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人間の体は、年齢、体重、性別に関わりなくほぼ一定の温度に保たれている。もちろん皮膚の色や背の高さ、体の太り具合といった外見上の違いとも関わりなく体温は一定である。たとえ極地の寒気の中にいようと砂漠の熱風の中にいようとその温度はおよそ36.8度である。この数字は口内温度の平均値である。どうやらこの温度が人間の脳の働きやエネルギー代謝に関わる酵素の働きに最も都合がいい温度らしい。そのため人間の体はこの温度を一定に保つためにいろんな対応をする。体の熱を発生するのはもちろん代謝機構であるが、こまかい調節にはふるえや発汗、毛細血管の拡張・収縮、排泄などを活用する。
普通、標準的な体温を上回ると発熱という現象になり、人間は熱がでたと認識して皆体を冷やすなり薬を飲むなりして体温を下げようとする。体温が5%上昇して38.6度になったとするとかなりの高熱である。さらに上がって体温が40.5度になったとすると体温の変化はおよそ10%に過ぎないが長時間続けば生命の維持に危機が迫る。もし体温が15%も変化すれば42度を超え死に至るだろう。
逆に、標準的な体温を下回る場合は低体温症と認識して体を温めなければならないわけだが、普段の生活の中ではそういった感覚に陥ることはまずない。ちょっと肌寒く感じれば、衣服を重ね着したり暖房をつけたりして自然に体を温めようとするからである。だから、ほとんどの場合、低体温は問題にはならず、病気という認識も生じない。だが、山では違う。山では時として体温の低下を防ぐことができず、深刻な問題を引き起こす。
その深刻な問題とは低体温症と呼ばれる疾患のことである。低体温症とは体の中心部の体温(体幹温度)が35度を下回った状態をいう。これは単純に考えると体温が5%低下したことに相当する。体温が35度なら意識は正常だが、寒気がし、ふるえが始まり、体は自ずと体温を上げようと努力する。さらに低体温症が進行してこれを下回るとふるえが大きくなり、眠気に襲われ、歩行に異常をきたす。まっすぐ歩いているつもりでもよろけてしまうのである。20メートルほどの区間で歩行を観察し、もしまっすぐに歩けないような状態なら、低体温症を疑った方がよい。さらに体温が低下して33度、およそ10%変化すると、周囲に気を配ることなどできず無関心状態に陥ってしまう。このような状態で放っておけば、手当しない限りいずれは死を迎える。
体温31度、およそ15%の変化はふるえが停止し、人間は生存の努力を止めてしまう。運動失調が起こり、歩行はもちろん起立さえも困難になってしまう。意識は支離滅裂となり、しだいに応答しなくなる。この状態では救命措置が必要になるが、このような状態に陥れば搬送しなければならず、一刻も早い救助要請が必要になる。もしこのまま放っておけば数時間のうちに死んでしまうだろう。
体温28度、およそ25%も下がればついに昏睡状態に陥るが、搬出する手立てがあればまだ助かる可能性はある。体温低下によってエネルギー代謝は落ちるが、低体温によって脳の損傷が妨げられるからである。体温25度以下になると仮死状態となり、20度を下回ると脳波が消失し、心停止する。このときの体温25度は正常値の55%である。だが、約44%、16度まで下がっても救命した例があるそうだから最後まで諦める必要はない。
ここで注意しておかなければならないのは低体温症は凍傷とは根本的に違う病であるという点である。凍傷は皮膚が凍結する氷点下の気温にさらされることによって起こるが、低体温症は何も氷点下の気温にさらされなくとも起こるのだという認識が必要である。考えればわかることであるが、中心体温(体幹温度)を35度以下にする要因は何も氷点下の気温だけではないのだ。氷雨に濡れたり、濡れた体が風に晒されたり、クレバスに落ちて挟まったりしても起こる。
日本で低体温症が最も発生しやすいのは実は夏の盛りを過ぎた秋口から冬の初めにかけてではないだろうか。この時期は体が寒さに慣れていないうえ、気持ちの上でも下界ではまだ秋口という思いがあり、油断をしてしまう。シベリアで発生する寒気は9月も下旬になると強くなる。小春日和の日は何とも言えないほど気持ちのいいものだが、一度太陽が雲に隠れて風が吹けば一気に気温が下がるし、雨が降れば氷雨である。体に纏わりつく氷雨は乾いた雪より何倍も危険が大きい。これに次ぐのは春先だろう。春先はしだいに気温は高くなってくるが、山の上はまだ気温が低く、空から降ってくるのは氷雨かみぞれである。それは雪より質が悪い。
