連合艦隊

コンテンツ

零戦 1.伝説の誕生

イントロダクション

昭和16年、12月8日未明。ハワイ、オワフ島北方約370キロ付近。6隻の空母から出撃した零戦78機を含む、総勢350機の攻撃隊が、真珠湾に向かった。この真珠湾攻撃によって、米太平洋艦隊が失った戦艦は5隻。200機近い航空機が、炎の中に消えた。それは、ゼロ戦の実力を、世界に知らしめた日でもあった。

零戦が海軍に制式に採用されたのは、昭和15年7月。真珠湾攻撃よりも、1年半も前のことだった。すでに中国大陸で大きな成果を上げていたにもかかわらず、アメリカをはじめとする先進国で、零戦は、全く評価されていなかった。

蒋介石の政権を支持するアメリカ義勇軍の司令官、シェンノートは、零戦の優秀性を本国に伝えていたが、情報は黙殺された。日本人が、優秀な戦闘機を作れるはずがない。それが、先進国の一致した見解だったのである。その認識をわずか一日で変えてしまったのが、真珠湾攻撃であり、世界から大きく差を付けられていた戦闘機の開発に、人生をかけた男たちの執念でもあった。

 

日本の航空機製作

昭和12年10月。三菱重工業名古屋航空機製作所(現 三菱自動車工業名古屋製作所)。一人の男が、海軍から提出された要求書を前に、立ち尽くしていた。男の名は堀越二郎。名古屋航空機製作所の、設計主務者であった。表紙には、「十二試艦上戦闘機計画要求書」と記されている。そしてそこには、驚くべき要求が書かれていた。要求書には、世界の水準をはるかに超えた、十二試艦上戦闘機の実用化の条件が示されていた。こんな飛行機ができれば、世界一になることは間違いないが、とてもできる話ではない。無茶な話だ。堀越はそう心の中でつぶやいた。十二試艦上戦闘機。のちに、零式艦上戦闘機と名付けられた、世界屈指の戦闘機、零戦の伝説は、ここから始まった。

堀越が、無茶な話だとつぶやくには、わけがあった。日本の戦闘機は、わずか5年ほど前までは、海外の模倣に頼らざるを得ない状態であったのだ。事実、日本の戦闘機の歴史は、外国人の手によって始まった。

海軍での最初の艦上戦闘機は、大正10年11月に制式採用された、三菱製の十式艦上戦闘機 1MFである。しかし技術開発したのは、イギリスのソッピース社から三菱が雇い入れた技術者、ハーバート・スミスであり、国産とは名ばかりの戦闘機であった。

三菱重工名古屋資料室長 岡野允俊氏「大江の工場の、海側に6号地って言うんですけど、あれ、名古屋港は1号地、2号地、3号地って順番に埋め立てていきまして、ちょうど6号地ってのが大正9年に埋め立てまして、で、ここで、三菱買わんかって話で。で、ちょうど神戸造船所が、潜水艦は名古屋でやろうということで、買ったと。いうことで、名古屋で始まったんですけども、いざやろうと思ったら名古屋港はちょっと浅くって、しかもヘドロが多くって、潜水艦事業には向かんわなと。じゃどうするちゅうので、紆余曲折ありましたけども、飛行機を作ろうと。で、飛行機を作るのはいいけども、自動車がやっとこさできるような技術に、飛行機なんかできんわな、っていう話だったんですけども。ご先祖様の岩崎弥太郎の精神は、国が要求するものは、何であれ、損得抜きにしてでも、御奉公するのが三菱の精神じゃ、という観念から、当時4代目の岩崎小弥太さんてかたが社長でしたけども、飛行機をやれと。さあやれと言われたらやらなきゃいかんけどどうすんだ、そしたらイギリスのソッピースっていう会社から、技師も設計屋さんも、工作屋さんも、パイロットも整備屋さんも、10人ぐらい来ましてね。呼んで。まぁ三菱が雇って。で、そこで教えてもらって、最初にできたのが、十式艦上戦闘機。」

しかも1年後に完成した、世界初の空母、鵬翔で、発艦、着艦に成功したのは、イギリス海軍、ジョルダン大尉であった。日本人では、海軍の吉良俊一大尉が、ひと月ほど遅れて成功している。

次に海軍に採用された機種は、昭和3年8月に内定した、中島飛行機製の、三式艦上戦闘機 A1Nである。この航空機も、イギリスの戦闘機を改造したものであり、昭和7年に3番目に制式採用された、九〇式艦上戦闘機 A2Nも、アメリカのボーイング社の戦闘機をもとにして、中島飛行機が開発したものである。

三菱重工と中島飛行機は、日本における航空機製造の二大企業であった。しかし、十式艦上戦闘機採用から12年の歳月が流れているのにもかかわらず、日本の航空機技術は、海外に大きく後れを取っていた。

三菱重工と中島飛行機製作所

A2NのNは、中島のNで、Mは、三菱を表わすものである。

九〇式艦上戦闘機 A2N
夜間戦闘機 月光 J1N
艦上攻撃機 天山 B6N
九六式艦上戦闘機 A5M
一式陸上攻撃機 G4M
局地戦闘機 雷電 J2M

三菱の飛行機製作は、大正9年に、三菱造船から内燃機部分を独立させた、三菱内燃機製造株式会社から始まる。その後、昭和3年に、三菱航空機株式会社に社名変更し、昭和9年に、三菱造船と合併し、三菱重工業株式会社となった。当時、一連の航空機開発を行っていたのは、三菱の名古屋航空機製作所である。堀越二郎は、この名古屋航空機製作所に勤務していた。代表的な航空機に、零戦のほか、双発の九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機、局地戦闘機雷電などがある。

