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特攻 なぜ拡大したのか

イントロダクション

沖縄 古宇利島沖

沖縄。45メートルの海の底に、70年前の記憶が眠っています。太平洋戦争末期。日本軍の攻撃を受けて沈んだ、アメリカ軍の駆逐艦。傍らに転がるのは、駆逐艦を沈めたとされる航空機のエンジン。この航空機がとった戦法、それが、体当たり攻撃、特攻でした。

搭乗員の死を前提とする、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻で、アメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4,500人余り。その大半が、二十歳前後の若者でした。

元 桜花おうか搭乗員 佐伯正明さん

これが、わしが乗って死ぬる棺桶かい、と。
(死を)初めて実感した。
情けないというのを通り越して、いよいよ、厳粛な気持ちになったわね。

元 震洋しんよう特攻隊員 久保守人さん

いや、こんな面白いもんに、変な爆弾積んで、おれたちは行くがかと思うたら、いやぁ…。
国がかわいそうだと思うた。
国。日本の国はかわいそうだと思うた。
そうやろがい。

昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までに、急激に拡大していきます。絶望的な戦況のなか、日本にアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦の作戦の中心は、特攻でした。戦闘機に限らず、様々な兵器が、特攻につぎ込まれます。

今回、新たに見つかった機密資料。特攻作戦の立案に関わった参謀が記したものです。

特攻作戦を促進するための、資料ですよね。
架空に架空を積み重ねて、どんどん現実から遊離したものになっていて、続けること自体が、自己目的になってしまっている。

一擊ヲ加ヘテ政治工作…

明らかになったのは、特攻によって加える一撃を、終戦に向けての政治工作に利用しようとする、軍首脳の思惑でした。

元 陸軍作戦部長 宮崎周一中将

(テープ音声)ここで一叩ひとたたき叩けばね、これはひとつの、あり得る動機になるんだよな。
終戦というものにもっていく動機がつかめる。

元 大本営陸軍参謀 橋本正勝中佐

(テープ音声)これが最後の戦いだと。
これで、一撃を与えればね、その…妥協をするためのテーブルに着くことができるだろう。
もう、無条件ではなしに。

生きて帰ることを、望んではならなかった若者たち。常軌を逸した作戦に、なぜ、歯止めがかからなかったのか。特攻作戦の、拡大の軌跡をたどります。

特攻

なぜ拡大したのか

特攻隊の編制

今から70年前、出撃を控えた特攻隊員の遺言が、ラジオから流れていました。

『お父さん、お母さん。このたびは、非常に幸運な、この運をとらえて、決戦場に、行くことになりました。一家一門を挙げて、この決戦を勝ち抜きましょう。ではただいまより、出発いたします。ごきげんよう、さようなら。』

フィリピン

昭和19年10月。特攻が初めて行われたのは、日本から遠く離れたフィリピンでした。

(ラジオニュース音声)『神風かみかぜ特別攻撃隊、敷島しきしま隊員は、敵艦隊攻撃の命を受けて、出発せんとす。』

昭和19年10月20日
神風特別攻撃隊 編制

海軍の航空隊が編成した、最初の特攻隊の映像です。その後、日本軍全体を巻き込むことになる特攻は、わずか13名の作戦として始まりました。

昭和19年10月20日
アメリカ軍レイテ島上陸

特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍が、フィリピン、レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。

太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとって、フィリピンは、南方の資源地帯と日本をつなぐ、最後の重要拠点でした。

しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するため立案されたのが、爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。

その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。

最初の特攻隊が突入する瞬間

6機のゼロ戦が、空母5隻に命中し、うち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに挙げた、大戦果でした。

この結果を受け、現地の海軍航空隊では、体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは、連日、多くの隊員が出撃していくようになります。

拡大していく特攻の最前線に立たされた若者たち。

元零戦搭乗員 角田和男さん

角田和男つのだかずおさんは、二十歳前後の若い特攻隊員6人を、敵艦隊上空まで護衛するよう命じられます。

(出撃は)お昼ちょっと前だったんです。
弁当もらったんですが、「飛行機乗るにゃ面倒だから、弁当食っちゃって行こうや」なんて言って、みんな喜んで本当に、遠足に行った子供たちのように、わいわい騒ぎながら食べてましたね。

