ホームズの生物学知識  ミステリー雑学百科21

 夜霧のたちこめるロンドンのベイカー街221Bに住む、わが名探偵シャーロック・ホームズは、初登場の「緋色の研究」(一八八七年)によれば、文学、哲学、天文学の知識は皆無だが、化学知識は深遠。解剖学の知識は正確だが、系統的ではないとされている。
 友人のワトソン博士も、「かれは驚くべき物知りであると同時に、一面いちじるしく無知であった」と述べている。
 地球が太陽のまわりを回っているのも知らないというのである。
 しかし、天才というのはそういうものである。何一つ知らぬことがないという、ヴァン・ダインが作り出した名探偵ファイロ・ヴァンスよりも、私はホームズのこういう所が好きだ。
 が、限りなくホームズを愛するマニアの中には、ホームズの化学・生物学知識そのものにも疑問を投げかける人も少なくない。
 マイケル・ハリソンは、シャーロック・ホームズ研究の論文を集めたアンソロジー「ベイカー・ストリートを越えて」(一九七六年)を出している。その中には、エドワード・J・プアン・リーアの「ホームズの生物学的プロット批判」というのがあって、「まだらの紐」をはじめ多くのホームズ物語の中で使われている生物学的知識が間違っていることを指摘している。
 「まだらの紐」は、ポーの「モルグ街の殺人」と同様に動物犯人の面白さを盛り込んだ密室もので、作者のコナン・ドイルも自作のベスト・ワンに選んでいる名作である。
 この作品の犯人はインドの沼毒蛇という毒ヘビを好物のミルクでおびき出し、通風孔から、鈴のひもにのばらせて、被害者のベッドに送り込んだことになっている。
 しかし、エドワード・リーアによると、「ヘビは、ひもを昇り降りできない。それだけでなく、ヘビは耳が聞こえないし震動は感じるとされているが)、ミルクが好きでもない」という。
 リーアは有名な米国の生理学者だが、日本の動物学者の実吉達郎も、その後、「シャーロックホームズの決め手」(青年書館)の中で、ホームズの生物学知識の誤りを実に丹念に正している。
 「いかなるへどでも、牛乳の匂いや形でへどは誘えない。第一それはヘビの飲食物ではない。第二にヘビは動視≠ニいって、その動かない目固定眼≠ナ、獲物が動くのを目で見て、はじめて捕食行動を──つまり移動を誘発される」、「ヘビには外耳がない。従って、あの低い口笛の音≠ナヘビを呼びかえしたということがありえなくなる」
 実吉氏によると、「ヘビがミルクを好む」という迷信がアフリカやアメリカにあるという。また、インドに「沼毒蛇」がいるというのも疑問だと指摘している。インドの猛毒ヘビはキングコブラで、他はアフリカ産が多いそうだ。この本は、日本シャーロック・ホームズ・クラブ長沼賞を受賞している。


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