ハメットは元私立探偵  ミステリー雑学百科9

 アメリカのハードボイルド・ミステリーの主人公の多くは私立探偵である。ダシール・ハメットの「マルタの鷹」に出てくるサム・スペイド、レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」のフィリップ・マーロウ、あるいは、ロス・マクドナルドの「さむけ」などに姿を現すリュウ・アーチャ−等々。どれも個性的な魅力を漂わす私立探偵である。
 これらの探偵は、いずれも独身。みな深い孤独の影を背負いながら、非情な暴力の世界に立ち向かって行く。
 実にカッコいいのだが、決して絵空事ではない。各州で多少違いはあるにしても、アメリカでは、私立探偵は、いちおう免許をとれば、犯罪の捜査もやれるし、ピストルを持って歩くこともできるのだ。
 現にハメットは、若いころアメリカで有名なピンカートン探偵社の私立探偵をした体験の持ち主だ。
 英語で私立探偵のことをプライベート・アイつまり、“私的な目”というが、これは実は、ピンカートン探偵社の社章から来ているという。
 見開いた大きな目が一つ描かれていて、まつ毛やまゆ毛もついているが、ただそれだけの図柄である。その下に「私たちは眠らない」というスローガンが掲げられてある。プライベート・アイは、この社章の“目”から来ているわけである。
 ハメットがピンカートン探偵社に入ったのは二十歳になったばかりの時だった。仕事が危険なので、いつもピストルを持ち歩いていたし、愛人の劇作家リリアン・ヘルマンによると、「ハメットの肢(あし)にはひどい切り傷があり、頭にも刻み目のような傷跡が残っていた。これらは犯罪と争ったときに受けた傷だ」という。
 ハメットはさまざまな犯罪事件をピンカートンの私立探偵として捜査したが、最後に扱ったのは、オーストラリアからカリフォルニアに向かった船から二十万ドルの黄金がなくなった事件だった。
 ピンカートン探偵社はハメットをオーストラリア行きの船に乗り込ませて捜査させることにしたが、出発直前に船の煙突を調べるとなんとそこに探していたものが隠されていたのだった。
 海外旅行ができると大張り切りだったハメットはがっかりしてこの事件を最後に社をやめてしまった。
 「血の収穫」「マルタの鷹」などの秀作はもちろん想像の産物だが、ハメットの体験が作品に色濃く投影されているように思う。
 これに対して、日本では、私立探偵といっても名ばかり。刑事事件捜査権もなければ、ピストルを持ち歩くこともできない。せいぜい就職や結婚の際の身元調査や浮気の現場をおさえる尾行をするくらい。こんな興信所の仕事で“絵”になりにくい。
 一時、この興信所の調査員をしたことのある推理作家西村京太郎は、「フィリップ・マーロウみたいなカッコいい人間を見たことがない。興信所の調査員は人生に疲れた人たちばかりだった」と言っている。


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