零戦 2.驚異の構造
零戦の呼び方
伝説の生みの親、三菱重工名古屋航空機製作所、機体設計課、堀越二郎。彼は零戦の開発にあたり、一切の妥協をせず、考えられる全てを注ぎ込んだ。機体の骨組みは、強度計算と風洞実験により、贅肉を可能な限り削ぎ落とした。その血のにじむような努力の結果、世界に誇る最強の戦闘機、零戦が生まれた。
三菱重工名古屋資料室長 岡野允氏「〔『零戦』の呼び方について〕技術部の人々に、戦時中は零戦つっとったんじゃないか言いましたら、『いや、わしらは戦時中から零戦ってゆっとったぞ』て。どうしてだ言うたら、海軍はやっぱり、あの――陸軍は日本語専門ですけど海軍は割と英語使ってたんですね。だから海軍の兵隊が、ゼロ、ゼロと聞いてきて、そいつを、技術部あたりでお話しするときに、このことをゼロ、ゼロと言うようになっちゃって。だからわしらは戦時中から零戦とゆっとったがなぁ、と言っておりましたね。略式的には零戦と。フルネームでは零式艦上戦闘機と。」
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「あのー、ゼロって言ってました。はい。それは…零戦って言ってる人もありましたですね。はい。まぁ…今度ハワイへ行ってみるとね、日本の飛行機っていうと、もう、ゼロというふうにみんな言ってるみたいですね。」
名称とモデルの遷移
零戦の試作機、十二試艦上戦闘機が、零式艦上戦闘機A6Mとして海軍に制式採用されたのは昭和15年7月24日であった。そのときの名称は、零式一号艦上戦闘機一型である。(写真左:零式一号艦上戦闘機一型 A6M2)のちに、零式艦上戦闘機一一型と改められる。(写真右:零式艦上戦闘機一一型 A6M2)零戦一一型は、十二試艦上戦闘機の3号機からの名称で、三菱で64機生産され、主に中国戦線の海軍基地航空隊において、目覚ましい活躍をした。十二試艦上戦闘機A6M1との相違点は、エンジンを三菱製「瑞星一三型」から、中島製「栄一二型」へ換装したことである。それにより性能が向上し、計画要求書にある270ノット以上、時速で500キロ以上という要求を満たし、288ノット、時速533キロを記録した。
通算67号機から、空母のエレベータに合わせるため、両翼の端50センチを折り畳み式にし、着艦フックを装着した零戦二一型に変更された。略号は、A6M2のまま、寸法やエンジンは、零戦一一型と同じである。型式の最初の数字は機体の変更を意味し、2番目の数字はエンジンの変更を意味している。
零戦 三二型
零戦 五二型
零戦のスペックと超超ジュラルミン
零戦の取扱説明書によると、二一型と五二型のサイズと重量は、次のようになっている。
翼幅 11m
全長 9.121m
全高 3.570m
自重 1,876kg
翼幅 12m
全長 9.05m
全高 3.525m
自重 1,754kg
零戦は、大きな機体にもかかわらず、自重は2トンを切っている。
その大きな要因は、世界で初めて主翼の主桁に使用した、超超ジュラルミンの開発にある。
鋼 1.6%
マグネシウム 2.5%
クローム 2.3%
亜鉛 5.6%
超超ジュラルミンは、住友金属工業が世界に先駆けて発明した画期的なアルミニウム合金である。零戦は、日本の工業技術を世界に知らしめた、パイオニアでもあった。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔超超ジュラルミンについて〕今まで1ミリの四角な棒が、引っ張ったときに、40キロぐらいぶら下げられてたのが、亜鉛を入れることで55キロぐらい引っ張っても大丈夫。1ミリですよ、1ミリ四角でね。そういう強い合金で、エキストラ・スーパー・ジュラルミンていって、ESDっていったんですけど。力をじーっと加えてるとね。応力腐食割れっていうの起こしちゃうんですよ。なんでもないのにすーっとひびが入っちゃう。無垢でできてたのが、バウムクーヘンみたい(写真左)になっちゃうんですね。ばばばばっとこう…。プレスで曲げ加工したりすると、だめなの。折ったりすると、折ったところからひびが入ってくる。だから当時としては使えるのは、主翼の桁で押し出し型材つって棒みたいなので、そーっと造ったもの(写真右:主桁NC加工 復元中の零戦五二甲型(三菱重工))を、削って使えば使えるけども、それを板にしたり、それでそれを曲げたり折ったりしたらば、しばらくすると、そん時はよくてもそれはちょっと割れちゃうということで。その桁にしか使えなかったんですね。」
設計者堀越は、強度ぎりぎりまで、骨組み材にも多数穴を開け、外板も、0.1ミリ単位で薄くした。馬力の低いエンジンの性能を引き出すため、徹底した重量軽減策を施したのである。
堀越二郎の思い出
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔堀越技師の思い出〕(註:口語をそのまま書き起こしてある。)YS-11のときもその…堀越さんに…コンマ5ミリは厚いよっつの盛んにゆったんです――重くなっちゃってね、最初の計画より。零戦の羽根しごくとね、YS-11の尾翼と同じ大きさなんですよ。だから、零戦並みにできるはずだっていうの。コンマ5ミリ張りますとね、後ろが、2割重くなっちゃうわけですよ。コンマ4ミリからコンマ5ミリとではですね。フラットをためるためにね、バランスつけなくちゃいけないんですよ。だから…そうするとね、だからそれで重くなるんだ、だから、後ろ軽くしなきゃだめだよ、コンマ4で張れないのか、って。」
主翼
(写真左:復元中の零戦五二甲型の主翼(三菱重工))零戦の主翼は、一一型、二一型、二二型で、12メートルの横幅があり、太平洋戦争開戦当時、欧米諸国の戦闘機と比べて、最も長かった。そして、超超ジュラルミンを使用した、前後の主桁に、26個のリブが組まれている。零戦三二型と五二型は、横幅が11メートルになり、リブは2個減って、24個となった。
主翼 12m
リブ 26個
主翼 11m
リブ 24個
翼の捻り下げは、補助翼内側までにプラス2度、補助翼外側まで、マイナス0.5度、途中は、サイン曲線上に捻り下げられている。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔翼の捻り下げについて〕捻り下げっていうのは、空気力学的に必要なんですね。実際に効果を出すためには、ある程度(註:主翼の胴体側から外側へ)いったところから、急激にいったん捻って、もうちょっといったところでそこから先はね、捻りを増さなくてもいいんですよ。堀越さんの場合には、それを、サインカーブでもって、だらだらだらだらっと。直線の部分がないんですね。最後まで。しばらくはなだらかに来て、コンマ5ぐらいになったとこから、波と同じで急に高くなってきて、上に来たらだらだらだらだらっとこう、平らになってく。そういう意味では理想的で、いちいち角度を決めんのは治具作ったやつがめんどくさい、っていうことなんですね。」
