名探偵デュパンの失敗  ミステリー雑学百科8

 米国の天才詩人エドガー・アラン・ポーは世界初の推理小説「モルグ街の殺人」(1841年)でパリで起こった難事件を解決させるため、名探偵デュパンを登場させた。
 デュパンはもともとはパリの名門の生まれだが、今では貧乏暮らし。図書館で知り合った友人と“幽霊屋敷”に住んでいる。
 昼よりも夜を好み、しらじらと朝が訪れるころにはぴったりと屋敷中のよろい戸をとざし、ろうそくのほのかな灯の下で読書し、語り合うという徹底ぶりだ。
 江戸川乱歩はこのデュパンを熱愛した。「デュパンは本物、生まれたもの。ホームズは造りもの、つけ焼刃」とすらいっていた。
 だが、この天才探偵デュパンの推理にも誤りがあるというのが、「名探偵ポオ氏」を書いたジョン・ウォルシュの鋭い指摘である。
 パリのサンロック区のモルグ街で起こったレスパーネ夫人とその娘が密室で殺されるという血なまぐさい奇怪な事件を解決したあとの、わが名探偵デュパンの「マリー・ロジェの秘密」での推理はまったく的はずれであったというのがウォルシュの説なのである。
 この作品でポーが取り上げたのは、1841年7月25日、ニューヨークの23歳の葉巻き売り娘メアリー・シンシア・ロジャーズが突然、行方不明になり、ハドソン川で死体となって発見された事件である。
 ポーは「マリー・ロジェの秘密」で事件の舞台をパリに移し、被害者の名前もマリーに変え、勤め先を香水店にしている。
 しかし、出版に際して、ポーがこの作品に付けた「実を言えば、メアリー・ロジャーズ殺人事件の真相を追求することが本書の目的なのである」という注からもうかがえるように作者が目指したのは現実の事件の解明だった。
 さて、名探偵デュパンはこの事件の真犯人をどのように推理したのだろうか。
 当時事件は迷宮入りの様相を深めていたが、一番有力視されていたのが、複数のならず者の犯行という見方だった。
 だが、ポーはこれに対し、ロジェが駆け落ちしようとした相手の若い海軍官の単独犯行であると大胆に推理している。
 この「マリー・ロジェの秘密」はコンパニオン誌に三回に分けて掲載されることになったが、最後の結論が発表される直前の1843年11月18日、ニューヨーク各紙は、宿屋の女夫人であるロス夫人が、実はメアリーは宿屋で行われた違法の堕胎手術の犠牲となったという衝撃的な事実を告白したと報道した。
 あわてたポーは最終回を書き直し、また出版に当たって15ヶ所を訂正してつじつま合わせに苦労した。しかし、脚注で、名推理を誇示しているものの本当は間違っていたというのがウォルシュの推理である。
 この事件にかぎりわれらの名探偵デュパンは迷探偵だったわけである。


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