九六式陸上攻撃機
一式陸上攻撃機
局地戦闘機 雷電

三菱重工名古屋資料室長 岡野允俊氏「現在から思いますとね、なぜ協同して仲良く、いい飛行機を開発したら、じゃあ、うちもそれをじゃあ習わせろと言わなかったのかなと、それは今になったら思いますけども、あの当時としてはやっぱりそういう、ぱっとした線があったんでしょうな。工場も、自然が通った道があったんですけども、今はもちろんありませんけども、そこから、海側の方が海軍で、こっちの笠寺…ちゅうか山のほうが、山じゃないですけどね――が、陸軍だったんですよ。で、よっぽど偉い人、宮越さんとかそういう人は自由に行き来できたんでしょうけど、ぺーぺーはとてもじゃないですから、陸軍から海軍へ、海軍から陸軍へ、移動はできませんでしたね。道隔てて。」

中島飛行機は、海軍機関大尉だった、中島知久平ちくへいが退役し、大正6年、群馬に民間飛行機製造会社、「飛行機研究所」を設立したことに始まる。中島は大鑑巨砲主義を否定し、これから飛行機の時代になると考えていた。昭和5年には、国産初の空冷星形9気筒エンジン、寿を完成させる。

<空冷星形9気筒450馬力 寿>昭和6年、社名を「中島飛行機株式会社」とする。三菱と同様、陸軍機と海軍機の設計、製作は、完全に分離していた。細かい部品一つをとっても共通性がなく、中島は、陸軍と海軍に働きかけ、部品の共通化を図ったが、実現することはなかった。

陸軍 九七式戦闘機
海軍 九七式艦上攻撃機

昭和15年、海軍機を専門に製造する小泉製作所を建設する。そして昭和16年12月より、中島飛行機でも、零戦の製造が開始された。零戦二一型と、五二型の製造数は三菱よりも上回り、零戦の全製造数の約6割を占めている。

零戦 二一型
零戦 五二型

プレーンズ・オブ・フェイムの零戦五二型(左の写真)は、昭和19年4月に、この小泉製作所で造られたものである。

中島の代表的な航空機は、九七式艦上攻撃機、陸軍 一式戦闘機 はやぶさ、陸軍 四式戦闘機 疾風はやてなどである。

九七式艦上攻撃機
陸軍 一式戦闘機 隼
陸軍 四式戦闘機 疾風

中島飛行機は、終戦とともに財閥解体の対象となり解散するが、昭和28年、富士重工として蘇る。

七試しちし計画

第一次大戦後、アジアでの権益をめぐり台頭してきた新興国日本に対して、欧米列強の警戒心は深まっていた。ワシントン海軍軍縮会議(1921年)では、主力艦の保有率が制限され、ロンドン海軍軍縮会議(1930年)では、巡洋艦以下の補助艦艇にまで、保有率の制限を加えられた。日本は、航空機での戦力の充実を図ることでしか、国力を強化するすべがなかったのである。

海軍首脳のいら立ちが出した結論は、昭和7年から始められた、航空技術自立計画であった。海軍は横須賀に海軍航空廠、のちの海軍航空技術廠を設立し、外国人技師に依存することなく、向こう3か年で我が国独自の開発による航空機を製作、欧米列強の水準に追いつき、追い越すことを目標とした。

その第一歩が、七試しちし計画であった。この計画の発案者は、海軍航空本部本部長、松山茂中将と、技術部長で、のちに連合艦隊司令長官となる、山本五十六少将(当時)であった。航空廠は、三菱と中島に、試作機の発注をする。その要望は、かつてないほどに厳しいものであった。艦載機として、全幅、全長、全高を制限され、最高速度は高度3,000メートルで200ノット。時速で370キロである。九〇式艦上戦闘機よりも、時速で100キロ上回り、上昇力は高度3,000キロメートルまで2分近く縮めなければならない。それを日本の技術者だけで製作しろというのだ。

このとき山本五十六少将は、ある危惧を抱いて七試計画を見守っていた。その危惧は、戦闘機あって母艦。母艦を考えない艦戦(註:艦上戦闘機)という、それまでにない逆転の発想を生み出していく。

愛知県名古屋市港区大江町おおえちょうにある三菱航空機本社。七試計画の設計主任は弱冠28歳にして、艦上戦闘機の設計を任された、堀越二郎だった。堀越は入社以来、海外の視察が多かったが、設計助手の経験は一度しかなく、それがいきなり、設計主務者に抜擢されたのである。

三菱重工名古屋資料室長 岡野允俊氏「どんどんどんどん日進月歩ですから、次のやつを造らないかんと。いったときに三菱では、いつまでもよそさまの、外国の手を借りとってはいかんと。なんとかして、自社開発――自社開発というか日本で造りたいと。いう意向で、海外、欧米出張しとった堀越さんが、日本の飛行機を造りたいと。」

自分にできるのか。堀越は、押しつぶされそうな責任を感じていた。

(写真左:三菱 七試艦上戦闘機)昭和8年2月に完成した、七試艦上戦闘機の一号機は、急降下試験中に垂直尾翼が折れて飛行不能となり、二号機も、試験中に墜落した。堀越の最初の飛行機は、惨憺たる結果に終わったが、当時としては画期的な低翼、単葉、全金属製のこの機体は、のちの名機といわれた九六式艦上戦闘機や零戦の基礎となったのである。

(写真右:中島 七試艦上戦闘機)このとき、同時に海軍から依頼を受けていた中島飛行機の製作した試作機も不採用となっていた。それほどに、日本の開発力だけで艦上戦闘機を製作することは難しかったのである。