零戦五二型は、旋回性能を重視した零戦二一型に比べると翼面積が減り、速度は増したが運動性能が低下した。
翼面積 22.438㎡
翼面荷重 107.9kg/㎡
翼面積 21.338㎡
翼面荷重 128.6kg/㎡
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「〔どの型の零戦がよかったか〕あんまり翼切っちゃうとだめなんですね。馬力を主に、重きを置くからね。どうしても、浮かぶなにが、少なくなるからね(零戦五二型は翼が短くなったため揚力が減った)。やっぱし――揚力と馬力と…ね。安定しなくちゃだめだもんね。その点二一型はね、よかったと思うね。ええ…。」
翼の厚みは、20ミリ機銃と引き込み脚の大きさで決められた。
アメリカ、カリフォルニア州のプレーンズ・オブ・フェイムにある、世界で唯一の飛行可能な零戦五二型。全体的に無駄がなく、単なる戦闘機の枠を超え、芸術作品ととらえても遜色ないスマートで洗練された機体。これは、徹底した風洞実験により、作り上げられていた。外板のジュラルミンを接合する1万個以上もあるリベットは、九六式艦上戦闘機に続き、すべて沈頭鋲が使われ、凹凸の少ない、滑らかな仕上がりになっている。しかしアメリカの戦闘機に比べ、生産効率が悪かったことも事実であった。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「当時の零戦の写真なんか見るとね、外板なんかべこべこですよ。けっこう波打っててね。それで、三菱に零戦復元して飾ってありますけどね、それを直してる時に、招かれて行ったときに向うの現場の方がね、やっぱりべこべこに張るべきかね、今の技術だと、リベットの付き替えなんかも全部進歩してるから、結構きれいに張れる。きれいに張るべきかね、悩んでんですよ、っていうようなこと、言ってましたね。あれが、厚い板を使ってるわけじゃなくて、昔通りの厚さの板を使ってんですけどね、きれいにできてますけど。
レバーと手掛け・足掛けの配慮
この流麗なフォルムは、空気抵抗を抑えるために生まれている。でっぱりのある風貌の開閉レバー(写真左)や補助翼の操作ロッドの開閉レバー(写真右)は流線型に形作られ、徹底した空気抵抗の対策が施されている。
また零戦は、左側から乗り込むように、機体から足掛けと手掛けが飛び出すようになっている。翼の後縁はフラップがあり薄くなっているため、そこを踏まないように、足掛けは3か所、手掛けは2か所設置されている。
引き込み式主脚
主脚は、日本の戦闘機では初めての引き込み式であった。緩衝装置は空気と油圧式で構成されているオレオ式である。タイヤは溝の無いソリッドで、サイズは600ミリ。幅は175ミリである。引き込みは油圧式である。当初、旋回などをすると脚が飛び出すこともあり、その改良は、実戦配備されたあとも続いた。
尾輪は、空母に着艦した衝撃でタイヤがパンクしないようにゴムでできており、引き込みは主脚と同じ油圧系統で行われる。左右の脚は油圧によって同時に収納されることになっているのだが、この(註:プレーンズ・オブ・フェイムの)機体では、収納にタイムラグが生じた。では戦時下の零戦ではどうだったのだろうか。
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「同時…じゃないね。こういって、こういってこうだね。(註:小川政次氏は、両腕のしぐさでその表現をしている。プレーンズ・オブ・フェイムの機体と同じく、左が先で右があと。眼鏡をたたむ様子に似ている)うん。いっぺんにぷっといかないねぇ。」
元二〇一海軍航空隊整備下士官 中野勇氏「それやって……入れるでしょ、それがね、結局、きれいに入らんやつがたくさんあるです。(註:本来は)同時に入るんだけど、結局、油圧の加減でね、結局、これも全部油圧でやるもんだで、パイプがついとるんですよ。パイプがね、締め方が悪りぃとか、何かなるぁね。漏れて、入らんときもある。それと、あの蓋のこのとこの、カバーになるところぁね、ずれとるとか。そういうときは、(主脚が同時に入らなく)なる。」
これもまた、零戦の持つ魅力。それぞれに個性があった。
陸海軍戦闘機性能コンテスト
昭和16年1月、恒例の、陸海軍戦闘機性能コンテストが行われた。日本の航空機技術は、九六式艦上戦闘機以来、世界水準に達しており、陸軍戦闘機もこれに追随していた。実質的に、世界一の戦闘機を決める競技といっても過言ではなかった。コンテストは、海軍から、零戦一一型、陸軍からは、中島飛行機製作の、キ43 一式戦闘機 隼と、キ44 二式戦闘機 鍾馗などが参加した。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「隼はほとんど零戦と同じ勝負ですけど、ほんとの爆撃機来たら間に合わないんじゃないか、もっと羽根ちっちゃくしろって言ったのは、この鍾馗なんですね。とにかく同じ要求で、とにかくでかいエンジンくっつけて、でともかく馬力解除を小さくして、ともかくスピード速くすると。それで、加速もいいしスピードも速いと。機関砲も付けろということで、羽根の大きさがこれだけの差(写真右)になっちゃうんですね。馬力解除もやって機関銃も付けて、馬力解除も低く抑えたければ、どうするかって燃料が少ないんですよ。で、羽根が小さいから、燃料タンク入れようと思っても入れる場所っていうのはない。だから、鍾馗というのは、遠くには行けないんですよ。防空にしか使えない。」
陸軍名称 ハ-25
隼は、零戦と同じ栄エンジンを搭載しているが、機体が軽く、翼面荷重、馬力荷重ともに零戦の数値を凌いでいた。また鍾馗は、一回り大きな1,260馬力のエンジンを搭載しており、最高速度は零戦を上回っていた。
隼 | 鍾馗 | 零戦 | |
---|---|---|---|
翼面荷重 | 90kg/㎡ | 170kg/㎡ | 107kg/㎡ |
馬力荷重 | 1.95kg/hp | 2.0kg/hp | 2.5kg/hp |
馬力 | 1000馬力 | 1260馬力 | 950馬力 |
自重 | 1580km | 1994km | 1695km |
最高速度 | 495km/h | 550km/h | 510km/h |
しかし実際に競技を始めてみると、零戦は、速度、上昇力、上昇旋回性能、格闘性能、ともに、隼と鍾馗よりも優れていた。翼面荷重、馬力荷重の数値だけでは説明のできない結果となった。それは、洗練された操縦系統によるものと判断された。またアメリカでも、捕獲した零戦をテストしたパイロットたちから、操縦性の良さを評価されている。零戦は、名実ともに日本を代表する戦闘機となり、世界一となった。
