巻頭エッセイ
Kimoto Satoshi Alpine Climbing School
Explorer Spirit 巻頭エッセイ 9 不老不死
子どもが不老不死の薬草を求めて山に分け入って探すうち、ついには自分自身が不老不死の薬草、すなわち冬虫夏草になってしまうという漫画があった。確か白土三平の漫画だったと思う。よく一人で山に出かけていたせいか、子ども心に、一人で山に入って道に迷ってしまってこんな目に合ったらいやだな、と思ったものだった。そんな怖ろしい記憶とともに冬虫夏草という名はいつしか心の奥に焼きついていた。
冬虫夏草はキノコの一種で、中国では古くから薬草として用いられ、漢方薬では強精強壮・不老長寿の妙薬として使われてきた。実際、漢方薬で使われる冬虫夏草の菌糸体エキスには、生物のエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)を増加させる効果があることが確認されているのだという。1993年の世界陸上選手権大会で、女子陸上チームの「馬軍団」が世界記録を次々とぬりかえる驚異的な活躍をみせたその裏に冬虫夏草入りドリンクの存在があったということで冬虫夏草が注目された。
冬虫夏草は清朝時代の医学書、呉儀洛の「本草従新」(1957年)に記載されているそうだが、それより古いチベットの薬物書「甘露宝庫」(1400年ころ)にも記載があり、チベットで薬物として使われていたものが、中国内陸部へと伝わっていったと考えられている。漢方で使われる冬虫夏草は、現在の四川省、雲南省、青海省、甘粛省、そしてチベットからネパールに広がる標高3000メートルから4000メートルの高山帯に分布するものだそうで、実際、西ネパールの高山帯の草原には時期になれば冬虫夏草がたくさん生える。この冬虫夏草はチベットと西ネパールの主要な交易物資の一つになっており、現地住人の貴重な現金収入源となっている。
冬虫夏草という名は、一般的には昆虫などから出るキノコの総称として用いられているが、本来はコウモリガの幼虫から出たひとつの種を指したそうで、その学名はCordyceps sinensis(コルジセプス・シネンシス)と名づけられている。これは地中にいる芋虫から生えてきたキノコで、細長くすらっとした形をしている。冬の間は虫で夏は草というこの不思議さが漢方薬にされた理由なのかも知れないが、こんなものをよく薬として用いる気になったものだと思う。チベット仏教そのものにそうした医学の知識があり、シェルパがお寺に薬をもらいに行くくらいだからやはり歴史があるものなのだろう。漢方ではこれを煎じるか粉末にして飲むのだという。中国ではコルジセプス・シネンシスやセミなどから生ずるものなどを含め総称して「虫草」と呼んでいて、これ以外の種も、生薬として使われているらしい。
冬虫夏草の実物は、西ネパール以外では南米ギアナ高地のアウヤンテプイでアリから生えているものを見た。草の上にアリの姿を残したままキノコが生えていたので、動いている途中で突然生えてきたのかな、などと思いをめぐらし、キノコがどういう生え方をしたのか気になったものである。このキノコは、子嚢(しのう)菌類バッカク菌目バッカク菌科の一属とされていて、養分を昆虫などから得て寄生生活をし、とりついた昆虫などの体内で菌糸の固まりである菌核をかたちづくり、やがて虫の体を突き破って、キノコ(子実体)を生じるらしい。キノコの生じ方はそうだとわかってもアリやセミがどの段階まで生きて活動しているのかは書いていない。しかし、僕としてはやはりそこが気になる。もっと詳しく知りたいが、生態は不明な点が多いという。
冬虫夏草と総称される種は、学会未発表種を含め、世界的に見ると少なくとも390種があり、このうち日本国内には約250種があるとされている。そして国内の約250種のうち日本特産種が約150種、外国との共通種が約50種、学名の決まっていないもの約50種が確認されてるという。探せばけっこう日本でも目にすることができるものらしい。しかし、日本国内ではどこにでも生えているというものではなく、どんな植物が生育しているか、どんな地形か、空気中の湿度はどうか、光が差し込む度合いや明るさ、昆虫の分布などが密接に絡み合っているらしく豊かな生態系がないとだめらしい。しかし、西ネパールの冬虫夏草産地が豊かな生態系かというとそうでもなく、日本の高山帯のように背の高い樹木が生えていない場所であるから環境としてはかなり厳しいものである。おそらく中国の他の産地も同様の条件だろう。いずれにしても姿勢を低くして探す必要があり、キノコを見つけるより難しいのはどこも同じようである。
白土三平のこの漫画や手塚治虫の「火の鳥」などのせいで不老不死には昔から興味を持っていたが、人間には体内時計があり、死はどうしても避けることができないものだとわかっている。その死をつかさどっているのは「テロメア」と呼ばれる遺伝子の一部である。人間の若さは細胞分裂して作られた新たな細胞が担うが、細胞分裂の回数を決めているのがこのテロメアなのである。テロメアは細胞分裂をするたびごとに少しずつ短くなっていき、ある長さまでくるとついには細胞分裂するのを止めてしまう。人間の老化はここから始まるのである。
だが、その一方では細胞分裂がとても活発で死などまったく関係がないようにみえる細胞もある。それは癌細胞である。癌細胞は実は「不死」の細胞なのである。ところが、癌細胞は不死の細胞ゆえにやがては体全体を蝕み、生体は死を迎えることになるのである。人間を形作るはずの個々の細胞の不死が人間の不死に繋がらないところが自然の妙である。
癌細胞の中の何が不死を生じさせているのか調べた結果、そこからテロメアが縮小するのを妨げる物質を発見し、研究者はそれを「テロメラーゼ」と名づけた。この物質を健康な細胞に加えたところ、分裂は一定の回数で止まることなく、繰り返し起きたそうである。しかもその細胞は分裂し増殖を続けても正常な状態を保っていたそうである。テロメラーゼを上手に使うことができれば人間の寿命を延ばすことができるのかもしれないが、研究は進んでいない。今はまだ人間にとって死は避けられないもので、不老不死は夢物語である。
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人間の寿命はどんなに長生きしても140歳ほどだという。毎日黒糖酒を飲んでいたという長寿日本一の泉重千代さんが亡くなったのは確か120歳だった。危険な行為を繰り返す山屋がそこまで長生きできるとは思わないが、人間の寿命を全うするというのは健康な人にとっても大変なことである。
※巻頭エッセイは月一回の発行を目標にしています。
Explorer Spirit 木本哲
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