(写真左:中島 九五式艦上戦闘機 A4N)海軍が次に採用したのは、昭和8年の試作艦上戦闘機で、昭和11年に制式採用された、中島の九五式艦上戦闘機 A4Nであった。これが、海軍最後の複葉戦闘機となる。特に優れていたわけではないが、七試計画が両者失敗したため、旧式となった九〇式艦上戦闘機に替わる戦闘機が必要だった。爆撃機、攻撃機の開発が世界的に進歩したこともあるが、戦闘機の性能が一向に向上しないという苛立ちからか、このころ、戦闘機無用論すら出始めた。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「それでいっぽうで爆撃機のスピードがどんどん速くなってきてるから、複葉の戦闘機使ってたらば、とてもじゃないけど爆撃機に追いつけないと。だから戦闘機無用論てのが出てきたんですね。パイロットにしてみると戦闘機同士でもって、こっちが出て行きゃ向こうも戦闘機が出てくるだろう、すると戦闘機同士の空中戦になったときには、最終的には旋回戦争になるよと。だから後ろから速く回り込んだやつが勝ちになるよと。そのためには複葉のほうがいいんだと。上の羽根が失速しても下の羽根は失速しないんです、上の羽根が抑えてるから。だから、複葉の飛行機はどんな無理してもぶら下がってこんな状態――ぐーっと行っても、下の羽根が失速しないからずっとここでもって、こんな姿勢になっても、翼端ねじ下げなんかしなくても自由に行動できる。だから戦闘機パイロットは絶対に嫌だ、複葉だ。…複葉じゃ爆撃機に追いつけない。時代遅れだよってことなんですね。」

九試きゅうし計画

九試計画には、山本五十六少将の、母艦を考えないという思想が盛り込まれ、艦上戦闘機という言葉が消えていた。その代りに、単座戦闘機と記されていた。速度、航続距離を、山本五十六は重要視していたのだ。その明確な要求に、堀越は燃えていた。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「第二次世界大戦の戦闘機っていうのは、スピードと、それから火力ですね、機関砲をどれだけ付けるかっていうことと、それから、旋回する半径をどれだけ小さく回れるかっていうこと、この3つが問題で、それを、どういう組み合わせておくかっていうのが、当時の戦闘機の設計者の基本的な考えなんです。そこで、思想も変わってくんですね。」

堀越が最も頭を痛めたのは、エンジンの選定であった。ライバル会社である中島の「寿ことぶき」が、現段階では、九試単座戦闘機に最も適していると判断した堀越は、社内の反発を覚悟で、上司にそのことを打ち明けた。海軍では、三菱製のエンジンを瑞星ずいせい、金星、火星など、星の名前で、中島製のエンジンの名称を、寿ことぶきさかえほまれなど、漢字一文字で表していた。

(写真左:三菱 九試単座戦闘機)このほかにも、九試単座戦闘機には、さまざまな革新的な技術が取り入れられている。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔機体と構造について〕遅くなってくると、前から強い力がかかってくると、バタバタしだしちゃうわけですね。だから、それを抑えるには、どうしても――他の方法を考えなくちゃいけない。それで考えたのが金属で作って、ジュラルミンてのが発売、発表されたから、ただのアルミニウムだと軟らかくてだめだけども、硬い、ジュラルミンていう合金にして。それを、箱(註:機体)に全部作ってしまって、丈夫でねじれないものを造るっていうことですね。そういうのはモノコック構造ということになってきて、胴体もそういう格好で造れないかということ。工場の設備や何かも全部要りますし、曲げが上手くできないで、金属の板を繋ぐのに、アルミニウムの合金てのは溶接ができないんですよね。リベットで打たなくちゃいけない。そのリベットがね、打つと、プラモデルででこでこでかっこよく見えても、リベットが空気抵抗になるんだよね。結局、空気の中を、おろしがねみたいのでこすってる感じになりますから、表面平らにしなくちゃいけない。そういうことで、出来上がってみると、軽くはできるんだけど、丸い頭のリベットがぼんぼんぼんと出てると。アルミニウム合金使ってすべすべに造んなくちゃいけない。沈頭鋲ちんとうびょう(写真右)みたいのでね、船で考えてるような沈頭鋲、飛行機にも使えないかと、いうようなことを考えて、モノコックを造れるようになってきた。」

(写真左:三菱重工 零戦五二甲型の沈頭鋲)その数は、一機につき、1万本以上。すべて手作業で取り付けられた。沈頭鋲の効果は、絶大であった。

また、翼端失速を防ぐために、世界で初めて実用化された翼のねじり下げなど、出力の低いエンジンの性能を最大限に生かすため、考えられる限りを尽くした。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔翼端失速について〕戦闘機ってのはスピードが遅くてこう(速度を下げ、着陸態勢に入って機首を上げる姿勢を取る)なんじゃなくて、速いスピードでぎゅっとかける(上昇態勢に入って機首上げする)と、ここでもう、揚力出さなくちゃいけなくなって、飛行機の目方めかた(重さ)が――着陸するときは、これで、目方通りの荷重でこうきて――スピードが遅くなるからこう(機首上げ)しなきゃいけないんだけど、空中戦やるときは目方自身が遠心力で何倍にもなりますから、大きな揚力出さなくちゃいけない。それで、ここで失速するんですね。それでひっくり返る。」

