Explorer Spirit アルパインガイド 木本哲の世界 アルパインクライマー Satoshi Kimoto's World Big Wall Climbing
木本哲のホームページ“Explorer Spirit”へようこそ / Welcome to Kimoto Satoshi's website “Explorer Spirit” スクール 個人ガイド 机上講習
Kimoto Satoshi Alpine Climbing School
長い間登山を行っていると自分の登山にも歴史というものができてきます。ここで書き記したものはまさに自分自身の登山や登攀の歴史なのですが、その詳細を記しているわけではないので、それがどんな内容の登山や登攀だったかと言うことまで伝えることはできません。この中のいくつかの登山や登攀は山岳雑誌「山と渓谷」や「岩と雪」、「クライミングジャーナル」、「岳人」や一般誌などに記録を発表したものもあります。当然ながら一緒に登った人がこれらの雑誌に発表したものもあります。しかし、その登山なり登攀なりから得たものは当然のように自分と他人ではその登攀から得たものもその登攀に対する感覚も異なります。いつかはそんな記録も自分の手で一つひとつ整理していきたいと思っています。僕自身が書いた登山記の最新のものは山岳雑誌「岳人」に連載中の『しぶとい山ヤになるために』という記事です。これは山岳雑誌「岳人」2007年1月号から連載を開始し、2009年12月号まで連載を続ける予定です。内容は僕が登山や登攀を始めたころに登山や登攀の経験を通して得たもの、感じたことを山行を通して書き綴ったものです。機会があればご覧ください。
◆自己紹介
山登りを始めた年齢はちょっと遅い部類に属するのでしょうが、僕は20歳前、19の秋から山登りを始めました。初めての山行は谷川岳西黒尾根を登り、山頂から天神尾根を下り、途中からいわお新道に入って谷川温泉に抜けたというものだったのですが、このときに、登山には縦走と岩登りというジャンルがあるということを知り、岩登りをやってみたいと思ったのです。それは子どものころから近くの崖や人家や城跡の石垣を攀じ登って遊ぶのが好きだったからという単純な理由からでした。残念なことに、仲間内には僕に岩登りを教えられるような人はいなかったのですが、岩登りをやるなら山岳会に入ってちゃんと学んだ方がいいと仲間に忠告され、山岳会に入ることにしたのです。
その翌年、どうしても岩登りがやってみたくてたまらなくなり、山岳会の門を叩き、憧れが募っていた岩登りをしました。盛んにハルゼミが鳴く、新緑がまばゆい初夏のことで、榛名山黒岩で初めて岩登りをしました。初めてのルートはW〜W+くらいのルートだったのでそれほど難しいとは思いませんでしたが、生意気にももっと難しいルートを登ってみたいなと思ってしまいました。こんなグレードがちっとも難しいとは思わないなんて、もしかしたら子どものころによほど難しい岩登りをしていたのかもしれません。もっともそのころはロープなど使って崖や石垣を登っていたわけではなかったので、もし落ちたら大きなけがをしてしまうか、死んでしまうかもしれないという状況は今から考えればたくさんありました。実のところ、そんなふうに思ったことがたびたびあります。自然というのは、山というのはそんなことが当たり前にある世界です。岩登りをしていると、前に延びているロープがどんなに心強く思えるものか計り知れません。しかし、しだいに岩を攀じ登るのがうまくなると前にロープが延びていること自体が疎ましくなってくるから不思議なものです。
