大物スパイ フィルビー  ミステリー雑学百科17

 多くのスパイ・スリラーのモデルになった今世紀最高の大物スパイといえば、英国の秘密情報部に身を置きながら次々と重要情報をソ連に流していた実在のダブル・スパイ、キム・フィルビーの名前が浮かぶ。
 この人こそ、ジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(1974年)で主人公のジョージ・スマイリーが汚い裏切り者として追及する「もぐら」と呼ばれる二重スパイのモデルであり、グレアム・グリーンが「ヒューマン・ファクター」(1979年)で、愛ゆえに国を裏切る悲劇的な人間として描いているあのモーリス・カースルなのである。
 まさに、ゾルゲ級の大物スパイである。
 キム・フィルビーは1912年にインドのアンバラで生まれた。父親は有名なアラビア学者で、当時インドの文官を勤めていた。
 フィルビーはやがて英国に赴き、ロンドンのウェストミンスター校を経て、ケンブリッジ大学に入学。そこで、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン、アントニー・ブランドなど、のちにソ連のスパイとして摘発される人たちと仲良くなった。
 フィルビーを含む4人とも豊かな家庭に育ち、30年代の不況にあえぐ貧しい人々に深い同情の念を抱いていた。このため、左翼思想にかぶれ、ついにはケンブリッジ大学の共産党細胞に入り、ソ連のスパイとして働くことになるのである。
 大学卒業後、ジャーナリストとして働くかたわらソ連スパイとして活躍していたフィルビーは、やがて英国の秘密情報部MI6に潜入、次第に地歩を固め、1949年には米国のCIAとMI6の連絡責任者としてワシントンの英国大使館に一等書記官として働くまでになった。
 ところが、大学時代からの仲間で同じ大使館に勤めていたガイ・バージェスがホモの趣味と酒の飲みすぎで、ワシントンから本国に召還され、さらに外務省に勤務していたマクリーンにソ連スパイの容疑がかけられていることが判明、結局この二人はモスクワに亡命する。
 もともとフィルビーはバージェスと仲が良く、ワシントンでは、同じ家に住んでいたくらいだったので、このスキャンダルの“第3の男”だという疑惑がささやかれるようになり、その後、ベイルートに派遣されてからも、長期にわたって尋問と監視が続けられたが、なかなかしっぽを出さなかった。
 だが、逮捕の手が伸びようとした1963年1月23日、ベイルートの夕食会の席上から姿を消し、モスクワに亡命してしまうのである。
 「スパイ百科事典」の著者ロナルド・セスはこのフィルビーを“スパイの歴史の中で最も偉大な古典的スパイの一人”と位置づけているが、その真価はル・カレやグリーンの作品でどうぞお確かめください。


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