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凍傷
Kimoto Satoshi Alpine Climbing School
昔見たNHKスペシャルの「大モンゴル」という番組の中に、競馬の練習のために子どもが草原を馬に乗って走っているうち、寒気のために手の指先が凍傷で白くなり、お父さんに教えられ、指先を雪に擦りつけて凍傷を治療するシーンがあった。すでに凍傷で両足の指すべてを失っていただけに、凍って真っ白になった手の指が元通りに回復していく様が印象的であった。モンゴルの草原ではそうやって凍傷を治療するのかという思いとともに、僕の脳裏に鮮烈な思い出となって残っている。気温が−20℃から−30℃、−40℃にもなる寒冷地では凍傷と対峙することが避けられないだけに生活の知恵として凍傷の知識を持っていることは欠かせない。
最近これとまったく同じ治療法が日本経済新聞朝刊文化欄の遠州茶道宗家小堀宗慶が描く「私の履歴書」の中にあるのを見つけた。中国吉林省の第71飛行場大体本部時代に凍傷予防訓練を受けたと書いてあるが、そこにはこう記されていた。「水にぬらした素手のまま、零下30度前後の戸外を手を挙げて駆け足する。指先がみるみるうちに白くローソクのように変色する。放置しておけばやがて水がたまって腐り始め凍傷になる。そこで、白くなったらすぐ雪でゴシゴシとこするのである。すると、ぽーっと血の気が差してきて凍傷にはかからない。誰が考えついた方法か知らないが、実に簡単で効果的だった。ただ、指に赤みが差して血が通い始める時の痛さといったらなかった」。
凍傷は体を作っている細胞の中の水分が凍って起こる現象である。だから氷点下の寒冷な空気に晒されなければならない。逆に、氷点下の空気に晒されれば誰でも例外なく凍傷になる。その凍傷が回復するかどうかはもっぱら凍りついた場所やどの深さまで凍りついたかということが影響する。凍傷になった部分が表皮だけで、短時間の凍傷の回復には上記の行為が確かに有効なのだろう。もし、水泡ができずに凍傷が回復するならこれほどいいことはない。水泡ができると感染症の恐れが高まるうえ、回復にも相当時間がかかる。軽い凍傷でもたいがい直り始めるとじくじくすることが多いので、どの程度までの凍傷なら無傷で回復するのか知りたいものである。凍傷の怖さを知っている人なら民間療法といってばかにできないことはすぐに納得できるだろう。
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極端に空気が冷えている冬山でザックを下ろして休んでいると、動き始めるときには意外に体が冷えきっているものである。冷え切った空気の中でアイゼンをつけようとするときも同じで、アイゼンをつけ終わったときには指先がかじかんで痛いくらいになるときがある。そんなときは一刻も早く指先を温めたいものだが、指先を擦り合わせたくらいではそうそう簡単に血が通わず、温かくはならない。こんなときは、指先や手先だけではなく、肘や肩周りの大きな筋肉も動かし、体幹から温めるようにするとよい。それが指先や手先を温める最も効率のよい体の温め方である。
凍傷の原因は氷点下の寒気の到来が主要な要因だが、寒気や風の影響だけではなく、登山者自身の疲労度、発汗や雪解けや氷雨などによる濡れ具合、水分や栄養摂取の状況、活動している高度などの影響も複雑にからんで症状の進行に影響する。冷えに対して最も効果的な対策は温めることや冷やさないことであるから、登山者はどうやって体の暖をとるか、どうやったら体を冷やさないようにできるのか考えなければならない。
通常寒気に対しては薄手の衣類を重ね着して断熱効果が高い空気の層を幾重にも作ることを考える。冷やさないという観点からは肌着の素材や重ね着をする衣類の素材や織り方が問題となる。肌着や中間着はできるだけではなく、必ず保温効果が高い化繊やウールを素材とするものを用い、アウターは防風効果の高いものを利用する。新素材の化繊の肌着は吸水性や撥水性、保温性に優れ、よくその効能が謳われるが、汚れると保温機能が落ちる。その点ウールは汗や脂質で汚れても保温性はなかなか落ちない。
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山野井泰史・妙子夫妻がギャチュンカン北壁の登攀で凍傷になったとき、彼らが僕の凍傷の主治医でもあった金田正樹ドクターがいる白鬚橋病院に入院したのでお見舞いに行くことにした。お見舞いに行ったときは手足の指を切断した直後だったが、すでに気持ちを切り替え、未来を見据えてトレーニングを始めていた。
