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普段は気にならない何もかもが、登山では簡単に死と結びついてしまう。何しろ、石に躓いただけでも死に至る可能性が生じてしまうのが登山なのである。そんなスポーツがほかにあるだろうか。
浮石に乗ったり、足を滑らせたり、バランスを失ったりして登山道から転落、死亡する例は、実際あとをたたない。手にしたホールドが欠けたり、浮石を掴んだりして岩場から転落することもある。雪山で滑落する例は積雪期の富士山に関する記事を注意深く見ていれば一目瞭然だろう。天候の急変によって疲労凍死や衰弱死する。落雷や落石に当たる。日射病、熱中症による死。道に迷う。テントの中で一酸化炭素中毒になる。低温障害、高度障害、高所衰退などで動けなくなる。クレバスへ転落する。雪崩やセラック崩壊に伴って埋没する。それらによって生じる爆風で飛ばされる。雪庇を踏み抜く。雪庇や雪渓が崩壊する。雪渓を踏み抜く。ホワイトアウトで視界が閉ざされ、感覚が惑わされる。最近ではクライミングジムでグラウンドフォールするというものもある――。登山対象となるフィールドにはさまざまな危険が潜む。些細な危険から、いったん巻き込まれたら人間の力ではどうすることもできないような大きな危険まで、その内容はさまざまであるが、大自然の中で展開される何もかもが、容易に死と結びついてしまう危険をはらんでいるのが登山である。しかも、登山活動によって起こる死は、初心者か経験者かを問わない。実際のところ、どんな人間にも分け隔てなく訪れる。しかし、同じ危険に曝されても、たいがい初心者より経験者の方が生存率が高い。何も知らない人より、少しは知ってる人の方が応用力が利く。経験豊富な人の方が体力もある。登山者各自が積み重ねてきた経験の差は、実は、いかんともしがたいほど大きいのだ。経験者の判断は初心者の命をも左右する。だからこそ、経験者であればあるほど慎重に判断をしなければならない。実際、経験者の責任は途方もなく大きい。
登山では、誰の身にも思いのほか死が身近に存在する。実際その確率は高い。登山ほど生と死を身近に感じるスポーツはほかにはないだろう。だからこそ登山はスポーツなのか、と問われることにもなる。そこで、スポーツという定義をいくつかの辞書で引いてみた。余暇活動・競技・体力づくりのために行う身体運動。陸上競技・水泳・各種球技・スキー・スケート・登山などの総称。(大辞林:三省堂)
陸上競技・野球・テニス・水泳・ボートレースなどから登山・狩猟などにいたるまで、遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素を含む運動の総称。(広辞苑:岩波書店)
運動競技。楽しみと肉体的訓練を兼ねた運動の総称。本来は気晴らしに何かすること。西洋将棋など、肉体的な運動を含まないものもさした。(カタカナ用語辞典:三省堂)僕が使っている辞書はちょっと古いものなので、読者各自で最新の辞書もあたってみるといいと思うが、辞書で調べてみた結果はどれもこれも登山はスポーツとして扱われているのである。
登山は、単に自分が登ってみたい、行って見たいと思うコースを、制約なしにたどるものから、さまざまな条件を加味し、困難性を高めた上でたどるものまで、千差万別である。同じ登山コースでも、夏山、冬山、無酸素、極地法、カプセルスタイル、アルパインスタイルなど、より厳しい登り方を採用すればするほど、酸素ボンベや固定ロープ、クライミングロープそのものの使用など、人工的な補助器具の利用を最小限にすればするほど、登山は難しくなり、普通は安全性と成功の確率は下がっていく。入山者が多い山域の登山コースより、入山者が少ない山域の登山コースの方が、登山者が自分自身で行わなければならない作業が増え、登山の条件が厳しくなる。当然ながらそうなれば成功の確率も下がってしまう。シェルパなど高所ポーターを使うにしても、働いてくれる協力者の数を少なくすればするほど、登山の難易度が上がり、成功の確率が下がるのが普通である。
