連合艦隊

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空母 瑞鶴

おとりとされた空母

太平洋戦争で、日本は、アメリカに先駆け、大規模な空母機動部隊を編制します。戦艦の主砲に勝る攻撃力を持つ航空機部隊を、海のどこからでも放つことができる。日本の空母部隊は、世界に圧倒的な強さを見せ付けました。

なかでも、最も多くの海戦に参加したのが、空母瑞鶴でした。全長257メートル。基準排水量25,000トン。航空機84機を搭載。戦局が悪化するなかでも、大きな損害を受けることがなかった瑞鶴は、幸運な空母と呼ばれました。

しかし、昭和19年10月。レイテ沖海戦において、瑞鶴に命じられたのは、生還の見込みのない任務でした。

「敵の航空艦隊を、北のほうにおびき寄せるために、こっちはおとりになるんだと。おとり作戦だと聞いてましたよ。だから、そういう意味では、覚悟していかなきゃならないんだと。」

おとりとなった瑞鶴。しかも、航空機搭乗員の多くが、訓練を十分に受けていませんでした。

発着機員 松田正二さん(85)「着艦でも満足にできへんもん。真ん中来たり、端っこで海はまったり。そんなんや。お粗末やから。そんなん言うたら悪いけど、訓練が足らんわけや。そやから兵隊もかわいそうや。満足なね、何も出来んままに出とるから。」

瑞鶴は、自らアメリカ軍を引き付けます。そして、魚雷と爆弾が、いっせいに瑞鶴を襲います。

機銃員 田口良一さん(89)「お腹の内臓が出ちゃって。中に入れて、針も何もないからね、大きいタオルでぐっと締めて。みんな『お母さーん、お母さーん』ばっかだわ。全部が。お父さんてのはなかった。一人も痛いって言わなかった。みんな『お母さん』。」

乗組員と搭乗員のほとんどが、10代から20代の若者たちでした。なぜ瑞鶴は、おとりという絶望的な任務を強いられたのか。シリーズ証言記録、兵士たちの戦争。太平洋戦争を戦い続けた、瑞鶴の軌跡をたどります。

 

昭和12年 日中戦争

日中戦争が始まった、昭和12年。日本は、欧米列強との軍縮条約から脱退し、軍備の増強に乗り出します。来たるべき戦いに備え、艦艇66隻を建造するという、大規模なものでした。計画の柱の一つが、空母、瑞鶴の建造でした。完成したのは、昭和16年9月。大きさ、速力、航空機の搭載数。瑞鶴は、すべてにおいて、これまでの最大級を誇りました。空母建造技術の粋を集めた瑞鶴は、海軍が目指した、理想の空母でした。

機関兵 古居義信さん(83)「甲板かんばんの広さですねぇ…ええ…。とにかく、幅が、45メートルですか。長さが280メートル。それだけの、大きな看板ですからね。飛行機がずらーっと並んどる、様子を見てね、びっくりしましたね。うん…。」

発着機員 松田正二さん(85)「うちの母親がね、呉へ面会に来たときに、『あれに乗っとるんやでー』言うたらびっくりしとった。そのぐらい大きいねん。島みたいなもんや、島。うん。あまりにも大きいから。飛行機83機積んどる。」

完成から3か月後、太平洋戦争開戦。瑞鶴、最初の戦いとなったのが、真珠湾攻撃です。航空機の整備兵だった中野正さん。ハワイ、真珠湾に向かうときの緊張を、今も覚えています。

整備兵 中野正さん(89)「だんだんだんだん、海は平穏になってくるわ、まぁ、ハワイの、ジャズがどんどんどんどん入ってきますわね。受信機はね、フルに回転さしてるけど送信機は封印ね。ちょっとでも(送信機に)触れたらその(自分たちの)位置が(敵に)わかるからね。ぽっと音がしたら結局こう…(腕で✕印を示す)。察知されるともう、位置がわかってしまうからね。隠密に接近して。」

昭和16年12月8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和16年12月8日早朝、まず、空母6隻から、183機が出撃。この戦いで、アメリカ太平洋艦隊は大打撃を受けます。瑞鶴飛行隊に与えられた任務は、航空基地の攻撃でした。これは、瑞鶴の航空機から撮影された攻撃の様子です。アメリカ軍基地に対し、低空から的確な爆撃を行い、105機を地上撃破。瑞鶴飛行隊は、全機が損害を被ることなく帰還を果たしました。

