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既成ルートフリー化の波

1980年5月――谷川岳一ノ倉沢

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1980年は既成ルートのフリー化が大々的に始まった年である。その嚆矢として名高いのがアメリカ西海岸カリフォルニア州にある花崗岩の大岩壁が織り成すヨセミテ国立公園で登攀経験を持つ戸田直樹と加藤泰平のペアによる谷川岳一ノ倉沢コップ正面壁雲表ルートのフリー化である。それは谷川岳危険地区の登攀禁止が解除されるゴールデンウィーク明けの、1980年5月12日のことであった。だが面白いことに、この時期に谷川岳一ノ倉沢で展開された既成ルートのフリー化は、決して彼らだけが行ったわけではない。彼らが登攀した5月12日から月末までの間に6本もの既成ルートフリー化の記録を見ることができるのだが、このうち4本は他のパーティーによる登攀である。この偶然の一致を見ると、既成ルートのフリー化は、ヨセミテの影響と簡単に割り切るわけにはいかないように思える。おそらくそれ以前にそういう状況を作り出した何かがあるのではないだろうか。

この時期の谷川岳一ノ倉沢で行われたフリー化を一覧表にしてみると下記のようにまとめることができる。
1980年5月12日 コップ状岩壁正面壁雲表        戸田直樹 加藤泰平
1980年5月12日 烏帽子沢奥壁南稜フランケダイレクト  森 徹也 津田政身
1980年5月18日 烏帽子沢奥壁同志会直上        中谷雅彦 保科雅則 木本 哲
1980年5月25日 滝沢下部ダイレクト          戸田直樹 加藤泰平
1980年5月25日 ドーム壁横須賀            檜谷 清 小林孝二
1980年5月31日 二ノ沢右壁              檜谷 清 小林孝二

登攀の日程を見ると、これらすべてがコップ正面壁の登攀に触発されたものというわけではないのは明らかである。ここに名を上げている僕自身でさえ、コップ正面壁のフリー化の登攀記録が発表されるまで彼らの登攀計画はもちろん、登攀記録も知らずにいたのだ。これらの日程から考えられることは、少なくとも、既成ルートのフリー化の機運はすでに前年度には広く発生していたものと思われるということである。

こう考えて見ると、確かに僕の中では前年度からすでにA0=フリーという思いが明確に意識されており、A0のピッチはすべてフリーで登っていたのである。またA1のピッチも状況によってはフリーで登ることができるグレードであるということをすでに認識していたのも事実で、そのような行動をとっていたことも確かである。

実際、変形チムニーや中央カンテは後年フリー化の記録が発表されるまで、そこにエイドクライミングのピッチがあることさえ知らなかった。それどころか、発表された記録を見てもエイドのピッチがあること自体がにわかには信じられなかった。エイドで登った記憶がないので、ルート図を確かめ、初めてルート図の中にエイドクライミングのピッチがあることに気がついたほどである。それまで気がつかないというのもとんまな話かもしれないが、すでにその当時は、フリーで登れそうなところはすべてフリーで登ろうと決めていたのだから気がつかなかったとしてもしかたがなかったかもしれない。南稜フランケ周辺は現在のYCC左のラインも含めほとんど登っていたが、 時には一部A0を使うことがあってもすべてフリークライミングの対象という認識であった。実際そういう認識が夏フリーで登れるところは冬もフリーで登れるだろうという発想にもなっていった。

そのフリー化の芽がどの段階で生まれたのか特定するのは難しいが、少なくともラインホルト・メスナーの著書「第7級・極限の登攀」が出版された時点まではさかのぼれるのではないだろうか。僕はこの本によって初めてX級、Y級を超えるレベルの登攀があるのだということを意識させられた。そしてこれに続くのが勤労者山岳連盟や東京都山岳連盟、日本山岳協会などの岩登り大会の発展である。

当時盛んになりつつあった岩登り競技会は 、確かに技術よりスピードを重視してはいたのだが、確実に登るにはフリークライミングの技術を伸ばす必要性を感じさせたのは事実である。なぜなら、時間をかけずに登るには 、エイドクライミングで登るよりフリークライミングで登る方が早いからである。トップロープで素早く登るスタイル、主催者側の篩を何とかすり抜けるという競技者側の意識は、これまで見向きもしなかったエリア外の登れそうなラインにも目を向けさせることになったのである。その流れを受けたクライマーが 、登攀技術に目覚めるのは自然な流れだったのではないだろうか。

上記フリー化リストの中でヨセミテ経験派の筆頭を戸田直樹に求めるとすれば、その対極となる岩登り競技会経験者派の筆頭は岩登り競技会第一位の栄誉を何度も手にした檜谷清ということになるだろう。その両者がいみじくも1980年5月に、谷川岳一ノ倉沢の既成ルートのフリー化に向かっているのは興味ある事実である。そして、その両者が登攀技術をさらけ出したのはそのすぐあと、1980年の日本山岳協会主催第四回登攀技術研究会という名の全国岩登り競技会の場であった。

このときのルートセッターは谷川岳のフリー化で名を上げた新進気鋭の戸田直樹。競技ルートのグレードは岩登り競技会時Z級といわれ、日本最難グレードを持つルートの一つであった。もちろん参加者の誰一人としてそんな高グレードを持つルートを登った経験がある者などいなかった。それもそのはずで、当時はX+といえば高グレードで、最難グレードはY−〜Y級ぐらいのものだったのである。そのうえルートがフェースではなくクラックときているので、各クライマーは登り方そのものが理解できていなかったのだ。

現在 、戸田クラックと呼ばれている競技ルートの一部をなすルートのグレードは5.10aに落ち着いているようだが、当時は未知のグレードであった。岩登り競技会参加者は30人あまりいたが、Y級とZ級という二つの核心部を持つ競技会ルートの完登者はわずかに5人を数えるのみだった。関東圏からの参加者でこのルートを完登することができたのは僕と檜谷清の2人だけである。考えてみれば、ルートセッターとルートセッターが設定したルートを登り 、スピードを競う競技の一選手というそんな人間たちが、時をほぼ同じくして、谷川岳の既成ルートのフリー化へと向かっていたわけである。

この岩登り競技会は、ルートが登れた者にも、ルートが登れなかった者にも、ある意味強烈なショックを与え、フリー化の芽を急激に伸ばすと同時に、フリークライミングの大輪の花を開かせた。一方、谷川岳一ノ倉沢から発したフリー化の波は、ゲレンデは言うに及ばず、日本各地のルートにも及び、谷川岳ではこののちさらにフリー化が加速し、1981年5月14日に烏帽子沢奥壁ダイレクトが南場亨祐と東田鉄矢によってフリー化され、1982年6月〜8月にかけては、衝立岩雲稜第一ルートが池田功と南場亨祐によってフリー化された。フリー化された衝立岩雲稜第一ルートは彼らによってグリズリー5.11dと名づけられ、今日に至っている。

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