翼端失速を起こすと、補助翼が効かなくなり、横安定性を失って操縦不能となり、墜落の危険性が出てくる。それを防ぐために、翼にねじりを入れるのである。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔翼のねじり下げについて〕アメリカの戦闘機なんかはもう、ひっくり返るのは当たり前だった。高速の新しい飛行機は無理するとこう、くるっとひっくり返るのは当たり前なんだと。単翼、単葉の飛行機の空中戦安定揚力に、捻り下げが効くんじゃないか、応用したらいいんじゃないかっていうのが、堀越さんが考えた。最初のね。ここで、ぎゅーっと一回下げて、そいで翼端のが、こういう格好で捻ったんですね。ねじり下げっていっても、全部だらだらだらっと捻ったんじゃなくて。一番肝心なとこだけを捻るっていうことで、こういうふうに、ここでこういうふうに捻ってんですね。難しい、サインカーブで捻った。ここからここまでを、ここから先を…三分の一から先をこう…。」

(写真左:中島 九試単座戦闘機)九試単座戦闘機は、中島飛行機でも製作が行われていた。その中島製がテスト飛行で、計画要求書の352km/hを軽く超える、400km/hを出したという情報が伝わってきた。

九試単座戦闘機計画要求書
最高速度:高度3,000メートルで190ノット(時速352キロ)以上
上昇力:高度5,000メートルまで6分30秒以内
燃料:正規200リットル以上
兵装:7.7ミリ固定機銃二丁、無線装置は受信のみ
寸度:全幅11メートル以内、全長8メートル以内

昭和10年2月、三菱製作の九試単座戦闘機の最高速度試験が行われた。高度3,200メートルで、時速450km/h以上を記録。海軍の要求を、一気に100km/hも超えてしまったのだ。さらに上昇力は、高度5,000メートルまで5分54秒という、画期的な数字をたたき出した。堀越二郎が設計した、二番目の戦闘機は、いきなり世界水準を超えてしまったのだ。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔九六式艦上戦闘機の成功について〕九六式艦戦は、自分としてもね、傑作だと思うってことを言っておられたよね。やっぱりそれまでだと、七試は失敗だったけども、九六艦戦はその失敗を全部収めてね。それまで複葉だった戦闘機を単葉にして、ずば抜けた飛行機になって、初めは、頭でっかちだったけど、九六艦戦のときはもう、全部の知識を叩き込んでね。で、九六艦戦があったから零戦ができた。やっぱり九六艦戦はがくんと上がった、それからすーっと上がってるってのが零戦だというようなことを堀越さんは言われたですね。私たちに。だからそういう意味では九六艦戦はよく見てもらいたい、高く評価してもらいたいっていうようなことを、言っておられたですね。」

(写真左:九六式艦上戦闘機 A5M)日本の航空機技術は、初めて欧米列強国を超え、海軍航空技術廠が掲げた航空技術自立計画は、見事に達成された。九試単座戦闘機は、昭和11年の制式採用に伴い名称が変わった。紀元2596年の末尾二桁を取る慣例に従い、九六式艦上戦闘機と名付けられた。

 

九六式艦上戦闘機の初陣と大戦果

九六式艦上戦闘機は、初出撃から大きな成果を上げた。昭和12年7月7日、北京郊外で起きた盧溝橋事件により、日中戦争が勃発。戦果は次第に、日中間の全面的な戦争へと拡大してゆく。しかし九六式艦上戦闘機はこのとき、まだわずか18機しか配備されていなかった。

9月19日、ついに九六式艦上戦闘機に出撃命令が下りた。目的は、首都南京地区の制空権を手中に収めること。また同時に、九六式艦上戦闘機の威力を、内外に知らしめることであった。上海 公大くんだ基地より、第二連合航空隊の九六式艦上戦闘機12機が、九六式艦上爆撃機17機とともに南京爆撃へ初出撃した。南京上空4,000メートルで中国空軍のカーチスホーク戦闘機40機と、フィアットの複葉機が待機していた。九六式艦上戦闘機が、その中に突っ込んでいく。旋回性能に優れていたカーチスホーク戦闘機であったが、九六式艦上戦闘機が後尾につくのに時間はかからなかった。激しい空中戦の末、中国空軍は20数機を失っていた。わずか15分の出来事であった。しかも九六式艦上戦闘機の犠牲は0だった。この初陣の大活躍が物語るように、以後中国の空から、中国空軍の戦闘機は、姿を消していった。

九六式艦上戦闘機の優秀性を、世界に知らしめた空中戦がある。昭和12年12月9日。中国の南昌なんしょう基地を攻撃した樫村かしむら寛一かんいち三等空曹操縦の九六式艦上戦闘機は、敵機二機を撃墜。もう一機と戦闘に入った際に衝突し、片翼を失ってしまった。しかし樫村操縦士は、墜落しそうな九六式艦上戦闘機で、600キロ離れた上海公大くんだ基地に、無事に帰還したのだ。これは、世界空中戦史に残る偉業として、称えられた。

十二試じゅうにし計画

九六式艦上戦闘機が登場する以前、日本軍の爆撃機は、中国軍の戦闘機により甚大な被害を受けていた。だが、この一機の戦闘機の出現により、戦局は一変したのである。しかし海軍は、さらに中国奥地への空爆を決行するため、より航続距離のある戦闘機が必要となってきた。それが零戦の母体となる画期的な機体、十二試艦上戦闘機の開発である。

その計画要求書が海軍から正式に提出されたのは、九六式艦上戦闘機の5回にわたる改良が終わり、堀越たちが一息ついていた昭和12年10月のことであった。表紙には、十二試艦上戦闘機計画要求書と記されている。そしてそこには、驚くべき内容が書かれていた。敵の戦闘機より優秀な空戦性能を備え、迎撃機としても、敵の攻撃機を補足撃滅し得る火力と速力を満たすことなど、要求は十三まで項目が設けられていた(下記)。速度と旋回性能は相反するもので、速度を増せば旋回性能は劣る。全ての要求を満たす戦闘機など、常識的に考えられるはずがなかった。海軍は、中国の制空権をまたたく間に獲得した、九六式艦上戦闘機の戦果を目の当たりにし、より強力な戦闘機の開発を要求したのである。