午後4時。護衛にあたる角田さんの目の前で、隊員たちは一機、また一機と、敵艦に突入していきました。その夜、角田さんは、出撃を控えた別の特攻隊員の宿舎を訪ねました。

もう目をぎらぎらさせて、本当に見ただけで鬼気迫るという感じの部屋だったですね。
今日、ほがらかに喜んで行った搭乗員も、ゆうべはやはり、こういうふうにしていたんだと。
目をつぶるといろんな雑念が出てきて、眠れなくなるんだと。
だから、本当に眠くなるまでみんな、胡坐あぐらをかいて、目をぎらぎらさせて起きてるんですね。
でも、夜が明けて飛行場に行くときは、そんな姿は全然残さずに、みんな喜んで、朗らかになって飛行場に出ていくんですよね。

特攻隊の活躍は、長引く戦争に疲れ果てた日本国民に、熱狂的に迎えられました。

神風特別攻撃隊五軍神
一機命中
只一言、俺に続け!
壮!出撃瞬間の連隊長

※←クリックして大画面表示

大本営陸軍部
昭和19年11月
陸軍特攻隊 出陣式

海軍の特攻隊の戦果に大きな衝撃を受けたのが、陸軍でした。

「皇国の存亡を決すべき、全軍必死必殺の先鋒たり。」

海軍による最初の体当たり攻撃から10日後、陸軍は、78機の特攻隊を編制します。

元 陸軍航空参謀 田中耕二中佐

(テープ音声)「海軍はあれだけ華々しく母艦をいっぱい沈めさせて、陸軍の戦闘機は何もしていないじゃないか。行ったらすぐ地上でやられちゃってるじゃないか。」
しょっちゅう叱られますので、私は全く毎日が、針のむしろの上におる思いがしておるわけであります。

陸海軍の首脳は、特攻の戦果を天皇に上奏じょうそうします。

陛下から、かしこくも、次のお言葉をいただきました。
「体当たり機は大変よくやって、立派な成果を収め、身命を国家に捧げて、よくもやってくれた」。

戦意高揚のため、特攻隊員の肉声が、ラジオから次々と流されました。

ラジオアナウンサー

次は、瀬川せがわ正敏まさとし少尉。大阪市、此花区出身。瀬川少尉の父君ふくんは、早く世を去り、母親、トラさんの手一つで育てられ、今日こんにちに至ったかた

瀬川正敏少尉

正敏は、このたび、帝国軍人として、最高の名誉を与えられました。
ありがたき陛下のお言葉までいただいて、光栄に、感激いたしております。
誓って、この任務を完遂いたします。
母上様、お元気ですか。

若者たちが、命と引き換えに挙げた戦果。

フィリピン戦全体で、陸海軍は、500機以上の特攻機を出撃させました。

日本側の戦果 232隻 撃沈・撃破
アメリカ側の記録 58隻

その戦果について、日本側は232隻の艦艇を撃沈、または撃破としていました。ところが、アメリカ側の記録を見ると、特攻機による損害は、58隻にとどまっています。

戦果の過大評価

鳥取県 境港市
元 陸軍特攻隊員
木下顕吾さん

特攻が拡大していく一因となった、戦果報告。なぜ、日本側の数字は膨れ上がったのか。フィリピンでの特攻作戦に参加した、木下きのした顕吾けんごさん。91歳。木下さんは当時、上官に対し、偽りともいえる戦果報告をしたことがあるといいます。

(ディレクター:)皆さん特攻隊の…

はい、みんな特攻隊で亡くなったんです。
これだけ一緒に並んどってね、この人も戦死してる。村岡も。

村岡義人さん
左 木下さん
右 村岡さん

その戦果報告とは、少年飛行兵学校の同期生、村岡義人よしとさんが出撃したときのものでした。二人はともに、靖国隊と呼ばれる特攻隊に所属していました。

木下さん

出撃から2時間。木下さんの目の前で、村岡さんが急降下を始めます。ほどなく、暗がりの海面に赤い火の玉が見えたものの、何に突っ込んだのかは、確認できませんでした。木下さんは、敵艦船を発見できないまま基地に戻り、上官に、こう報告します。村岡は、敵輸送船らしきものに、激突。