だが困ったことに、どんなにたくさんの条件をつけたとしても、それ以上条件を厳しくすることができなくなる限界点がある。その境地に達すると、新たな困難を求め、新たなフィールドを探さなければならない。そうしないことには登山が易しくなりすぎて困難に挑戦するという姿勢から得られる面白さを手に入れることができなくなってしまうのだ。そうなると、今度は困難を求め、ノーマルルートではなく、より危険度が高いバリエーションルートを目指して進むことになる。さらに登山技術や体力が向上し、知識や経験が蓄積されていけば、今度は自らの力でバリエーションルート(新ルート)を開拓してみようという気持ちになる。
もちろん、登山が繰り広げられる場所は、一般的なスポーツのように、自然の驚異から守られた競技場にしつらえられたコートではない。追い風もあれば、向かい風も、強風も、暴風もある。風雨、風雪は言うまでもなく、雷雨はもちろん猛吹雪、耐えがたい寒気や台風もある。落石、雪崩、落雷、土砂崩れ、出水、鉄砲水など、登山者が望むと望まざるとにかかわらず、登山が繰り広げられる場所は突然人間の生存そのものが危ぶまれる厳しい条件に曝されることがごく普通にある場所なのである。それどころか、元来人間の生存そのものが適わない低酸素という条件をわざわざ取り入れることさえある。登山者が闘う相手は、実は敵ではなく、大自然と自分自身なのである。登山が、そういった厳しい条件を持つ競技場に容易に変化する、あるいは変化させることができるフィールドを選んで繰り広げられるスポーツだからこそ、どんな人間に対しても生と死が身近に存在することになる。アルパインクライミング突き詰めれば死と衝突することは容易に想像できる。
そのような場所で当初の目的を達するには、まず、そのフィールドで生き抜く術を身につけなければならない。それが登山に挑戦する人間に備わっていなければならない最低の条件である。残念ながら、単に登山に憧れを抱く人間や登山の初心者はそこまで深く物事を考えてはいないのが現実である。登山は歩くというごく基本的な動作さえできれば何とかなる簡単な作業だ、という認識が誰の頭の中にもあるからである。
困難な経験を積み重ねてきた真のベテランではなく、登山開始年齢から算出した経験年数のみが豊かな、単にベテランといわれる人たちの登山経験は、実は、毎週しゃかりきに登る初心者とそれほど大差ないことが多い。それどころか初心者に及ばないことさえあるかもしれない。登山経験ではなく、登山経験年数のみを積み重ねた彼らには、極端な話、たとえ年に一回でも、十年行えば十年の登山経験があることになるのだ。これでは一年に十回活動した登山者と何ら変わりはないというよりすでに立場が逆転しているかもしれない。極端な例ではあるが、そのような数少ない登山経験では危険に対処する十分な知識や知恵が不足していたとしても不思議ではない。
逆に、真のベテランは、常に新たなフィールドを求めて行動することが多いので、これまでに経験したことがない状況に出くわす機会が必然的に多くなる。そんな状況が備えている厳しさに打ち勝つことができれば何一つ問題が起きることはないが、自分たちの想像を超える厳しさに出くわすと、真のベテランといえども初心者と同様に自然の力に翻弄され、体力や技術や精神に破綻をきたし、命を落とすことがある。ちょっとした油断や名誉欲、義理人情でさえ自分自身の命を奪う原因となるのが登山なのである。最新の技術力を持ってしても自然の猛威の前では人間はあまりにも非力である。誰もがこんな経験はしたくはないと思っているだろうが、実は意外に簡単にできる。思い違いや失敗は登山中割合多く発生してしまうのだ。
一方、ベテランといわれる人たちの中にも、実は一筋縄ではいかない人たちがいる。いわゆる真実ベテランというに近い人たちの中でも登頂経験に欠ける人たちは、登頂したくてしたくてたまらず、自分自身の行為が周りの人間に魅惑をかけることがわかっていても登ってしまい、結局は耐え切れず、そういう行動をとった本人やそのまわりにいる人が窮地に陥ることも珍しくない。どんなに経験を積んだ人物であっても、その山にどうしても登りたいという行動をとったときには誰しも無理をしてしまうのである。その無理が自分自身だけに返ってくるなら何も問題はおきないが、そういった人の行動の多くは周りの人に問題を預けてしまうことが多いのである。その問題を受け取った人が弱い人間である場合、問題は生存を脅かしはるかに大きくなってしまう。