整備兵 中野正さん(89)「帰ってきた飛行機は、爆弾落としたやつは、炸裂してその泥をかぶったり、そのへんの無線のアンテナ線引っ掛けて帰ったり、ってな飛行機あったからな。そりゃ(作戦の成功が)わかりますわね。いたるところで歓声上がっとりますわね。それがためにあんた――苦労して、きたんやから。真珠湾まで行って結局、まともに帰れるとは想定してないからね。そりゃ嬉しいですよね。…そんな感激は…ちょっと言葉になぁー。(言葉にならない)」

日本の空母部隊の名を高めたのは、熟練の搭乗員たちでした。当時、搭乗員の技術は、世界的に高いレベルにありました。国力ではかなわない欧米列強に対して、日本は、一人一人の質を高める少数精鋭主義をとっていました。訓練は、過酷を極めたといいます。真珠湾攻撃に参加した搭乗員、前田武さん。

雷撃機搭乗員 前田たけしさん(88)「矢田部やたべくうにて空中接触事故死と。…これは、宇佐うさくうにて、夜間航法訓練中事故死。飛行機乗りが事故死するということは、我々はもう…当たり前だと思いましたね。とにかく、こんなあんた、すれ違わんばかしの、編隊で飛ぶんだから。訓練ちゅうのは。一機でなんだかんだってやってる、そんなときに起きるものは、事故じゃないですよ。ただもう、それは自分がミスしたってことですね。しかし普通(起きる事故というの)は、編隊組んでるときに接触したりね。」

搭乗員にとって特に難しいのが、航行中の空母に着艦することでした。

「非常に波が高くて、船が…こういう、上下動をね、繰り返しながら、走る場合があるんですね。そうするとねぇ…そうねー、やっぱり…。半年や1年の訓練では、それは、できないですね。着艦は。」

機銃員だった、田口良一さん。搭乗員たちの、高度な技術を目の当たりにしました。

機銃員 田口良一さん(89)「あのころのおった、山下さんて人がいたんだけどね、飛行甲板かんばん後ろから降りずに横から降りてくんの。考えられないでしょ。普通ね…50メーターくらい後ろから降りてきて、ほぃでお尻つけてフック引っ掛けて、だーっと降りんでしょ。それを極端にね、横から来てね、横から来てこうぐーっと降りる。普通の場合だったら何千メーターから、飛行機の真後ろ…船の真後ろから来て、こう降りてフック掛けてくるでしょ。山下さんて人は、何百メーター横からこう、ぐっと来て、フック掛けて降りるというそういう…素ぅ晴らしい技術を持ってた。」

昭和17年1月 ラバウル攻略

昭和17年1月。瑞鶴を含む機動部隊は、ラバウルを攻略。ほとんど無傷で、南太平洋の拠点を手に入れます。連戦連勝を続ける連合艦隊に、兵士たちの士気は上がりました。

海軍兵学校第3学年(開戦当時) 金丸光さん(86)「練兵場に全員集められましてね。あすこへまぁ…2、3千人だから…あ…2千人いないぐらいだから、全部集まりますわね。あすこで、いよいよ始まったなって感じだったですね。そのうち戦果が発表になってから、おいおい、もう沈める船がなくなるぞっちゅうて、はははは。初め景気が良かったですからね。俺らが卒業したころには相手がいなくなっちゃうんじゃねぇかっつてたんだけど。」

このころ、大本営がたてた戦争の見通しです。米英軍は、戦力向上後、大規模な攻勢をかけてくる。しかしその時期は、昭和18年以降。つまり、アメリカ軍の反撃は、1年近く先である。

昭和17年6月 ミッドウェー海戦

しかし、昭和17年6月、ミッドウェー海戦で、日本は大敗北を喫します。攻撃を受ける、日本空母の写真。アメリカ軍の戦力を過小評価し、十分な偵察を行わなかったことなどから、損害が広がりました。この戦いで、空母4隻と、多くの熟練搭乗員を失いました。残された正規空母はこの開戦に参加しなかった瑞鶴を含め、わずか2隻でした。

