ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

アドルフ・アイヒマン

忠実な官僚

ブエノスアイレス。1960年5月11日、15年間逃亡を続けてきた一人の男に、運命の時が訪れようとしていました。

モサド(イスラエル秘密情報機関) Z・アハロニ「もう自分の運命に従うことにしたよ。まるで独り言のように、彼がそう言ったんです。彼はドイツ人であり、しかも今何が起こっているのかを理解している。それはすなわち、彼がアイヒマンであることを示していました。」

イスラエルの秘密情報機関、モサドに連れ去られて一年後、アドルフ・アイヒマンの裁判が、エルサレムで始まりました。法廷に立つのは、数百万のユダヤ人を死に追いやった男です。

<法廷での音声「被告人は1939年から1945年にかけて、数百万のユダヤ人を死に至らしめた…。」>

アイヒマン裁判の検察官 G・バッハ「バスの中で見かけても、全く印象に残らないような人物です。しかし何か気に入らないことがあると、まるで虎のような、とても恐ろしい目つきで人を見ることがありました。」

アドルフ・アイヒマン

法廷で、不敵な笑みを浮かべている。

ナチス戦犯の追跡者 S・ウィーゼンタール「たとえば赤子の人間や、イニシャルがKで始まる人間を殺せというばかげた命令が出たとしても、アイヒマンなら言われた通りにそれを実行したはずです。」

彼の信じがたい行動を支えていたものは、一体何だったのでしょうか。

元アイヒマンの同志 W・ヘットル「アイヒマンの最大の望みは、ヒトラーの感謝を受けることでした。だがその願いは叶えられませんでした。ずっとその夢にとらわれながら、ついに果たせなかったんです。」

<(声 ヒトラー)「ユダヤ人は笑っていた。だが今となっては笑うこともできない。ことの重大性を思い知ったからだ。」>

<「当時ドイツ政府がユダヤ人を絶滅させようとした行為を、私は遺憾に思い、非難します。」(アイヒマンの裁判所での陳述)>

 

もう一つの顔

親衛隊の同志との会話からは、アイヒマンのもう一つの顔がうかがえます。

<声 アイヒマン(1956年 アルゼンチン)「我々が1,030万人のユダヤ人をすべて殺すことができたら、満足してきっとこう言っただろう。『これで敵を根絶できた』。」>

1938年3月15日、アイヒマンの故郷オーストリアに、新たな統治者としてヒトラーがやってきました。

<ヒトラーの演説「今後オーストリアは、ドイツ国民とドイツ帝国の新たな防壁となる。」>

オーストリアに住む20万人のユダヤ人にとっては、かつてない悪夢の始まり。このとき、彼らの心を一つの感情が支配していました。

ウィーンのユダヤ人 W・シュテルン「不安。これからいったい何が起こるのかという、不安でした。」

暗黒時代の到来。絶滅の不吉な前兆が、至る所で見られるようになりました。ヒムラーの随行者の中に、アイヒマンの姿もありました。

ヒムラー
(右の人物)
アイヒマン

生い立ち~悪魔的権力への忠誠

アイヒマンは、ドイツのゾーリンゲンで生まれ、オーストリアのリンツで育ちました。

かつてヒトラーも通った学校で学びますが、ヒトラー同様成績のほうはぱっとせず、やがて中退しました。

EICHMANN LEUCHTEN
アイヒマン電気会社
Leuchtenは、「輝く」「輝き」「光を当てる」の意味。

父親の会社は今も続いています。彼は最初石油会社に勤めましたが、経済危機のあおりを受けて首になりました。

苦しい生活の中で生きる意味を探し求めた彼は、やがてナチスと出会うことになります。自らの存在意義を求めて、彼はナチス親衛隊に入隊。この悪魔的な権力に、身も心も捧げていくことになります。