このとき僕はすでに20歳を過ぎていました。どうやら、山岳会には固有の性格があるというか、山岳会は志向を同じくする人が集まって成り立っているらしく、その山岳会はどちらかといえば岩登りではなく沢登りを中心に活動をする山岳会でした。僕がこの山岳会で出会ったのは岩登りではなく沢登りだったのです。それでも、子どものころから山や川で遊んでいたから、岩登りではなく、沢登りであっても僕は十分に岩登りを楽しむことができました。しかし、山岳会に入ろうと思った当初の目的は高度感のある乾いた岩壁を攀じ登ることであって、決して濡れた小さな岩壁(滝)を攀じ登ることではなかったのです。そのため、ある時、岩登りをしたいと思いながらも沢登りをやっている自分自身にふと疑問を持ち、あるきっかけから山岳会を変わる決心をしたのです。僕はやはり岩登りがしたいと思い、岩登りを中心に活動する山岳会に入り直すことにしたのです。
そんな折に出会ったのが長く住んでいたことがある東京の下町に本拠地を置いていた山学同志会という山岳会でした。そこでは、僕は岩登りをゼロから学び直す覚悟でした。当時は冬の岩登りはもちろん冬山を登るつもりさえ毛頭ありませんでした。実際、前に入っていた山岳会でも冬山には頑なに行きませんでした。冬山に行くのは怖かったし、雪の山に登ることにはまったく興味がなかったので、時代が違えば、つまり今なら最初からフリークライミングにしか興味の目を向けることはなかったろうと思います。しかし、当時はまだフリークライミングとアルパインクライミングが分離する直前でした。そのせいかどうかはわかりませんが、冬の岩登りの難しさに惹かれ、当初の目的からまたまた逸脱して冬季登攀の世界に入っていったのです。
山学同志会入会当初からフリーで岩を登るということに何かしら興味を抱いていたせいか、その興味は既成ルートからの逸脱や既成ルートのフリー化という行為として現れましたが、十分に力がついてくるとそうやって登ることこそが普通のことのように思えました。そうした行為は、自分が登りに行きたいと思う登攀ルートを自由に登りに行くことができるようになった翌年からさらに激しくなり、同じルートでもわざわざ難しいラインを選んで登っていったりするようになっていきました。そうした行動や考え方はフリークライミングを素直に受け入れる下地を育み、登攀技術をいっそう発展させました。
山学同志会入会翌年からフリークライミングの分化がはっきりとした形となって現れましたが、いつの間にか岩の登り方を探り、岩の登り方がわかれば特に問題なく登れるようになっていました。フリークライミングそのものの発想や行動が違和感なく受け入れることができたせいか、それを冬季の岩登りへ応用することも容易でした。感覚的にフリークライミングはいくらでも発展させられそうな気がしたので、とりあえず、それより難しいと思えたアルパインクライミングの発展を優先させることにし、僕は冬季登攀の世界にのめり込んでいったのです。もちろんどうせ登るならほかの人が登っていないか、登った数が少ないルートの方が挑戦のし甲斐があるのでそういったルートを登攀することを目標に立てました。登るのがやさしいと思っていた氷雪壁の登攀ルートにはそれほど興味が湧かなかったので、初登攀やそれに準ずる登攀の対象が岩壁に拓かれた登攀ルートになっているのは言うまでもありません。
登山や登攀は自分で計画を立てて実行するというのがいちばん面白いものですが、力がついてくると誰彼の誘いに乗っても初登攀が可能です。しかし、それには自分と言うものをはっきりと持っていなければなりません。ほかの人がつぶれようと自分一人でも登るという強い意志が必要です。僕の場合、もともと岩登りへの興味から本格的に山登りを始めたため、そういった意思は登攀にはことのほかしぶとく発揮されるような気がします。
ある程度、山を知り、高さを知り、雪を知って、氷を知ったところで、アルパインクライミングは一段落つき、今度は後回しになっていたフリークライミングに精を出そうと思い始めました。ところが、その矢先に両足の指を失うことになってしまい、フリークライミングは必然的に僕から遠のいてしまったのです。フリークライミングが始まったころ、すなわちフリークライミングがハードフリーと呼ばれ始めたころからフリークライミングそのものにも興味を持って取り組んでいただけにすごく悲しい思いをするはめになってしまいましたが、人生はなかなか思うようにはならないものです。そう思いつつも、僕が目指す志向は当初の目的から何一つ変わりはしなかったので、僕は自分自身に起きたこの厳しい現実を素直に受け入れ、知識や技術を発展させ、この体でも登れるような登攀技術を身につけるよう努力せざるを得ませんでした。実際、こんな体になりながらも岩登りがしたいと思うからにはそうするよりほかに方法がなかったのです。