いっぽうアメリカは、真珠湾での敗北以降、空母の大増産に乗り出します。1年で50隻以上を建造するという大規模な計画でした。さらに、航空機の生産数は、日本のおよそ5倍に達していました。

 

昭和17年8月 ガダルカナル島進攻

優勢に転じたアメリカ軍は、本格的な反攻を開始します。ガダルカナル島へ進攻。そして、ラバウルに向けて攻勢をかけていきます。

日本軍が、アメリカとオーストラリアの連携を遮断するための重要拠点としていたラバウル。当時、海軍の航空隊をはじめ、9万の日本軍将兵が守っていました。昭和18年10月。アメリカ軍航空部隊は、ラバウル基地への大規模な攻撃を開始します。

ラバウル基地防空隊員 相川充さん(93)「もう、ちょっと見ると真っ黒…小さな点々がみたいに、こう…真っ黒になった…なのが来て、それがずーっと近づくにしたがって、飛行機になってきて、もういーっぱい、もうラバウル湾の状況は、飛行機でいっぱいになったの。直撃弾が来たら、そりゃ掩体壕があるから、掩体壕から出とったとこだけが切れて飛んどる。頭なんかですね…脳みそがもう…脳みそというと初めて見たですが、白いですもんね。白いのが、ぱーっと、いっぱい。そて頭がこう、皮が剥げて、毛の分だけが、あっちこっち…。」

大原亮治さん。ラバウルの基地航空部隊に所属していました。(写真右)

ラバウル基地戦闘機搭乗員 大原亮治りょうじさん(89)「攻撃されっぱなしですな。うん。とにかく、大量で攻撃に来るんですよ。我々は大体、あのー…基地部隊だけでも、70…うーん、24機、3個大隊、ていうか72機ですね。だから70機ぐらいが最大だったですね。これだとね、100機なんてのはもう、ざらに来るんですね。そうれはもう…私の同期生だってほとんどやられましたからね。うん…」

戦後、大原さんがまとめた、部隊の戦死者記録です。圧倒的な兵力の差を前に、迎撃に出た搭乗員たちが、次々と戦死していきました。

このころ海軍は、不足した搭乗員を補うため、飛行予科練修生の大量採用に踏み切ります。1年間で3万人近く採用するという、前例のないものでした。さらに、5,000人を超える大学生を、士官の候補として養成し始めます。しかし訓練期間は、それまでに比べ大幅に短縮されていました。

榊原是久ぜきゅうさん。当時入隊した一人です。(写真右)

――実戦部隊に配属される前、飛行時間はどれくらいだったのでしょうか。

飛行科予備学生(当時) 榊原是久ぜきゅうさん(87)「うん。それがね、40時間かそこらだと…うん40時間…だな。うん。そのくらいの練習機で、実戦部隊へ行くんだな。それは考えてみたら、ちぃとそれは…アメリカの飛行機乗りは、200時間、300時間乗って、実戦部隊行くんだってことあとで聞いたけど、そのころは、そういうもんだと思ってますし、早いもん短いもん感じたことはなかったですね。うん…。」

10月の終わり、ラバウル基地の航空兵力は、4分の1にまで激減していました。追い込まれた海軍は、捨て身ともいうべき作戦を打ち出します。このころ、瑞鶴をはじめ、空母航空機部隊は、来たるべき決戦に備え訓練を重ねていました。その貴重な兵力を、ラバウル基地に投入しようとしたのです。空母から、陸上基地への、兵力の転用。兵士のなかには、作戦に疑問を持つ者もいました。

整備兵 玉村吉次さん(89)「艦隊の飛行機を陸に降ろしてええのやろか。もしも向こうが艦隊で攻めてきたときどうするんだと。何度かそういう…風潮はありました。もしも、仮に飛行機降ろして、ラバウル行ってるときに、向こうの艦隊が、仮に空母連れて来たときにどうするんか。もう我々、兵隊ながら、心配してましたわ。」

海軍の中枢(写真右:海軍省)でも、この作戦の問題点を指摘する声がありました。

海軍軍令部第一部長 中沢佑  
GF(連合艦隊)ノ決戦兵力ノ主力
GF(連合艦隊)ハ半身不随

眞田穣一郎少将日記より

空母航空機部隊は、連合艦隊の決戦兵力の主力である。これを失えば、連合艦隊は半身不随となる。しかし、海軍上層部は、ラバウルをこのまま放置すれば、戦線は総崩れとなるとして、空母航空機部隊の投入を決断します。

