文化人の呉一騏論 4. of 呉一騏現代水墨画芸術


THE SUIBOKU MONOCHROME ART EXHIBITION BY IKKI GO

132.jpg

「呉一騏 水墨画の新次元」 
K美術館館長 越沼正

79.jpg呉一騏(ご・いっき)氏の水墨画には、氏独自の気配が漲っている。水墨による濃淡が創り出すその世界は、明光、薄明、漆黒が織り成す山水画の伝統を踏まえながら、それを超えた新しい次元を開いている。明光はただ明光に留まらず、漆黒はただ漆黒に収まらず、幾重にも積層する薄明は、その山水世界の彼方を透視する深い奥行きを湛えている。その独自の山水世界の中軸には当然であるが、山が、様々な山がある。氏の描く山は山であり、山ではない。日本人にとって、山とは神である。中国人の呉氏にとっては、山とは哲学的思索の軌跡である。描かれた「山」は呉氏の思索の結晶であり、なおかつその結晶(山)から液晶を経て次なる結晶へと変容をつづけてゆくであろうその時=飛躍への跳躍台である。
44.jpg人とは考える生き物である。呉氏は、哲学するひとである、自己の中の世界、世界の中の自己、絶え間無く変化し続ける自己と世界、世界と自己の関わりにおいて、その時間軸、空間軸の一刻の一点景として在る自己と世界を、この世界の外から遠望し、認識するという哲学的思索の、言葉を超えた超絶的表現手段として、呉氏は「水墨画」を描く。呉氏の描く「山」は、世界内自己、自己内世界の認識の二重構造の接点として、先ず描かれている。世界も自己も、時間の変遷にしたがって、その認識された像は刻々と変容してゆく。71.jpg作品「山水境地.jpg呉氏は、その現実に描いてゆく現在の時間の中に、自らの哲学的思索によって産み出された虚の時空を幻視し、一幅の紙上(布上)にその幻像を描き出す。それは、いとつ間違えば観念の絵空事に陥る危険な方法である。けれども、呉氏は現実を直視し、現実の感覚から思索を立ち上げる人である。描きたい山水画が先ずあってそれを紙上に写すのではない。描くことを促す思索の熟成が、手を、筆を衝き動かすのである。筆先が産み出す一本の線、水のひろがり、筆の深まりが、彼に思索のさらなる成熟へと向かわせる。言葉による哲学的思索、描かれてゆく水墨が現出する言葉を超えたさらなる未知の世界、それに感応し、さらに思索を深め、水墨を描き出してゆく自己。内発的他動的相互作用によって刻々と形成されてゆくその「水墨画」は、ある時ひとつの完結した世界像を成す。すなわち哲学的思索の一到達点に達する。そこで筆は止まる。それは水墨による哲学的思索の軌跡の一結晶としての、また自己表現の創造的結晶としての姿を見せている。その「水墨画」は、変貌してゆく世界と自己の現時点での認識の一到達点としてある故に、さらなる哲学的思索=新たなる「水墨画」への出発点として、次なる時空へ開かれている。

(一九九八年七月二八日)

milk_btn_prev.png

|1|2|3|4|5|6|7|8|9|

milk_btn_next.png