登山者一人一人、それぞれに起きた早すぎる死を非難する必要はまったくない。しかし、彼らがなぜ死んだのかを問うことは、この先自分が登山をしている最中に遭遇するかもしれない生と死の狭間で、自分自身が、自分自身やパートナーの生命にかかわる重要な判断を下さなければならないときに大いに役立つことは間違いないだろう。彼らと同じ轍を踏まないこと、それが彼らの死から学ぶべきことであり、敬愛する死者に対する最大の追悼の賛辞である――。僕はそう思う。だからこそ彼らが残した最後のメッセージを真摯に受け止め、アルパインクライマーとして天寿をまっとうしたいと願う。
「木本さん、昔、30人までは数えていたけど、その先は数えるのを止めた、と言っていたよね」と、お見舞いに行った病院で手足に包帯を巻いた山野井泰史がしみじみと語った姿を思い出す。その30という数字が表すものは、もちろん遭難して死んだ山仲間の数である。「その数はずいぶん昔の数だよ。俺の死亡者リストに入らなくてよかったな」と答えたものの、そのわずかに交わした言葉の中に、一見無敵のように思える彼も、ギャチュンカン北壁の登攀の際には、生と死の狭間をさまよい、さまざまな思いが彼の脳裏を駆け巡り、生について、そして死について考えたことが窺えた。第三者の生を通して自分の生を考えること、第三者の死を通して自分の生を考えることは、山でどんな状況に陥っても生き抜くという目的のために必要欠くべからざる行為である。
遭難への対処は、万一のことが起きないように工夫するのが基本である。しかし、万一のことが起きたら被害を最小限にする方法を考えておくというのも大切なことである。どんなに知識や経験を持っている人間であったとしても、ひとたび目の前でことが起きたときに何もできなかった人間を多々見、知っているだけによりいっそうそう思う。もしかしたら時として自分が生き抜くために残酷な決断を迫られることがあるかもしれない。自分が経験した数々の遭難を振り返ると、他人の生存に自分の手を貸すことは自分の生命を削ることであるという場面が多かった。遭難現場では他人1人が死ねば済む状況で手助けをしたばかりに自分自身の命さえ危うくなるということがごく普通に起こる。そんな状況下で起きた事故の当事者は、たいがい、ことが起きたら、誰かが助けてくれると甘い妄想を抱いている。そして危機を脱したのちは遭難の事実はなかったと主張することが普通に起こる。にわかには信じられないだろうが、極限の世界ではこういったことがごく普通に起こる。自然は厳しいが素直だ。だが人間はそうでもない。そこにさまざまな遭難原因が見え隠れする。
小西政継(58) 今野和義 小川信之 和田昌平 竹内考一 石橋眞 岡田昇 及川真史 児山幸伸 瓶田裕己
林英介 星学 里 斉藤謙滋 小松原 伊藤栄次 植村直己(43) 坂野俊孝 吉野寛(33) 禿博信(31)
山田昇 (38) 小松幸三 三枝照雄 斉藤安平 名塚秀二(49) 小林( ) 大西宏(29) 高見和成(52)
佐藤正倫 広島三郎 原田達郎 田中聡一 野沢井歩 椎名厚史 鈴木荘平 鈴木章 池学 高本信子(51)
堀田弘司 長谷川恒男(43) 松井登(45) 笠松美和子 俵屋久義 川辺孝道 小山良子 山崎生充 石井恵美子 鶴見秀子
ジョー・タスカー ピーター・ボードマン アレックッス・マッキンタイア アラン・ラウス
ヴォルフガング・ギュリッヒ(31) ハンス・クリスチャン・ドーセス ジャン・マルク・ボワバン
マッグ・スタンプ(42) パサン・テンバ レナート・カーザロット ※( )内は享年。登山に関わっていたこういった方々の死を振り返ると、その原因は、高所衰退、悪天による高所衰退、雪崩、強風、怪我による失血死、サイクロンの襲来が原因の予想外の大雪による雪崩、落石、滑落、転落、墜落、雪渓の崩壊、セラックの崩壊、さまざまなタイプの懸垂下降の失敗、クレバスへの転落、氷河の崩壊に伴う爆風、疲労、平地での出来事なのに朝起きてこないので見に行ったら死んでいたという原因不明の死など実にさまざまで、一般的な交通事故による死亡例も挙げてはいるが、そのような例はむしろ珍しい。死亡原因を思い出している間にもまだまだ遭難した方々の名前が挙がってくるのが空しいが、それが現実である。
登山に興味があるなら、そして遭難について考えてみる気持ちがあるならまずは下記の本を読んでみたらいいと思う。