声 アイヒマン(1956年 アルゼンチン)「我々は命令に従い、それを忠実に実行したまでだ。秩序を尊ぶ親衛隊として、喜んで従った。」

絶対的服従。それがアイヒマンの信条でした。

<アイヒマン「忠誠とは、総統の指示に100%従うことだと理解しています。私にとって栄誉と忠誠心は同じものです。」>

上官たちはアイヒマンに高い評価を与えました。『ナチズムに対する態度――無条件。専門的知識――優秀。特別な能力――交渉、スピーチ、組織力。』

 

ユダヤ人追放とうぬぼれ

1938年、ウィーン。専門家であるアイヒマンは、全てのユダヤ人を追放する任務に従事しました。ユダヤ人居住区。アイヒマンも直接指揮にあたりました。

ユダヤ人を徹底的に探し、捕え、屈辱を与えるのです。強大な権力の行使。この様子を見た数千人のユダヤ人が、逃亡を決意しました。

<オーストリアからの亡命ユダヤ人「24時間以内にウィーンを出なくてはならなかったので、スイスの山を越えて逃げてきました。」>

ウィーンのアメリカ大使館前には、ユダヤ人が列をなすことになりました。

しかし、そのスピードに満足できないアイヒマンは、ユダヤ人の国外追放を早めるため、ユダヤ人移住局を設置しました。そこに行けば、驚くほどの速さで手続きを済ますことができますが、代わりに莫大なお金を取られることになります。追放措置を利用した、アイヒマンの事業です。

元アイヒマンの同志 W・ヘットル[Wilhelm Hottl]「重要なポイントは、アイヒマンが劣等感の塊だったということです。我々の仕事で、高い位についている人間は、大学教育を受けたものばかりでした。ほぼ唯一の例外がアイヒマンで、それだけに彼は周りの人間に対して強い劣等感を抱いていました。そして、大学を出ていなくてもこれだけのことができるんだ、と証明するため、仕事に打ち込んだのです。第三帝国が存続しているあいだ、それはずっと続きました。」

劣等感をばねに、めざましい出世を遂げたアイヒマン。ウィーンのオフィスを闊歩するその姿は、権力にとりつかれた人間そのものでした。

ウィーンのユダヤ人 W・シュテルン[Willi Stern]「比較的小柄な彼は、体にぴったり合った制服を着て、調馬用の鞭で長靴を叩きながら足早に歩き回っていました。その姿はまるで、ユダヤ人で汚れた空気など、長く吸っていられるかといわんばかりでした。私にはそんなふうに見えました。」

8か月間に4万5,000人ものユダヤ人が移住局を訪れ、追放計画は効率よく進んでいきました。

「神様 お助けを」

ウィーンのユダヤ人墓地には、当時の絶望を示す言葉があちこちに刻み込まれています。

<「神様 お助けを」>

アイヒマンは、自らの権力を見せびらかすことに熱心でした。最高級のリムジンに、お抱えの運転手。全ては彼の業績を誇示するための装飾品です。妻に対する忠誠心はそれほどでもなかったようで、複数の愛人がいたと同僚が証言しています。

ウィーンのユダヤ人 W・シュテルン[Willi Stern]「うぬぼれの強い、軽薄な若者に見えました。身の回りを飾りたてることで、人目を引こうとしていたんです。本当に虚栄心の強い男でした。」

大量射殺の現場

親衛隊国家保安本部長官、ラインハルト・ハイドリヒ(写真左)は、アイヒマンの仕事ぶりを高く評価しました。ある会議の席で、ウィーンにおけるアイヒマンのやり方は、全ドイツのお手本だと紹介したほどです。

強い忠誠心と実務能力を備えたアイヒマンはベルリンに招かれ、国家保安本部のユダヤ人担当課課長となりました。このユダヤ人担当課は、やがて絶滅本部へと変貌を遂げます。

戦争が始まると、ポーランドの至る所にユダヤ人を隔離するためのゲットーが作られました。しかしどの国もユダヤ人を引き取ろうとしないため、追放計画はなかなか前に進みません。アイヒマンはいくつかの代案を立てました。ポーランド南部に、ユダヤ人の国家を作ってはどうか。ユダヤ人をマダガスカルに送り込んではどうか。親衛隊の同僚がアイヒマンにアドバイスを与えました。もっと早く効率的に片付ける手段を検討してはどうだろう。ソビエトのドイツ占領地域で、その手段は実行に移されました。前線の背後で行われた、大量射殺です。アイヒマンはその光景に戦慄しました。