◆登山および登攀歴
国内登山歴
(障害前)
1975年 晩秋登山開始。
縦走・沢登りを始める。
谷川岳西黒尾根〜いわお新道、裏妙義縦走、丹沢水無川源次郎沢右俣遡行。 初年度山行はわずか3日。
1976年 埼玉谷峰山岳会という社会人山岳会に入会する。
岩登りを始める。地域研究をしていた山岳会だったので沢登りの初遡行の記録も作った。案外面白い山岳会だった。
山学同志会入会以前の三年半の登山経験は83日。内冬山経験は3日。だが冬山登山と言うにはおこがましい3日間だ。
春山登山や夏山登山の雪渓歩きも含め、雪山歩きの経験は二週間ほど。山学同志会入会前の雪山登山経験はそれだけ。
冬季登攀の経験はない。でも、一週間をかけて奥利根源流域から上越の雪山を縦走した春山合宿の経験は大きかった。
何しろそれが今後の登山のあり方を考えるきっかけを作った、すなわち雪山ではなく岩山に行こうと思わせたのだから。
1979年 山学同志会という社会人山岳会に入会する。
冬季登山・冬季登攀(冬の岩登り・アイスクライミング)を始める。
登山を始めて埼玉谷峰山岳会に入会し、さらに山学同志会在籍一年目の山行を終える80年3月までの登山経験は約200日。
この1975年〜1980年早春の4年半約200日の山行内容はただ今連載中の『しぶとい山ヤになるために』をご参照ください。
『しぶとい山ヤになるために』は山岳雑誌「岳人」の2007年1月号から2009年12月号まで連載予定です。
2007年は初めての登山体験から岩登りに興味を持ち、埼玉谷峰山岳会に入って岩登りや沢登りを始めるまでを描きます。
2008年と2009年は埼玉谷峰山岳会を辞め、山学同志会に入って行った1979年5月末から1980年3月末の山行を描きます。
2008年は埼玉谷峰山岳会を止め山学同志会に入る経緯や山学同志会在籍一年目の無雪期の登山や登攀を、
2009年は山学同志会で積雪期の登山や登攀を行うことになった経緯や登山や登攀そのものを中心に描いていきます。
ここまでが先輩の力を借りて行ったり、その経験をもとに自分で計画し、同期の仲間を募って行った登山や登攀です。
山学同志会在籍二年目以降は僕自身が主体となって計画をし、同期の仲間や後輩を誘って実行した山行へと転換します。
世間では僕は山学同志会最後の生き残りと言われているようです。が、山学同志会の歴史からすれば異端児でしょう。
何しろ、山学同志会に憧れて入会したわけではないし、山学同志会の中でも自分の好きなことしかやっていません。
しかし、無知な僕を冬季登山や冬季登攀に誘い、育ててくれた山学同志会が大好きな人間であることは間違いありません。
山学同志会在籍二年目になるとクライミングが自分のものになり、フリークライミングという概念が顕著に現れましたが、
それ以前からフリークライミングの可能性に注目していた僕は当然フリークライミングという概念に興味を持ちました。
しかしそれは登攀という自然な流れの中で到達したもので、フリークライミングを目指して到達したものではありまでん。
だから僕のフリークライミングの感覚は今フリークライミングを行っている一般的な人とはだいぶ違うかもしれません。
実際そう感じています。どちらが先かという話ではなく、おそらく同時進行で発展させてきたものだからだと思います。
1980年 4月から山学同志会在籍二年目に入り、自分が登ってみたい登攀ルートを好きな人間と自由に挑戦できるようになった。
僕自身が計画し、情報を集め、仲間を募り、実行した最初の登攀が烏帽子沢奥壁同志会直上ルートへの挑戦だった。
谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁同志会直上フリー化初登攀(通算第2登)
海外登山、海外登攀を始める。
谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁ダイレクト冬季初登攀
この冬季初登攀は普段使っていたナッツも利用して登っています。
既成ルートを冬季に登るためには支点が必要になることもあります。
しかし、無闇にピトンやボルトを使えば無雪期に楽しい登攀を提供してくれるルートを壊すことにもなりかねません。
冬季登攀を行った結果既存のルートを壊す、
すなわち登攀を以前より容易なレベルに下げるという事態を引き起こすのは何としても避けねばなりません。
それまでに到達したレベルは守り、維持し、後世に伝える努力をしなければならないと思っています。
後世のクライマーの方が、昔のクライマーよりはるかに登りやすいクライミングギアを使うことができるのですから、
研くべきは彼らに勝る自分自身の登山・登攀技術であり、精神力であることは言うまでもありません。
1981年 谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁南稜フランケ冬季第2登
東伊豆城ヶ崎海岸おたつ磯「アトミックハング」開拓 5.10c
これは山学同志会の中で開催していた岩登り競技会のために開拓したルートです。
このルート開拓は、実は、城ヶ崎海岸最初の開拓地ファミリークラックエリアが一般に紹介される以前のものです。
それを考えると僕は確かに古い人間だなと思います。フリークライマーならぬふりー(古い)クライマーです。
僕がワイルドカントリーのフレンズとロックスとナッツキーを二セットずつ手に入れたのは前年1980年暮れのこと、
こんなことからも僕がいかに古い人間かわかるというものです。
1982年 谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁ディレッティシマ冬季登攀のための下見&フリー化
ボルトラダー最終ピッチ最後のボルト2本分だけ草をよけて登るのが面倒で割愛したが、それ以外はすべてフリー化した。
頂上で人と会う約束があり、時間をかけていると集合時間に間に合わなくなるので割愛したのだが、一ノ倉岳には12時着。
完全フリー化を目指しディレッティシマを再登することを考えたが、冬前に再度登るのはホールドを完全に覚えてしまい、
冬季登攀そのものに面白みがなくなってしまうのでやめることにした。
1983年 谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁ディレッティシマ冬季初登攀
1984年 谷川岳一ノ倉沢コップ状岩壁右岩壁左カンテ冬季第3登
1985年 10月末凍傷受。治療のため11月から翌1986年2月まで長期入院。
1986年 1月初旬両全足指切断
2月社会復帰に向けたリハビリを開始。途中から登山復帰に向けたトレーニングを開始。2月末退院。
3月登攀復帰に向けたトレーニングを開始。登山・冬季登山を再開する。八ヶ岳登山。
4月仙ノ倉岳北尾根、爺ヶ岳北稜〜鹿島槍ヶ岳。
5月岩登りを再開。山学同志会の鹿沼初級岩登り講習会に参加し、登山靴でX+がリードして登れることを確認。
6月三つ峠中級岩登り講習会に参加。後輩と越沢バットレスを登攀。
7月〜9月アフリカ・アイスクライミング行。ケニア山とキリマンジャロの氷壁を登りにいく。
登山靴を履いてX+が余裕でリードして登れるならクライミングの中でも比較的容易なアイスクライミングはできそうだ。
――そんな判断からアフリカ行を決断し、自分自身の歩行能力や登攀能力を確かめつつダイヤモンドクーロワールに挑戦。
さらにブリーチウォールにかかる垂直の氷柱に挑戦すべくキリマンジャロに向かう。『冒険の重み』参照。
