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巻頭エッセイ
Kimoto Satoshi Alpine Climbing School
高所Explorer Spirit 巻頭エッセイ 10
エベレスト登頂成功、公募登山の62歳が山頂付近で急死
前にも見たことがある見出しだなと思って読み進んだら、事故の内容も公募登山という名のガイド登山を主催した会社も三年ほど前に起きたチョモランマ(世界最高峰エベレストの中国名、ネパール名はサガルマータ)で起きたクライアントの死亡事故と同じだった。どうして同じような事故が繰り返し起きるのだろうか。記事は今回の遭難事故を以下のように伝えている。
世界最高峰のエベレストで現地時間の15日午前、公募登山に参加した都内に住む男性(62)が、登頂成功後に山頂付近で死亡したと、登山を企画した山岳ガイド事務所「アドベンチャーガイズ」(東京都千代田区)に同日、衛星携帯電話で連絡が入った。
同事務所によると、登山隊(大蔵喜福隊長)は4月14日、成田空港を出発。15日午前8時半(日本時間午前11時45分)ごろ、エベレスト登頂に成功した。山頂で約10分間休み、下山しようとしたところ、男性が突然しゃがみ込んで意識を失って亡くなった。遺体は山頂付近の雪の中に埋葬された。(読売新聞)高所を別名「死の地帯」と呼ぶことがある。実際、標高8000mあたりの酸素量は海抜0m付近の酸素量と比べると三分の一であり、健康な人をいきなりその高さに移動させれば三分で死ぬといわれている。もちろんその場合の死因は突然死などではない。明らかに酸素不足による窒息死である。全身に必要な酸素が回らなければ人間は死ぬのが当たり前なのである。標高8848mのエベレスト山頂はもちろんその危険の渦中にあることを疑う余地はない。
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標高4000m付近で暮らしているシェルパは高所順応トレーニングをしなくても標高6500mの山ならそのまま登ってしまう。彼らならおそらく標高7000mくらいの山まで高所順応トレーニングをしなくても登れるのではないだろうか。しかし、日本で普通に暮らしている人がそんな行動をするのはかなり難しい。普通は標高4000メートル辺りが行動の限界になるだろう。富士山に何度か登って標高4000m付近の高所に順応していたとしても標高6000mあたりで再び行動の限界が訪れるのが普通である。それでも高所に強い人なら標高6500mから7000mくらいまでは平気で登れるだろう。
さらに進んで標高7500や8000mの高さに無酸素で登るのはそう難しいことではない。しかし、それは技術や体力に優れ、高所順応に時間をかけた自立した判断ができる登山者に対して言える話である。ここで話題としている公募登山という名のガイド登山に参加しているクライアントは高所順応が完璧でないことの方が普通で、クライアントの登頂の成否は酸素をどれだけ大量にしかも効率的に使って登らせるかがキーポイントとなる。
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一般的に公募登山では標高7400〜7500m付近に作るキャンプ3(C3)あたりから酸素ボンベのお世話になるのが普通だろう。たとえ行動中は酸素を吸わなくても、おそらくC3での睡眠時には酸素を使用するはずだ。一般の高所登山ではそのような高さでも睡眠用酸素を使うことはまずないが、登山期間内に高所順応がうまくできないことが多い、あるいは最初から高所順応を考えない公募登山ではこれは普通に行われるタクティクスである。
睡眠用酸素は人によってどのくらいの量の酸素を吸うのか幅があるだろうが、少ない人では毎分0.25リットル、多い人では毎分2リットルくらいにセットするのかもしれない。睡眠用酸素を多く供給すれば翌日の行動は楽になるだろうが高所順応は進まない。もちろんこの先でもし行動時に酸素を吸うことがあれば最早高所順応は進まない。だが、たとえ高所順応が進まなくても酸素ボンベを用意するお金さえあれば問題はない。酸素ボンベから吐き出される純酸素にはそれほど強力な力が秘められている。
しかし、人間の側の事情は一人ひとり異なる。登山者の中には高所に強い人もいれば弱い人もいるのだ。同じ酸素供給量であっても人によっては濃く感じる人もあれば薄く感じる人もある。皆と同じタクティクスで登っても必ずしも皆が皆同じ行動ができるとは限らない。ところが、公募登山においては基本的には技術や体力は乏しいがお金の力でなんとか登りたいという人が集まるわけだからこういった差は一般的な登山隊とは比べ物にならないほど激しいのが普通だろう。
エベレスト登山の場合、いきなりエベレスト登山に参加させるという例は少なく、事前にチョーオユーやシシャパンマなどの8000m峰、あるいはエベレストそのものなどの8000m峰に登らせておくのが一般的だが、C3あたりの標高から酸素ボンベのお世話になるのは変わらない。しかし、いくら経験を積んでいても標高8000mそこそこの山と世界最高峰では最終キャンプの高さも疲労度も大きく異なる。酸素の使用に関してはもちろんそれ以前の標高から吸う例だって見うけられるが、そんな人間は高所登山に対してはかなり弱い人間ということになる。
