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マッターホルン北壁=日本人冬期初登攀

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 『アルピニズム……それは筋肉や脚や腕の問題だけではない。成否を決めるのは精神だ。ただ、その精神だけなのだ。山に挑むために必要なのはただ、肉体的な訓練だけではない。もしそれで充分なら、ことはあまりにも簡単すぎはしないだろうか。それにはやはり精神が必要なんだ。
 私は重力や、均衡などという物理的な諸法則に逆らおうとしたのではなく、自分自身に戦おうとしたのだ。今度の計画を準備した時も、私は普通のアルピニストがやるような何日も費やしてのルートの下調べやトレーニングはしなかった。ただ、当然要求されると思われる困難にいつでも精神が適応するようにしておこうと考えたのだ。

 これは冬期グランドジョラス北壁初登攀の際の、ワルター・ボナッティの記した一文であるが、僕には充分に理解することができた。
 厳冬のマッターホルン北壁を登るには、勇気と強靭な体力、鉄の意志、そして自分自身が絶対に登れるんだという強い信念を持つこと、すなわち精神で大北壁を圧倒することが必要であった。僕はアルプスに出発するまでの一年間は、諸々のことで精神に絶対に負担をかけないようにし、マーッターホルンとアイガー北壁だけのことのみ考えて過ごしたのである。競走馬と同じように黒い目隠しをつけて……。』

小西政継の処女作「マッターホルン北壁日本人冬期初登攀」という本の「山への憧れ」という章にこういう文章があった。今まで何度も読もうと思いながらも読み始めるたび出だしの数行を読んで挫折し続け、ついぞ読む機会を失っていたのだが、ふとしたきっかけから何の気なしに読み始めた。そこでこの文章に行き当たったわけだが、この文章を引用した小西政継の気持ちはよくわかる。山は、ことに岩登りをしなければ登れない山は、技術や体力だけでは登れない場面に何度となく出くわすのだ。当然ながらワルテル・ボナッティが記すこのアルピニズムはもちろん登山を指しているのではない。アルピニズムはアルプスの困難な岩壁を攀じ登る行為すなわち登攀、つまりアルパインクライミングそのものを指して述べた言葉なのである。

この登攀以前、小西政継はヒマラヤの峰、プルビチャチュ南壁の登攀計画を立てていた。しかし、計画実行を目前にして甲斐駒ヶ岳の冬山合宿でヒマラヤでの登攀を誓った後輩ら3人を失い、さらにそれに追い討ちをかけるようにネパールがヒマラヤ登山禁止令を発令し、小西政継がヒマラヤにかけた夢は永久に潰えてしまった。突然閉ざされたヒマラヤの登攀計画の夢に挫折と落胆を味わつつ、一方では甲斐駒ヶ岳の遭難事故によって山岳会の中から山学同志会の方向性に強い批判を受けていた。しかし、山学同志会とは、より高く、より困難を追求していく先鋭的なアルピニストの集団であるとの自負と信念からアルプスの高峰の冬期季登攀計画を起こし、山学同志会の方向性を保つためにも何としても成功を勝ち取ろう、勝ち取らねばならないと考え、あらたな挑戦にかけていたのである。この自負と信念がアイゼンを失いながらもマッターホルン北壁の日本人冬期初登攀を成功させ、のちの山学同志会を作り上げていくことになる。このとき小西政継は29歳であった。青春を山にかけた小西政継の一文を今頃になって読むとは遅きに過ぎたが、文章からは小西政継という人の気持ちがひしひしと伝わってくる。小西政継が山学同志会にかけるこの気持ちは後輩たちに受け継がれ、そのさらに後輩から登山や登攀を学んだ僕自分の心の中にも間違いなく醸成されている。

*

『山での死はアルピニストにとって敗北には違いないが、いつも危険極まりない岩と氷の垂直の中で活動するアルピニストの死は運命的なものがたぶんにあり、敗北と一概に言いきれない面もあることは事実である。僕にしても山での予測できない危険に突き当たり、この悲しい運命に従わねばならぬ時が、もしかするといつの日かやってくるかもしれないということは、自分自身で十分知っているつもりである。僕が不幸にして山で死に、墓を作ってもらうとしたら、シーズンになれば大勢の見物人が集まるツェルマットの墓地のようなところでなく、誰の訪れもない岩と氷の峰の麓がいいと思う。シュムックのブロード・ピークの原書にある、チョゴリザのよく見えるバルトロ氷河のモレーンに眠るヘルマン・ブールのケルンの墓は強く印象に残っている。』

これは「ツェルマット」の章に書かれた文章である。小西政継がマナスルで亡くなって10年が経つ。それにしても小西さんは文章が上手だな。自分の思いを素直に伝えてる。海外登山をするために文献をあれこれあたってノートにまとめたのがいい訓練になったのだろうか。そういえば、エンジェルフォールの写真が欲しいというので巣鴨の事務所に行ったことがあるのだけれど、そのとき「山と渓谷」誌のエンジェルフォールの原稿を読んで、こんなのちょいちょいだろ、と言われたのを覚えている。原稿を書くのはちょいちょいどころの話じゃなかったけれど、何でも一生懸命にやることが大切なんだろうな。

鉄の意志を持つ男――。小西政継はこう呼ばれることが多い。あの厳つい顔からは確かにそう見える。小西さんとは小西さんの長い人生のほんの一時期一緒に山登りをしたに過ぎないけれど、その厳つい顔の裏には優しさがあることを僕は知っている。

『山で恐怖を感じない人がいるとするなら、その人は気の毒だと言わなければならない。なぜならその場合その人は自覚のない人で、その恐怖に打ち勝つという最高の喜びを味わうことができないからだ……。』

マッターホルン北壁の登攀開始前夜、胸を締めつけられるような不安を感じながらもワルテル・ボナッティの「わが山々」の中の一節を思い出し、自分自身を鼓舞し、内なる恐れを闘志に変えて小西政継は陰鬱な北壁に挑んだのである。過酷な登攀が続く北壁に意気消沈した2人のパートナーに代わってアイゼンを失くしていた小西政継がリードして登ることになった頂上岩壁の登攀では、一瞬の油断に墜落の冷や汗をかきながらもエドワード・ウインパーの言葉を引用して身を引き締める。

『山を登りたいなら登りなさい。しかし慎重さを欠いたなら勇気も力も何もならないということを忘れてはならない。一瞬の不注意が一生の幸福を失うかもしれないことを忘れてはいけない……。』

小西政継が引用する文章の主であるワルテル・ボナッティもエドワード・ウインパーもマッターホルンの初登頂や初登攀に一時代を作り上げた先人である。小西政継が使った当時の登攀道具や登攀技術は、僕が山登りを始めたころには過去ものとなり、小西政継がマッターホルン北壁を冬期登攀した当時とはすっかり様変わりしてしまっていた。さらに変化した今の装備や登攀技術をもとにマッターホルン北壁の写真を眺めれば、そこから受けるイメージにはその当時ほどの困難さは感じられない。しかし、これが今なら、今の技術なら、アイゼンなしでリードして登る気持ちにはならないだろう。道具や衣類は様変わりしてしまったが、これから困難に挑もうとするときの気持ちは昔も今も何一つ変わってはいない。その文章からは小西政継の若さやマッターホルン北壁の登攀にかける思いが素直に伝わってくる。自分が主体となってマッターホルン北壁を登り、自分自身の言葉で素直に表現したものだからだろうか、そのときの小西政継の思いは少しも色褪せていない。

山の本

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