<声 アイヒマン(1956年 アルゼンチン)「ユダヤ人の射殺現場を見たことがある。その最後の瞬間にちょうど出くわしたんだ。子供を高く掲げる女性の姿を見てぞっとした。長官に進言したよ。『これではユダヤ人問題は解決しません。兵士をただのサディストに育てるだけです。』とね。」>

実際の射
殺の現場

しかしアイヒマンは、セルビア系ユダヤ人の追放に関する外務省からの問い合わせにこう答えています。

<「アイヒマン 射殺を提案」>

(アドルフ・アイヒマン 法廷にて)

裁判長「『君の父親は裏切り者だ』ともし総統が言ったら『自分の手で父を撃ち殺す』と言ったそうですね。」

アイヒマン「父が裏切るなど…」

裁判長「仮定上の話です。そう言ったのですね?」

アイヒマン「もし裏切りが証明されれば、義務を遂行します。」

「あの男は、良心やモラルとは無縁なんです。」(ナチス戦犯の追跡者 S・ウィーゼンタール)

特別列車によって運ばれる多くの犠牲者たち。ユダヤ人担当官であるアイヒマンは、もちろん大量殺戮の実態を知っていました。

声 アイヒマン(イスラエル警察の尋問テープ)「夏の終わりでした。ハイドリヒが私を呼びつけてこう言ったのです。『総統がユダヤ人の絶滅を命令された。』私は黙ってそれを了解しました。口出しなどできません。」

毒ガス使用の提案

アイヒマンは移送の仕事を黙々と、しかし熱心にこなしていきました。やがて彼は、射殺という効率の悪い手段に替わる、新しい殺害方法を模索し始めました。1941年夏。彼はアウシュビッツにある強制収容所を訪れ、所長のルドルフ・ヘスと会談を行いました。大量移送されるユダヤ人を、効率よく処理するにはどうすればいいのか。

アイヒマンはここで、毒ガスの使用を検討し始めました。数週間後の1941年9月、アウシュビッツで初めてガスが使用されました。ユダヤ人問題の最終的解決に熱心で、新しいものを開発する意気込みにあふれた男。所長のヘスは、アイヒマンをそう評しました。

ユダヤ人の大量殺戮が続けられるなか、バンゼー湖のほとりにある別荘に、国家保安本部の主要メンバーが集まりました。主な議題は、ユダヤ人問題の最終的解決。長官のハイドリヒが議長を務めました。

<「バンゼー会議には第三帝国の要人が集まり、上からの命令を受けました。私はそれに従うだけでした。」(アイヒマン 法廷にて)>

このとき記録係を務めていたアイヒマンは、何人のユダヤ人を殺戮することが可能か、几帳面に計算していきました。答えは1,100万人。紙の上に、血は流れません。殺す、除去する、絶滅させる。バンゼーの別荘で交わされたそのような言葉は、公式の文書からは排除されています。

アイヒマンは、それらをこう翻訳しました。『犠牲者には、それなりに対処する』。

会議の終了後、暖炉のそばには、ハイドリヒや、ゲシュタポ長官のミュラーとともにくつろぐアイヒマンの姿がありました。

次々と狩り立てられてゆくユダヤ人たち。このドレスデンと同じような光景は、ドイツ占領地域のあちこちで見ることができました。現地にはアイヒマンの部下が付き、すべてが支障なく行われているかを見張っています。簿記係がアイヒマンの事業を助けます。

