三島K美術館 「水と墨による演繹する空間」展 2000
「水墨の原理・易経の哲理」
評論文 K美術館館長 越沼正
水墨画とは、水と墨とが一枚の紙上に沁み、滲み、入り混じり、そしてまた沁み、滲み、入り混じることの繰り返しによって、さまざまな濃淡が紙上に形成され、その濃淡が、、見る人をして絵画と言わせしめる作品に成ったものである。呉一騏氏は、水墨の濃淡が見る人に森羅万象を想起させる描写技法を若くして習得し、水墨画の根底をなす、紙と水と墨の三者が織り成す相互作用を実作よって深く研究した。呉氏は、自然を見事に描写する巧みな水墨画家、さらに自然描写に精神的世界を重ねた高度な水墨画を描く画家に留まることを良しとしなかった。この20世紀から21世紀を跨ぐ時代に、呉氏は一個人として現実世界を深く感知し、同時にこの現実世界を遥かな遠方から認識することによって、世界に新たなる意味と構造を与えようと思索している。その自らの世界認識を、画家の立場から、水墨画の技法によって表現しようと試みている。
今回、呉氏は古代中国に誕生した「易経」の哲学に基づく世界観を水墨画の技法で展開することを試みている。「易経」によると、宇宙の原初には唯一絶対の存在があり、それは太極、つまり一個の○である。この太極から陰陽二元が派生した。陰と陽は相対的存在であり、その陰陽が合わせる時、初めて万物の生成が可能になるという。万物発生の始まりは陰陽二元の交合にあり、また宇宙の万物は、不断に活動し千変万化する。とはいっても、そこには一定の秩序がある。太極○から一陽一陰が派生し、それぞれに一陽一陰が発生し、・・・八個の八卦(はっか)、小成卦(しょうせいのか)ができる。乾(けん・天)、兌(だ・沢)、離(り・火)、震(しん・雷)、巽(そん・風)、坎(かん・水)、艮(ごん・山)、坤(こん・地)の八つ(の自然現象)である。八卦の組み合わせだけでは宇宙の複雑な理を表現するのは難しい。それで後に八×八、六十四で六十四卦の大成卦(たいせいのか)が完成した。以上「易経」の詳細は省くが、この「易経」の根本義は、畢竟水墨画の原理に通底するものである。
太極は紙、陽は水、陰は墨。紙上において水と墨が合体し、・・・森羅万象が形成されてゆく。水墨画成立のはるか以前に、水墨画の原理に通じる宇宙観が、古代中国において成立していたのである。この先行する「易経」哲学と後進の水墨画が、ミレニアムの最終年に出会い、新しい水墨表現の幕開けを告げることは、誠に奇遇であり、あるいは歴史の必然と言えるかもしれない。一個人の精神的風景画としての水墨画をさらに推し進め、一個人を超えた世界認識の方法論「易経」による水墨絵画の試みは、哲学的思索の世界表現の新しい時代への一筋の光であるように、私には思えるのである。 「水と墨による演繹する空間」という主題が、「易経」の思想に通じるものであることが、ここに知られよう。
(2000年11月1日)