元 陸軍特攻隊員 木下顕吾さん

わたしはもう、そう言わなければね、あの、なかでね。
海に突っ込んだなんてね、よしんば、よしんばですよ、本当でも、よう言わんですな。
同期の村岡がね。
そういうふうにしか言えんかった。
これは、正しいとは思いませんけどね。
僕の…思いやり。

陸軍がまとめたフィリピン戦航空戦果

特攻隊の戦果は、軍の上層部によって誇張されることもありました。

八紘 10
特攻体当 10
直掩ちょくえん未帰還 3

村岡さん戦死の3日後に出撃した、八紘はっこう隊。出撃機数は、10機。敵艦船2隻に命中、という報告に対し、参謀は10機で10艦を撃破と記録しています。

特攻隊の戦果が過大に膨らむのには理由があると語る、陸軍航空隊の元将校、生田いくたまことさん。

元 陸軍航空隊将校 生田惇さん

戦争中、ずっとこれぶら下げてた。
馬鹿みたいに重たいの。

死を前提とした特攻を、部下に命ずることへの自責の念が、働いているといいます。

上司としては、「ああ、おれの部下は皆よくやってくれた」というふうに、思いたいじゃない。
そういうふうに報告するもんだから、過大報告になりますよね。だいたいが。
遺族に対しても「お宅の息子さん、やってくれた」というふうにも、言いたいしね。

実態とはかけ離れて伝えられていく、特攻の戦果。いっぽう、フィリピンの日本軍は、壊滅状態に陥っていきます。アメリカ軍の、日本本土への侵攻が、確実な状況になりました。

一撃講和

軍や政府首脳の間では、戦争遂行はもはや不可能という空気が広がり始めます。講和の道をとるのか。それとも、戦争継続か。アメリカ軍が、沖縄に迫っていました。ここで、日本は、あくまで戦争継続を選びます。

航空作戦に関する陸海軍中央協定
昭和20年3月1日

昭和20年3月1日。沖縄戦に向け、作戦方針をまとめ上げました。その中心に据えられたのは、特攻。日本は、国の命運を特攻に賭けるしかなくなっていました。陸海軍の総力を挙げた特攻で、戦い抜くとされた沖縄戦。

陸軍作戦部長
宮崎周一中将

作戦の立案を行うことになる陸軍作戦部長、宮崎周一は、その狙いについて、のちにこう語っています。

陸軍作戦部長 宮崎周一中将

(テープ音声)ここで一叩ひとたたき叩けばね、終戦というものに持っていく動機がつかめる。
それだから、あらゆる手段方法を尽くして、この動機ができるような具合に努力するのが私の役目だ。
そうだろ?

“一撃講和”

敵に手痛い一撃を与える。そうすれば、より有利な条件で、戦争を終わらせることができる。いわゆる、一撃講和という考えです。

日本大学 近代日本政治史
古川ふるかわ隆久たかひさ教授

近代日本の政治史を研究する古川隆久さんは、一撃講和が持ち出された背景には、軍事や外交と異なる、別の思惑があったと指摘しています。

日本大学 近代日本政治史 古川隆久教授

一撃講和と言っているのは、日本国家のメンツがあると思うんですね。
一応、建前上、負けたことがない国が、初めて負けちゃうときに、全面降参では、それこそすべてを失ってしまうかもしれない。
このまま、無策のまますぐ降伏ということになれば、自分たちが崩壊してしまうということを、たぶん…一番恐れていたと思います。

“主戦派”

一撃講和の方針は、徹底抗戦を主張して譲らない、いわゆる主戦派への配慮とも絡み、支持を広げていきます。当時、陸軍の中堅将校のあいだには、和平は弱腰であるとして、強く反発する動きがありました。

