ヒトラーの子
ソビエト軍とスメルシュ
野心を打ち砕かれたスターリンは、ヒトラーに対する個人的な復讐に燃えます。ヒトラーの捜索を命じられたのは、ソビエト占領軍の情報機関、「スメルシュ」でした。スメルシュとは、「スパイには死を」という意味で、冷徹な任務の遂行で、名を馳せていました。
ベルリン陥落の直後、スメルシュは、総統官邸をしらみつぶしに探し回りました。専制と殺戮の限りを尽くし、崩壊したナチス帝国。その残骸の山をかき分けて、捜索は続けられました。
ついに官邸の庭で、防空壕への入り口が発見されました。期待を胸に、スメルシュは、総統の寝室や居間と思われる部屋に踏み込みましたが、ヒトラーの姿はどこにもありませんでした。
ワシリー・オルロフスキーは、このとき、スメルシュの一員でした。
スメルシュ隊員(当時) ワシリー・オルロフスキー「あれは5月2日のことでした。第79歩兵部隊のスメルシュの隊員が、官邸の防空壕の入り口で、二つの死体を発見したのです。それはひどく焼け焦げた、ゲッベルスと、妻のマクダの遺体でした。」
ナチスのフォス中将は、ゲッベルス夫妻が、子供たちを毒殺したのち、自殺し、親衛隊によって焼かれたと証言しました。
やはりスメルシュの隊員だった、ブラシチュクはこう語っています。
スメルシュ隊員(当時) イワン・ブラシチュク「防空壕の入り口に横たわっていた二つの死体の身元を明らかにすること。それが私の任務でした。私はその任務の責任者だったのです。捕虜となったナチスのフォス中将が、死体の身元確認に立ち会わされましたが、ゲッベルスと家族の死体を見て、だいぶ動揺している様子でした。
服毒自殺(殺害)させられた、ゲッベルス
の幼い子供たちの遺体が見える。
かなり親しい間柄だったからです。フォス中将は留置場に戻ると、手首をはさみで切ったんです。パニック状態になって、自分も死ぬんだと叫び始めました。私は手当てのため、医者を呼びました。」
机の前に身をかがめて、手を
震わせる様子を身振りで説明
している。この証言者は、左
手を小刻みに震わせている。
ソビエト軍の捕虜となったナチス党員たちの尋問から、ヒトラーの最後の数日間が浮き彫りにされました。ヒトラーはかなり衰弱していて、終始手が震えていたと多くの者が証言しました。
青酸カリの効果を確かめるため、ヒトラーは、自分の愛犬を毒殺しました。そして4月29日未明、防空壕で、エバ・ブラウンと、略式の結婚式を挙げたのです。
ソビエトのジューコフ元帥は、こうした報告には興味を示さず、ヒトラーを探し出すことにのみ、血眼になっていました。
ウラジミール・アントノフは、総統官邸を攻め落とした、赤軍の部隊を指揮していました。
ソビエト赤軍(当時) ウラジミール・アントノフ「ジューコフ元帥は、官邸に到着すると開口一番、ヒトラーはどこだ、と尋ねました。私は答えました。ゲッベルスはあそこに横たわっており、ラッテンハウバー将軍と、親衛隊の司令官を一人、捕まえました。ヒトラーについては、まだ何もわかっていません、と。すると元帥は、どんなことをしてでもヒトラーを見つけるのだ、と言い放ったのです。」
ヒトラーの替え玉
ヒトラーは、ソビエト軍の追っ手を逃れたかのようでした。しかし、官邸が占領されて二日後、防空壕の近くで、ヒトラーらしき遺体が発見されました。
赤軍のカメラマンだったポゼルスキーはこう証言しました。
赤軍カメラマン(当時) ミハイル・ポゼルスキー「私たちは官邸に行き、ヒトラーの写真を撮ってくるようにと言われたんです。もちろん、それまでヒトラーを直に見たことはありませんでした。でも、写真や映画で見た限りでは、その死体はヒトラーによく似ているように思えました。身元を確認するため呼ばれたドイツ人たちも、意見が分かれました。ヒトラーに間違いないという人もいれば、偽物だと言う人もいました。ヒトラーであるのかそうでないのか、なかなか結論が出ませんでした。