11月1日。瑞鶴飛行隊も、ラバウルへと向かいました。

機銃員 田口良一さん(89)「ところが、全部飛んじゃって、格納庫に2、3機おるの、飛べない飛行機でね。故障して修理できないとか。そんな状態で全部空っぽになっちゃうんですよ。空母飛行機なかったらまったく意味ないもんね。」

「大本営発表。敵輸送船団、ならびに、護衛艦隊を猛攻…。ただいまのところ、判明せる戦果…戦艦3隻、撃沈。巡洋艦2隻、轟沈。駆逐艦3隻、撃沈。輸送船4隻、撃沈。戦艦1隻、戦場大破。」

ラバウルに拠点を移した空母防空機部隊は、アメリカ軍と交戦を繰り返します。その戦果発表です。真珠湾以来の大戦果。しかしこの発表は、事実とはかけ離れたものでした。アメリカ軍に損傷を与えたものの、船は一隻も沈んでいませんでした。

11月11日、ラバウル基地は、大空襲を受けます。日本軍はもはや、地上からの攻撃を放棄していました。

ラバウル基地防空隊員 相川充さん(93)「空襲があると、全部、防空壕のなか入ってしまって、無理な戦争はするなって。言われおったからですね。私たちも、応戦はしおったですが最初ごろはですね。しまいにはもう…無理して弾出すなって。もうそこ、弾出したところは、もう徹底的に、爆撃されおったですもんね。それが、弾の全然出らんようになるまで、爆撃するんですよ。それだから人的被害、それから弾とか機材とかの消耗ですね。それと、防ぐために。」

VT信管

同じ11日。出撃した飛行隊は、それまでにない大損害を被ります。アメリカ軍空母の攻撃力が、格段に強化されていたのです。

〔大東亜戦訓〕      
防禦ぼうぎょ砲火ノ熾烈化…

敵防御砲火の熾烈。このとき使われたのが、VT信管(写真右)と呼ばれる新兵器でした。VT信管は、目標物に近づいただけで、砲弾を起爆させる、優れた性能を持っていました。

Zones of Sensitivity

これは、アメリカ軍の撮影した、実用化テストの様子(写真左右)です。飛行機の間近で炸裂する砲弾は、機体に、無数の穴をあけています。日本軍は戦後まで、この兵器の存在を知りませんでした。

「飛行機隊 戦闘行動調書」
行方不明
山崎春正
行方不明
中路 実
行方不明
柴田邦夫
行方不明
入家吉髙
行方不明
小村喜一郎
行方不明
矢野信夫

VT信管が使われたこの日、11月11日の、空母飛行隊の行動調書です。わずか1日の戦闘で、78人が帰還しませんでした。この作戦のさなか、海軍上層部では、次のようなやり取りが交わされていました。

軍令部次長 伊藤整一
器材ハ全部潰ス
三ヵ月テ再建可能
一度注入シタ以上
2/3失ッテモ仕方ナシ

眞田穣一郎少将日記より

『器材は全部潰す。人は、2分の1残らば、3か月で再建可能と考えあり。一度注入した以上、もっとしっかりやってくれ。3分の2失っても、仕方なし。』この作戦で、空母航空戦力の多くを失ったとしても、来たるべき決戦は行う。

連合艦隊司令長官 古賀峯一
発艦サヘ出来タラ
着艦出来ナクトモ使フ

眞田穣一郎少将日記より

『その場合、空母から発艦さえできたら、着艦できなくとも使う考えなり。訓練不足の未熟な搭乗員も、決戦に投入する。』そう考えていたのです。

次々と搭乗員の命が失われていくラバウル。整備兵たちは、その亡骸なきがらを拾い集めました。

整備兵 玉村吉次さん(89)「なにしたら、本人の搭乗員がやられて、そこへ皆、集めてきたいうこと。我々整備のほうで、お通夜の真似事して、なにしてるうちに、あのー、ばんばーんと、拳銃の音するんですわ。何やろうな、あの拳銃の音つって。そしたらある、一緒におったもんが、あれ搭乗員がやけくそで拳銃撃っとんねやって、そない言うんです。それぁもう、今日の命、明日わかりませんのでね。こんなこと言うてええか悪いか知らんけど、定かじゃないけど、私はそういうに…あれ何やっとねや言うたら、あれやけくそで拳銃撃っとんねや…言うてましたからそら、気持ちはわかりますわ。ええ…。」