陸軍参謀本部の記録より

…「単ナル屈従くつじゅう的、和平的気運ヲ厳重監視ス。」

…「戦争指導ノ先達せんだつタルノ確信ノもとニ、戦勝ノ一途いっとニ邁進スルヲ要ス。」

海軍
高木惣吉少将

海軍で、和平への模索を始めていた高木惣吉たかぎそうきち少将。海軍内部の主戦派を恐れる空気を語っています。

海軍 高木惣吉少将

(テープ音声)(海軍の)軍令部のなかに強硬な少壮士官がたくさんおる。
だから部下を抑えるには、どうしても強硬論を言わざるを得ない。
自分が部下を統御すべき立場におりながら、部下に統御されるということなんですね。

昭和20年2月14日
元首相 近衛文麿

主戦派の矛先をかわすうえでも有効と考えられた一撃講和を、天皇も支持していました。昭和20年2月14日。元首相の近衛文麿が宮中に参内さんだいし、自らの考えを述べたときのことです。

「最悪ナル事態ハ、遺憾ナガラ、最早もはや必死ナリト存ゼラル。一日もすみやかニ、戦争終結ノ方途ヲ講ズベキモノナリト確信ス」
(最悪なる事態は、遺憾ながら、もはや必至と存じます。一日も速やかに、戦争終結の方途を講ずべきものと確信いたします。)

それに対して、天皇はこう答えたといいます。

「モウ一度、戦果ヲ挙ゲテカラデナイト、中々話ハ難シイト思フ。」
(もう一度、戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う。

昭和20年3月10日
東京大空襲

アメリカ軍の日本本土への空襲は激しさを増していきました。昭和20年3月、東京大空襲。焦土が広がるなか、軍上層部は、特攻による沖縄での一撃に期待をつなぎます。

海軍 作戦部長 富岡定俊少将

(テープ音声)沖縄は決戦です。
とにかく、何か役に立つチャンスがあるものだったら、みんなつぎ込む。
全部。飛行機も潜水艦もみんなつぎ込んで、特攻もみんなやるんだ。

多くの若者の死を前提とした、史上類を見ない戦いが始まろうとしていました。全軍特攻です。

沖縄戦

昭和20年4月
アメリカ軍 沖縄上陸

昭和20年4月。アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始。1,500隻の大艦隊と50万の大軍が押し寄せ、激しい地上戦が始まります。

米軍が上陸用舟艇で浜辺に乗り付け、艇首が下りる瞬間。

(ニュース音声)沖縄こそ決戦場。ここに、全力を傾倒する、敵兵力を一挙に叩く神機は来た。

沖縄を取り囲む大艦隊をめがけ、九州や台湾の基地から、特攻隊が次々と出撃していきました。しかし隊員の多くは、実戦での経験が全くなく、訓練も不十分でした。

海軍搭乗員 技量調査書
昭和20年3月10日

沖縄戦直前、海軍が、全搭乗員の訓練状況を記録した資料です。経験豊富なAランクから戦闘に参加できる技量にないDランクまで、4つに分けられています。Dランクが、全体の4割以上を占めていました。

しかもこの基準は、搭乗員の技量低下を取り繕うため、前の年に改定されたものでした。もとの基準に照らせば、9割近くが実戦に出してはならない技量にあったのです。

A 6か月以上
B 4~6か月
C 3~4か月
D 3か月未満
D 3か月未満 →D 9か月未満※元の基準では、Dランクに9か月未満が分類されていた。新しい基準では、Dランクは3か月未満とされた。

東京で、沖縄特攻作戦を推し進める、宮崎。戦後20年を経たころ、作戦部長としての当時の心境を明かしています。

陸軍 作戦部長 宮崎周一中将

(テープ音声)極めて困難。はっきり言う。聞けば聞くほど、困難。
それじゃあ、もう、そういうようなことによってだな、断念するか。
そりゃあ俺には断念できないんだ、俺には。
私は、そういうような立場の関係上、暗い事柄は、一切口外はできないし、自分の心のなかにしまって、「日本よ、お前は何処どこへ行く?」という気持ちがあったからって、そんなこと誰にも言えないよな。な。

