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週刊文春記事  特別寄稿 東野圭吾  坂東眞砂子『子猫殺し』について

最初にこのエッセイを読んだ時には、驚愕すると共に、ひどい不快感に襲われた。
坂東眞砂子は私の友人である。
尊敬もしている。
それでもやはり反発せずにはいられなかった。
早速反論を考えた。
私が真っ先に思いついたものは次の三点だ。
・「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」と書かれているが、果たしてそうだろうか。
「子種」は厳密な意味で生命ではない。
しかし「子」は生命である。
生命でないものを取り去るのと生命を葬り去るのは全然違うのではないか。
・「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。」と主張している。
同感だ。
それがわかっているのなら、最初から飼わなければいいのではないか。
・「子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。」と断言しているが、
生まれた子猫も全て飼えば、問題が解決するではないか。
坂東眞砂子本人が覚悟していたように、このエッセイには多くの反論や抗議が集まった。
それらの主張する内容も、概ね上記三点と合致しているように思われる。
そこで私は逆に疑問に思った。
あの坂東眞砂子が、万人に簡単に反論が思いつくようなエッセイを書くだろうか。
「生」について、常に真摯に考え続けている人物である。
そこで私は自分なりにもう一度考え直すことにした。
じつは私も猫を一匹飼っている。
ただし雄だ。
独り暮らしの私に十年以上も付き合ってくれている。
その猫を眺めながら坂東眞砂子のエッセイについて考えた。
キーワードは、「もし猫が言葉を話せるならば」というものだった。
うちの猫は、私に何をいいたいだろうか。

私が読み落とした箇所

突然はっとした。
これまで一度も考えたことのない想像が頭をよぎったからだ。
十二年前、家の裏の林で子猫を拾った。
捨て猫だったのだ。
体重は二百グラムちょっと。
目も満足に開いておらず、そのまま放置すれば間違いなく死んでいただろう。
私はその猫を拾い、病院に連れていった。
「うまく育つかどうかわからない」といわれながらも看病していたら、やがて元気になった。
そのまま、何となく飼い始めた。
猫の飼い方について勉強し、「子供を作らせる気がないのなら去勢したほうが飼いやすいし、
辛い発情期を迎えさせなくて済むので猫のためでもある」という考えのもと、
しかるべき時期に去勢手術を施した。
私は自分のしたことに対して、これまで一度たりとも疑問を持ったことがない。
私の目には猫は幸せそうに見えるし、人からも「幸せそうだね」といってもらえる。
私は悦に入っていた。
だが果たしてそうだろうか。
あの雨の夜に「にゃあにゃあ」と鳴いていた子猫は、本当に今のような状況を望んでいたのだろうか。
たぶん、拾われて元気になった時点では、ああよかったと感じていたと思う。
だがその後はどうか。
狭い家の中に連れ込まれ、一歩も外に出られなくなった時にはどう感じただろうか。
さらに子孫を残す能力を問答無用で奪われた時には、自分の「生」について何を考えただろう。
(自分は一体何のために生まれてきたのだろう。
この人間と一緒にいれば、生きていくことはできそうだ。
しかし自分に何かの価値があるのか。
もしあるとすれば、この人間の愛玩用としてのものだけだ。
自分は本来、子孫を残すために生まれてきたはずなのだ。
その能力はもうない。
それなのに生き続ける意味があるのか。
一体何のために生かされたのだ。
こんな空しい時を過ごすくらいなら、あの雨の日に死んでいたほうがよかったのではないか)
こういうふうには考えたくはない。
そんなはずはないと信じたい。
しかしそれを確認する術はないのだ。
仕方なく私は猫に語りかける。
「家に閉じ込めたり、手術をしたことを恨んでいるかもしれないけど、どうしようもないんだ。
おまえをそのまま外に出して、不幸な子猫を増やすようなことはしたくないんだよ。
おまえがそうだっただろう?
どこかの雌猫の飼い主が、生まれた子猫の扱いに困って捨てたんだ。
あのままだとおまえは死んでいたんだよ」
この自らの呟きで、あることに気づいた。
もう一度、坂東眞砂子のエッセイを読み返してみた。
「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」の前に、彼女はこう書いている。
「子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。」
完全なる私の読み落としだった。
彼女はちゃんと、「この問題に関しては」とことわっているではないか。
倫理の問題ではなく、社会的責任を果たすという問題に関しては、ということなのだ。

 