真珠湾攻撃と日本航空隊の損失
昭和14年8月に、連合艦隊司令長官に就任した、山本五十六中将(当時)は、日独伊三国同盟に否定的だったものの、軍部主導で、昭和15年9月に成立してしまった。その結果、日本はアメリカ、イギリスなどの連合国軍と対立する傾向を強め、ついに太平洋戦争に突入する。昭和16年11月22日、空母赤城を旗艦とする機動部隊は、千島列島択捉島、単冠湾に集結した。
この第一航空艦隊は、空母6隻を擁し、3つの航空戦隊を中心として編成されていた。
第一航空戦隊は、赤城、加賀。第二航空戦隊は、蒼龍、飛龍。そして、第五航空戦隊は、新鋭の瑞鶴と、翔鶴。6隻の艦載機には、零戦(零式艦上戦闘機二一型)が108機、九七式艦上攻撃機が142機、九九式艦上爆撃機が126機、合計376機という、かつてない航空機の集中運用だった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「防寒設備が完全に整えられておるもんですから、なんか北方作戦でも展開するのかなと、いうようなことを我々は囁き合っておったんですが、単冠湾に集結してみて驚きましたね。日本海軍がこんなにたくさん、艦艇がそろうもんかな、というふうな大艦隊がそろっておりましたし、そこで初めて、ハワイ攻撃ということを聞かされましたね。」
昭和16年11月26日、南雲忠一中将(写真左:第一航空艦隊司令長官 南雲忠一中将)率いる第一航空艦隊は、単冠湾を出港、東へ針路をとった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔ハワイ作戦の航路について〕商船と会わないようにということだったらしいんですが、いちばんその、航路――商船かなんかが、こう通行している航路を外してですね、隠密に接近してたようですね。」
12月2日、「新高山登レ一二〇八」の暗号が発令され、真珠湾攻撃は、12月8日に決定した。12月4日、機動部隊は南下、一路ハワイへ向かった。(写真右)日本時間12月8日未明、オワフ島の北、200海里、約370キロの海上から、第一次攻撃隊、183機が真珠湾に向けて発艦、うち、板谷茂少佐(写真左:制空隊隊長 板谷茂少佐(当時))指揮の制空隊は、零戦が43機であった。また、艦隊の上空直衛にも、それぞれの空母から、零戦が飛び立っていた。
真珠湾奇襲作戦は完全に成功し、第一次攻撃隊指揮官 淵田美津夫中佐(当時、写真右)は、真珠湾上空より、あの有名な「トラ トラ トラ」を打電した。続いて第二派の167機も出撃。零戦の初空戦で華々しい戦果を記録した進藤三郎大尉指揮の制空隊は、零戦が35機であった。アメリカ太平洋艦隊の戦艦5隻を撃沈、ほか3隻の戦艦にも、多大な損害を与え、航空基地の戦闘機など約200機を地上撃破した。
第十二航空隊で活躍した、蒼龍分隊長、飯田房太大尉(写真左)の零戦が、燃料タンクに被弾し、カネオヘ飛行場の格納庫に突入、初の自爆となった。日本航空隊の損失は、零戦が9機、九七式艦上攻撃機が5機、九九式艦上爆撃機が15機、合計29機、55名の搭乗員を失った。零戦が一度に9機も失われたのは、昭和15年8月の初陣以来、初めてのことであった。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「我々はいつも、あの――攻撃ということが自分の希望でしたから、何が何でも、向うへ行って攻撃をしたかったんですけども、誰か、艦隊を守らなきゃいけないと。そういう役割が与えられたもんですからね。自分では、誠に不満だったんですけれども、命令である以上、それに従わざるを得ないんで。ほんとにまた、あとになって考えたらですね、ミッドウェー海戦なんかは、やはり、防御ということも、非常に大事だ。」
元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「大変ですよ、初めての体験だし。飛んでった飛行機はもう、全力を挙げて飛んでいきましたからね、攻撃隊は。それに対して残ってるの1割しかいないんですから。ですから、そういった比率でもって攻撃と守る方が、ぴっと分かれたら、果たしてどういう結果が出るかという、非常に不安がありましたけども。その不安を冷静に考える前に、昨日から…昨日の晩からもう、興奮のしっぱなしでしたからね。そういう、専門的な不安だとか、戦闘的な結果なんか…ことを、不安よりも、やっぱり初めての戦争であり、相手がアメリカであるということから、非常に大きなショックを受けておるから、ぶつかることが、全部、初めて初めてのことばっかりですから。だから、これは上層部といえども、その結果に対する自信を持った作戦が立てられなかったんじゃないかなと思いますが。ただ、零戦というものに乗っている、その過信もありますんで、よしやるぞ、っていうのがほとんどですから。私、あの…緒船の上空直衛隊全員に代わって、その、褒めてあげたいですよ。」
フィリピン・マレー方面の作戦
ハワイ作戦と同時に、フィリピンやマレー方面などの作戦も展開された。特に、七航空部隊(に所属する艦隊のひとつ)である、第十一航空艦隊所属、第二十三航空戦隊の第三航空隊と、台南航空隊、および陸攻隊の第一航空隊と、高雄航空隊は、フィリピン、ルソン島にあるアメリカ軍、クラークフィールド基地とイバ基地の攻撃を任された。
第十一航空艦隊 | |
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第二十一航空戦隊 | 第一航空隊 |
鹿屋航空隊 | |
東港航空隊 | |
第二十二航空戦隊 | |
第二十三航空戦隊 | 第三航空隊 |
台南航空隊 | |
高雄航空隊 |
台湾の高雄基地と、台南基地から、ルソン島マニラまで、片道500海里、往復1,852キロの行程である。しかもエンジン全開の空戦を、約30分繰り広げなければならない。空戦時は、エンジンを全開にするため、燃料の消費が通常の3倍から4倍以上になる。零戦がいかに航続距離があるとはいえ、このような長い行程は、世界のどの国の戦闘機も経験がなかった。
海軍上層部でさえ不安を抱き、小型空母の使用を考えたが、搭載機数の少なさが返って支障をきたすとの判断で、取りやめられた。
そのころ、台湾の海軍戦闘機隊搭乗員は、中国戦線で活躍した、第十二航空隊のベテランが多かった。零戦の開発に尽力した柴田武雄中佐や、零戦の初陣を飾った横山保大尉、また、のちに撃墜王として名を馳せる、坂井三郎一飛曹、その飛行隊長である新郷英城大尉などの、熟練搭乗員たちがいた。