陸海軍が総力を挙げ、初めて協同で行った、特攻作戦。最初の1週間だけで、フィリピン戦全体に匹敵する500機以上の特攻機が出撃していきました。

元 震洋特攻隊員 久保守人さん

いやぁー…。
あれもいっちゃったんか、これもいっちゃったんか、それは、悲しくてしょうがなかった。かわて(かわいそうで)。
あんたたちは戦友愛ちゅうものは、わからんまい。そやろ。
今こないして話しとるもんが、間もなくあちらへ行っちゃうもんやから。かわて、かわて、かわて。
涙ちょちょ切れとったわ。
おらは、そうやった。

元 震洋 特攻隊員 二階堂悌二郎さん

こう寝て、天井見てますよね。
天井板があります、で、節穴数えてます、そうするとそのときに、私は何で、ここにいるんだろうな。なんで死ななきゃならんだろうな、ってことは思いましたね。
本当に私が敵艦にぶつかって、敵艦を沈めて死んだ場合に、日本は、勝利するんだろうか、と。
日本は、勝てるんだろうか。そこは思いました。

陸軍作戦部長の宮崎は、戦いに臨むにあたり、詳細な日誌をつけています。“苦闘準備”。

震洋、桜花、練習機特攻

沖縄戦には、日本軍が開発した様々な特攻兵器が投入されていきました。

特攻艇 震洋

ボートの先端に爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする特攻艇、震洋しんよう。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで、沈没しました。

“人間爆弾”桜花

1.2トンの大型爆弾に、翼と操縦席を取り付けた、桜花おうか。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ、切り離されました。

元 桜花特攻隊員 佐伯正明さん

これはじたばたしたって四方八方、刑務所の高い塀みたいなもんでね、出れんことはわかっとるじゃないかと。
そう自分が理解した途端からね、もう諦められてね。
あとはどうやったら、うまくわしの操縦技量で、命中できるだろうかという。
そればっかり考え始めた。

攻撃を受け翼がもげ落ちる
桜花を積んだ一式陸攻

しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどり着けず、撃ち落とされていきました。桜花の重みで身動きが取れない攻撃機は、アメリカ軍にとって格好の標的でした。

元 桜花戦闘機隊員 堂本善春さん

兵舎の隅でね、死んだやつの帽子を祭壇に飾っていくだけですよ。
そいで、花やろういうても、そこらの畑に、土手にあるような花切ってきて、牛乳のビンに挿して、一つか二つ置いてあるだけですわの。
たったこれだけか、死んでこれかあ思うようになった。かわいそうに。

日本にとって、より有利な講和に結びつく一撃を期待され、送り出されていく特攻隊員たち。

陸軍作戦部長 宮崎周一中将
天ニ謝シ、若人ニ謝ス

宮崎周一 4月29日の日誌より 「沖縄周辺ニ対スル特攻ノ戦果ニ関シ吉報アリ。相当ノ戦果アリシハ確実ナリ。天ニしゃシ、若人わこうどニ謝ス。」

アメリカ軍は、レーダーや対空砲火の精度を上げ、次々と特攻機を撃墜していきます。沖縄戦終盤、日本軍は本来戦力とはなり得ない者まで、特攻兵器に仕立てます。

元 練習航空隊教員
原田文了さん

入隊したての練習生を指導する、練習航空隊の教員だった、原田文了ふみのりさん。原田さんの部隊に下された命令は、練習機による特攻でした。

93式 中間練習機

訓練に使われる、布張りの複葉機。これで体当たりしろ、というのです。機銃も持たず、速度も、アメリカ軍戦闘機のわずか4分の1。爆弾を積めば、飛ぶのがやっとでした。

元 練習航空隊教員 原田文了さん

爆弾積んでるけん(重くて)なかなか離陸せんですわ。
もう1,500メートルある飛行場いっぱいいっぱい使う。
練習機なんぼあってもあかん。千機あっても一万機あってもあかんもん。
全部、全部落とされる。
しまいにもう、訓練するのしんどうなったです。まあ、こう言ったらいかんけどね。

河口湖飛行館

アメリカ軍の待ち受ける沖縄に向け、次々と出撃していく練習機。しかし、機体が爆弾の重みに耐えきれず、途中の島に不時着する事態が相次ぎます。

海軍 練習機隊 戦闘詳報“特攻精神ニ欠クル…”