最も多くの犠牲を出した、11月11日。東京では、天皇から、この作戦を讃える勅語が下されました。『連合艦隊航空部隊は、今次こんじ、ソロモン海域において、勇戦奮闘、敵艦を撃破せり。』その翌日、作戦は終結します。

朝日新聞 昭和18年11月11日

〔大本営発表〕(昭和十八年十一月十一日十一時三十分)
大元帥陛下には本日海軍幕僚長を召させられ聯合艦隊司令長官にたいし左の勅語を賜りたり

勅語
聯合艦隊航空部隊ハ今次コンジ「ソロモン」海域ニオイテ勇戰大ニ敵艦隊ヲ撃破セリ
朕深ク之ヲヨミ
オモフニ同方面ノ戰局はマスマス多端ヲ加フ 汝等イヨイヨ奮励努力モッテ朕信倚シンイハムコトヲ期セヨ

真珠湾で華々しい戦果を上げて以来、4つの海戦を生き延び、幸運な空母と呼ばれた瑞鶴。ラバウルで多くの航空戦力を失ったのち、瑞鶴は、ある任務に就きます。

分隊長(見張) 高井太郎さん(89)「2月にシンガポールに行ってね。シンガポールに何しに行ったかというとね。あのー…ゴムの塊をいっぱいね、あのー…積んでね、持ち帰ってきたんですよ。このときに私が思ったことはね。正規空母がねぇ…こんな、輸送船の代わりのようなことを…やらざるを得ない日本か、と思ってね。これだけ物資がないのか、といってね。ちょっと、もう…非常に、その、ショックを受けて。記憶があるんです。」

昭和19年6月 マリアナ沖海戦

昭和19年6月。マリアナ沖海戦。この決戦でも、日本は敗北します。航空機のほとんどを失い、完成したばかりの空母も、沈められました。開戦に参加し、生き残った空母は、瑞鶴ただ一艦でした。

炎上中の艦船が一瞬で大爆発する。撮影機は機銃攻撃をしている。

マリアナ沖海戦後、瑞鶴に、新たに補充兵員が送り込まれます。そのほとんどは、30歳を過ぎていました。

発着艦員 松田正二さん(85)「かわいそうや。歳いってな。ほんでもぅ、若いもんに、偉そうに言われて、こき使われて、気の毒やったほんとに。若いもんだって殴るわ。殴るの…平気で殴るからな。歳関係あらへん。社会におってどんだけ名誉の高い人でも、軍隊行ったら、階級や。そんな関係ない、ばんばんばーん(往復びんた)いきよる。」

分隊長(機銃) 金丸光さん(86)「みんな、身体見てもあんまり大きいのはいないし、貧弱な…もう当時の補充員なんてそんなもんですからね。貧弱な男が…若い兵隊さんに、脅かされ……これかわいそうに…これ…うちにいるときはまぁこれ親方(一家のあるじ)で、ねぇ。家計を支えてるのに。こんな人までとってきちゃって。日本もいよいよおしまいだなぁってねぇ、つくづくそう思ったですね、もう。うぅーん…。」

このころ、瑞鶴では、新たな搭乗員たちが訓練を行っていました。多くが、短い養成期間しか許されなかった若者たちでした。

整備兵 田中義信さん(86)「みんなね。新しい人ばっかりやから。なんしか、航空母艦に着陸するのが難しいからね、やっぱり。せやから、よう…あの…落ちる人もおるわ。船から。あんまり勢いよう、ぶょーっと来て。そんな時分じぶんはもう…なに。ハワイ(真珠湾攻撃)行った人はおれへんもの。うん。」

