艦上戦闘機五二型 A6M5)その後さらに改良されたのが、現在、ロサンゼルス郊外チノの、プレーンズ・オブ・フェイムに保管されている零式艦上戦闘機五二型である。昭和18年8月に制式採用されたこの五二型は、十四試局地戦闘機 雷電の開発が遅れていたので、その打開策として改良されたものである。しかし戦局の悪化などから、エンジンの換装をはじめとする大幅な改良ができないため、現状のエンジンのまま、性能向上を余儀なくされた。そこで集合排気管から、ロケット排気管と呼ばれる単排気管に変更。また翼は、50センチの折り畳み式を廃止して、翼端を丸みのあるものにし、全幅を11メートルにした。試作の零戦六四型を除けば、この五二型が時速約565キロまでスピードを出せ、最も速かった。以後、零戦五二、甲、乙、丙の各型、五三丙型、六三型と改良されるが、同じ機体で、兵装の変更や防弾装備などが施されて区別されている。零戦の生産機数は、資料によって10,425機とも、10,123機と、まちまちであるが、その半数以上がこの五二型系列で、最も多く造られた。また日本機として生産機数第二位の陸軍一式戦闘機隼の5,751機を大きく上回っている。
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「〔零戦五二型に初めて搭乗して〕いろいろうわさが飛んでましたからね。パイロットたちはみな、性能とか、良さ悪さに鋭敏ですから。そういううわさが飛んではいるけど自分が飛んでみて、あ、なるほどこれぁいかんばい、というふうな、はっきりした、欠点は――私は、ちょっと無神経だったのかな、あんまり気にしませんでしたね。で、気にする人は、攻撃のたんびに、どっかしら悪いといって帰ってますわね。最後のほうから、ちょっと爆音の音が変だとか、よく燃えついてないんだろうとか、なんとかかんとか。やっぱり、あの、苦情型と、のんき型といますからね。だから、そういった差は出てきますよ。うん。」
また、エンジンを、三菱の金星六二型 1560馬力に換装した、零戦五四型の試作機2機が造られるが、大量生産される前に、終戦となった。
このほかにも、零戦の派生型として、二式水上戦闘機 A6M2-Nがある。零戦一一型をベースに、中島飛行機が製作、昭和17年7月に制式採用された。生産もすべて中島飛行機が行い、327機が前線に送られて、飛行場建設前の基地防空や、船団護衛などに活躍した。
また零戦の練習機として零戦一一、二一型を、複座に改造した零式練習戦闘機一一型 A6M2-Kがある。昭和19年3月に制式採用され、日立航空機などで、約500機生産された。
次期主力戦闘機烈風~アメリカの進化
零戦のエンジンは終始、中島の栄を改良し、性能向上に涙ぐましい努力を重ねていた。
2000馬力級のエンジンを搭載した、次期主力艦上戦闘機、烈風の開発も、三菱の堀越二郎が担当していたが、零戦の改良に追われ、開発が遅れたことは確かである。
また海軍が最初に指定した、中島製誉エンジンの出力不足などもあり、結局終戦までに、8機の試作機が造られただけにとどまった。烈風は、もし空母艦載機として実戦配備されていたら、再び世界最強の戦闘機になりえた存在であった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「あまり零戦が優秀だから、それに胡坐かいちゃって、そういう――後継機の開発が遅れたということは、今までもいわれてますよね。」
いっぽうで、アメリカ軍戦闘機は、高出力のエンジンを搭載したスピード競争へと、急速な進化を成し遂げていった。
F6F
ヘルキャット
ボートF4Uコルセア
リカン
P51ムスタング
グラマンF6Fヘルキャット vs 零戦
昭和18年11月、アメリカ軍は、その絶対的な物量でブーゲンビル島を占拠。ラバウルに迫ってきた。
昭和19年1月17日、アメリカ軍は、零戦の最大の強敵となった最新鋭戦闘機、F6Fヘルキャットを含む約120機の戦闘機と、爆撃機約80機の編隊を組んで、ラバウルを急襲してきた。迎え撃つのは二〇四航空隊と、二五三航空隊の零戦約80機であった。
艦上戦闘機、グラマン F6F ヘルキャットの開発が開始されたのは、真珠湾攻撃の半年前、1941年6月であった。
F6F
ヘルキャット