(写真左:高雄基地 出撃前の第三航空隊)昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の一報は、台湾基地と、フィリピンのアメリカ軍基地に入った。台湾の天候は不良で、攻撃隊が出発したのは、開戦から、6時間以上が経ってからだった。しかしそれが逆に幸いした。アメリカ軍航空隊は上空で待ち構えていたが、日本軍がなかなか来なかったため、何度も地上に着陸しては燃料補給を繰り返していた。日本の攻撃隊が来たのは、ちょうどそのときだった。第一航空隊の一式陸上攻撃機54機とクラークフィールド基地へ飛んだのは、台南航空隊34機の零戦であった。イバ基地へは、高雄航空隊の九六式陸上攻撃機54機と、第三航空隊50機の零戦が向かった。両隊は、アメリカ軍のB-17など、軍用機約160機中、約60機を地上撃破。迎撃に出た10数機のP-40(写真右:カーチス P-40ウォーホーク)など、戦闘機を全て撃ち落とした。零戦の損失は、84機中、5機であった。ルソン島方面の作戦では、わずか4日で制空権を奪ってしまった。アメリカ極東軍は、フィリピンに配備した航空兵力の大半を失い、総司令官マッカーサー大将はオーストラリアまで退却することになった。
このとき、アメリカ軍は、日本の戦闘機が空母から発艦したと思い込み、必死に空母を探していた。その根拠は、ルソン島に一番近い日本軍の飛行基地が900キロ以上も離れた台湾であったからだ。彼らには、そんな長距離を飛べる戦闘機が存在するとは考えられなかった。また、日本の航空兵力を過小評価していたことにも、一因があった。零戦が実戦配備されて1年4か月も経っているにもかかわらず、アメリカ軍は、その存在すら知らなかったのだ。九六式艦上戦闘機で、日本の航空技術が世界水準を超えていたなどとは、知る由もなかった。戦争における航空兵力の絶大なる威力を世界に示したのは、意外にも、航空機後進国の日本であった。
しかし日本海軍は、旧態依然とした大鑑巨砲主義を変えることはなく、むしろ航空兵力の重要性を認識したのは、アメリカだった。そのことが、以後の勝敗に、大きく影響することとなる。
落下式燃料増設タンク
(写真左:落下式増設タンク)この、台湾から、フィリピンのアメリカ軍基地の攻撃を可能にしたのは、なんといっても、零戦の航続距離が長大であったからだ。これは、エンジンの燃費の良さ、可変ピッチ式プロペラ、それに燃料タンクの容量によるものである。世界一の航続距離を誇った零戦は、330リットルの落下式増設タンクにより、3,000キロ以上もの飛行が可能だった。増設タンクを装着した雄姿は、まさに、零戦そのものである。この燃料増設タンクは往路に使用し、戦闘に入る際には、燃料が残っていても切り離すことになっている。(写真左:落下タンク投下レバー 写真右:投下確認窓)
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔落下式増設タンクについて〕増漕先使いますけどね。状況によっては、まだ、相当残っとるはずですね。はい。」
機内の燃料タンクは、零戦二一型に対して、燃費が悪くなった零戦五二型では、容量が増やされている。戦争当時、戦況が悪化しても、零戦の燃料だけは質のいいものが優先的に使用された。
零戦二一型 | 零戦五二型 | |
---|---|---|
145ℓ | 胴体 | 60ℓ |
330ℓ | 落下式増設タンク | 320ℓ |
190ℓ×2 | 翼内 | 220ℓ×2 40ℓ×2 |
855ℓ | 合計 | 900ℓ |
零戦の取扱説明書では、増設タンクの使用が終わると、重心の関係で胴体タンクに切り替え、最後に翼内タンクを使用することになっている。しかし実際には、2番目に翼内タンクが使用されていた。なぜなら、空戦に入ると通常の4倍以上の燃料を消費するため、容量の少ない胴体タンクでは、途中で切れてしまう恐れがある。そのため、翼内タンクを先に使用した。
切換コック
タンク燃料計 翼内タンク燃料計
ポンプ
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔燃料タンクの使用順について〕私の場合はね、翼内タンクで戦闘してました。胴体は一番最後ですよね。」
燃費
燃料消費量は、当初、1時間(註:音声では「1時間」と言っているが、「8時間」の間違いではないかと思われる)当たり、通常飛行で100リットルと計算されていた。しかし太平洋戦争開戦間際、台湾に基地を置いた台南航空隊と第三航空隊による燃料消費節減飛行実験の結果、ほとんどの搭乗員が、10時間飛行を達成した。毎時、平均80リットルの消費であった。最高記録を出した台南航空隊の坂井三郎の飛行時間は12時間5分で、消費燃料は1時間に67リットルであった。
1時間当たりの燃料消費量 | 飛行時間 | |
---|---|---|
当初 | 100ℓ | 8時間 |
平均 | 80ℓ | 10時間 |
最高 | 67ℓ | 12時間 |
元第二〇一海軍航空隊整備下士官 中野勇氏「〔燃料タンク装着について〕口で言ってわからんけど、つっと吊り上げりゃ、すっと付いたね。私んどらぁなら。――そうそう、付けとらなけりゃ。飛行機に、付けちゃってからね(増設タンクを装着したのち、燃料を入れる)。増漕タンク付けてくとね、あのー、長く飛べるでしょ。だから結局、長距離飛ぶときはどうしても付けてかなきゃあかんです。で結局、付けといて、タンクのほうから先使って、タンクを使い切ったら落としちゃうの。」
可変ピッチプロペラ
(写真左:住友ハミルトン型恒速プロペラ)零戦の驚異的な航続距離を可能にしたのは、可変ピッチ式のプロペラによるところが大きい。零戦に装着されているのは、住友金属工業が、アメリカのハミルトン社のプロペラをライセンス生産していたもので、住友ハミルトン型恒速プロペラである。
零戦二一型では、プロペラの直径が2.9メートル、ピッチが25度から45度。零戦五二型では、プロペラの直径が3メーター5センチ、ピッチが29度から49度となっている。
プロペラ直径 2.9m
ピッチ 25度~45度
プロペラ直径 3.05m
ピッチ 29度~49度
(写真左:スロットルレバー)エンジンが高出力のときは、通常の低ピッチで使用するが、巡航飛行に入った場合、エンジンの回転数を抑え、プロペラのピッチを大きくする。つまり、エンジンの出力を上げなくても巡航速度が保たれるため、燃費が良くなるのである。零戦二一型では、高度4,000メートルで時速270キロ前後の場合、低ピッチではエンジンの回転数は2,200回転ぐらいになる。その状態で、プロペラピッチレバー(写真左下:プロペラピッチ変更レバー)を手前に引いてピッチを大きくすると、速度は変わらないが、エンジンの回転数が、約1,850回転ぐらいに下がる。そして、さらにスロットルを絞って、零戦の経済速度、240キロ前後にする。編隊飛行の場合、速度の微調整はスロットルレバーで行うが、エンジンの回転数は変わらず、過給機の圧力が増減し、恒速プロペラが自動的にピッチを変えて速度を調整するようになっている。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「どういうプロペラを付けるかと。そのプロペラがね、自動車の、ギアの役割をするのが、プロペラのひねり具合なんですね。ピッチを変えることができれば、要するにギアを変換するということなのね。ガバナーで、エンジンの回転数をセットするといつもエンジンと回転が同じになるように、姿勢が変わっても同じになるように、プロペラのピッチを自動的に変えたんですね。オートマチックに変わるようにしたのが、恒速プロペラね。戦後はみんな低速プロペラっつたんね。」