機銃員 田口良一さん(89)「いわゆるフック掛けそこなってね。前倒しになってね。フック掛からなかったもんだから、前倒れちゃって船がね…飛行機がね、ばーんと(前のめりに)降りちゃって。ほで、エンジンが、飛行甲板をばばばばっとこう、プロペラが回っとると。いうことを私目の前で見たからね。おわぁ危ない危ないって、見たからね。そういう事故があったです、ええ。味方の船で、そんな飛行機がね。飛んだっていいのかって感じだわね。フック掛けられんようなパイロットどうすんじゃってことだねぇ。うん…。」

発艦さえできたら、着艦できない搭乗員でも使う。その言葉が、現実のものとなろうとしていました。

 

昭和19年10月 レイテ沖海戦

昭和19年10月20日。アメリカ軍は、フィリピン、レイテ島に上陸。この日瑞鶴は、大分から出撃します。レイテ沖海戦。これが、瑞鶴最後の戦いとなりました。

このとき、瑞鶴にはある任務が課せられていました。敵を北方に牽制せよ。(写真右)

分隊長(見張) 高井太郎さん(89)「敵の航空艦隊を、北のほうにおびき寄せるために、こっちはおとりになるんだと。囮作戦だとこういうふうに、聞いてましたよ。だから、その意味では、覚悟していかなきゃならないんだと。」

作戦では、大和、武蔵を中心とした戦艦の部隊がレイテ湾に突入、アメリカ軍を叩きます。瑞鶴の使命は、アメリカ軍の空母部隊を引き付け、身を挺して作戦を成功させることにありました。

砲手 川内勝さん(84)「せやからもうあの…敵の飛行機の爆弾全部受けないといかんから、帰っては来れんいうことを、最初から、艦長が言うとったしね。あぁそうかー、いうようなもんですわ。もうあのー…来るときにもあの、帰るなんていうこと考えては、帰ってき…入ってきてないからね。そやから…もう今度はしまいかな、いう感じでね。」

10月24日、レイテ沖に向かう、瑞鶴の姿がとらえられています。敵を引き付けようと、攻撃機が飛び立っていきます。

出撃前の、水杯みずさかずき。着艦する技術を十分持っていない搭乗員が、多くいたといいます。攻撃隊は、敵と接触後、空母には戻らず、陸上基地に向かうよう、命じられていました。

偵察機搭乗員 榊原是久さん(87)「レイテ湾攻撃して、でもし、命があれば、それは、あの――マニラの近くにニコラスという飛行場があった。そのニコラスの飛行場へ、行きなさい。ところがニコラスといっても、レイテからみたら、百キロ、あるんですよね。この、水杯みずさかずきもだし、田宮も、出撃しまして未帰還ですわ。24日の総攻撃に入って。うん…未帰還。とにかくマニラから、帰ってこなかったです。(写真を指差して)これも。だからこれも、亡くなる、数時間前の写真だねこれ(写真右)は。うん…。」

攻撃機を飛ばして、敵を引き付けようとする瑞鶴。しかし、アメリカの空母部隊は、動きません。

分隊長(見張) 高井太郎さん(89)「これ…非常に難しいんですよ、囮っていうのはね。あのー…敵を攻撃して、敵をやっつけるだけじゃないんですよ。囮にならないとね、作戦成功ってわけじゃないわけですからね。非常に難しいわけですよね。だから、こちらもね、敵が現れたとなると、ことさら電波を出してね、こちらにおるような、ことを…情報を流したりして。」

翌25日早朝。ついに、アメリカ軍の編隊が瑞鶴の前に現れました。その数、130機。囮作戦の成功でした。

「瑞鶴戦闘詳報」
第一次戰鬪
〇七四一 
〇七四九対空戰斗
〇八〇〇上空直衛機即時待機
〇八〇三
〇八〇七
〇八〇八
(不明な記号)發艦
敵機大編隊(百三十機程度)左一…
六〇〇〇米に發見
〇八一一戰斗旗ヲ掲グ
〇八一七グラマン艦爆十一機二二〇度ヨリ二隊ニ分…
〇八二一砲撃始ム
〇八二八速力二十四節
〇八二九敵機相次イテ急降下ナラビニ雷撃…
右正横雷跡
〇八三五左艦尾雷跡
左舷中部爆彈命中

機銃員 田口良一さん(89)「真っ黒な敵がね…真っ黒で来るのがわかるね。編隊が、編隊が近いもんだから。でうちのふね狙ってくるもんだからみんな…30メートルの飛行甲板に爆弾落とすんだから、それより離れとったら、爆弾当たらんもんね。だからこう重なって、最初の90キロ爆弾、凄かったですよ。凄かった。」