10月フリークライミング再開。城ヶ崎復帰第一戦の3日間は5.8から登り始め、5.10dまでマスタースタイルでリードする。
11月フリークライミング復帰第二戦の3日間は城ヶ崎シーサイドに腰を据え、5.10〜5.11の登攀を中心に挑戦する。
その結果、5.11bまでマスタースタイルでリードすることができた。
いきなり再開したフリークライミング城ヶ崎合計6日間の成果はなかなかのものだが、実は失望の方がはるかに大きかった。
結論を出すには早すぎるだろうが、登攀能力の低下はいかんともし難いものだと思い知る。
1988年 『再起の山』刊。1980年〜1988年までの国内・海外の山行の一部をまとめたものだが、私家版のため入手困難。(障害後)
1997年 『氷雪テクニック』山と渓谷社刊。冬山登山・冬季登攀の技術書。一般登山にも使えることを意識して書いた。
写真など一部変更したい箇所があるが、まあ今も十分に使える本だと思います。
登山道具の変遷と登山の発展の項目でアイスクライミングの世界に変なヤツがいるなと思って採り上げた人物に
その後アルプスで会ったのだけど、彼はENSAのインストラクターとなっていました。
2000年 1月米子不動氷瀑アナコンダ初登攀
2000年 2月米子不動氷瀑コブラ初登攀⇒『日本の秘境』
ほか多数。この欄に挙げた登山や登攀の記録は初登攀やそれに準ずるものが中心をなしていますが、継続登攀にはこんなことができるのかという面白い記録がたくさんあります。山は歩く力と攀じ登る力、その両方があれば面白い登山や厳しいコース設定の継続登攀ができます。もちろんそうやって培った力は海外の山を登りに行っても十分に通用します。僕の海外登山はこうした国内登山が基礎となっていることは言うまでもありません。そうした登山の片鱗は山岳雑誌岳人に連載中の『しぶとい山ヤになるために』の文章にも垣間見ることができるでしょう。
海外登山経験の中には「あいつらのパーティーには無理」とパーティーの非力を公言する人もいたようです。それはすでに足の指をすべて失ったのちの出来事だったので第三者がそう考えても不思議はないでしょう。しかし、目的の山を登るのは他人ではなく自分自身です。もしその山を登ろうと思っているのなら自分自身にそれに見合う体力と技術をつけないことには話になりません。それはかつてはそうだったという話で済まされるものではありません。今現在そうした力が必要になるのです。もし、目標に向かって真摯に努力するなら結果は必ずついてくるはずです。
そんな意味からもあなたがアルパインクライマーを目指しているのならフリークライミングやエイドクライミングやアイスクライミングを馬鹿にするような頭でっかちのアルパインクライマーにならないよう広範囲なクライミングをしなければなりません。こてこてのアルパインクライミングルートを登り切るには確かな判断を下すための知識と技術と豊富な登山や登攀の経験と何ものをも恐れない強靭な精神力が必要です。アルパインクライミングルートを登るためにはフリークライミングやエイドクライミングやアイスクライミングの力が必要になることは言うまでもないことです。昔と違って今はアイスクライミングツールがフッキングしやすいものになっています。それはとりもなおさず以前よりずっとドライツーリングがしやすくなっているということを指しています。アルパインクライマーを目指すならこうした技術を積極的に取り入れる努力が必要です。でも、こうした力があればアルパインクライミングルートが登れると思ったら大間違いです。それは単に登れる確率が高くなるだけのことです。もっと確率を高くするには強靭な精神力が必要です。
アルパインクライマーはフリークライマーと違って死がより身近にある世界に出かけていかなければなりません。時には残置ピトンや残置ボルトなどまったく信用できないルートや期待できないルートを登りに出かけることもあります。また、時には成功を勝ち取るために非常に長いランナウトをしなければならないこともあります。こうした力は昨今のボルトルートを登っていただけでは決して身につきません。
