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クワガタソウ

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今年のように天候不順な年は沢登りがいい。雨の降り方と増水の目鼻さえつけば、安全な遡行を考えることができ、たとえ天気が悪くても登りに行く沢にはまったく困らないからだ。今年も4月から沢登りを楽しんできたが、梅雨明け間近と思われる7月最後の週末も沢登りに出かけた。生憎、初日は天候不順の長梅雨のせいで雨が降ったが、2日目は時の経過とともに雨が降りそうな気配が遠ざかり、空を覆う青葉の間からは日が差し込み、沢床にまで光が溢れた。数日前からミンミンゼミが鳴き始め、梅雨明けが間近なことを知らせていたので、出発点に戻ったときには、空気の変化からいよいよそのときが来たと確信した。

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沢の側壁を彩るイワタバコはとうに盛りを過ぎ、花はついていても色あせ、多くは岩の上に落ちていた。しかし、滝の落ち口にはイワタバコに替わって今を盛りとばかりにヤマユリが白い大きな花をつけていた。水量の多い大きな滝の真下に立つと、流水が起こす風が滝壺の表面を渡って涼しげな風を吐き出してくる。うまい具合に天井の青葉を掻き分けた木漏れ日が滝身に光を当てると、滝を落ちる水流が起こした水煙に虹が立ち、滝壺や淵の水底が浮かび上がって見えた。

沢にはさらさら流れる滑滝があるかと思えば、水をほとばしらせる垂直の滝や勢い余って空中を流れ落ちるオーバーハングした滝もある。流れ落ちる水はそれらの地形に対応したさまざまな音を立て、瀬や滝を流れ下る。そんな瀬や滝に光が当たれば水面がきらきら輝き、まぶしい。山肌深く切れ込む沢を遡行するのは、さしずめ音と光が織り成す天然のシンフォニーホールで繰り広げる山旅である。

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そんな楽しい沢登りは無粋な仕事道が交差する地点で終えた。僕たちは沢靴から山靴に履き替え、荷を整理し、水流から離れる準備をする。準備が一段落し、これからの歩行に備え、腹ごしらえをしていると、咲きかけ小さな花が一輪ふと僕の目に止まった。

まだ開き切ってはいないが、遠めに見たところでは、その花はどうやらクワガタソウのようである。だが矮小で里山で見るものほど大きくはない。そんな些細なことが気にかかってその花に近づいてみると、花はもちろん、葉もクワガタソウそのものであった。クワガタソウは周辺に何本かあったが、この付近にあるクワガタソウは皆矮小であった。もしかしたらその原因は標高が高いからなのかもしれない。

このクワガタソウには花は一つしかついていなかったが、よく見ると、たくさんの実がなっていた。普段は花にしか目が行かず、実をしげしげと眺めたことなどない。たまたま一輪の花が興味を起こさせたのだが、この実をよく見ると、まるで新聞紙で折ったカブトのようであった。クワガタにカブト、一つの花に昆虫が二匹――。そう考えると何だかおかしくなった。

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クワガタソウの名の起こりは、花の雄しべがクワガタのアゴのように体から大きくはみ出していることから起こったものだろうと、何となく僕はずっとそう思い続けていた。だが、実際のところ、名前の起こりは花の格好ではなく、実の形から起こったものであった。つまり、三角形の実(実は菱形)を包むガクがまるで兜のまびさしの上についている前立て、つまりあの角のような突起に見えることからついたものなのである。実際初めてまじまじと見るクワガタソウの実は兜そのものに見える。兜についているあの前立てを「鍬形」というらしいのだが、そこからクワガタソウという名前がついたのである。

クワガタソウは身近にある山野草の一つだが、何気なく気を引いた一輪の花が、クワガタソウの名の起こりまで考えさせたことに驚くが、楽しいできごとである。北岳ではミヤマクワガタが満開だったが、これにもそういった実がなるのであろうか。その実は兜のように見えるのだろうか。次に行くときには注意深く眺めてみたい。北岳のミヤマクワガタは、北アルプスのミヤマクワガタに比べると、はるかに赤みが強い。

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