昭和12年度海軍用飛行機施策計画 十二試計画

一、用途 掩護えんご戦闘機として敵の軽戦闘機よりも優秀なる空戦性能を備え、迎撃戦闘機として敵の攻撃機を補足撃滅し得るもの。

二、最大速度 高度四千メートルで二百七ノット(五百キロ/時)以上。

三、上昇力 高度三千メートルまで三分三十秒以内。

四、航続力 正規状態:高度三千メートル、公称馬力で一・ニ時間ないし一・五時間。
       過荷重状態(増設燃料タンク装備):高度三千メートル、公称馬力で一・五時間ないしニ・〇時間、巡航にて六時間以上。

五、離陸滑走距離 風速十二メートル/秒の時、七十メートル以下。

六、着陸速度 五十八ノット(百七キロ/時)以下。

七、滑空降下率 三・五メートル/秒ないし四メートル/秒。

八、空戦性能 九六式二号艦戦一型に劣らぬこと。

九、機銃 二十ミリ一号固定機関銃三型二挺
      七・七ミリ固定機関銃二挺

十、爆弾(荷重量) 六十キロ爆弾二個または、三十キロ爆弾二個。

十一、無線機 九六空一号無線電話機一組、ク式空三号帰投方位測定器一組。

十二、その他の装置 酸素吸入装置、消火装置、夜間照明装置、一般計器。

十三、強度 A状態(急引き起こしの後期)
          荷重倍数七・〇、安全率一・八
       B状態(急引き起こしの初期)
          荷重倍数七・〇、安全率一・八
       C状態(急降下制限速度にて)
          荷重倍数二・〇、安全率一・八
       D状態(側面飛行よりの引き起こし)
          荷重倍数三・五、安全率一・八

十二試艦上戦闘機の設計を担当したチームは、約30名。平均年齢は、20代半ばであった。しかも大学工学部出身者は、主務者堀越 34歳、計算・構造担当の曾根そね嘉年よしとし 27歳、計算担当、東条輝雄てるお 23歳の3人だけであった。大半は旧制中学工業学校出身者であった。

設計主務 堀越二郎
計算班 曾根嘉年 東条輝雄 中村武 小林貞夫 川辺正雄
構造班 吉川義雄 土井貞雄 楢原ならはら敏彦 溝口誠一 鈴村茂雄 富田章吉 川村錠次 友山政雄
動力艤装班 井上傳一郎 田中正太郎 藤原喜一郎 産田健一郎 安江和也 山田忠美
兵装艤装班 畠中福泉 大橋与一 甲田英雄 武田直一 江口三善 柴田鉦三 森川正彦
降着装置班 加藤定彦 森武芳 中尾圭次郎

(写真右:十二試艦上戦闘機1号機)彼らが作成した設計図は3,000枚以上に及んだ。堀越は、その過酷な要求を満たすため、エンジンの選択、プロペラの選択、徹底的な重量軽減対策、理想的な空力設計の追及の4点に的を絞った。

九六式艦上戦闘機は、三菱による設計の機体でありながら、エンジンは、競争相手の中島製。600馬力級の寿ことぶきであった。しかし堀越は、新しい戦闘機に三菱のエンジンを使うことを考えていた。三菱では、中島に後れを取っていたエンジンの強化、開発を行っていた。その結果、金星四六型と、瑞星十三型という高性能のエンジンの開発に成功していた。金星(写真左は金星四二型)は1,070馬力で、直径は、2.18メートル。乾燥重量は560キロであった。瑞星(右の写真は瑞星二一型)は875馬力。直径1.118メートル。乾燥重量526キロである。

堀越は機体の大型化を嫌って、金星よりも一回り小さな三菱製、複列14気筒、星形空冷式、瑞星一三型を選んだ。十二試艦上戦闘機の初飛行は、昭和14年4月1日、岐阜県、各務原かがみはら飛行場で行われた。

三菱重工名古屋資料室長 岡野允俊氏「大江で造った飛行機は、大江の飛行場、その十式艦戦の2枚分くらいは飛べた範囲の飛行場はあるんです。単葉・低翼になってから、飛ぶのに距離は足りませんから。で、各務原まで行くと。持って行くということになりまして、零戦の胴体やら何やら別々にして、馬車や2台ぐらいですかな――馬車じゃない、牛車で。で、えっちらえっちら、名古屋の街を通って各務原まで24時間かけて、小牧でちょっと一服して、牛もえらかろうし人もえらいっていうんで。あそこで、ちょうど、一日かけて、向うへ、夕方に着くように。各務原へ。」

最高速度は、高度3,800メートルで、時速490km/hにとどまった。要求された500km/hにはわずかに及ばなかったが、それでも画期的なスピードには違いなかった。しかし後日、速度計測用のピトー管位置の誤差で、実際には500km/hを超えていたことが判明した。

昭和14年、9月14日、1号機は海軍に領収され、各務原から横須賀まで、航空技術廠の巻大尉が操縦して運んだ。十二試艦上戦闘機は、2機造られ、2号機は10月18日に初飛行し、その後航空技術廠でテスト飛行が繰り返された。

 

エンジンの換装命令とプロペラ変更

エンジンは、試作2号機までは、三菱の瑞星を使用していた。しかし、意外な通知が海軍航空本部から三菱に伝えられた。それは、十二試艦上戦闘機のエンジンには、中島製の複列14気筒、星形空冷式、さかえ一二型に変更するように、という通知だった。