高ピッチで最高速度が出せるかというと、そうではない。高ピッチのとき、エンジンの出力を最高にすると、プロペラの抵抗が大きくなり、エンジンに負荷がかかってしまうため、最高速度は得られない。最高速度が得られるのは、低ピッチで、エンジンの出力を最高にしたときである。そのため、空戦に入るときは、プロペラは低ピッチに固定される。
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「零戦てのはね、可変ピッチってね、このレバーがあってね、29度から49度まで、ペラがこう、回んですよね。ほいで、あの、離陸んときはね、角度あるでしょ。角度が、空気抵抗が少ない薄く修正すんですよね。49度はこうなるわね。上へ行って水平飛行のときはね、30とか、40度なんだね。よくそれで失敗したんだね。うーん。だから一番最高の…回転がね。そしたら上がんないすよ。(最高ピッチで離陸しようとして失敗した)」
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「これはあのぅ…。攻撃に行くときとか、帰りとか、戦闘以外のときの、燃料消費をうんと節約するために、ピッチを変えて、A.C.(写真左下)を開くわけですね。それで、空戦に入れば、そんなことしてるとだめだから、戻して、A.C.も戻して、それで全速になる。」
下 A.C.(混合気調整装置)
恐れられた零戦
零戦の威力をまざまざと見せつけたのが、昭和17年2月3日の、ジャワ本島スラバヤの、連合国空軍基地の攻撃のときだった。ボルネオ島、バリックパパンに進出した台南航空隊と、セレベス島ケンダリーに進出した第三航空隊の零戦約60機が、スラバヤへ向かった。そのとき、イギリス人将校が指揮する連合国空軍のカーチスP-36と、カーチスP-40、それにブリュースターバッファローの50数機が、上空で待ち構えていた。
P-36
P-40
ウォーホーク
F2A
バッファロー
スラバヤ市街上空で、100機以上の戦闘機が、壮絶な空中戦を繰り広げた。だが、ものの10分足らずで勝敗は決してしまった。連合国空軍の戦闘機は瞬く間に姿を消し、零戦だけになった。このとき35機を撃墜、15機が、撃墜不確実、零戦の被害はわずかに3機のみという、圧倒的勝利だった。
太平洋戦争開戦当初、搭乗員のなかには、アメリカの戦闘機と互角に戦えるかどうか不安に思っている者も少なからずいたが、彼らの考えはすぐに払しょくされた。その後も、アメリカ海軍の主力戦闘機、グラマンF4Fワイルドキャットや、イギリスの名機、スピットファイアなどと空戦を交えるが、零戦の相手にはならなかった。やがて彼らは、零戦との空戦を避けるようになっていった。
翼面荷重・馬力荷重
構造上、飛行機の性格を決定するのが、翼面荷重である。全備重量を主翼面積で割ったものが、翼面荷重となる。
(242kg) (22.43㎡) (107.9kg/㎡)
翼を大きくして数値を小さくすれば揚力が増え、旋回性能がよくなり、戦闘機としての空戦能力が向上する。翼を小さくして数値を大きくすれば速力を増すことができるが、滑走距離が長くなるなど、一長一短である。
零戦の対戦相手の翼面荷重は、速力重視のため、全て零戦の数値を上回っている。これらの数値を見ても、零戦が、いかに空戦性能が優れていたかがうかがえる。
米國陸軍主要軍用機要表 | 翼面荷重 |
---|---|
カーチス P-40(ウォーホーク)戦闘機 | 171.4kg/㎡ |
グラマン F4F(ワイルドキャット)艦上戦闘機 | 132.7kg/㎡ |
グラマン F6F(ヘルキャット)艦上戦闘機 | 182kg/㎡ |
零戦二一型 | 107.9kg/㎡ |
零戦五二型 | 128kg/㎡k |
また、飛行機の全備重量をエンジンの馬力で割ったものを、馬力荷重という。
(242kg) (950hp) (2.55kg/hp)
この数値が小さければ、加速がよくなり、離陸性能や、上昇性能がよくなる。この馬力荷重も、飛行機の性格を決める重要な要素で、戦闘機としては、数値が小さいほど、高性能であるといえる。馬力が小さな日本のエンジンでは、より軽くする必要があった。対戦相手の戦闘機は、エンジン出力が大きいものの、重量があるため、数値が零戦よりも大きくなっている。
馬力荷重 | |
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カーチス P-40(ウォーホーク)戦闘機 | 3.27kg/hp |
グラマン F4F(ワイルドキャット)艦上戦闘機 | 2.7kg/hp |
グラマン F6F(ヘルキャット)艦上戦闘機 | 2.8kg/hp |
零戦二一型 | 2.55kg/hp |
零戦五二型 | 2.49kg/hp |
これらの数値からしても、零戦がいかに優れていたかがわかる。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「機関銃も付けて、何かを付ければ、どんどん重くなっちゃうわけでしょ。重くなると、結局早く失速するから、旋回性悪くなるから、羽根を大きいの付ける。大きいの付けると、空気抵抗が増えてスピードが出ない。だから、スピードを出そうと思って羽根を小さくすると、旋回しようとすると旋回する半径が大きくなって、小さく回り込めない。同じ飛行機で同じ目方(重さ)にできたときにスピード上げて羽根を小さくすると、翼面荷重が高くなる。軽い飛行機を造れば、一生懸命努力して、馬力に対して目方を小さくすれば、これは、加速がよくなる。上昇がよくなる。ぎゅっと上がる。旋回性と、火力とスピード、どれを選ぶかってことなんですね。それを、どうやってバランスを取るかっていうことが設計屋なんですね。」
機銃
(写真左:九九式一号機銃一型)零戦のもう一つの特徴は、20ミリ機銃の装備にあった。これは、大きく、重たく、発射時には大きな振動が発生するため、当時、単座の戦闘機には世界のどの国も装備していなかった。2丁の20ミリ機銃は、左右の主翼に収められている。もともとは、スイスのエリコン式20ミリ機銃FF型である。それを国産化して、九九式一号機銃一型とした。装弾数は各60発であった。