試作機の初飛行は、1942年6月。アリューシャンの零戦が発見される、少し前だった。F4Fワイルドキャットが、零戦に苦戦していたため、新しい戦闘機が必要となっていた。太平洋戦線に投入されたのは、昭和18年9月1日の、マーカス島空襲からである。F6Fは、生産性の良さから、初飛行以前から、量産体制が考えられていた。わずかな期間で、約12,000機も生産し、零戦を物量で圧倒した。
エンジンは、空冷式複列星形18気筒。45,900ccで、2000馬力。最高速度は、時速600キロ。武装は、12.7ミリ機銃を6丁。F6Fは、「航続力と旋回性能以外は、零戦に勝っている」とアメリカ軍が発表するほど、零戦を意識していた。
(写真左:昭和19年1月17日 ラバウル)F6Fヘルキャットを含む戦闘機約120機と、爆撃機約80機の編隊を迎え撃った零戦約80機は、60数機を撃墜。零戦は、全機無事だった。この戦果を最後に、海軍航空隊は、ラバウルから撤退した。
最後までラバウル東飛行場にいたのは、二〇四航空隊指令、柴田武雄中佐(当時、写真左)指揮の下、二〇四航空隊、二〇一航空隊、二五三航空隊の3隊であった。
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「アメリカのほうが大勢の飛行機で来て、大暴れに暴れる限りは、日本よりも損害が小さいわけなんですよ。ということは日本よりも平均武力が勝っていると。ところが日本は、今日一日飛び上がると――たとえば5機犠牲が出たと。アメリカは2機か3機で済んでると。ところが攻撃数…こっちのほう(アメリカ側)が多いのに、少ないと(兵力が多いのに、犠牲が少ない)。私のほうが少ないのに多い(兵力が少ないのに、犠牲が多い)と、いうような、比率が出てくると。これが一か月も続いてごらんなさい、えらい…その、アメリカにとっては取り良い(有利な)、結果ですよね。だんだんだんだん、(日本軍)全体の総合力が劣ってくる。こちら(アメリカ)のほうは総合力がだんだんだんだん、濃度(優勢に)になってくる…だけじゃなくて、それがすなわち力となって返ってくるから、非常に、(アメリカ側にとって)幸運な結果になるわけなんですよね。
それぞれ訓練をして、卒業してきたときの年代的なものから判断しても、これは遥かに相手のほうが(練度が)高いんですよね。我々は毎日毎日点数が(ベテラン搭乗員の人数が)下がっていってるから。ところがちょうどそのころ、私が四〇五航空隊四〇五航空隊の、教えたような…。教え子隊つって、あの…若いのが…何か月か経って、だんだん、戦争というものの怖さを飛び越えて、あとから来る若い者に負けられないという闘争心がありましてですね。非常に張り切った状況のときです。それから、あとになるとぐーっと下がっていっちゃうんですがね。下がっていっちゃいますけど非常に、若手の、おそらく10代の人たち、二十歳ちょぼちょぼの人たちが、卒業して抑えても抑え切れないほどの張り切りようで、頼もしいんですが、犠牲が出るんですよねぇ…。その、あんまり深追いしたり、無茶追いしたりすると。」
F6Fヘルキャットは、徹底した防弾装備に覆われ、燃料タンクにも、特殊ゴムの被膜で保護するセルフシーリングが施されていた。機銃弾が燃料タンクを貫通しても、ゴムが溶けて穴をふさぎ、火災ができるだけ起こらない構造になっていたのである。
〔昭和15年から、その圧倒的な性能で大空の覇者として君臨してきた日本が世界に誇る名機零戦。アメリカ軍は戦況を打開すべくF6Fヘルキャットを大量に投入した。火力と高速を生かしたF6Fヘルキャットは、次第に零戦を圧倒していった。太平洋上の永遠のライバルが今、時空を越えて大空を舞った。〕
F6Fは、零戦が性能のために犠牲にしてきた防弾装備を、徹底して強化したのである。またパイロットが不時着しても、救出するシステムが確立されており、結局熟練パイロットを増やすことにもなった。逆に日本では、ベテランの選任搭乗員が、戦死や負傷で減り続けた。
零戦の大敗
昭和19年6月19日 マリアナ沖海戦
その結果が初めて表面化したのは、昭和19年6月19日の、マリアナ沖海戦であった。零戦は初めて、大敗した。アメリカ軍は、6月15日に、サイパンに上陸。日本軍は、名将の誉れ高い小澤治三郎中将(写真左)を指揮官に、温存の空母9隻からなる第一機動艦隊を編成し、反撃に向かった。最新鋭の大鳳を旗艦とする第一機動艦隊の空母は、第一航空戦隊、大鳳、翔鶴、瑞鶴。
