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槍ヶ岳の思い出 2
(Recollections of Mt. Yarigatake)
僕の槍ヶ岳初登頂
僕の初めての槍ヶ岳登頂は穂高で行われた山学同志会の夏合宿期間中のできごとだった。それは1979年のことだ。穂高の涸沢にベースキャンプを建設した僕たちは、涸沢から北穂に上がり、キレット、南岳、槍ヶ岳の肩、東鎌尾根、水俣乗越、貧乏沢とたどって、千丈沢に出、北鎌沢出合でビバークした。翌日は北鎌沢を登って北鎌尾根に出、北鎌尾根を縦走して槍ヶ岳山頂に立った。そこからさらに槍沢を下って横尾に出、再び横尾谷を遡って涸沢に戻り、1泊2日の小旅行を終えたのだった。槍ヶ岳登頂がどうのこうのという感情はなかったが、槍穂の岩稜歩きは楽しかった。初めて槍や穂高の山域に入るのに昔ながらの登路である徳本峠を越えて入ることができたのも何にも変えがたい幸運だったと思う。この山行は山学同志会がどんな山岳会だかまだよく理解していなかったころの話だが、島々宿から歩き、徳本峠を越えて初めて穂高の山並みを見た印象とともに忘れがたい山行だ。積雪期槍ヶ岳初登頂
残雪期を含めた積雪期の槍ヶ岳登頂は、その翌年のゴールデンウィークを利用した10日間の春合宿のときのことであった。このときは横尾から穂高の屏風岩を登って屏風ノ頭から前穂高岳北尾根を縦走し、途中北尾根4峰正面壁を登り、さらに北尾根から吊り尾根を縦走して奥穂高岳に行き、涸沢岳から北穂高岳を縦走し、滝谷を継続登攀し、北穂高岳、キレット、南岳、中岳、大喰岳、槍ヶ岳を延々縦走して槍の肩に着いたのだった。当時はこのころでも毎日雪が降り、真冬のような状態だった。槍ヶ岳の肩についたその日、パートナーである先輩は軽い凍傷になっていたので、自分は槍ヶ岳から独りで下山するからお前は独りで唐沢岳に行け、と 言う。この山行の最終目的地は唐沢岳幕岩の登攀だったのだから、もしこの計画を最後まで実行するなら、ここ槍ヶ岳から先は独りで進まなければならなかった のである。
何度か雪山経験があるといっても今シーズンの冬山と前年の春山の1回だけだから一人で安全確実に山行をこなせるほど数多くの雪山登山経験を積んでいるわけではない。 そんな人間が簡単だから大丈夫だよと言われたところではいそうですかと簡単に納得することはできない。本格的に積雪期の登攀を始めてまだ 半年にも満たない時期の山行だったから当然のように不安は募る。本当に唐沢岳まで独りで行くことができるのだろうか。もし自分が唐沢岳幕岩まで行くと決めれば、槍ヶ岳の小屋でパートナーとは別れ、ここから先は単独行となる。 ここまで同様、基本的にはロープを使って行動するわけではないから独りでも二人でも抱える危険はもちろん同じなのだが、先輩がいるといないのとでは精神的に ずいぶん違う。頼れる人間がいるのといないのでは雲泥の差である。
独りで唐沢岳幕岩まで行くことを心を決めて、槍ヶ岳の肩で先輩と別れ、槍の穂に上がり、北鎌尾根を登ってくる人たちとすれ違いながら北鎌尾根を独り下っていく。北鎌沢が突き上げるところまでは前年夏の経験があるが、そこから先は唐沢岳幕岩の出合まで僕にとっては未知の領域だ。槍ヶ岳の穂先からの下りは天気がいまいちで、岩と岩の間には氷が詰まり、非常に悪く、他のパーティーがロープを使って登っているところを独りでクライムダウンするのは何とも奇妙な心持ちだった。
この山行以後、何度槍ヶ岳を訪れたかわからないが、槍ヶ岳山頂の形は昔も今も変わらない。この高さ。この狭さ。北鎌尾根に続く頂上台地の細り方と狭い台地の先にある小さな祠。そして槍ヶ岳北鎌尾根の下り始めの急峻さ。当時は穂先を往復するルートが一つしかなかったのに上りと下りの2ルートができて久しい。槍ヶ岳の山頂はいつまでこの形を留めておけるのだろうか。
こんな登山を思い出していたら、トランゴやバフィンの登攀よりも、ENSAでのガイド研修よりも、山学同志会の山行の方がはるかに面白かったなと思う。この頃の登山には、小さいころの裏山探検と同じ無鉄砲さと繊細さがあった。今ガイドができるのもこんな激しい登山をしていたからに違いない。一度身につけた登山スタイルや登山技術はそう簡単に 変化するものでも失うものでもない。昔もそうだが、今も個人山行をするならこんなスタイルが好きだ。
槍ヶ岳開山
槍ヶ岳開山は富山出身の浄土宗の念仏行者播隆上人(1786―1840)によって1828年になされた。西の笠ヶ岳から初めて槍ヶ岳を見た播隆上人は、鋭く天を突く孤高の姿に心を突き動かされ、開山を決意したのである。古今東西尖ったピークには何かしら心を突き動かされるものらしい。1928年開山というと播隆上人は齢42か43。178年も前の時代のことだから立派な中高年登山である。困難を極めたのは今と同じ槍の穂先の登攀で、上高地周辺の地理に明るい案内人中田又重郎とともに登った。ということは播隆上人の槍ヶ岳登山はガイド登山の走りであるかもしれない。また、播隆上人の呼びかけによって、後続の登拝者のために鉄の鎖がかかったのは1840年のことというから、槍ヶ岳が一般の人々に開放されてすでに166年の歳月を経ていることになる。播隆上人は里人の浄財で作った仏像とともに命がけで槍の穂先に登り、山頂に安置した。山頂の祠は代替わりしたとはいえそのような長い年月にわたって登拝者を見つめ続けているのである。そんな思いを胸に秘めて穂先に登るのもいいだろう。登ったあとには槍ヶ岳山荘の売店で「槍ヶ岳開山 播隆」穂刈三寿雄・貞雄著を買って、笠が岳を再興し、奥穂高岳をも初登頂した播隆上人に思いを馳せるのもいい。
写真=尾崎竜二
落日
1日の終わりは物悲しい。だが、これですべてが終わるわけではない。日は沈む。それは新たな明日を迎えるためにどうしても欠くことができないものである。しかし、その新たな明日は加齢を生み、加齢は体に衰えを生む。長年にわたって培った実力を活かして無理を押し通すこともできるかもしれないが、そんな今こそ基本に忠実になるときなのだろう。老獪という言葉はそんな人のためにある言葉なのかもしれない。登山はいつもいつも生死に関わる重厚な判断を下さなければならないわけではない。もちろん軽い気持ちで登ることもできる。だが、命に関わるような失敗は、たとえ人生の落日が迫っていようとも、たとえそれが軽いものであろうと重い物であろうとも一度もできないのが原則であり、鉄則だ。登山における判断はあくまでそこを基本として始めなければならない。だれの命もたった一つしかない貴重なものだ。
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