特攻精神に欠けるとして、過酷な措置が取られる部隊もあったといいます。

元 練習航空隊教員 原田文了さん

(爆弾を)落として不時着する人間が多いために、もう、不時着しても爆弾爆発するようにな。
こんな太い、ロープで縛っとった。
縛って。飛行機に。縛りつけとった。うん。
(軍は)そこまでしたわけじゃ。余計にな、かわいそうだった。
んーなぁ、わかっとんで。そんなもの、なあ。
お前は死ね、つのと一緒やもん。

沖縄戦が終わるまでに、特攻作戦に送り出された練習機は、120機以上。戦果を挙げることは、ほとんどありませんでした。

陸軍作戦部長の宮崎周一。戦況悪化のなか、愛読書の忠臣蔵の一説を引用しています。

宮崎周一の日誌より

「大丈夫だらう」内蔵助くらのすけは例によつて ものあかるい一面だけを見てゐた

「苦労しても同じことなら考えるだけ損だ 待たう 待たう」

5月31日、沖縄守備軍が司令部を置いていた首里が、アメリカ軍の手に落ちます。総力を挙げて臨んだ沖縄特攻作戦は、一撃講和に繋がることなく終わります。

本土決戦における特攻

昭和20年6月8日
御前会議

昭和20年6月8日。アメリカ軍の本土上陸が現実味を帯びるなか、国の行く末を大きく左右する会議が開かれます。天皇臨席の、御前会議。集まったのは、陸海軍の首脳と政府の要人たち。この会議で、本土決戦への流れを決定づけたのが、海軍の最高責任者、豊田副武とよだそえむです。特攻による一撃は、なおも可能だとする発言でした。

海軍 軍令部総長
豊田副武大将

「敵全滅ハ不能トスルモ、約半数ニ近キモノハ水際みずぎわ到達前ニ撃破シルノさんアリト信ズ」

概ネ六七割程度ノモノニハ、遺憾ながラ上陸ヲ許ス…

しかし、この発言は、豊田の手元の、海軍が準備した原稿とは大きく異なるものでした。

おおむね、67割程度の敵軍には、遺憾ながら、上陸を許す。沖縄で、戦力のほとんどを失った海軍は、本土決戦は極めて困難だという見通しを持っていたのです。なぜ、豊田は、原稿の内容を覆したのか。

この会議では、本土決戦を声高に主張する主戦派が、場の空気を支配していました。特攻は、敵に痛烈なる打撃を与えている。和平論者と見られていた人物も、強硬論に同調します。のちに、豊田は、海軍の悲観的な見通しを公にできなかった心中を、こう語っています。

「あんなに大勢の人達が集まつてやるのであるから、本当のはらを割つて審議することは到底不可能である。余り悲観的な数字を述べることは不適当だと考えた。」

海軍の最高責任者である豊田の発言は、終戦への道筋を模索していた早期和平派を失望させるものでした。

海軍 高木惣吉少将

(テープ音声)国家の運命をしょった人がね、責任のある人が、自分の腹と違ったことを公式の所で発言して、間違って自分の腹と違った決定になったら、いったいどうするのか。
それを僕はね、豊田さんにも反問したいですよ。

御前会議は、本土決戦を、あくまで戦い抜くという決議で幕を閉じました。かつてない、巨大特攻作戦が動き出しました。

神奈川県 横須賀市
元 練習航空隊 司令部付
磯部利彦さん

搭乗員を訓練する練習航空隊の参謀を務めた、磯部利彦いそべとしひこさん。本土決戦に向け、ある命令を受けます。それは、あの練習機を使った特攻隊の編制。全国の基地に残っていた練習機、2,300機を、かき集めろというものでした。

元 練習航空隊 司令部付 磯部利彦さん

大変な事態だなと。しかしやむを得ないなと。思いました。
真剣に私は編制作業をやったんですよ。
疑いは、抱かなかったですね。そういう指示に対して。
素直に、鉛筆をなめて、編制作業をやりました。

明治大学 日米戦史研究
山田朗教授

沖縄戦で、ほとんど戦果を挙げなかった練習機が、なぜ大量に本土決戦に投入されることになったのか。

“軍機”