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標高8000メートル付近のエベレストの最終キャンプのキャンプ4(C4)からは睡眠にも行動にも四六時中酸素ボンベを使用するだろうから酸素の流量の管理は自分の命をも左右する重大な出来事になる。4リットルの容量で300気圧の酸素ボンベを1本背負って登ったとすると、毎分4リットルの割合で吸うなら5時間しか持たない。C4から頂上を往復するには900mあまりの標高差を往復しなければならないからそれでは足りないだろう。酸素が途中で切れ、酸素不足になれば途中で窒息死することになる。
毎分2リットルの供給量なら倍の10時間は持つがそれでも足りないだろう。登頂に要する酸素ボンベは少なくとも2本は用意した方が無難だ。公募登山の隊員なら行動中は毎分3〜4リットルくらいにセットするのかもしれない。いずれにしても体が高所に順応していなければその人は酸素の供給が途切れればいつでも窒息死する可能性を秘めている。窒息死をするには5分もあれば十分だから新聞に書かれているような頂上での10分の休憩は永遠の時間である。
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高所登山で突然死するなんてことは脳浮腫にでもならない限りめったに起こらない。が、酸素排出量の思惑違いによる酸素不足や呼吸時に生じる水分によって酸素を供給するパイプに氷が詰まり窒息死する事故は容易に起こりうる。だいたいクライアントの場合はこんな高さまで登らなくても、実際6500mあまりの高所でも必要なことに気が回らないということがごく普通に起こる。高所でさえそうなのだから超高所では当然起こると考えられる。超高所とはそういうところなのだ。だからこそガイドの役割が大きくなる。
公募登山に参加するような高齢のクライアントの場合は酸素ボンベを使ったとしも高所順応能力の低さゆえにボンベから吐き出された酸素が体に十分いきわたらず意識は常にクリアではなくぼーっとしているのが普通だろう。高所では酸素濃度の低さだけではなく肺にたまった水蒸気も呼吸を阻害する。たとえ酸素ボンベから純酸素が出ていようとそのことと呼吸が正常に行われていることとは等しくはならない。酸素ボンベから酸素が吐き出されていようと呼吸が正しく行われているとは限らないのである。クライアントは意識がいくぶんぼーっとしていてもおそらくそれが呼吸の弱さによるものだということには気がつかないだろう。そんな意識の中でもし酸素マスクが外れたとしたら、その時点でそのまま死んでしまうこともありうる。
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ガイド登山中の事故は一般的にガイドはなかなか死なない。ガイド自身はそこに存在する危険をよく知っているし、その対処法も知っている。もちろん他人だけではなく自分自身のことさえ割合客観的に見ることができる。また、自分自身の体調を冷静に見抜く目も持っている。だからどんな状況に陥っても意外にしぶといものだが、知識や技術や体力や経験に乏しいクライアントは自分自身の行動に精一杯でほかの事に気を使う余裕などまずない。クライアントは弱く、また脆いというのが現実なのである。だからこそガイドは生き残ってもクライアントは死んでしまう。
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その違いはもちろん登山経験の違いから生ずる。ガイドがクライアントの命を脅かすファクターについてどういう判断を下すかはクライアントの命の存続に直接かかわる問題である。この登山ではガイドはどんな行動をしたのであろうか。ガイドはクライアントに対してどんなケアをしたのであろうか。
登山は自己責任が問われることが多い。しかし、ガイド登山ではクライアントの自己責任ばかりを問うことはできないだろう。登山中のすべての危険を想像し判断できるガイドが、事故を起こさない、事故を起こさせないようにクライアントに対してどんなケアをしたのかがガイド登山では重要な問題なのではないだろうか。実際先を見通せないほどの力しかない者がガイドになるなんてありえないことである。だれより先を見通せるからこそ余裕をもって判断を下せるのだし、安全に対処できるはずなのだ。このエベレストの事故におけるガイドとクライアントの行動はおいおい明らかになるのだろうから、事故の原因もそこから判断できるのかもしれない。
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事故はさまざまな要因が絡み合って起こるのが普通だが、登山においては登りたいという強い気持ちがからんで起きることが多い。中でもクライアントよりガイドの方が強く登りたいと思ったときは最も事故が置きやすい危ういシチュエーションとなる。それはガイドは状況判断に長けているがクライアントは状況判断すらできないのが普通なのだということを考えれば当然導き出せる結論である。
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