凍傷によって指を切断した当初の痛みがどれほどか実際に経験しているから想像に難くないが、2人とも努めて明るく振舞っていた。山野井泰史は片方の足の指すべてと両手の薬指と小指が短くなった。山野井泰史はアルパインクライマーだからこれらの指の喪失は、特に手の指の喪失は痛手が大きいだろう。妙子さんは三度目だからさすがに余裕があるし、貫禄さえ感じさせる。こんなことに余裕があってもしょうがないことだが、短かった手の指はいっそう短くなり、箸が持てるかどうかの心配をしている。凍傷からの復帰がどんなに大変なことか知っているはずだから何も言うこともないし、心配はしないが、そばに強力な人がいるといっても山野井泰史の方は不安だろう。早期の復帰を狙っているようだが、復帰には時間がかかる。この大変さは病院にいてはわからない。
帰り際、先を急ぐ山野井に「まあ、焦らずに頑張れ。今までよりむしろこれからの方が大変だから」と言うと、「木本さん、何それ」と返された。僕は「たいした意味はないけど、退院したらそのうちわかるよ」と言って分かれた。こればかりは自分の心の問題だから今話したところでそれほど必要性は感じないだろう。それは忠告や相談にはのれる類のものだが、現実にそんな状況にぶつかったときに自分自身で考え、一つひとつ越えていくしかないものでもある。
山野井夫妻とはその後何度か岩場や海外や街で出会ったが、歩行から登攀へと着実に腕を伸ばしている。ところが腕が伸びれば伸びるほど登山や登攀にまつわる悩みも大きくなるのが凍傷の事後の実態である。だから皆には凍傷には絶対になるなと言いたいし、実際にそういうふうに言う。金田正樹ドクターのことを考えるとこれ以上凍傷になるわけにもいかない。そういえば確かこのとき、こんな3人がそろうことはめったにないからと、山野井夫妻と僕の3人で写真を撮ってもらったのだが、はてさてこの3人でいったい何本の指がないのだろう。
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凍傷は厄介だが、登山中にできる凍傷の治療は対処療法しかない。もし運悪く水泡ができたら、水泡を破らないよう注意してすぐにでも病院に向かった方がよい。患部は、たとえ体液を抜いても皮膚はできるだけ破らないように注意し、清潔に保つ必要がある。特に患部が感染症にかからないよう注意しなければならない。水泡ぐらいで済めばやすいものである。不運にも、もし深いところまで凍結していたら温めのお湯で患部を融かすしかない。だが、足の指が凍傷になった場合は、治療を行うと患部が腫れて二度と登山靴が履けなくなることを肝に銘じておかなければならない。場合によってはまだこの先歩かなければならないこともあるかもしれないからだ。凍傷からの回復は患部がどれだけ深く傷ついたかによって大きく異なる。凍結が浅ければ全快も望めるが、凍結が深い場合は切断も視野に入れておかなければならない。凍結が骨に達するほど深い場合、患部はやがて炭化しやせ細る。その場合、患部の切断は免れない。
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凍傷で損傷した部位がはっきりし、炭化した患部を切断する手術をするときがきて、いざ手術室に入ったとき、金田正樹ドクターは「これは治療するのではない。悪いところをただ切り取るだけだ」と言っていた。しかし、この20年あまりの間に凍傷の治療法はずいぶん変わった。山野井夫妻の例を見ると、今は患部を切断した後すぐに縫合するのではなく、切断した患部を開放したまましばらくそのままにしておき、消毒しながら様子を見、肉の盛り上がりを待って、その上で縫合する。だから、切断する部位は以前より少なくてすむ。このような治療法の変化は、これは治療するのではなく患部を切り取るだけだ、と凍傷患者への憤りを抑え切れなかった自分自身の無力感と何とか治してやりたいと思う金田正樹ドクターの親心が、この20年の間に培ったものである。おばかな奴らに憤りながらも患者の身になってあれこれ治療法を考え、実践してきた金田正樹ドクターの努力の賜物以外の何物でもないのである。金田正樹ドクターは整形外科医でありながらちょいと山とかかわりを持ったせいで凍傷治療の道を歩んだが、長年診てきた凍傷患者の数は700例を超えたという。この冬、金田正樹ドクターは山と渓谷社から凍傷に関する本を出版する。僕自身凍傷の当事者であり、金田正樹ドクターのいちばんおばかな患者であっただけに出版されたら真摯な気持ちでこの本を読みたいと思う。
感謝されない医者 ある凍傷Dr.のモノローグ /金田正樹/1600円/山と渓谷社……凍傷に関する正しい知識が得られます。
自己紹介(木本哲登山および登攀歴)……山学同志会在籍一年目に培った技術を基礎として実行した初登攀〜第3登を中心にまとめた
木本哲プロフィール(「白夜の大岩壁・オルカ初登頂」のページから)……公開を取りやめています
僕のビッグ・ウォール・クライミング小史……公開を取りやめています。「目次」を参照してください
Satoshi Kimoto's World(木本哲の登攀と登山の世界)……海外の山もさまざまなところへ登りに出かけました
しぶとい山ヤになるために=山岳雑誌「岳人」に好評連載中……登山開始から山学同志会在籍一年目までの山行で学んだこと感じたこと
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