猫に避妊をする意味

私の猫は、社会的責任を果たさない人間によって捨てられたのだ。
もし私に拾われず、さらには奇跡的に生き延びることができたなら、
彼は間違いなく野良猫となり、人間の生活環境を害していただろう。
飼う気がなく、引き取り手も見つけられなかったのならば、彼の母猫の飼い主は、
社会的責任として彼を殺すべきだったのだ。
そんなことはしたくないから、良識ある飼い主は避妊手術をするのだ、という意見はあるだろう。
私も同意見だから、自分の猫に手術を施した。
しかし前述したように、そのことを当の猫がどう捉えているかは人間にはわからない。
もしかすると、とてつもなく残酷なことかもしれないのだ。
坂東眞砂子は、「獣の雌にとっての『生』とは、盛りのついた時にセックスして、
子供を産むこと」だという信念を持っている。
だからこそ、「どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない。」と書いているのだ。
生きる意味を奪って人間の愛玩動物として生きることを強制する残酷さと、
セックスの喜びは与える代わりに生まれた子供を殺す残酷さを比べ、
どちらがより残酷かはわからないといっているのだ。
この感覚を非難することなど誰にもできない。
人間には猫の気持ちなどわからないからだ。
では、なぜ飼うのだ。
最初から飼わなければいいのではないか。
彼女のエッセイを読んだ人はまずそう思うに違いない。
ここで私は再び自分の猫を見ながら考える。
こいつをもし私が飼わなければどうなっていたか。
彼の道は次の三つしかなかった。
・死ぬ
・野良猫となり害獣扱いされる
・誰かに飼われる
野良猫を害獣扱いするとはかぎらない、という人がいるかもしれない。
しかし今の社会は害獣扱いするという方針で統一されている。
だから環境省も、地域猫(野良猫のことを環境省ではこう呼ぶらしい)について、
里親を探すなどの対策をしているのだ。
そもそも野良猫として生きるという道を人間が認めているというのなら、
坂東眞砂子を苦しめる社会的責任というもの自体が存在しないことになる。
自分の猫について考えたが、この世のすべての猫について、選べる道はこれだけしかない。
そこで坂東眞砂子の飼っている三匹の雌猫のことを考える。
どのような経緯で、彼女がその猫たちと出合ったのかはわからない。
しかしその時、彼女が猫たちに特別な愛着を持ったのはたしかだろう。
その猫たちにも、前述の三つの選択肢が与えられている。
坂東眞砂子は、どれを選ばせるかを考えることになる。
彼女がその猫たちのことを真に愛したならどうか。
「死ぬ」も「害獣化」も望まないだろう。
では、別の誰かに飼われることを望むか。
だがその誰かは、坂東眞砂子が尊重する「生」をどのように捉えているかはわからない。
社会的責任の果たし方として、避妊手術を選ぶかもしれない。
それは彼女にとって不本意なことのはずである。
結局のところ、「獣の雌にとっての『生』とは、盛りのついた時にセックスして、
子供を産むこと」という信念を貫くには、彼女が飼うしかないのだ。
ここまで考えて、私は坂東眞砂子のいわんとしていることがようやくわかりかけてきた。
彼女はエッセイでこう書いている。
「人は神ではない。
他の生き物の『生』に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。」
我々人間は猫に対して、「飼う」、「殺す」、「害獣扱い」の三つしか選択肢を持たない。
そのことがそもそも間違いなのだ。
飼っていないからといって責任逃れなどできない。
動物を飼う習慣を容認しているすべての人間に、その責任がある。
野良猫を害獣扱いする人間も同罪である。
人間は「猫を飼う」という習慣を持つと同時に、「飼わない猫は殺す」という方針も決めたのだ。
生き物の命は尊い、というのなら、なぜその方針を変えようとしないのだ。
三つ目の反論として私は、生まれた子猫もすべて飼えば、問題が解決するではないか、と書いた。
しかし、解決などしないと思い直した。
雌猫は子猫を産み続けるだろう。
さらにはその子猫たちもやがては成長し、子供を作るだろう。
それらすべてに対して社会的責任を果たすことは不可能だと坂東眞砂子は判断したわけだ。
この現実的判断を責められない。
結局、彼女はどこかの時点で「子猫殺し」を敢行せねばならなくなる。

私の猫は幸せといえるのか

タヒチの状況は私にはわからない。
しかし次々と生まれる子猫の貰い手を探すことは、この日本以上に困難だろうということは
容易に想像がつく。
坂東眞砂子が正義を通すには、動物を勝手に野生と愛玩用に分けた人間社会を変えるしかない。
しかしそれは現実的に不可能だ。
彼女は自分の無力を自覚し、三匹の雌猫の「生」だけは守ってやりたいと考えたのだ。
残酷なことに手を染めつつ、その猫たちの生きる意味だけは奪いたくなかったのだ。
もちろん、「子猫を育てる」という生き甲斐は奪っている。
それについてはたぶん彼女は、三匹の雌猫たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだろう。
だがある程度の子育てをさせてから、その子猫を奪って殺すという残虐行為までは、
さすがの彼女もできなかったと思われる。
私は自分の猫に対して、本当に正しいことをしたと断言することなどできない。
彼が幸せだと考える根拠など一つもない。
坂東眞砂子の猫たちが確保している「生」は、すでに取り上げてしまった。
去勢手術など施さず、自由に外に出してやったほうが、彼にとっては幸せだったのかもしれない。
それをしなかったのは、私の都合だけである。
私は「子猫殺し」はせずに済んだが、一匹の猫を虐待し続けているのかもしれない。
私は罪深い人間だ。
猫を飼うという習慣を容認し、実際に自らも飼い、多くの捨て猫が保健所で処分されている
現実を知っていながら何もしていない。
そんな私に彼女を非難する資格などない。
自ら苦痛を引き受けながら愛猫たちの「生」を守ろうとしている坂東眞砂子に対する反論など、
何ひとつ浮かばない。
自分には罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればいい。
その非難は私に対して向けられたものでもある。
その言葉を私は真摯に受け止める。

 (全文掲載)

子猫殺し

週刊朝日記事    坂東眞砂子    寄稿 「子猫殺し」に抗議殺到の坂東眞砂子が誌上で反論!
 

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