以前、ヒマラヤの高所にある池で泳ぐ人のことが話題になったことがあるが、彼はもちろんその池で泳いだわけではない。単に浅い池に浸かっただけである。浅い小さな池なら日中の強い日射で水が暖まりもする。ところが、8000メートル峰を登りにいくためにネパールのゴサインクンドで高所順応をしていたとき、この話題が出たせいもあったのだろうが、仲間の1人が4600メートルあまりの高所にある湖で対岸まで泳ぐと言って実際に泳ぎ始めた。結果は、彼は5メートルほど沖に進んで必死の形相で泳ぎだした岸に戻ってきた。彼が泳いでいたのはわずかな時間にも関わらず、泳ぐ動作をすること自体がやっとのことで、体の動きは見る見るうちに阻害されていった。実は、岸に戻ってきた彼の体は湖水のあまりの冷たさにわずかな時間で硬直してしまい、溺れる寸前だったのである。もし、彼が足も届かない深みにはまってしまっていたとしたら彼を助けることは叶わなかっただろう。満面に湛えた湖の水は雪解け水や永久凍土から染み出た水で、表面は日射の影響を受けて多少暖まっているとはいえ湖水の水温は泳ぐには適さないものだったのだ。
体が低い気温で硬直するこのような例は夏の日にも経験することができる。たとえば、雨が降らなくても、厚い雲に覆われ、陽射しがなく、風が少し出ているときにずっと素手で歩いていると、3000メートル近い峰などではもともと気温が低いので、たとえがまんできる程度の寒さではあっても、しだいに手がかじかんでくる。そのまま歩き通して山小屋について宿帳に住所を書こうとすると文字がうまくかけず、唖然とすることがある。体温が一気に冷えるわけではないので寒さをがまんできるのだが、さすがにびっくりしてしまう。おそらく気温は14度か15度ほどだったのだろうが、こんな高温でもそういった状態に陥るのである。もちろん、こんな症状が出るのは、終始低温と風に晒されている手先だけだが、この状態が全身に現れるのが低体温症と考えて間違いはない。そう考えると、何も体が凍りつかなくても体が芯から冷えさえすればその機能に齟齬をきたすのは明白である。産熱より放熱の方が強ければ体は自ずと冷えていくのである。
万が一低体温症になったとしたら、その治療方法は体の内部でエネルギーを作り出すか外部から熱を作用させて体を温めるしかない。低体温症初期で割合元気であれば、ツエルトを被り、温かい飲み物を与えるか作って飲ませるのがよいだろう。飲み物は葛湯やお汁粉、スープなど冷めにくいものがよい。熱ければゆっくり飲むしかないから体を温めるのにもちょうどいい。登山では行動中の汗や呼吸によって脱水が進んで、血液が流れにくい状態になっているのが常なので、保温と同時に電解質や水分、脳の栄養になる糖質の補給も大切である。
もう少し症状が進んでそれらを受けつけない状態なら、まずは濡れているものを乾いたものに交換して、シュラフに入れるなどして暖をとる。衣類やシュラフなどは最初に温めておかないと衣類やシュラフが温まるまでにだいぶ熱を奪われ、危険な状態が進行する。さらに暖をとるなら鼠経部や腋の下に湯たんぽを入れて血液を温める方法が有効である。湯たんぽには水筒やタオルとビニール袋の組み合わせが利用できる。この場合テルモス(魔法瓶)は残念ながら湯たんぽにはならない。タオルがなければもちろん三角巾や自分の衣類を利用してもいいだろう。いずれにしても、低体温症への対応は水分を摂らせながら体を温めるか一刻も早く病院に移動させるしかないと思った方がいい。人間が生存の努力を止めてしまったあとは外部からのちょっとしたショックで不整脈を起こす可能性がある。こうなると、加温よりこれ以上体温が下がらないよう保存することに力を傾け、一刻も早い搬出を願うしかない。
ていたいおんしょう:
生命が危険な状態まで体温が下がる状態のこと。激しく体が震える、歯がカチカチなるなどの症状からはじまり、次第に思考がぼんやりして反応が鈍くなり、心拍数や呼吸数が低下して、最後には心停止となる。体温が31℃を下回ると死に至るおそれがある。低体温症について……遭難事故の発生を基に治療法を調べ、詳しく掘り下げています。このページの著者は医師のようです。
木本哲プロフィール(「白夜の大岩壁・オルカ初登頂」のページから)……公開を取りやめています
僕のビッグ・ウォール・クライミング小史……公開を取りやめています。「目次」を参照してください
しぶとい山ヤになるために=山岳雑誌「岳人」に好評連載中……登山開始から山学同志会在籍一年目までの山行で学んだこと感じたこと
自己紹介(木本哲登山および登攀歴)……山学同志会在籍一年目に培った技術を基礎として実行した初登攀〜第3登を中心にまとめた
Satoshi Kimoto's World(木本哲の登攀と登山の世界)……海外の山もさまざまなところへ登りに出かけました
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