まるで家畜のように運ばれるユダヤ人たち。死の列車の運行スケジュールは、アイヒマンがベルリンで作成していました。

〔アイヒマン〕

ドイツ国有鉄道も、協力を惜しみませんでした。ユダヤ人一人当たりの運賃は、1キロメートルにつき、4ペニヒ。もちろん片道切符。往復はありません。

テレジーエンシュタット強制収容所

<アイヒマンのサイン>サイン一つで消されていく、数多くの命。プラハから60キロのところにある、テレジーエンシュタット強制収容所。ここを舞台に、人道的な収容所というイメージをアピールするプロパガンダ映画が作られました。実質的な監督は、もちろんアイヒマンです。

彼は世界中の人々を欺こうとしていました。アイヒマンは担当の強制収容所を、何十回も視察しました。そして彼の訪問は、犠牲者たちにとって、不吉な前兆に他なりませんでした。

元テレジーエンシュタット強制収容所の囚人 R・ゲルバルト〔Rudolf Gelbard〕「アイヒマンが収容所に来るとみな不安を感じました。たいていの場合、さらに悪い収容所へと、移送される人間が出たからです。アイヒマンには絶大な権力があり、人の生死を意のままに操ることができました。」

テレジーエンシュタットは、この子供たちにとって地獄への中継基地に他なりませんでした。その終着駅は、アウシュビッツ絶滅収容所です。1942年夏、アイヒマンは、どれだけのユダヤ人を絶滅収容所が受け入れられるか、視察を行いました。

声 アイヒマン(1956年 アルゼンチン)「人間が焼かれるのを見たとき、体の震えが止まらず――何か他のことを考えずにはいられなかった。あの日あの光景を見たとき、気を紛らわすためにお祈りをしたよ。嫌なことから逃れたいとき、いつもそうするんだ。君たちは笑うだろう。だが私は父なる神と精霊と、イエス・キリストを信じているんだ。」

元アイヒマンの同志 W・ヘットル「彼は精神的にあまり強い人物ではありませんでした。だから死体が焼かれる残酷な光景を目の当たりにして、かなりのショックを受けたようです。でも彼は、自分のそんな精神的弱さを人に知られないよう、努力していました。そこで、いつも強い酒を水筒に入れて持ち歩き、何かあると、それをぐいっとひっかけていました。そんな姿を見るたびに、ああまた神経が参っているようだな、と思ったものです。」

 

移送と虐殺への情熱

(アイヒマン 法廷にて)「私は自分の仕事を鉄のように硬い意志でやり遂げただけです。だが、そのあまりの悲惨さに心が痛み配属先を変えてほしいと上司に何度も懇願しました。」

アイヒマンは、現場で自分の手を汚すことなく、大量殺戮に加担していきました。彼は死の列車を予定通り走らせることに情熱を注ぎ、少しでも移送が遅れることは、不名誉だと考えました。

アイヒマン裁判の検察官 G・バッハ「憎しみを感じたことはないと言っていました。」

「反ユダヤではなく、愛国主義です」(アイヒマンの法廷での発言)

アイヒマン裁判の検察官 G・バッハ「しかし、その言葉は信じられません。相手に何の憎しみも持たない人間が、あんなことを実行できるとは思えないからです。とても不可能です。彼の行った行為はそれほどひどいものでした。」

(アイヒマンの法廷での発言)「私は時刻表作成の命令を受けていたんです。」

アイヒマン裁判の検察官 G・バッハ「あるとき、ルーマニアで数千人のユダヤ人が民兵によって殺害され、川に放り込まれるという事件が起きました。それを聞いたアイヒマンは我を忘れるほど激怒したそうです。人道的な理由からではありません。そんなことをされたら、きちんとした統計が取れなくなるからです。ルーマニアのユダヤ人を殺すことになっても、きちんと人数が把握できなければ、何人かは逃してしまう。それでアイヒマンは激怒したのです。」