第一航空戦隊 | |||||
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第一機動艦隊 旗艦 大鳳 |
翔鶴 | 瑞鶴 | |||
第二航空戦隊、隼鷹、飛鷹、龍鳳。
第二航空戦隊 | |||||
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隼鷹 | 飛鷹 | 龍鳳 | |||
第三航空戦隊、千歳、千代田、瑞鳳。
第三航空戦隊 | |||||
---|---|---|---|---|---|
千歳 | 千代田 | 瑞鳳 | |||
艦載機合計、約450機に達する、大機動部隊であった。
昭和19年6月18日、マリアナ沖海戦が始まった。その日小澤艦隊は、索敵機がアメリカ機動部隊を発見したにもかかわらず、日没が迫っていたため、攻撃を中止した。翌19日、午前6時30分、小澤艦隊の索敵機がサイパン西方に空母4隻を含むアメリカ機動部隊の一群を発見。直ちに各隊合わせて約240機が出撃した。また、ほかの索敵機が、グアム南西に別の機動部隊を発見し、さらに、もう一群の機動部隊を発見したという報告も入ってきた。そのため、第二次攻撃隊68機が出撃。第三目標には、第一次攻撃隊から49機が向けられた。ところが、アメリカ潜水艦が、旗艦大鳳を発見。魚雷がガソリンタンク付近に命中した。約8時間後、漏れていた揮発性ガスに引火し、大鳳は大爆発を起こして沈没してしまった。
翔鶴→
翌20日は、アメリカの攻撃隊が、小澤艦隊を襲った。零戦42機が迎撃したが、飛鷹が沈没した。マリアナ沖海戦で日本軍は、空母3隻と多くの乗組員、それに艦載機のほとんどである約300機を失い、アメリカ機動部隊に何ら致命傷を与えることなく大敗した。いっぽう、アメリカ軍が失った航空機は、わずか20機あまりだった。アメリカ軍F6Fのパイロットたちに、マリアナの七面鳥撃ちとまで言わしめた海戦であった。
(写真左:7月7日 サイパン陥落)7月7日、ついに、サイパンはアメリカ軍の手中に落ちた。これによってB29が、サイパンから飛び立ち、日本本土に徹底的な爆撃を行うことは、決定的となった。日本本土をB29が空襲することは、日本の敗北を意味していた。その攻防に、完敗したのである。
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「第4旋回ったら、着陸寸前のところのですね。だから第3からこう、入ってきたところで、敵が、アメリカが、真正面にいたわけですよ。なにも、真正面にいるところに私は行かなきゃいいものを、なんで行ったのか、この馬鹿がと(自分で)思うんですが、実際に、そこにいたんですよ。それが、向こうも第4旋回終わって飛行場めがけて入ってきたんですね。それが向こうが、寸時、私より早かったわけですね。だから(私の機の)真正面に向いちゃって。操縦桿の引き金を引きゃあいいだけのことが、私はこの、フットバー出さなきゃいかんですよ。火を噴く(銃撃する)寸前のところでもって…ぼん、爆発しちゃって。その爆発が操縦席の席まで、ずばーんと炎がかぶりましたね。これ、まともにかぶってるわけです。で、こりゃもうだめって思ったけども、最後に、何とかこの火を消そうっていう意欲があって、飛行機を今度は、垂直、いわゆる傾ける垂直ですね。なぜかちゅうとこれがウェァーっと横滑りで滑る姿(姿勢)を取ると…なぜかちゅとふわぁーっと来る、飛行機の、炎。煙じゃなくて炎ですよ。炎を上に逃がしちゃうと。そして自分はこっちへ逃げると。いうことを(夢中で)やってるんですこれ。馬鹿な、のんきなことやってるもんだから、早く死んじゃえばいいのに、ここでもってもう、朦朧となっちゃった。でそれでも絶対この、こう落ちる(横滑りし続ける)ための(フットバーの)足を突っ張ったまま…この、垂直になったのは絶対に譲らなかった。でこのまま、水面に来ようとしたときにさっきの着陸、着水。こーれが出てきたんですよ。こんなもん(註:目の前にある零戦のプラモデルを指して)出すなんて、そんな場面じゃないんですけどね。そのプラス、合計操作の集積が、ここんとこでもってじゃぼんとこうきた。