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巻頭エッセイ
Kimoto Satoshi Alpine Climbing School
Explorer Spirit 巻頭エッセイ 1 ウィルダネス――イヌイットの世界
「地球上で、いちばん速く走る動物が何だか知ってるか?」
「チータだろう?」
「そう思うだろ。誰もが皆そう信じてる。だけど、それは違うんだ」
「うーん……。やっぱりチータ以外には思いつかないな。僕はチータだと思うんだけどな。絶対に」
「地球上でいちばん速く走る動物は、実はオオカミなんだ。本当だよ。奴らは時速100キロものスピードで走るんだ」
「本当に?」
「ああ、本当だとも。嘘じゃない」
「じゃあ、どうしてオオカミが時速100キロで走るとわかるんだ?」
「それは奴をスノーモービルで追いかけたからさ。奴は信じられないくらいタフだ。奴こそ世界一速く走る動物だ。絶対に間違いはない」
草原を走るチータのトップスピードは、チータが獲物を捕まえる際のほんの一瞬のスピードだが、時速90キロほどのスピードで草原を走ることが知られている。だが、オオカミがそんなスピードで走るなんて話は聞いたことがない。それもそのはずで、オオカミは森で暮らすことが多いのだ。だがここバフィン島はツンドラの大地で矮小な木が生えてはいるが、森は見当たらない。冬の間は海が凍り、海は真っ平らの広大な氷原となる。彼らはそこでたまたまオオカミを見つけ、スノーモービル2台でオオカミをしだいに追い詰め、挟み撃ちにして疲れたところを仕留めたのである。普段、アザラシやカリブーを狩るときは、気づかれないようそっと近づき、ライフル銃で狙いをつけて撃つ。しかし、オオカミを獲る狙いは肉ではなく毛皮である。実はホッキョクオオカミの毛皮は上質で、高く取引されるのである。だが、もしオオカミの狩りにライフルを使えば毛皮に穴が開いてしまう。そこで、彼らはスノーモービルで追いかけまわし疲れたところで捕まえることを選んだのである。だからすのモービルが表示するそのスピード表示は確かなものだろうし、もちろん彼らがそう話すのは嘘ではないだろう。オカミは獲物を捕まえるのに必死だったのではなく、イヌイットの恐ろしいハンターから逃げだすために必死に走っていたのである。極北の大地とはいえやがて春はくる。春の到来とともに極北の大岩壁ウォーカー・シタデルの周辺では雪崩の音がこだまし始める。それを号砲に寒気が作り出した砕石に根を張った草木が作り出す草原では花が咲き乱れる。それと同時に小さな草原では動物の動きが活発になる。入り江の先端の海のそばでうろついていたシロクマは、氷が解け始めたフィヨルド深く入り込み、だいぶこの山の近くまで来るようになっているらしい。しかし、フィヨルドの奥はまだまだ見渡す限り一面が氷に覆われおり、シロクマの餌には乏しい。第一もしシロクマがここにやってきたとしても、この周辺にいたアザラシは彼らイヌイットがほとんど狩り尽くしているのでシロクマの出番はない。シロクマがここに現れるにはもう少し雪解けが進み、多くのあざらしが戻ってくるまで待たなくてはならないだろう。
僕は野生のシロクマをこの目で見てみたいと思っている。シロクマはクマの仲間の中ではいちばん北に棲み、体が大きく、人間をも食べてしまう獰猛な動物である。ここ、バフィン島では、その昔、岩登りにきたクライマーがシロクマに襲われ、引きずられていき、食われた記録がある。クライマー仲間をくわえて引きずっていくシロクマを目の当たりにして何もできなかったという報告記事を読むと、気持ちはちょっと後ずさりしてしまう。だから丸腰のときには絶対に出会いたくはない動物だとも思う。実は僕たちにとっては決して油断はならない動物なのである。食料が少なく、生きることに必死なシロクマにとっては、偶然見かけた人間でさえ大地の恵み以外の何ものでもないのだ。
ある日、魚を釣ってくるといってイヌイットが朝早くキャンプを出かけていった。そのとき5時間かけて出かけて行った先で釣りをしたのはわずか30分だったという。だが、それでも十分な釣果があった。実はそのとき、北極イワナは入れ食いの状態で、わずか30分で食べきれないほど釣れ、大漁だったのである。この時期、長い間氷に閉じ込められ、狭い湖で春を待っていた北極イワナは腹をすかせ、餌が豊富な海に下るチャンスがくるのを今か今かと待っているらしい。今はそれこそ飢え切り、ひもじくて動くものなら何でも食らいつくという状態なんだという。だからこその釣果であったのだ。春が深まり、もう少し雪解けが進むと、北極イワナはみんな湖から海に下ってしまうらしい。できれば僕も釣りに行きたいが、登攀の進捗を考えるとそんな余裕ができるかどうかわからない。だが、彼らからの心のこもった贈り物はこの岩場まで届けられ、僕たちは上部キャンプで北極岩魚を堪能した。とても新鮮で、何ともいえないくらいおいしい魚だった。
北極イワナの頭やはらわたなど、人間に不必要とみなされた部分が岩の上に置いてあったので不思議に思った。一見わざと置いてあるように見えたのだが、それらがなぜそこに置いてあるのか理由がわからなかったが、実は、それは自然から得た恵みをすべての生き物と分かつという彼らイヌイットの生活様式から発生した考え方に則っていることがわかった。それは大いなる恵みをもたらす自然に対する彼らのささやかな感謝の気持ちの表れでもある。イヌイットはこう言った。
「俺たちと同じようにすべての生き物が飢えている。だからこうするんだ」近くの草原では鳥がさえずり、ライチョウが卵を温めている。イヌイットに連れられて初めて草原に出かけたとき、そこにライチョウがいる、と言われて目を凝らして見たが、ライチョウがどこにいるのか、まったくわからなかった。ほら、そこにいるだろうといわれても見つけることができなかったのである。実際に、ライチョウの姿に気づいたのは、ライチョウのすぐ目の前、ほんの2、3メートルほどの距離まで近づいたときのことであった。保護色とはよくしたものである。ちょっと離れると周りの景色に溶け込んでライチョウがどこにいるのかさっぱりわからない。日本産のライチョウの羽色のイメージがあるからなおさらのことだったのだろう。だがこれほど近づいても相手はまったく動じる気配がない。もしかしたら人間が彼女を襲わないことを知っているのだろうか。
「こいつは14個の卵を温めている――」
「どうしてそんなことがわかる?」彼は無言でライチョウをつかむとその手で彼女を持ち上げ、お腹の下に隠されていた巣に蓄えられた卵を見せてくれた。そこには確かに彼が言うとおり、そのくらいの数の卵が並んでいた。僕もライチョウを触りたかったが止めにした。季節は初冬のままのような気がしたが、確実に春が訪れ、季節は動いていたのである。
カナダ北極圏バフィン島ウォーカー・シタデルBCにて
※巻頭エッセイは月一回の発行を目標にしています。
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