そこで、専門の医者に登場を願うことになったんです。やってきた医者は、ヒトラーの写真を見せてほしい、それで、死体の耳の細部をチェックしたいと言いました。彼は、ヒトラーの写真の耳と、死体の耳とをじっくり見比べました。人間の耳というのは指紋と同じように、一人ひとり違うものなんです。耳を調べた医者は、死体はヒトラーではない、と断定しました。その意見は軍の専門家に伝えられ、結局、死体はヒトラーではなく、彼の替え玉だったと結論付けられたのです。」
ヒトラーの替え玉。その存在を、ソビエトの情報機関はすでに知っていました。
ソビエト軍ベルリン作戦本部(当時) ミハイル・ミルシュタイン「替え玉の人数はごく少数でしたが、その存在は確かでした。実際何人いたのか、はっきりした数字はわかりません。というのも、替え玉の存在は極秘情報だったからです。この替え玉は、パレードのときなどに姿を見せました。ヒトラーが同じ時間に別の場所に現れたりするので、私たちは替え玉が、確かに存在すると考えていたんです。」
偽の遺体は、捜索を攪乱するための、替え玉の死体だったのかもしれません。ソビエト軍は、総統官邸での調査に一層力を入れました。
ヒトラーとエバの死体~有力な証拠
3日後、5月5日の早朝、スメルシュの隊員が、官邸の中庭で爆撃による大きな窪みに目を留めました。窪みを掘り返したところ、現れたのは男女の焼死体と、2匹の犬の死体でした。
人間の遺体は、木製の弾薬箱に納められていました。これは、アドルフ・ヒトラーのものと思われる遺体です。目撃者の証言も得られました。
スメルシュが、ナチスの親衛隊員、ハリー・メンゲスハウゼンに行った尋問記録。ここには、ヒトラーの遺体が、どのように焼却され、埋められたか、詳しく供述されています。中庭の写真を見せられたメンゲスハウゼンは、遺体を焼いた場所と埋めた場所、そして、防空壕の非常口に✕印を付けました。
証言は、現場の状況と一致しました。
スメルシュ隊員(当時) ワシリー・オルロフスキー「ヒトラーと、エバ・ブラウンと思われる死体は、箱に入れられて、ベルリン郊外のブーフに駐留していた、第3軍のスメルシュのもとに届けられました。そして地下にあった、納屋というか、倉庫のような場所に安置されたのです。5月の陽気で死体は腐敗しはじめ、物凄い悪臭を放っていました。
そこで、身元確認を急ぎ、遺体はブーフの野戦病院に運び込まれることになったのです。」
野戦病院は、今も当時の面影をそっくり残しています。この病院の、この台の上で、1945年5月、ソビエトの検視委員会は、焼け焦げ、腐りかけた人間の屍を相手に、執拗なまでの身元確認を執り行ったのです。
スメルシュ隊員(当時) ワシリー・オルロフスキー「我々スメルシュの隊員は、司令部で目撃者の尋問にあたっていました。そこへ検視の結果が伝えられてきたんです。ヒトラーと、エバと思われる人間の胃のなかから、そして、犬の胃のなかからも、同じ毒物が検出されたということでした。それは、青酸カリでした。」
死体はかなり焼け焦げていたので、歯形による確認が、身元確認の鍵となりました。ヒトラーのかかりつけの歯科医の助手が捕らえられ、ヒトラーとエバの歯のスケッチを描くように命じられました。
スケッチは、死体の歯と、ほぼ完全に一致しました。検視委員会は、死体がヒトラーとエバのものであることを裏付ける、有力な証拠を手に入れたのです。
公式の検視報告書には、こう書かれています。
『男性の死体は、年齢、50歳から60歳。形が分からないほど酷く焼けている。口の中から、青酸カリのカプセルと思われるガラスの破片が発見された。』
報告書は、死因を、青酸カリによるものと断定。さらに、頭蓋骨の一部が欠けていることも指摘していました。
ヒトラーの頭蓋骨
調査は、再びモスクワへ。ヒトラーの遺骨を持っていると長年噂されている、KGBの記録保管部に目が向けられました。ロシア連邦、公文書局の責任者はこう語りました。