右 7mm弾
安全装置レバー
発射レバー
装弾数は徐々に増やされ、零戦三二型で100発のドラム式に、零戦五二甲型から、ベルト給弾式になり、125発となった。結局空中戦のほとんどは、操縦席にある2丁の7.7ミリ機銃のみで戦われたことになる。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔20ミリ機銃について〕私は二一型の20ミリ、ええ。そーと7ミリ7ね。そこまでですね。ガダルのときも、それでやられちゃったんです。少ない、60発ですからねぇ。だからね、うっかりすると終わっちゃうんですよ。だから私はあのー、セイロン島でもやるときにはもう、20ミリは最後の、ほんの2、3発のつもりで撃つ。それまでは、7ミリ7でね、抑えるというような。作戦はやりましたけども。あのー、あれですよ、翼なんか吹っ飛びますよ。」
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「〔零戦五二乙型の機銃について〕一緒です。だいたい一緒です。あのね、これがね、120発しかないんですよ。整備兵がね、地上の宿所にいたときにね、こういう丸いケースでもってね、3人でやっとですよ。だからね、120発だけどね、重くて上がんないんですよ。それでね、少なくしていいよって言ってね、だいたい80発でもってね、上げんですよね。だからもっと弾があれば…。パンパンって、ねぇ。出たからねー。慣れてくるとね、近接で、パーッとね。最初は怖くてね、やたらに撃っちゃう。」
(写真左:7.7mm機銃発射口)操縦席前方にある、7.7ミリ固定機銃の弾丸は、プロペラのすき間を縫って発射される。そのため、エンジンの回転に同調する装置が付けられていた。この調整は、兵器整備員が行っていた。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔弾とプロペラについて〕たまにありましたよ。それはね、調整が悪いんです。それで最初はね、油圧で撃ってたんです。ところが順に、カムでね。ボーデンで、作動するようになったから。順に、撃つあれ(プロペラに弾が当たる確率が)が少なくなりましたね。よっぽど、調整がまずくなけりゃ、撃たない(プロペラに当たらない)。斜めだからね、プロペラ飛ばないですよ。穴あく程度でね。欠ける…端っこ、薄いとこが切れる程度で。厚いとこは絶対大丈夫です。私はその調整をやってた、方向兵器出身ですから。これは絶対、自分の飛行機のときは、見てて、だめだめ、俺やる、って。それぐらいやってましたから。」
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「でも、プロペラの間から出るんだからね。やっぱり、なかには、自分の撃った弾でもって――ペリリュー島のとき、そういう事故がありましたね。自分の弾、撃っちゃってね、あの…プロペラ撃っちゃってね。そうすると飛行機なんか、操縦できなくなるらしいですね。ちょっと傷つくと。プロペラ、がたがた振動してね。」
機銃の照準は、200メートル先に合わされていた。200メートルまでは、7.7ミリ機銃の弾道が、直進するという理由からであった。装弾数は各680発あり、通常、600発ぐらいを装弾していた。弾丸は、曳光弾、徹甲弾、焼夷弾が順番に発射される。曳光弾と焼夷弾は、赤い航跡を描く。機銃の発射レバーは、左側にあるスロットルに装着されている。操縦者は右手で操縦桿を握り締め、左手でスロットルの調整をし、機銃発射レバーを操作する。
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「〔照準距離について〕それがね、だいたい200メートルでもって一緒になる(照準が合う)んですよね。だからもう、敵さんが、はっきり見えるまでね、近づかないと、当たんないですよね。ええ。そういう点も苦労しましたねぇ。」
照準器
零戦の照準器は、今までの筒型のOEG照準器から、光像式のOPL照準器(写真左)になった。これにより視界が確保され、より空戦能力が向上した。40ワットの電球をつけると、反射ガラスに円形の射距離目盛が映し出され、照準器に捉えた敵機の大きさで、距離を判定する。
また、電球が切れたときなどのために、予備の照準器もついている。照準器は純国産ではなく、ドイツ製品を国産化したものであり、正式名称は、九八式射爆照準器である。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔照準器について〕前は、こういうOEGってゆうね、遠眼鏡なの。だからこれで狙ってるとね、他の状況がわからないでよくね、吹き流しぶつかったり、戦争では、相手にやられたり。(OPLなら)みんな見えるでしょ。だから誠に、見張りがきくわけ。電球もつくんですけどもね、黒枠みたいなので描いてありますからね。電球付かなくてもある程度、照準できますから。(電球は)あんまり使ったことないですよ、ははは。」
エンジン
零戦一一型と二一型のエンジンは、950馬力の栄一二型。零戦三二型、二二型、五二型、六二型が、1130馬力、二速過給機付きの、栄二一型である。エンジン本体は同一であるが、プロペラ減速装置のカバーが大型化され、全体的に長くなっている。(写真右)複列14気筒星形空冷式エンジン、排気量は、27,900ccである。栄二一型は1130馬力であるが、この出力は太平洋戦争を通じて、アメリカ、イギリスの戦闘機と比べて、最低の出力であった。しかしその空戦性能は最も優れていた。栄エンジンは燃費がよく、零戦の8時間から10時間に及ぶ長大な行程において、搭乗員から確かな信頼を得ていた。
(写真左:星形エンジンの構造)星形エンジンには、クランクシャフトを回転させるマスターロッドがあり、このマスターロッドに各シリンダーのコンロッドが装着されている。複列になると、クランクが追加されるわけである。シリンダーは、ボア130ミリ、ストローク150ミリで、ロングストロークになっている。吸気弁と排気弁は各1個ずつ。点火プラグは、一つの燃焼室に2個セットされていて、前後で別の発電機により点火される。
元第二〇一海軍航空隊整備下士官 中野勇氏「〔点火プラグについて〕エンジンが不調といったときには、プラグに決まっとるもんだで。発火が悪いに決まっとるだ。ほんだで、プラグはすぐ外したです。外して、調べると、煤ね。煤があるかないかによって、すぐわかる。で、煤があったら、すぐ掃除して、入れたらええ。全部手でね、このカギマタみたいなやつでやっとって、そいでぐっとゆるめといて、ほんで手を入れてね、手で回しよる。普通のスパナじゃ入らん。で、結局、そういう…あれでね、プラグを外すのが難儀だったな。あれが一番難儀だっただね。」