栄一二型(写真左)は、950馬力と、瑞星よりも若干馬力で勝っていたものの、エンジンの選択は設計全てに影響を及ぼすだけに、技術者は、納得できないものを感じていた。しかし海軍の指示は絶対である。今度こそ自社のエンジンでと意気込んでいた技術者たちの落胆は大きかった。

3号機は昭和14年、12月28日に初飛行し、計画要求書の性能をクリアした。速度は、高度4,200メートルで509km/hを出した。

(写真左:三菱重工 零戦五二甲型 恒速3翅プロペラ)十二試艦上戦闘機には、プロペラは、燃費と性能をよくするために、今までの固定式のものから、可変ピッチの低速プロペラを採用した。低速プロペラは、住友金属工業が、アメリカのハミルトン社のものをライセンス生産していた。最初、2のプロペラが使われたが、社内のテスト飛行で振動があり、すぐに住友・ハミルトン型の高速3プロペラに換装された。

(写真右:可変ピッチレバー)可変ピッチは、16度から36度であった。エンジンが高速回転しているとき、ピッチは通常位置で小さくされる。巡航飛行の時は、ピッチを大きくし、エンジンの回転数を抑える。その操作をすることにより、エンジンの回転数を上げずに、速度を調整することができる。

2号機の墜落事故

(写真左:十二試艦上戦闘機2号機)昭和15年3月11日。2号機が、急降下試験中、空中分解し、墜落。奥山益美ますみ工手こうてが殉職した。航空技術廠の事故調査委員会は、昇降マスバランスが脱落し、激しいフラッター、いわゆる振動が起こって、機体が空中分解を起こしたと結論を出した。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔フラッターについて〕プラスチックの下敷きをね、風の中に出しても、電車の窓から出すとね、ばーっと振動しますよ。あれがフラッターなんですね。ねじれながらバタバタこういう行動を起こす。スピードが遅いときは問題なんなかったですけど、時速400キロ超えるようになってくると、問題になってくる。で、零戦がいちばん最初に日本でフラッターの問題が出てきたんだね。零戦の最初の事故は、昇降内についていた、真ん中のとこの棒の先に、重りをつけてて、この重りが切れてたんですね。」

堀越は、徹底した強度計算をし、骨組み材に関しては、穴を開け、1グラム単位で重量軽減の指示を出した。また外板がいはんは、0.1ミリ単位で、強度をぎりぎりまで削ぎ落とした。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔超超ジュラルミンについて〕強度を上げて、上げることが当時の材料学者たちの競争だったんですね。住友金属で、研究して、亜鉛を入れることで、55キロぐらい引っ張っても切れない。すると、それだけ軽くできますね、同じ太さで。だから、それを使ってみようかってことになったんですね。」

しかし、機体に使うことはできなかった。堀越は、画期的な強度を持つ超超ジュラルミン、ESDを主桁しゅけたに採用した。これは機体の軽量化はもちろん、強度をも兼ね備えた、まさに一石二鳥の材料であった。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「アメリカが零戦と同じESDと同じ亜鉛が使えるようになったのはね、戦後なんですよ。B-50って――B-29でまだ間に合わなくって。B-29の改良型で初めて、実用になったんですね。それでまあ、旅客機にも使われるようになったんだけど。」

当時海軍内部では、艦上戦闘機に対しての性能要求が、一つにまとまっていなかった。何を最優先すべきかという結論が出ないままでいた。横須賀航空隊の源田実少佐(当時)は、空戦性能を重要視した。いっぽう航空技術廠の柴田武雄少佐(当時)は、空戦性能を少々犠牲にしても、航続距離と速度を優先すべきと判断していた。無理が重なった要求のために、競争相手の中島飛行機は、昭和13年、実物大の木型きがた模型を作る前に、計画要求書を満たす艦上戦闘機は造れないと試作を辞退した。それほどに海軍の要求は、技術者から見ると矛盾したものだったのである。

堀越は、十二試艦上戦闘機でも、風洞ふうどう実験を重要視していた。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔風洞実験について〕やっぱり風洞があるかないかでは、結構違ってくるし、零戦で一番、風洞試験で決まったのは、きりもみ風洞ってのあって、普通の風洞と違って、下から上へ向かって風を噴き上げるんですよ。ちょうど――普通風洞っていうと前から風吹いてきて、飛行機をそん中へ吊るしてですね。当時だと、空気の力を測るために、逆さまにしてんですね。でないと、こうやっとくと――上から吊るしてると、ひゅっと上がっちゃうと、測りようがないから。きりもみ風洞ってのはそうじゃなくて、風洞下にプロペラがあって上に風吹いてんですよ。そん中に飛行機をポーンと放り込むと、きりもみになったり、(註:プラモデルを水平に回転させるしぐさをして)こうゆう格好になったりする。こう回り続けちゃったらば、止まらない。で、そん時に、こういうふうに入ってんと、一番…もう羽根は平らだから(註:プラモデルを水平に回転させるしぐさをして)こういうふうに回ったんじゃ全然空気抵抗にならない。これ止めるもの何もなくて、止めないと、こういうふうに(註:プラモデルで降下させる姿勢を見せて)おっこって来ないんですね。止めるのには、垂直尾翼しかないんですよね、飛行機の場合。ところが垂直尾翼がこういうふうにおっこってるから、ここ(註:水平尾翼のあたりを指さして)のとこから出てくる風がね、陰に入っちゃうんですよね。効かない。水平尾翼の位置がね、胴体のこの真ん中のとんがったとこと同じとこにあって、低いとこにあるんですよ。垂直尾翼の真下に付いてる(写真右)。尾翼から下の面積が増しながら、この尾翼からかかってくる、乱れた空気が入って来るところ――中を、この方向舵がかからないようにしたいっていうことで。ここ(註:今ある場所よりも少し後方に水平尾翼が)にあったものを、この位置へ持って行きながら、上に持ってきた(写真左)と。こういう格好になるんですね。きりもみ風洞ができたのが遅かったから、最初のうちはできなかったんですね。試作機には間に合わなかったけども、量産する機体からは、水平尾翼の位置を変えた。風洞試験で変わった、一番大きいところですね。」