今回、その背景を語る海軍の極秘文書が見つかりました。作戦参謀が本土決戦に必要な戦力を割り出し、分析したものです。

明治大学 日米戦史研究 山田朗教授

これで見ると、まさに結論に合わせた分析ですよね。

七月上旬ニ於ケル予期戦果
赤い部分[米軍上陸部隊]
紫の部分[敵半数撃滅に必要な戦力]

左のグラフが表しているのは、1,500隻の輸送船からなる、アメリカ軍の上陸部隊。軍は、御前会議での豊田の発言にそうよう、その半数を撃滅するのに必要な、航空戦力を積み上げました。

“練” “実用機” “練” “他”…
“練” 海軍494…

その数合わせのために持ち出されたのが、練習機の大量投入。この期に及んでも、特攻の拡大に歯止めをかける者はいませんでした。

明治大学 日米戦史研究 山田朗教授

もう、続けること自体が、自己目的になってしまっている。
もう、通常のやり方で、戦争を進めることはできないんだから、もうここで収めるべきだって、そういう判断を誰かがしてくれなきゃいけなかったわけですけど、誰もそれができない。
言い出せない。

7月4日。陸海軍は、合同で、アメリカ軍は九州南部に迫ると想定し、図上演習を行います。

洋上撃滅敵戦力34%

その結果、上陸前に撃滅できる敵戦力は、34パーセントにとどまりました。しかし、軍はこう結論付けました。

「各種ノ要素ガ我ニ有利ナル場合ハ、戦果50%ニ達スルコトモ有リ得ルデアロウ」

終戦の決断が下されないまま、国は焦土と化していきました。

特攻作戦への準備は、8月に入ってもなお、続けられました。

8月6日 広島
8月9日 長崎

発動しなかった大特攻作戦

神奈川県 横須賀市
元 練習航空隊
司令部付 磯部利彦さん

終戦によって、最大規模の特攻作戦は発動されることなく、終わります。磯部利彦さんは、自ら編制した練習機の特攻隊を送り出さずに済んだことに、安堵の念を抱いたといいます。

これ、みんな教官のときですね。

しかし、あのとき若者たちを死に送り出す準備に、自分を駆り立てたものは、いったい何だったのか。

元 練習航空隊 司令部付 磯部利彦さん

これはね、いまからそんなことを言って申し訳ないんだけれども、得意満面というような状態だったと思います。
自暴自棄の、自爆行為にしか過ぎないと、作戦とはとても言えない気もするんですけども、その当時は、そこまでは考えなかったですね。

(ディレクター)その当時、そういうことを考えなかったっていうのは、どうしてですか。

命令だからです。

フィリピンに始まり、日本軍全体を巻き込んだ特攻作戦によって、4,500人を超える搭乗員が戦死しました。

狂気という言葉で、しばしば語られてきた特攻。その拡大を推し進めたのは、与えられた職務を忠実に果たし、場の空気を重んじる、組織人たちでした。

終戦まで、陸軍作戦部長を務めた、宮崎周一。自らの職務について語った言葉が、残されています。

陸軍作戦部長 宮崎周一中将

作戦部長なんてものはね、ほんと幕僚なんだ。
どういうふうにして終戦に導こうか、終戦の機会を作ろうかと、いうような観点からは、私は考える立場にはない。
私は、深くは考えないと。
それは、私の任務じゃない。

回天 特攻隊員
塚本太郎さん(享年21)

出撃を前に、家族に宛てた別れの言葉を、レコード盤に吹き込んだ特攻隊員がいます。人間魚雷、回天かいてんの搭乗員、塚本太郎さん。21歳の若者が、のちの世に残した、最後の言葉です。

「父よ、母よ、弟よ、妹よ、そして、長いあいだ育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。昔が懐かしいな。秋になれば、お月見だといって、あの崖下にススキを採りに行ったね。あそこで転んだの、誰だったかしら。

そうやって、みんなと愉快に、いつまでも暮らしたい。喧嘩したり、争ったりしても、心のなかでは、いつでも手を握り合って。」

<終>

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