ロシア連邦公文書局 アナトリー・プロコペンコ「1992年の春、モスクワの関係者が、私のところへやってきてこう言ったんです。もう数十年も保管している、ヒトラーの遺骨をどうしましょう。私は答えました。モスクワにあるというのは、本当だったんだね。まず現物を見てから、どうするか決めるとしよう。私はKGBに赴きました。係の男が、事務的な手つきでクラフト紙に包んだものを持ってきて、机の上に置きました。なかには、帽子の箱か、靴箱のようなものが包まれていました。そしてその箱のなかには、頭蓋骨の破片が、3つ入っていたんです。」
頭蓋骨の存在は、長年の国家機密でした。しかし、長い議論と交渉の末、最近、やっと映像に収める特別許可が下りたのです。何十年ものあいだ、KGBの記録保管部で、粗末な包装紙に包まれ、眠っていた遺骨。これは、果たして、本物ののヒトラーの頭蓋骨なのでしょうか。
弾丸が貫通した穴が見えます。別の包みには、小さな破片が入っていました。
もしこの頭蓋骨が、ロシア人が主張するようにヒトラーのものであるなら、なぜモスクワに持ち込まれることになったのでしょう。その答えは、この頭蓋骨に関する、8巻からなる極秘資料に書かれているといいます。中央公文書館のセルゲイ・ミロニエンコは、こう証言しました。
ロシア連邦中央公文書館 セルゲイ・ミロニエンコ「理由はわかりませんが、その極秘資料は、KGBから我々の公文書館に移されてきたんです。それがなぜなのか、私は知りません。そして、ここに運び込まれた資料は、登録もされませんでした。その存在を、隠そうとしていたんです。」
極秘資料には、ヒトラーの最後に関する調査が記されていました。
スターリンへの土産
<写真左:秘密警察長官 ラブレンティ・ベリヤ>その命を受けたのは、秘密警察長官、ラブレンティ・ベリヤでした。ドイツの降伏から、およそ1年後のことです。ベルリンの総統官邸を訪れたベリヤは、ヒトラーが最初に埋められた庭の、浅い窪みを再度掘るように命じました。この時発見されたのが、銃弾が貫通した跡のある、頭蓋骨の一部だったのです。ベリヤは、これをスターリンへの個人的な、そして、またとない土産物として持ち帰ったのです。
頭蓋骨は、ヒトラーの自殺を再確認する証拠となりました。また、この破片の発見は、最初の検視で指摘された、頭蓋骨の一部が欠けているという事実とも一致したのです。
スターリンに見せるために、頭蓋骨の破片が繋ぎ合わされました。頭蓋骨の一部とともに発見された、血痕の付いた木片と布地。
これらは、ヒトラーとエバが自決したとされる、防空壕のソファのものと一致しました。ソファの証拠写真も、極秘資料の中に入っています。スターリンの不安は、徐々に取り除かれていきました。
ヒトラーの子
ロシア連邦中央公文書館 セルゲイ・ミロニエンコ「ヒトラーの身の回りの世話をしていた男の覚書も、ここへファイルされています。リンゲという名前で、尋問の際、出血するほど酷く殴られたと書いてありますね。」
リンゲが書かされた、総統の防空壕の見取り図です。ヒトラーの自殺から、遺体の焼却までを見届けたリンゲは、スメルシュに逮捕され、何年ものあいだ、繰り返し尋問を受けました。
ロシア連邦中央公文書館 セルゲイ・ミロニエンコ「資料には、非常に興味深い事実も記されています。この話をするのは初めてですが、ヒトラーのチーフ・パイロットの供述(駐)では、エバは自殺したとき、妊娠していたんです。」
新事実や、興味をそそる噂の断片が明らかにされました。しかし、依然ヒトラーの遺体の大部分は、行方不明のままです。
ロシア連邦中央公文書館 セルゲイ・ミロニエンコ「少なくとも、1946年までは、死体は埋葬されていたはずです。問題はその後、どうなったかということですね。それについては、公文書館の管轄ではありません。」
<終>