@ 死のクレバス ジョー・シンプソン 岩波書店または岩波現代文庫
A いまだ下山せず 今泉康子
B 風雪のビバーク 松涛 明
C 単独行 加藤文太郎
そして遭難事故の原因についてあれこれ考えてみたいと思うならこの二冊を読むことから初めてみたらいいと思う。
D 生と死の分岐点
E 続・生と死の分岐点
興味を引く登山から遭難を考え始めるなら山野井泰史著「垂直の記憶」から入るのもいいだろう。ギャチュンカンの記事にはそれなりのものがある。同じ遭難事故を扱った沢木耕太郎の「凍」は、僕には説明書きが多すぎて緊張感や臨場感にかけるが、登山や登攀をよく知らない一般読者や駆け出しの登山者が読むにはいいだろう。遭難事故を扱った本は、それが事実だけに今後の山行を安全に行う意識を呼び覚ます。しかし、中には読み進んでいくと、遭難原因が人智の及ばない自然の驚異的な力となって結ばれているものがある。そういう結び方をしているものの多くは、著者が深い分析をせずに、あるいは深い分析を避けて書いたものであることが多い。こういったものは参考にはなっても実際の登山には直接役立たない。もしそれが遭難原因なら、そんな場所に出かけるから遭難事故を起こすと言っているに等しい。
山に出かけなければ確かに遭難事故は起きない。遭難事故が起きないようにするには、山に行かせなければいい。実際もっともな話である。関西電力の扇沢と黒部ダムを結ぶ扇沢トンネルの冬季通行禁止措置と剣岳周辺の遭難事故の推移をみると、その考え方は確かに効果があると認めざるをえない。しかし、それでは人間が持っている動物的な感覚は養うことができない。そういった事実があることを知りつつ山に行く以上、登山者各自に、どうしたら遭難事故が防げるか、という視点が必要になってくる。そこには不可抗力という言葉は必要ない。大いなる自然に挑む人間の側の何が遭難事故に関与したのかということを探ることが重要なのだ。それを考えるのにいい参考書は、遭難事故の当事者本人の筆になるもの以上にいいものはない。当事者が、どんな条件の中で、どう考えて行動していたかがわかれば、似たような条件に潜む危険に対する策が立てやすい。作家が書いたものはノンフィクションのようでいて、作家自身の見方や思い入れがあるからちょっと質が変わってくる。作家が自分なりの構成をしてインタビューに臨んでいる姿を見るとそう思う。けれど、作品自体はドラマチックな構成になっているから読みやすい。
山では決して死んではならない。そう思うなら遭難事故に対する真摯な分析が必要である。分析には事故発生時の資料から行動概要を書き起こし、地形図や当時の天気図など広範な資料を当たってみるといい。遭難事故は単純な原因で起きることはむしろ稀で、たいがい複合した原因で起きる。普段はなんともないようなことなのだが、原因となる要素が次々に重なるとダムが一気に決壊するように事故が起こるのである。遭難原因の分析にあたっては、自分の経験を加味し、自分なりの解答を導き出すことが重要である。今の自分ならそれをどう判断し、どう行動するか。第三者がどう考えようと自分はこうする、こうすべきであるという自分なりに判断した意見を持つ姿勢が必要になる。他人の見解に注意を向けつつ自分自身で考え、遭難原因に対する自分自身の見解を構築することができれば、必ず未来の山行に役立つはずである。救急法 子猫殺し 低気圧 後日談No.8 スズメ カースト 命の大切さ ガイドレシオ
海外の登山記録12/トランゴ・ネイムレス・タワー 山とのかかわり8 トッド・スキナー 追悼
生への道木本哲プロフィール(「白夜の大岩壁・オルカ初登頂」のページから)……公開を取りやめています
僕のビッグ・ウォール・クライミング小史……公開を取りやめています。「目次」を参照してください
しぶとい山ヤになるために=山岳雑誌「岳人」に好評連載中……登山開始から山学同志会在籍一年目までの山行で学んだこと感じたこと
自己紹介(木本哲登山および登攀歴)……山学同志会在籍一年目に培った技術を基礎として実行した初登攀〜第3登を中心にまとめた
Satoshi Kimoto's World(木本哲の登攀と登山の世界)……海外の山もさまざまなところへ登りに出かけました
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