最大出力時でのエンジン回転数は、零戦二一型が毎分2,500回転、零戦五二型は、毎分2,700回転である。エンジンは空冷式のため、このカウルフラップで、温度の調整を行う。
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「カウルフラップって…まあ、これもそうだけど、筒温計(写真右)のね、温度を摂氏180にね、調整すんですよね。」
暖機運転したあと、離陸時はエンジンを全開にするため、カウルフラップも全開にする。巡航飛行を高度約4,000メートルで、速度300キロ前後に移ると、カウルフラップは閉める。上空の冷たい空気により、エンジンの冷え過ぎを防ぐためである。戦闘に入った場合、エンジンを全開にするため、カウルフラップは全開にされる。
カウルの気化器空気取り入れ口(写真左)から吸入された空気は、気化器に送られる。零戦の空戦性能を支えていたのは、この、中島二連交流100甲型気化器(写真右)である。
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「二重(註:原田氏は、二連ではなく二重と語っている)気化器、ってね。背面でも、ちゃんと送り込むように設計されているようですね。」
通常、機体が宙返りや旋回をすると、プラスGやマイナスGがかかり、空気と燃料の混合気が濃くなったり薄くなったりして、エンジンが止まる原因になる。それを解決したのが、このキャブレターである。バイパス通路を設け、ゼロG弁やマイナスG弁から燃料が噴射されるようになっている。機体にいかなる方向からGがかかろうと、常に安定した混合気を供給できた。
飛行
零戦が、小回りのきく宙返りや旋回性能をいかんなく発揮できたのは、機体の構造とエンジンの性能が、まさに一体となっていたからだ。このキャブレターで作られた混合気は、過給機、すなわちスーパーチャージャーで、14の燃焼室に、圧縮されて送り込まれる。その結果、1速だけの栄一二型に対し、2速過給機の栄二一型は、180馬力向上した。特に、6,000メートル以上の高高度において、栄一二型は出力が半分以下に低下したのに対し、2速過給機の場合、高度6,000メートル以上でも約980馬力を保つことができた。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「確かに過給機つけてやれば、高速で高空行ったときに初めから――要するにコンプレッサーをつけてるってことですから、で、コンプレッサーをエンジンで回しながら飛んでってるわけですから、上空行けば性能は出るけれども、逆に低速はね、だめなんですよ。夏に、クーラー入れた自動車と同じことなんですよ。地上で入れたらば、エンジンが圧力高くなりすぎて壊れちゃうから、それで…つないだときにエンジンのパワーを絞ったまましか飛べないんですよ。だから過給機つければいいじゃないかというと、過給機つけちゃうと、当時の技術では、低速では、低空ではね、かえってエンジンのパワーが下がっちゃうんですよ。コンプレッサーが…過給機に加えられる分だけ。だからそれで、スピードをね、切り替えにして、上空用と低空用に切り替えにして、下では負担を少なくしようと。で上の負担を…(聞き取れず)と。二つにすれば、もう少し上のほうと下のほうが(馬力のバランスがうまく)いくんじゃないかと。」
(写真左:オイルタンク)エンジンオイルは、エンジン後部にオイルタンクがあり、およそ50リットル使用していた。また、オイルクーラー(写真右)があり、オイルによる冷却も考慮されている。操縦者は常にエンジンのオイルに気を配らなくてはならない。地上と違って、上空の冷たい空気によるエンジンの冷え過ぎは禁物である。(写真左:オイルの冷却器シャッターハンドル)当時日本には、ゴムなどの天然素材が入りにくく、エンジンのパッキンなどは完璧ではなかった。そのため、オイルの漏れは日常的であった。
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「オイル漏れが多かったね。もうオイルがちょっとふんとね(註:触れる?)、風防が油だらけになっちゃうでしょ。」
元第二〇一海軍航空隊整備下士官 中野勇氏「ある。それが大変だでね。オイル漏れはね、機体の、あの…帰ってきたときの機体を調べりゃすぐわかる。エンジンにね、油がね、うんとしみ出とるから。そいで搭乗…飛んできてね、帰ってくっと多少は出とるですよ。出とるけど、それを見やぁね、あ、これはいかんか、いいかいうことすぐわかるんですよ。やはり勘でね。」
コックピット・計器類
三菱重工で復元された、零戦五二甲型と、プレーンズ・オブ・フェイムの零戦五二型のコックピットである。プレーンズ・オブ・フェイムの零戦は、実際に飛行しているため、着艦フック、落下式増設タンク関係のレバーなど、必要のないものは取り外されている。
←ピトー管
左側の翼の端にあるピトー管は、速度と高度を検出する装置である。そのため、飛行機にはなくてはならないものである。自動車などと違い、速度は風圧で検出される。先端から入ってくる風圧を、動圧といい、圧力のかからない気圧を静圧という。速度は、その誤差で表わされる。また静圧管は、気圧を計り、高度も表わす。
計器類は、エンジンの温度や混合気に関するものが多く配置されている。エンジン系統の異常があれば、どこが悪いか、すぐにわかるようになっている。
補助翼のタブ
(写真左:固定タブ)世界最高の空戦性能を誇る零戦の翼。零戦の旋回性能を支える補助翼には、固定タブが付けられている。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔補助翼のタブについて〕外板厚くするとか、舵の場合には、蝶番のとこでもってバランスを取って、後ろの分と、こう、手放しでも平らに(註:操縦桿から手を放しても水平に)なってるように重りを付けるんですよ。それで、ヒンジ周りがこう、手を放しても平らになるようにする。バランス(写真右:マスバランス(重り)の位置)もね、まとめたとこに――めんどくさいから一か所にまとめておけばいいかということになるとね、またその間でもって羽根が捻れちゃう(註:重りを一か所にまとめると、重りがアンバランスになり羽根が捻れてしまう)から、それがまたフラッターになる。全体にこうバランスを取る、(重りを)ディストリビュートしてね、どこで切っても金太郎あめみたいに(均等に)バランスしてるように、重りを付けなくちゃいけない。