じゃぼんとこうきたんで、火は、ばっと消えましたね。そこで意識朦朧それからもうあと、なにも知らんと。知らんけどこの…何秒かのあいだの出来事を、こうすりゃいいんだと、こうする、怖いぞということを、それに抵抗してやってるから、よく気が付いたなと思って、我ながら、驚いてるんですがね。あの、何か月か前までは撃墜王を誇ってた存在であったとしてもだ、あったとしても、何もかも戦闘状態の武器は、全部吹っ飛んじゃったあとですからね。脚は出てるわ、もう…フラップは開いてるわ、弾は抜いちゃってるわ。弾…弾ぁ抜いたら武器になるもの何もないんですよ。こーれはまいっちゃったですね。うん。」
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「爆弾落とす前に落とさなきゃいけないと思ってね、2機落として。うん。ほんで、もう一機…い、いやぁもう一機こう…照準に入れてやって…あ、これもいけねぇ、落とすぞと思ってたらね、急に今度は上から降ってきて…。それにやられちゃったですよ。うん。それで、落下傘で降りて、そのときはもう…飛行機も全部燃えたり、飛行服もぼんぼん燃えてたんですよ。それでね、マフラーもひきうけちゅうだからマフラーもなんもやんなかったの。手袋もなんにも…道具とか無んだね。だから素手でもって、上がったんだね。ほんで最近も…(旧知に)会ったら、小川さんはなんであんなとき上がっただっつって。もう…あのときは逃げるのが一番だって(思って上がったんだって返事した)。まぁ、そうはいかねんだね、やっぱりね(笑)。」
「捷一号」作戦 日本海軍機動部隊の最後
(写真左:昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令)昭和19年10月17日。日本は、かねてから計画していた、「捷一号」作戦を発令。巨艦大和、武蔵を含む連合艦隊の全力をフィリピン、レイテ沖に集結させ、来航したアメリカの大艦隊に決戦を挑んだ。すでにマリアナ沖で壊滅的打撃を受けていた機動部隊は、このとき、アメリカ機動部隊を引き付けるための囮艦隊の役目を担っていた。
アメリカ艦載機の集中攻撃を受け、参戦した4隻の空母すべてが沈没。栄光の日本海軍機動部隊の最後である。長きにわたって活躍した零戦は、ここでその役目を終えようとしていた。本来なら、主力戦闘機の座を後継機に譲ってもよい時期に来ていた。しかし、海軍はその優秀性から、零戦の改良を望むだけであった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「零戦という飛行機の信頼感が、余りにも強すぎたんですね。零戦乗ってる限りは絶対、落とされないと。俺は、もう負けないんだというね。そういう――自分でもうすっかり、信念みたいなの持っちゃったんです。これが、いわゆる…一番危ないことなんですがね。今考えると。過信。過信というか。あぁもう零戦もね、老いたり、と。いう感じを受けてましたね。ところが――あまりに零戦がね、評判が良くて、日本の上層部も、早く紫電改とか、ああいうものに、切り替える準備を…すべきじゃなかったんですかね。」
神風特別攻撃隊
昭和19年10月19日。第一航空艦隊司令長官、大西瀧次郎中将(写真左)は、ついに苦渋の決断を下した。それは、世界中を震撼させる計画でもあった。零戦に爆弾を抱えさせ、敵艦に体当たりさせる攻撃隊の編制である。それは、神風特別攻撃隊と名付けられた。
神風特攻隊の誕生である。
10月25日。神風特別攻撃隊として、初めて編制された敷島隊が、フィリピン、ルソン島のマバラカット飛行場から体当たり攻撃に出撃した。
敷島隊の出撃→
零戦は、主力戦闘機としての座を、神風という戦闘手段で、自ら終焉させたのである。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「石岡滑空専門学校っていう学校があったの。そこであの、大型グライダーのパイロットを養成しなさいという命令を受けた。グライダーの教えてた子供たちも、特攻のほうに駆り出されるようになったようです。だから私…は、そんなに慌てて特攻に志願しなくてもいいじゃないかと、いう話を(教え子たちに)したんですが、みんな若い子供ですからね。早く戦争に行って、特攻でも何でもいいから、前線に出たいと。いうことを毎晩言ってきてね。それをこう、まだまだ、というふうに抑えるのが、つらい思いをしました。あのころ教えてた子供はほとんど、特攻で殉職してしまったんじゃないかと思いますがね。」
