病床から数々の名作  ミステリー雑学百科15

 なぜミステリーを書くようになったのか?という問いは、なぜ山に登るのかというのと同じくらい無意味なものかもしれない。
 かの渋い中年の弁護士探偵ペリー・メースンの生みの親であるE・S・ガードナーは、もともと21歳で司法試験に合格したばかりの弁護士だった。
 このガードナーがミステリ−を書くようになったきっかけは、好きな狩猟が楽しみたかったからだという。
 狩猟が大好きで、三度もアラスカに足を延ばしたが、そのたびに仕事で呼び返された。頭にきたガードナーは、何とか自由に金を稼ぐ方法はないかと頭を絞り、ミステリーを書くことを思いついたというのである。
 ごくありきたりなのは、経済的理由。スピレーン旋風を巻き起こしたミッキー・スピレーンは家を建てる金が欲しかったから書き始めたと公言しているし、競馬推理小説の騎手ディック・フランシスは、二人の息子の学資を作りたかったためと告白している。
 変わっているのは、病気がきっかけでミステリー作家になった例。アリバイ崩しの名手で地道にこつこつと捜査するフレンチ警部の生みの親であるF・W・クロフツは、もともと鉄道会社の土木技師だった。ところが30代後半に大病をして寝たきりになり、推理小説を読み始めたがそのうち、読むものがなくなってしまった。
 そこで自ら退屈しのぎにノートにミステリーを書き始めたというわけである。
 もともと本にするなどとは思ってもみなかったが、読み返してみると、結構面白い。そこで、出版社に送りつけたのが目に留まり、二年後に出版された。
 これが名作の「樽」(1920年)誕生の秘密である。
 何一つ知らぬことのない博学の名探偵ファイロ・ヴァンスを作り出したヴァン・ダインの場合も同じ。
 もともとは本名のハンチントン・ライトという名前で美術評論家として活躍していたが、あまりに働きすぎて過労になり、休養を余儀なくされた。医者からはお堅い本は厳禁と申し渡されたため、それまで手にしたこともなかったミステリーを読み始め、二千冊以上を読破した。そして元気になってから趣味と実益をかねて書き出したミステリーの第一作が「ベンスン殺人事件」(1926年)だったとされている。しかし、最近の研究によると、過労というのはうそで、創作に行き詰まり、麻薬に溺れたためという説もある。しかし、それはそれとして、とにかく壁を乗り越えて書いたのである。
 日本の横溝正史も病気をきっかけに名作を書いている。
 昭和8年に肺を病み、信州上諏訪で闘病生活に入った正史は、作風を転換、「鬼火」や「かいやぐら物語」など療養地の風景を取り入れた、見事な個性的作品を執筆している。
 また、鬼貫警部の生みの親でもある鮎川哲也も、敗戦後、栄養失調から胸を悪くし、その療養生活の中でミステリーを書くことを思いついたという。
 こんなふうにきっかけはさまざまだが、要するにどの作家もミステリー好きがこうじて書き始めたというのが真相だろう。


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