他人のクライミングを見て評論家になるのはやさしいことですが、自分がそこをリードして登るクライミングの実践者になるのはとても難しいことです。アルパインクライマーはこうした環境の中で厳しいクライミングをしなければなりません。アルパインクライマーにとってクラッククライミング技術は必要不可欠どころか、絶対に欠かせないものです。アルパインクライマーを目指しているのならボルトルートのほかにぜひクラックルートも登ってみてください。
さまざまなクライミングができるようになったらイギリスのトラッドクライミングの世界を覗いてみるのもとてもいい経験になるでしょう。あなたがもしアルパインクライマーなら、きっとそこから得るものがあるはずです。僕は自分自身の経験からアルパインクライマーを目指す人にはそんなアドバイスを送りたいと思います。僕にとってイギリスでの登攀経験はフリークライミング始めた初期の段階でも経験ですが、フリークライミングアルパインクライミングが密接につながっていることを示してくれたとても有意義な山行でした。
海外登山歴
(障害前)
1980年 ヨーロッパアルプスモンブラン山群登攀行
1980年 日英岩登り交流会(イギリス)このクライミングではHVSからE4、6a(5.7〜5.11c)まで登攀しました
1982年 国際岩登り競技会(ソビエト)
1984年 ギアナ高地エンジェルフォール左壁初登攀(標高差1000m 5.10a/b A5+(C5+))=TV『驚異・失われた世界』
1985年 マッキンリー(6194m)南壁アメリカンダイレクトアルパインスタイル第2登(標高差2500m 5.7 A1)
1985年 エベレスト(8848m)登頂=映画『植村直己物語』
=1985年10月末凍傷受傷、11月初旬入院。闘病生活へ(障害後)
=1986年1月全足指切断、2月末退院。登山復帰へ
1986年 ケニア山(5199m)ダイヤモンドクーロワール登攀(やさしい雪壁1ピッチを除きすべてリードして登る)
1987年 冒険学校(カヌーイングやウィルダネスエリアハイキング、クライミングなどを学びかつ楽しむ)
1990年 グレート・トランゴ・タワー(6286m)東壁北東ピラーカプセルスタイル新ルート開拓初登攀(5.12- A3)
=北東ピラーの通算第2登(新ルート経由 標高差2200m 5.12- A4)
1990年 トランゴ・ネイムレス・タワー(6257m)南西壁初登攀初登頂ルートアルパインスタイル初登攀
=同ルートの通算第2登(頂上付近で発生した遭難事故の当事者を救出するために1200mの岩壁を登った究極の救出劇)
1991年 未踏峰ナムチャバルワ(7782m)=TV『未踏峰ナムチャバルワ』
1997年 チョーオユー(8201m)無酸素登頂。南西壁新ルート単独を狙ったが、降雪によって雪崩の危険が拭えなかったため諦めた
1999年 ENSA(フランス国立スキー登山学校)ガイド研修 ヨーロッパアルプスモンブラン山群
2000年 ENSA(フランス国立スキー登山学校)ガイド研修 ヨーロッパアルプスモンブラン山群
=エキバランス=労働許可証取得=フランス高山ガイド同等資格取得(フランス青年スポーツ省発行)
2003年 カナダバフィン島北極圏サム・フォード・フィヨルド ウォーカー・シタデル南東壁登攀5.10+ A3=TV『極北の大岩壁』
2004年 西チベット未踏峰パチュムハム(6529m)初登頂=河口慧海師足跡追跡探検学術登山
2004年 西チベット未踏峰ギャンゾンカン(6123m)南東壁初登攀第2登(初登攀・初登頂ルート開拓 5.10d A1ワンポイント)
2007年 グリーンランド北極圏東海岸ミルネ島未踏峰オルカ初登攀初登頂 5.10 A1
ほか多数。