(写真左右:ボーイング B29スーパーフォートレス)11月24日、サイパンを飛び立ったB29、約70機の東京空襲から、本格的な日本本土空襲が始まった。12月18日には、輝かしい歴史を築いてきた三菱重工名古屋航空機製作所に、B29が無数の爆弾を落としていった。B29の来襲機数は、のべ3,300余り。20万トン近い爆弾により、日本は焦土と化した。
プレーン・オブ・フェイム ゼロ
プレーンズ・オブ・フェイム。ここに世界で唯一、オリジナルエンジンで飛行可能な零戦がある。日本に展示してある零戦のほとんどは、残骸を寄せ集めて復元されたものであるが、この零戦五二型は昭和19年6月に、無傷のままサイパンで捕獲されたものである。マリアナ沖海戦に先駆けて、アメリカ軍が上陸したサイパンには、第二六一海軍航空隊、通称虎部隊が駐留していた。捕獲された零戦のほとんどが、この二六一航空隊のものだった。そのとき、程度のいい零戦12機が、7月に護衛空母コパイでアメリカ本国まで運ばれ、終戦までテストされている。
この零戦五二型は中島飛行機製で、製造番号が第5357号(写真左)となっている。昭和19年4月ごろに、中島飛行機小泉工場で生産されたものである。
1955年、余剰戦時物資として放出され、それをエド・マロニー氏が購入。補修を加え、オリジナルの栄二一型エンジンで飛行可能な状態を維持し続けている。
零戦パイロット スティーブ・ヒントン氏「日本のゼロは非常に軽量にできている。だからとても軽やかに動くことができる。ただし、スピードの面では劣っていて、あまり速くはない。本によると、ゼロの構造はパイロットを敵の攻撃から守るようにはできていないようだ。燃料タンクはアルミニウムで作られているから、弾が貫通してすぐに火を噴いてしまう。ゼロは非常に性能が良く、自由自在に操縦することができる。」
零戦は、最後まで最強でいることはできなかった。しかし、その鮮烈な印象は、今でも多くの人々の心の中で息づいている。
エピローグ
大正10年 | 海軍初の艦上戦闘機「三菱 十式艦上戦闘機」がイギリス・ソッピース社ハーバート・スミス技師らの設計によって完成 |
大正12年 | 世界初の空母「鳳翔」艦上にてイギリス海軍ジョルダン大尉がわが国初の航空機発着艦に成功 |
昭和3年 | イギリスの戦闘機を改造した「中島 三式艦上戦闘機」が完成 |
昭和7年 | アメリカ・ボーイング社の戦闘機をベースに開発した「中島 九〇式艦上戦闘機」が制式採用される |
昭和7年 | 海軍より「航空技術自立計画」立案、七試計画が実行される。三菱は入社5年目の堀越二郎が設計に参加 |
昭和8年 | 「三菱 七試艦上戦闘機」1号機、2号機が試験飛行中に相次いで墜落。純国産を目指した同戦闘機は失敗に終わる |
昭和9年 | 九試計画が実行される |
昭和9年 | 三菱、中島が「九試単座戦闘機」の開発開始。堀越二郎は全面枕頭鋲、翼の捻り下げ等画期的な技術を投入 |
昭和10年 | 「三菱 九試単座戦闘機」が試験飛行で高度3200メートルで時速450キロ以上、5000メートルまでの上昇時間5分54秒を記録。世界水準を大きく越える |
昭和11年 | 「九試単座戦闘機」が「九六式艦上戦闘機」として制式採用 |
昭和12年7月 | 盧溝橋事件により日中戦争が始まる |
昭和12年9月 | 九六式艦上戦闘機が初出撃し、敵機20数機を撃墜。九六式艦上戦闘機の被害は0。以後、中国上空の戦いでは日本が中国空軍を圧倒する |
昭和12年10月 | 十二試計画により「十二試艦上戦闘機」の計画要求を海軍が提示。技術者の誰しもが実現不可能と思うほど過酷な条件が列挙されていた |
昭和12年12月 | 樫村寛一 三等空曹が片翼で帰還。世界空中戦史に残る偉業と讃えられる |
昭和14年4月 | 十二試艦上戦闘機が初飛行 |
昭和14年12月 | 中島製「栄」エンジンに換装した十二試艦上戦闘機3号機が高度4200メートルで時速509キロを記録。海軍の要求性能を満たす |
