モニカ・ゲート
アーモン・ゲートの娘
「プワシュフで撮った、大好きな写真があります。両親は犬を飼っていました。私も犬が好きでした。お庭のある家があって、馬もいました。」
父 アーモン・ゲート モニカの父。プワシュフ(ドイツ名:プラショウ,Plaszow)収容所の指揮官
「『お父さんは、収容所で何をしていたの』と訊くと、『あそこは、労働収容だったのよ』と、母は答えました。『絶滅収容所じゃなかったの、じゃあそこで囚人は何をしていたの』と訊くと、『働いていたに決まっているじゃないの!他に何をするっていうの』。母はそう言い放ちました。母によると、子供や年寄りは、労働収容所にはいなかったそうです。ああ、よかったと安心しました。あれは労働収容所であって、絶滅収容所ではなかったと、思い込んだんです。」
「『お父さんはユダヤ人に何もしなかったのよね』と尋ねると、母は答えました。『そうねぇ…。数人は殺したかもしれない』。『数人?数人てどういうこと?2人?3人?4人?何人?』返事はただ――『そうね』と。数人という言葉がとても気になって、もっと多いのかもしれないと思いました。母は、黙っていました。私は問い詰めました。『数人て何人なの?3人?4人?5人?6人?7人?8人?』…私は穏やかに尋ねていたつもりでした。ところが母は、突然『知らない』と叫び、正気を失ったようになって、部屋に駆け込みました。そして長い電気コードを持って出てくると、それで私を激しく叩いたんです。プラグが頭に当たりました。そのとき、母の心の平和をかき乱さない限り、何も聞き出せないのだとわかりました。」
「私は、ミュンヘンのあるパブに、よく通っていました。店の主人のマンフレートは背が高くて、黒いきれいな巻き毛のハンサムな人でした。いつも店に出て接客していて、私は本当に、彼が好きでした。…その日は、バーテンダーが病気で休んでいたので、マンフレートは袖をめくりあげ、腕時計を外して自分で皿を洗っていました。そのとき、番号の入れ墨が見えたんです。ほとんどの客が帰った後だったので、私は訊いてみました。『ねぇ…あなた、強制収容所にいたの?どこの収容所?』。『ご存じないところです』と、マンフレートは答えました。それに、『そのことは、もう話したくないんです』と。それでも、もう一度尋ねると、彼は答えました。『プワシュフです』。『プワシュフにいたの?ほんとうに?』そう訊くと、『プワシュフを知っているんですか』と言ったので、『もちろん』と答えました。『父がプワシュフにいたのよ。父を知っている?』…プワシュフには大勢いたので、全員を知っているわけではないと彼は言いました。『私の父はゲートよ』と伝えましたが、彼はゲートという名の人を知りませんでした。わたしはてっきり、マンフレートが作り話をしていると思って、こう言いました。『ゲートはプワシュフの所長よ?プワシュフにいたのなら、ゲートを知らないはずがないわ。』…すると突然、マンフレートの顔が血の気を失いました。そして私を睨みつけ、後ずさりしました。彼の後ろには、ウィスキーのボトルが並んだ棚がありました。マンフレートは私を睨んだまま、声を荒げました。『ゲッツのことか…!』。ポーランド人は、ゲートと発音できないのです。『父の名はゲッツじゃなくてゲートよ』と私は言いました。それまで彼は、私の苗字を知らなかったんです。いきなり彼が、『あの人殺し、豚野郎!』と叫びました。ショックでした。」
モニカの父、アーモン・ゲートは、映画、シンドラーのリストに描かれた、プワシュフ強制収容所の所長。大量殺人の罪で、絞首刑に処せられた。
アーモン・ゲートについて
ウィキペディアより
アーモン・ゲートは、プワシュフの所長をしていた頃、ルート・イレーネ・カルダー (Ruth Kalder) と恋仲になり、ルートとの再婚を念頭に、当時の伴侶であったアニーとは離婚した。ルートはグライヴィッツ出身で、この頃にはオスカー・シンドラーの秘書をしていた。器量の良い彼女は、シンドラーの指示でゲートに色目を使って取り入ったのだが、それがきっかけで本当にゲートの愛人になったという経緯だった。1945年11月にルートとの間に次女モニカ・クリスチアーネ・ゲートを儲けた。ルートはゲートとともにプワシュフで贅沢三昧の生活を送り、のちにプワシュフ時代を回想して「美しい時代でした。夫のゲートは王で私は王妃でした。誰だって気にいらないわけがないでしょう。全てが終わってしまったことだけが残念です」と述べている。ルートは基本的に収容所で起こっていることには関知したがらなかったが、しばしば彼女がゲートに静かに働きかけて個々の囚人を拷問や銃殺から救ったことは、多くの証人が証言している。
ゲートが処刑された後、ルートはアメリカ管理局にゲート姓を名乗ることを申請した。「戦後の混乱がなければ結婚していた」ことがその理由だった。ゲートの父フランツも、息子がルートと婚約していたことを確証したのでこの請願は許可され、ルートはゲート姓になった。ルートは戦後も亡き夫ゲートを擁護し続け、インタビューでは「彼は残酷な殺人者などではなく、他の人と違いはありません。他の親衛隊員と同じでした。アーモンが数人のユダヤ人を殺害したことは否定しませんが、多数ではありません。あのような収容所は遊園地ではないのです」と述べている。彼女は病気を患っていた1983年1月9日に、病苦から逃れるためと子供に負担をかけまいという配慮から、ミュンヘンで睡眠薬による自殺をした。
次女モニカは1970年にナイジェリア黒人の留学生との間に娘ジェニファーを儲けるが、仕事との両立が難しく教会の養護施設に預け、その後養子にだしている。このジェニファーは後に祖父アーモン・ゲートについての本『Amon』(邦題:祖父はアーモン・ゲート)を出版する。モニカは1971年にドイツ人と結婚し、1976年に娘イヴァッテを儲けた。イヴァッテはヘロイン中毒者になり、その治療生活が続いている。イヴァッテは2001年に息子を儲けているが、その子にダーヴィット・アーモン・ゲートと名付けている。
2002年、マティアス・ケスラーはモニカに二日間にわたるインタビューを行い、その内容を書物『Ich muss doch meinen Vater lieben, oder?』(邦題: 「それでも私は父を愛さざるをえないのです 『シンドラーのリスト』に出てくる強制収容所司令官の娘、モニカ・ゲートの人生」)にまとめて出版している。彼女は2005年にインタビューで「父親の行いは恐ろしく、忌むべきものだった。その記録が詳細に残されているのは良いことだ。まだ生存している戦争犯罪人は追及されるべきだ」と発言している。