主翼面積のジレンマ

高速を出すためには、主翼を薄く、小さくしなければならない。しかし旋回性能や、離着陸速度を遅くするためには、翼面積が大きいほど有利である。さらに、この翼には、大きく重たい、20ミリ機銃(写真左:九九式一号20mm機銃)を装備しなければならない。結局、翼面荷重を旋回性能に優れた九六式艦上戦闘機と同等とすることとなった。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔翼面荷重について〕「航空母艦があるから、制限があるから、そんなに着陸するときのスピードが速いといけない。羽根が小さかったらば、いくらフラップ付けても着陸するときのスピードがあるから、やたらに羽根を小さくすると着陸できない。これはね、ずーっと付いて回ってるのね。艦上戦闘機はね、どうしても…大きめに造る。そのかわり、旋回半径が小さくなる。旋回性がいい。だから、同じ時代のジェット戦闘機で比べても、ファントムは旋回性がいいとかね。トムキャットのはね、E-15イーグルよりいいんじゃないかとかね。こういうことになるんだね。」

さらに、引き込み脚の問題や、航続距離を伸ばすため、燃料タンクも、主翼に収める必要があった。

十二試艦上戦闘機A6M1の完成

昭和14年3月17日、十二試艦上戦闘機A6M1が完成した。特徴は、日本の戦闘機として初めての、引き込み脚の使用である。

元 空母「蒼龍」搭乗員 原田 要氏「〔零戦の第一印象について〕そうですねぇ…。九六戦から、零戦に乗り換えたときの第一印象は、非常に重量感のある、大型の飛行機だなぁと、いうような感じを受けました。そして脚が入るということは、日本の戦闘機としては、初めてな飛行機なもんで、乗ってみて、実に重量感があるし、操作は非常に柔らかくて、しやすいし、我々一番、戦闘機乗りとして、重要視してる視界が非常に広くて、誠に素晴らしい飛行機だなぁという感想を受けましたね。」

元 第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「(註:ところどころ聞き取れず)そうですね、大分航空隊でもってね、今度、母艦搭乗員に決まってね、それで初めて零戦に乗って。可変ピッチのね、離陸の時と、水平飛行の時の…可変ピッチが違うんですね。頼もしいと思ったねぇ…。とにかく、空戦の訓練でもね、もう小回りが利くんですよ。零戦は。うん…。」

元 空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「予想したよりおもちゃじゃなくて、非常に立派なもんで驚きましたね。九六戦は非常に、低翼単葉で、当時は花形だったんですけども、あそこまで飛躍するとは思わなかったから。びっくりしましたね。一番、誰が見ても素人が見てもわかるのは、ボリューム感ですよね。九六戦は可愛い、憧れのおもちゃってニュアンスが残ってますけど、零戦になってくると、そういったの、全く感じさせない、ひとつの、威厳を持ってますよね。それだけに、運動半径その他、心配はあったけども、操縦が慣れてくると、やっぱり、雲泥の開きがあるんで、これも驚きだったですね。」

 

実戦配備と制式採用

中国大陸での戦火は、広がる一方であった。このとき、海軍の前線基地は、漢口かんこうにあった。漢口かんこうから重慶じゅうけいまで、陸攻隊が戦略爆撃を行っていたが、掩護する九六式艦上戦闘機の航続距離が足りないために、陸攻隊は、掩護なしの出撃をせざるを得ない状態にあった。このため、陸攻隊がむざむざ敵の餌食になることも少なくなかった。

また中国空軍は、ソ連製のSエスBベー爆撃機(写真左)で、漢口の前線基地の爆撃も始めていた。昭和14年月10月3日には、SB爆撃機の奇襲により、第一連合航空隊司令官、塚原つかはら二四三にしぞう少将(当時)が重傷を負ったほか、参謀や将校を含む8名の死者、37名の負傷者を出す惨事が起こった。10月14日には、陸攻など、40機以上が損害を受けた。SB爆撃機の配備された成都の基地を、一刻も早く叩く必要があった。しかし年が明けても、十二試艦上戦闘機の制式採用は遅れていた。しびれを切らした前線基地からの要請で、海軍は横須賀航空隊の横山保よこやまたもつ大尉(写真右)に命令を下した。それは、「十二試艦上戦闘機1個分隊を編成し、速やかに漢口に進出せよ」というものだった。

漢口上空に到達した十二試艦上戦闘機6機が旋回をすると、大勢の将兵たちが飛行場に飛び出し、歓声を上げた。第一、第二、連合航空隊の二人の司令官を見たとき、横山大尉は、新鋭機に対する前線での期待の大きさを実感した。このとき、第一航空隊司令官は、ミッドウェー海戦で空母飛龍と運命を共にした、山口多聞たもん少将(写真左)。そして、第二航空隊司令官は、のちに最初の特攻を命令した、大西瀧治郎たきじろう少将(当時、写真右)であった。

その数日後、進藤三郎さぶろう大尉(当時、写真左)も、十二試艦上戦闘機を率いて到着。15機が、制式採用を待たずに、第二連合航空隊所属の第12航空隊に実戦配備された。