戦闘開始から10分あまりで、最初の魚雷が命中。田原徳雄さんは、水中聴音機を使って、敵の魚雷を探知していました。

聴音長 田原徳雄さん(90)「もうこらもう、生涯忘れません、この音は。もう敵が来てるとか、迫るとか、恐怖音とか、そういうんじゃないですわ。とにかく、なんとかどっちかへ避けてくれんかっていうことで、ずーっずーずーずーっとこう、やってますから。それがずんずんぐんぐんぐん大きくなってくるんですよ。それでわーっていうときにもう…まぁもちろん当たってますからね。」

激しい攻撃を受けながらも、瑞鶴は、レイテ湾突入の機会をうかがう戦艦部隊に、アメリカ軍を引き付けていることを打電し続けます。反撃する航空兵力がほとんどないなか、瑞鶴の被害は、瞬く間に広がっていきました。

機密二五〇七三二番電
敵艦上機ノ觸接ショクセツヲ受ケツツアリ 地点…
我之ト交戦…

部下たちの最後の姿を、田口良一さんは、記憶しています。

機銃員 田口良一さん(89)「動脈がね――。」「お腹の内臓が出ちゃって。内臓入れて、もう、針も何もないからね。タオルで、大きいタオルでぐっと締めて、縛って。ほでみんな『お母さーん、お母さーん』ばっかだわ。全部が。お父さんてのはなかった。一人も痛いって言わなかった。みんな『お母さん』。」

傾いた瑞鶴。
右端には、万歳しながら海に飛び込む兵士の姿が見える。

大きく傾いた瑞鶴。沈没の直前、最後の写真です。甲板を埋め尽くした兵士たちは、万歳を叫び続けました。10月25日、午後2時14分。幸運な空母、瑞鶴沈没。

瑞鶴が多くの犠牲と引き換えに、囮の任務を果たしたにもかかわらず、なぜか戦艦部隊はレイテ湾に突入しませんでした。作戦は失敗に終わり、このレイテ沖海戦で、連合艦隊は事実上壊滅します。瑞鶴が沈んだその日、神風特別攻撃隊が、初めてアメリカ軍の空母に突入していきました。日本海軍が誇った航空部隊の、一つの結末でした。

平成21年10月25日 奈良 橿原かしはら神社

瑞鶴の元乗組員は、今も毎年、戦死した仲間を弔い続けています。

<弔辞を読む人「船で傷つき、瑞鶴と御身を共にされました、戦友の皆さん…」>

レイテでの瑞鶴最後の戦いで、乗組員と搭乗員、800人以上が命を落としました。

松田正二さん(85)「いやパイロット言うたってみな、若いね…今の高校生みたいなもんや。みなかわいい…もう、高校3年ぐらいの子ぉがやね、自分で戦闘機操縦して上がったり降りたりすんのやから。うん。練習が足らんのにね、出てきて、ほんまに、死にに来よるようなもんや、うん。練習足らんから。」

金丸光さん(86)「我々は、死んだ仲間が大勢いるからね。そりゃ今んなりゃ、誰も顧みてくれないやね。今の若い連中は戦争はまるで…なかったようなね。アメリカと戦争したの?なんて言うぐらいのやつが多いんだから。何のために戦争したかっつぅのはね、むしろ、こっちが聞きたくなるくらいだね。俺ら、何のためにやったんだろうつてね。うん…。」

古居義信さん(83)「こんな大きな船がねぇ。よんはいも。それから、ねぇ。あんな大きな艦隊が…じきに2万人以上、乗ってる艦隊ですよ。それを犠牲にしてまでも、ねぇ…。やる、作戦だったかなぁと思いますがねぇ。ええ…。」

――瑞鶴が沈む姿ってのはご覧になった?

「はい、見ました。50メートルぐらい離れて、船から離れて、30分ぐらいしてから、でしたかね。んー…。…もう、あれだけは、まぶたに残りますね。ええ…。ほんとに最後に、きらっと菊の御紋が見えましたでね。ええ…。一番先端にね、菊の御紋があるでしょう。あれがきらっと、見えましたでね…。」

<終>

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