昭和15年7月 | 中国奥地爆撃の陸攻隊護衛の必要性から、十二試艦上戦闘機が制式採用を待たずに実戦配備される。直後、「零式艦上戦闘機一一型」と名称変更。零戦の登場である |
昭和15年7月 | 零戦が重慶攻撃に参加。10分あまりの初空戦で中国戦闘機27機を撃墜。零戦に被害なし |
昭和16年8月 | 零戦隊が中国戦線における活動に一区切りをつけ、太平洋戦争に備え内地に帰還。中国戦線での零戦は出撃約70回、撃墜機数地上撃破約160機。零戦の被弾は延べ機数39機、被撃墜機数2機は地上放火のみにより、空戦による被害は0であった |
昭和16年9月 | 「帝国国策遂行要領」決定 |
昭和16年10月 | 近衛内閣 総辞職。東条英機内閣発足 |
昭和16年12月 | 真珠湾攻撃。零戦78機を含む総勢350機が米太平洋艦隊の戦艦5隻撃沈、航空機約200機を撃破。世界中にその実力を知らしめる |
昭和16年12月 | 台湾南部より出撃した零戦が、陸攻隊と共にフィリピン ルソン島のアメリカ軍飛行場を攻撃。出撃1日目で約80機を撃破し、制空権を確保する |
昭和17年5月 | 珊瑚海にて史上初の空母対空母の決戦。レキシントンを撃沈した攻撃隊の零戦18機は敵機50数機を撃墜。上空直衛の零戦19機も40数機を撃ち落とす |
昭和17年6月 | ミッドウェー海戦で日本海軍は4隻の空母を失う。零戦は母艦を失ってもなお戦い続け敵機百数十機を撃墜 |
昭和17年8月 | アメリカ軍がガダルカナルに上陸。反撃のためラバウルから飛んだ坂井三郎が被弾負傷する |
昭和17年夏 | ヨーロッパで“双胴の悪魔”と言われたロッキードP38ライトニングがソロモン方面に配備され、小福田大尉の零戦と初空戦 |
昭和18年2月 | 日本軍がガダルカナルを撤退 |
昭和18年4月 | 「い号」作戦発令。連合艦隊司令長官山本五十六大将が直接指揮をとるためラバウルに司令部を進出させる |
昭和18年8月 | 零戦五二型が制式採用 |
昭和19年1月 | F6Fヘルキャットを含む戦爆連合約200機がラバウルを急襲。零戦約80機が迎撃し敵機60数機を撃墜。零戦は被害なし |
昭和19年1月 | マリアナ沖海戦にて日本機動部隊はアメリカ艦隊のF6Fヘルキャットと対空砲火等により、艦載機約300機を失う。零戦初めての完全敗北となる |
昭和19年10月 | 「捷一号」作戦発令。第一航空艦隊司令長官大西瀧次郎中将が神風特別攻撃隊を敢行する |
昭和19年11月 | サイパンのB29による日本本土空襲はじまる |
零戦は、戦闘機として世界に例を見ないほどの優秀性を示しながら、後継機開発の遅れからその最後をカミカゼという悲劇的な形で終焉させなければならなかった…… |
外国の技術力を借りなければ航空機を作れなかった時代から、零戦の歴史は始まった。零戦の歴史。それは無からの誕生であり、学ぶことは無限にあった。海軍が出した七試計画では、三菱も中島飛行機も、条件を満たす艦上戦闘機の開発には至らず、日本人だけで戦闘機を造ること自体が、無謀な挑戦でもあった。
しかし堀越二郎という、一人の男の挫折と挑戦の繰り返しにより、日本の航空機の歴史が大きく変わってゆく。九試計画で堀越の設計した九試単座戦闘機は、いきなり世界の水準を超える。海軍は、三菱や中島に、さらなる厳しい条件を求め続けた。しかしそれは、大きな矛盾に満ちた、机上のプランともいうべき内容だった。十二試計画によって生まれた、十二試艦上戦闘機は、零戦として中国戦線で大きな戦果を上げた。アメリカ義勇軍のシェンノートは、克明な報告書を本国に送ったが、想像を絶する零戦の能力は黙殺された。それほど零戦の能力は、当時の航空技術の枠を大きく超え、日本人の技術力だけで造り上げた零戦は、真珠湾、フィリピン、さらにはインド洋へと翼を広げてゆく。
しかし無敗神話は、いつしか零戦を最強の戦闘機から、悲劇の戦闘機へと変貌させていく。後継機の開発の遅れ、それは日本に、致命的な敗北の原因を作っていったことにも繋がる。しかし、50有余年を過ぎた現在でも、零戦は、世界中の人々に語り継がれている。
零戦。それは、間違いなく世界最強の戦闘機であり、これからも永遠に伝説として語り続けられていく。
――この作品を零戦にたずさわり、輝かしい伝説を作りあげたすべての人々に捧げます――
<4.ゼロ戦よ永遠に 終>