低地の森林彷徨や沼沢地帯のスワンプウォーキング、展望がきかない藪山登山や丘陵地のハイキングからヒマラヤの超高所の登山まで、またその内容も歩行から登攀まで多岐にわたる、多数の登山経験や登攀経験があります。そういえば沢登り(滝登り)じゃなくて岩登りがしたいと思って山岳会を変わったのに結果的に世界一大きな滝(エンジェルフォール)を登っているのも不思議な因縁です。国内の登山や登攀の記録も、海外の登山や登攀の記録もここに紹介したのはごく一部に過ぎませんが、僕はこんな登山や登攀をやってきました。それでもこれらは初登攀の記録を中心にまとめていますから単一のルートだけを示していますが、記録としては無雪期も積雪期もパチンコ(継続登攀)の方が面白い記録があります。これらの一部の山の写真はSatoshi Kimoto's Worldや目次のページを参照してください。これらの文字を見ているといろんな山でいろんなことがあったなという思いが湧き上がってきます。さまざまな経験の積み重ねが大きな力を生む原動力となっています。◆この「自己紹介/木本哲登山および登攀歴」の中で、紺色文字で表された登山は歩きを中心とした登山を表しています。こうした登山の中での最高到達点は世界最高峰エベレスト登頂の標高8848mですが、山頂に至るノーマルルート上には技術的に困難と思える箇所は取り立ててありません。ところが、知識が乏しかったので無酸素登頂より厳しい登山をしてしまいました。実のところどんな登山経験でもさまざまな知識や教訓を与えてくれます。それを次の登山に生かすことができるなら、次の登山にはほんの少し余裕が生じるはずです。そしてそれが積み重なればやがてどんな登山にも大きな余裕が生じてくるはずです。
◆青緑色文字で表された登山は岩登りを中心とした登攀で構成された登山、すなわちビッグ・ウォール・クライミングを表しています。これらのビッグ・ウォール・クライミングの経験の中で、最も大きな標高差を持つ岩壁登攀はグレート・トランゴ・タワー東壁の登攀で、その標高差は2200mあまりです。そのうちの標高差1700mが岩登りです。ビッグ・ウォール・クライミングは前述のエベレスト登山などとは違って歩いて登ることができる山ではなく、そもそも岩登りというものができなければ話にならない登山です。だから、たとえエベレストが登れるような人間であったとしてもグレート・トランゴ・タワー東壁が登れるとは限らないことは言うまでもありません。むしろエベレストやK2、マナスルなどの一般ルートしか登れないような人にはまったく手も足も出ない山といった方が正解です。実際のところ、エベレストを登っていてグレート・トランゴ・タワーの東壁を登れる人間など世界に数えるほどしかいないのが現実です。世界一高い山は一つしかありませんが、登山ルートではなく登攀ルートに目を向ければ、登るのが難しい山はいくらでもあるのです。エベレストのノーマルルートは日本100名山を登ることができるような人間なら誰でも酸素ボンベを使いさえすれば登ることができる可能性がありますが、厳しい登攀ルートはエベレストほど高い山ではなくてもそれこそ確かな技術と真摯な経験を積んだ血気盛んなアルパインクライマーのみが挑戦できる山(登攀ルート)なのです。
◆黄土色文字で表された登山は純粋な岩登りです。岩登り技術はクラッグと呼ばれる小さな崖があれば研くことができます。難易度に目を向けたとき、僕たちアルパインクライマーの発想は本当に自由=フリーになりました。クライミングは大きく分けるとフリークライミングとエイドクライミングの二つになります。これは、自分の手足だけで前進していくか、あるいは自分の手足だけでは登れないところを人工的な手段を交えて突破して前進していくかという登攀スタイルの問題でもあります。僕が岩登りを始めたころに初めてこの二つがはっきりと分離し、エイドクライミングのパートをフリークライミングの力で突破しようという試みが急速に広まり、フリークライミングが独立して扱われるようになりました。