その補助翼を軽くするのに、こう…。バランスタブっていうのはこう(写真左)…補助翼をこう動かすんですけども、舵っていうのは、こうなってると、こうやって動いてるわけですね。こうやって動いてるんですけど、こういうふうに(写真右のように)…こう下げれば、風圧がかるから、力がかるわけですね。そのときに、もう一つこっち側で、この後ろにもう一つ付けてやると。このこういう小さいタブ(写真左:バランスタブ)付けてやると、離れたとこでやるから割合小さい力で、これをこっちへ(註:補助翼を翼面水平位置から、下方向へ)動かそうって力を出せると。操縦するときの力を助ける力があるんですけど。これはこれでもってバラバラする。これはこれでバタバタする。補助翼、端翼は捻れる。二つの要素で進んでたやつが、これを付けると、要素が三つになるんですね(笑)。ばかばかしいから、タブのバランスやめちゃったほうがいいんじゃないのかっていうのが、零戦の発想なんですね。」(写真左:昇降舵トリムタブ)水平尾翼の昇降舵には、トリムタブがついている。
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔昇降舵トリムタブとは〕手放しで飛ぶために、飛行機のスピードが違うと、飛行機の姿勢が変わるからそのときに手放しになるように、タブでちょっとこう…やって調整してやるんですね。ウォームギア(写真右:昇降舵トリムタブ操作ハンドル)を使って、それで少しずつこう…角度かけてやると、ちょっと動いたとこで止まるようになるわけですね。零戦の場合はスピードが変わると、このバランスが変わってくるからスピードに合わせて、前後バランスさせて、楽に長時間運転していくことに…やってくために、トリムタブを付けたんですね。」
(写真左:方向舵トリムタブ)垂直尾翼の方向舵には、トリムタブが付けられている。
元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「後ろのここは何だっていうけどね、ここにね、タブが付いて…鉄板でこういうの、あるんですね。それはね、ある程度、空中3,000メートル行ったらね、手、離してもね、まっすぐ、できるようにね。普通ほら、左へ曲がったり、右へ曲がったり、しちゃうけどね。ちょっとここの、細いとこ(垂直尾翼のタブ)、捻るとね、それがきくんですよ。」
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「補助翼に付いてんのは、その左右のバランスを、崩れ…飛行機の不具合を直すための目的と、操縦力を軽くするのね。昇降舵に付いてんのは、飛ぶときの、手放しで、スピードをおいてある(註:よく聞き取れず。「おいてある」ではない可能性あり。)ため。方向舵のほうも、足だから我慢してたんだけども、やっぱり、疲れるからということで、微妙なことやりたいっていうためには、トリムタブという…バランスタブでなくてトリムタブを(付けた)。やっぱりね、あれは…零戦、片道何時間もかけて飛んだわけだから、その間いつもね、スピードにおいてバランスしないとね、すーっとどっちか(右か左に)へ行くわけですよ、だから…あれはきつかったんじゃないかと思うんですね。」
当時の軍用機の補助翼、昇降舵、方向舵の外板は、B-17など、機体の大きさに関わらず、木綿などの布で張られていた。それを羽布張りという。搭乗員の操縦の負担をできるだけ軽減するためであった。(写真右:零戦五二甲型(三菱重工)復元機の羽布張り工程)
スプリット・フラップ
・フラップ
(スプリットフラップを下げて着陸し、パイロットがスプリットフラップを操作している。)
アンテナ・無線機
零戦のアンテナは、落下式増設タンクと同じように、外観上重要な小道具の一つとなっているが、ほとんど、使い物にならなかったというのが実情であった。日本が最も遅れていた分野である。アメリカは開戦当時から、レーダーを備え、暗号も解読していた。日本の無線電話(写真右:無線機)は、真空管の質の悪さなどから、雑音がひどく、送受信の切り替えの煩雑さなどから、ほとんどの搭乗員が使用していなかった。結局は、日本人独特の阿吽の呼吸みたいなもので、編隊間の疎通を手信号などで行っていた。特に、空母の上空直衛ともなれば、自分だけの判断で行動しなくてはならなかった。また、攻撃の帰りも、片道1,000キロ近くもの行程を、単独で帰還しなければならないこともある。ベテランの搭乗員ともなれば、自分の航法というものを持っていた。
元 空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「〔無線機について〕日本の通信機がなっとらんと。全然、役に立った例がないじゃないかと。目で見て、上空直衛は、早く敵を発見して、有利に戦闘したことはないんじゃないかと。なぜ通信機の一台ぐらいは、各機積んでおけないのかということ。1,500か2,000ぐらいの一番戦闘のやりにくいところでもって、敵の攻撃隊いらっしゃいというような状態で、船のなかだったら、艦上のなかから、何々の中隊、もっと何度の方向へ上がれとか、何々の小隊は、お前の後ろに敵が来てるぞってなことを、誰も、教える中心系ほしかったというのはそこなんですよね。」
元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「真空管ひとつ満足にできないと。無線機も飛び上っちゃえば使いもんなんないと。ゆうようなことでね、だから零戦だって戦争始まったころは坂井三郎さんなんか、零戦の無線機なんか役に立たないから、アンテナなんか空気抵抗になるだけだからって切っちゃってね、写真写ってるアンテナ付いてないですよね。それじゃあ連携した戦争なんかできるわけない。」
元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「攻撃に行くときには、ま、集団で行きますけども、混戦なって、帰るときなんかばらばらになっちゃうんですよね。一応は、まとまって帰るように、ちゃんと計画はしてあるみたいですけども。そうは、なかなかうまくいかないわけですよね。そうすると、あとから来た人は、単独で帰って来なきゃ。特に戦闘機というのは、一人乗りですから、広報が非常に難しいわけですよ。そこで、それに対して、クルシーという無線帰投装置というものが積んであって、行けなければ、電波を出してもらってその電波に乗ってくれば、母艦に帰れると。いうシステムにはなっておるんですけども。いよいよ戦争になると、電波を出すと味方の位置がわかってしまうから、出さなくなっちゃう。これで、私の、ちょっと後輩にあたるんですけども、石井君という蒼龍の戦闘機隊の一員が、盛んにクルシーを要求したみたいですけどもね、結局は、どこへ行っちゃったか、行方不明で戦死ということに…私にも聞かされましたけどもね。」
驚異的な構造を持った零戦は、真剣勝負に命を懸けた、ベテラン搭乗員たちによって最強の戦闘機となった。それが、零戦の伝説である。<2.驚異の構造 終>
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