トマス・ハリス「ハンニバル」 ワシントンDC

 トマス・ハリスの「ハンニバル」は翻訳されて日本でも大ベストセラーになったが、昨年春アメリカで原著が刊行された時、私はニューヨークに滞在していた。
 ニューヨーク・タイムズ・ブックレビューでホラー小説の巨匠スティーブン・キングが激賞した直後から同紙のベストセラーのリストの第一位に躍り出たが、このリストに載ると、ハードカバーの値段が三〇%引きになるので、五番街のバーンズ・アンド・ノーブル書店で早速購入したのを覚えている。
 映画化されアカデミー賞を受賞して世界的に話題になった「羊たちの沈黙」に続いて、女性のFBI特別捜査官クラリス・スターリングがこの「ハンニバル」でも活躍する。が、題名からもわかるように、この作品では、むしろ天才的な連続殺人犯ハンニバル・レクター博士が主人公である。
 「ハンニバル」は第一部が「ワシントンDC」となっており、、クラリスが麻薬取締局やFBIなどの混成チームの一員としてワシントンDCで麻薬密売組織の手入れをするところから始まる。激しい銃撃戦の末、クラリスは五人を射殺したが、かねてからクラリスに敵意を抱いている司法省監察次官補のポール・クレンドラーは、このことに言いがかりを付けて、クラリスを失脚させようとはかる。苦境に立たされたクラリスのもとに、意外なことに七年前に逃走して行方不明のレクター博士から手紙が舞い込んで来る。
 一方、レクター博士に半死半生の目に遭わされ、今も生命維持装置で辛うじて生きている食肉加工会社の経営者メイスン・バージャーは血の復讐のため、巨額の金をつぎ込んで必死にレクター博士を追っていた。やがて、レクターがフィレンツェに潜んでいることを知ったメイスンは、博士を誘拐する手はずを整えるが……。
 この本を読んだ後、私はすぐワシントンDCに飛んだ。
 メディア研究のため、ワシントンDCと隣り合わせのヴァージニア州アーリントンにあるニュージアムという新聞博物館を訪れるのが目的だったが、もう一つは、現地のFBI本部とクラリスが住んでいるとされるアーリントンの住宅地を見たかったからである。 クラリスと縁が深いFBI行動科学課は、ヴァージニア州クワンティコに置かれているが、FBIのことがこの作品に何度も出てくるので、是非本部を訪ねたかった。だが、残念ながら、肝心のFBI本部の見学は昨年の春にはテロの危険があるということで中止され、建物の前に立つだけで終わってしまった。もっとも、FBI本部の見学はいつも圧倒的な人気があり、朝八時には三百人もの人が列を作っているといわれるほど。見学も実際には大変らしいが、今年から再開されているので、現地を訪れる方は見学できるはずである。
 とにかく、仕方なく予定を変更。クラリスが住んでいるとされるアーリントンの労働者階級の住宅地と、観光名所としても余りに有名な国立墓地を訪ねた。いずれも落ち着いた雰囲気を漂わせた静かな場所である。
 アーリントン国立墓地は以前一度訪れたことがあるが、「ハンニバル」では、麻薬組織との銃撃戦で倒れたATF(アルコール・たばこ・火器取締局)の特別捜査官でクラリスの親しい友人だったジョン・ブリガムが眠っている場所であり、葬式の後にもクラリスが再び訪れて悲しい追憶に浸る場面がある。
 東京の霞ヶ関ともいえるワシントンDCと静かなアーリントン。ここには活力に満ちたニューヨークやカジュアルなサンフランシスコとは違った落ち着いた雰囲気がある。特に数多くの墓標の林立する国立墓地に立つとさまざまな感慨を覚える。
 ところで、この作品の第二部はイタリアの「フィレンツェ」。この土地とそこに潜伏中のレクター博士には独特の影絵のような雰囲気が漂っていて面白い。しかし、最後の結末で明らかになる博士とクラリスの異常な愛と残酷な人喰いの場面には抵抗感を覚える人も多いだろう。帰りの飛行機の中で、もう一度本のページを繰りながら改めて前作の「羊たちの沈黙」のほうが優れていると思った。(文芸評論家、昨年春から半年間コロンビア大学ジャーナリズム大学院の客員研究員としてニューヨークに滞在)。 

(信濃毎日新聞・掲載)


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