変化の歴史を目の当たりに見た僕は、実はフリークライミングがハードフリーと呼ばれ始めたころからフリークライミングやっている国内最古参のフリークライマーの一人です。最近はフリークライミングの華麗さに引かれ、エイドクライミングを侮り勝ちですが、本当に難しいエイドクライミングはフリークライミングと同様の困難さがあります。ヨセミテのエルキャピタンは今でこそ5.13のフリークライミングのルートになっていますが、もともとは5.9というグレードのフリークライミングとエイドクライミングで登られていました。このことから学ぶべきはアルパインクライマーには的確なルートファインディング力が要るということです。ルートファインディングさえよければ、そののちいくらでもエイドクライミングの部分をフリー化することができます。いい登攀ルートはそうやって作られてきたのです。
◆黒色文字で表された登山は氷雪壁や岩と氷と雪の三つが交じり合ったミックス壁の登攀を対象とした登山、すなわちアルパインクライミングを表しています。アルパインクライミングは氷雪壁を対象とすることが多いので歩く登山に次いで取り組みやすい登山です。僕のアルパインクライミングの登攀経験の中で最も大きな標高差を持つ壁の登攀はマッキンリー南壁の2500mのミックス壁の登攀です。岩の難易度は5.7でしたが、ルートの大半は氷雪に覆われた壁が占めています。ビッグ・ウォール・クライミングに比べるとやさしいクライミングですが、しかしこれだけ標高差があるとさすがに攀じ登り甲斐があります。気温は壁の取り付きで氷点下30度です。この壁を5泊6日のアルパインスタイルで登攀中の気温は−30度から−45度。頂上は−45度の寒気の中でした。ツエルト・ビバークを重ねて登りましたが、嵐の日はツエルトがはためいてけっこう寒くていやになってしまいました。マッキンリー南壁登攀中の気温はカシンリッジ冬季初登攀時に記録された気温より低くいものでしたから、氷が硬すぎて二人でピックを一本ずつ、合計二本も折ってしまいました。効きの悪いピックでアイスクライミングをするのはちょっと怖いものですが、しだいに慣れていきました。氷が硬すぎてアイススクリューが途中までしか入らないのでしだいにランナーをとるのが面倒になり、しまいには50メートルランナウトして登るようになってしまいました。もちろんかなり悪いところはまだ折れていないアックス2本を使って登りましたが――。すべてのものには基本というものがありますが、専門的になればなるほど基本を無視せざるを得なくなる場合もでてくるので面白いものです。でも、そうなってこそ初めて危険と安全というものがはっきり区別できるようになるのかもしれません。
◆慣れというのは恐ろしいものです。その慣れが作り出す経験は、次なる大きな目標へ向かう下地を作り上げます。厳しい経験を積めば積むほど困難を受け入れる器が大きくなり、そこにある困難は既知の困難に過ぎず、普通の人にとっては困難であっても自分にとってはいっこうに困難だとは思わなくなるので、よりいっそう困難な登攀ができるようになるのが普通です。登山は、ことに登攀は面白いものです。僕は、技術と体力と知恵が作り出すそんな登攀が大好きです。木本哲プロフィール(「白夜の大岩壁・オルカ初登頂」のページから)……公開を取りやめています
僕のビッグ・ウォール・クライミング小史……公開を取りやめています。「目次」を参照してください
しぶとい山ヤになるために=山岳雑誌「岳人」に好評連載中……登山開始から山学同志会在籍一年目までの山行で学んだこと感じたこと
自己紹介(木本哲登山および登攀歴)……山学同志会在籍一年目に培った技術を基礎として実行した初登攀〜第3登を中心にまとめた
Satoshi Kimoto's World(木本哲の登攀と登山の世界)……山学同志会在籍二年目から海外のさまざまな山や岩壁を登りに出かけた
OFFICIAL WEBSITE OF ALPINE CLIMBER SATOSHI KIMOTO
Explorer Spirit 木本哲
Copyright ©2005