十二試艦上戦闘機は、昭和15年7月24日、海軍に制式採用となった。そのときの名称は、零式一号艦上戦闘機一型 A6N2である。のちに、零式艦上戦闘機一一いちいち型と改められる。昭和15年は紀元2600年にあたり、その末尾のゼロをとって、零式となった。零戦は、昭和20年8月の終戦までに、一万機以上が生産された。これは、日本の航空工業史上、空前の数字である。

世界でも前後して、ドイツのメッサーシュミット、イギリスのスピットファイア、アメリカのカーチスP40、グラマンF4Fワイルドキャットなどが登場しているが、零戦は、航続距離や旋回性能において、これらの戦闘機を凌駕していた。

メッサーシュミット
BF109
スーパーマリン
スピットファイア
カーチス
P40ウォーホーク
グラマン
F4Fワイルドキャット

零戦の初陣は、昭和15年8月19日であった。その日、横山大尉率いる零戦一一いちいち型12機は、九六式陸上攻撃機54機の護衛をして、漢口かんこうから往復1,850キロある重慶じゅうけいの爆撃に向かった。だが中国軍は、日本の新鋭戦闘機の出現を察知して、戦闘機を退避させていた。9月13日、進藤大尉率いる零戦13機は、陸攻隊の重慶爆撃終了後、いったん帰途に就くが、かねてからの作戦により、引き返した。重慶上空に達した進藤隊は、奥地へ退避していた中国空軍のソ連製I-15じゅうごI-16じゅうろく戦闘機、約30機と遭遇。10分あまりの空戦で、中国戦闘機27機を撃墜して、戦闘は終了した。零戦に被害はなかった。

ポリカルボフ I-15
ポリカルボフ I-16

主翼と補助翼の不具合

零戦が中国で華々しい戦果をあげる前年、第二次大戦が始まった。山本五十六は、いつの日かアメリカと対峙することを念頭に入れ、七試計画の段階から、航続距離の圧倒的に長い戦闘機の製作を切望していた。そのころ、日本国内では空母隊の飛行訓練が繰り返し行われていたが、昭和16年4月16日、再び悲劇が起きた。空母加賀の分隊長、二階堂中尉が、飛行訓練中、搭乗機である零戦二一型、通算150号機の補助翼が吹き飛ぶ事故が起きたのだ。急降下中に、主翼表面にしわが発生し、外板の一部と補助翼が吹き飛んだのである。

翌17日、横須賀航空隊、下川しもかわ萬兵衛まんべえ大尉(写真左)が、事故原因を究明しようと、事故機と生産の近い、135号機を使用してテスト飛行を行った。ところが、2回目の急降下中に、左主翼外板、および補助翼が吹き飛び操縦不能となって、追浜おっぱま飛行場、夏島沖合約300メートルの海面に激突、下川大尉は、還らぬ人となってしまった。順調に改良が行われていたときだけに、三菱の堀越設計チームや、海軍航空技術廠、海軍航空本部の関係者に衝撃が走った。

原因は、機体の傾きを調整する補助翼のバランスタブの影響により、フラッターを防止するマスバランスの効果が減殺され、急降下の過大な速度によるフラッターが発生したことによるものだった。このバランスタブは、生産途中から採用された装置であり、初期型には装着されていなかった。事故後、バランスタブは廃止され、360ノット、時速約667キロという、急降下の速度制限が設けられた。

現存するただ一つの零戦五二型

アメリカ、ロサンゼルス郊外、チノにあるプレーンズ・オブ・フェイム。ここには、世界で唯一という、零戦五二型が保管されている。昭和19年6月、マリアナ沖海戦直後、サイパン島にて、アメリカ軍により無傷のまま捕獲された、この第261海軍航空隊の零戦五二型。(写真左:零式艦上戦闘機五二型 A6M5)エンジンは、オリジナルの中島製、さかえ二一型。60年を経た今でも飛行可能な零戦は、この五二型一機だけである。芸術の域を超え、伝説とまで謳われた、零戦の心臓部を担うにふさわしい信頼性があったことがうかがえる。

零戦。正式名称は、零式艦上戦闘機。海軍内部の略語は、A6Mである。当時海軍の戦闘機は、空母に搭載することを前提にされていた。最高速度、上昇力、旋回性能、武装など、その全ての性能のバランスが、世界一だった。特に航続距離は、欧米諸国の戦闘機が平均約1,200キロメートルだったのに対して、零戦は約2,200キロメートルと、驚異的な数値である。しかも流線型の落下式増設タンクを装着、このタンクを使えば、その航続距離は約3,500キロメートルまで伸びた。世界の常識を覆した数値。最先端の軍備を誇っていた当時のアメリカ軍でさえ、この驚異的な性能を全く信じていなかった。

伝説の誕生

昭和16年、8月31日をもって、中国戦線における零戦の活動はひとまず区切りが付けられた。初陣から約70回の攻撃に出撃し、撃墜機数、約100機、地上撃破、約160機。中国空軍をほとんど壊滅状態にしてしまった。零戦の被害は、被弾数のべ機数39機、地上放火により2機が撃墜されたのみ。空戦による実質的被害はなかった。

(写真左:昭和16年9月6日 帝国国策遂行要領 決定)そして戦局は、太平洋へと拡大していった。昭和16年9月6日、御前会議で、「10月下旬までに戦争準備を整え、10月上旬に交渉妥結の見通しが立たないときには、直ちに、対米英蘭開戦を決意する」という帝国国策遂行要領が決定された。

10月16日、近衛内閣総辞職。わずか7か月で、政権を東条英機に譲った。18日には、東条英機内閣が発足した。

そして、昭和16年、12月8日。ハワイ、オアフ島 北方約370キロ付近――。<1.伝説の誕生 終わり>

零戦 2.驚異の構造へ→

広告

トップ