アイヒマンは、まだ幼い子供たちも、容赦なく収容所へと送り込みました。彼にとってあらゆるユダヤ人は、統計上の数字に過ぎなかったのです。

声 アイヒマン(1956年 アルゼンチン)「ユダヤ人のその後の運命に関心はなかった。それは私の任務領域ではないからね。彼らの生死など関係ない。処理が済んだ以上、どうでもいいことだ。」

1944年3月、ハンガリーでもユダヤ人の虐殺が始まりました。

38歳の誕生日、アイヒマンは、ハンガリーに住む70万人のユダヤ人を強制移送する任務に取りかかりました。

強制移送はまず、地方から始まりました。

ユダヤ人にとって何よりの不運は、ハンガリー当局が喜んでナチスに協力したことです。

アイヒマンはブダペストのホテルに本部を構え、移送計画を指揮しました。わずか2か月間に、45万人ものユダヤ人が強制移送されました。

〔ドイツ国営鉄道〕
貨車に刻印されたドイツ国有鉄道のパネル

狭い車両に大勢の人間が詰め込まれ、収容所に着く前に命を落とす者もいました。甘い言葉が偽りであることも、すぐに明らかになりました。

元ビルケナウ強制収容所の囚人 J・ローゼンブルム〔Jehoshua Rosenblum〕

「ポーランドのユダヤ人と違い、ハンガリーのユダヤ人は、ビルケナウがアウシュビッツの一部であることを知りませんでした。行く先は家族収容所だと言われていたんです。実態は大違いでした。」

1944年夏、すでに戦争の決着はついたも同然でした。それでもアイヒマンはかたくなに列車を走らせました。彼にとっては戦争の勝敗や祖国の運命よりも、自らの任務を遂行することが第一だったのです。

アイヒマン裁判の検察官 G・バッハ「東部戦線にいるドイツ軍が、援軍や物資の補給を切望しているにもかかわらず、アイヒマンはユダヤ人の移送を最優先させました。彼は友人たちにこう言ったそうです。我が国が戦争に負けているのはわかっている。だが私の戦争はまだ勝利を続けている。そしてアウシュビッツに行き、殺害のペースをさらに引き上げさせました。」

しかし任務の遂行はしだいに困難になっていきました。ハンガリーの指導者、ホルティ・ミクローシュが、強制移送への協力を中止したのです。しかしアイヒマンはそれを素直に受け入れようとしませんでした。

ハンガリーのユダヤ人 P・レンドバイ〔Paul Lendvai〕「私には1歳年下の、また従兄弟にあたる女の子がいました。彼女は母親とともにアウシュビッツに移送されていきました。首相の地位にあったホルティ・ミクローシュは、強制移送への協力を中止し、ドイツに抗議を申し入れていました。それにもかかわらず、アイヒマンはずる賢い方法を使ってブダペスト周辺のユダヤ人を集めていたんです。何としてでも強制移送を続けようとしたのでしょう。」

親衛隊の最高指導者であるヒムラーも、連合国との和平を念頭に置き、強制移送を中止しようとしました。

ナチス戦犯の追跡者 S・ウィーゼンタール〔Simon Wiesenthal〕「それを聞いたアイヒマンは、ひどく興奮して、なぜ突然やめるんだと叫んだそうです。」

ブダペストのユダヤ人

1944年10月、ハンガリーでクーデターが発生し、ホルティ・ミクローシュが失脚。急進的なファシズム政権が誕生しました。アイヒマンにとっては、願ってもない話です。

首都ブダペストにもユダヤ人狩りの嵐が吹き荒れました。

ハンガリーのユダヤ人 I・ドモンコシュ〔Istvan Domonkos〕「クーデターのあと、激しい弾圧が始まりました。ハンガリーのファシストたちは、ユダヤ人を見つけると、何らかの口実を付けてまとわりつき、身ぐるみはぎとろうとしました。最悪の場合、そのまま捕まってドナウ川のほとりに連れて行かれ、撃ち殺されることもありました。」

ブダペストに住む数万のユダヤ人は、必死に避難先を探し求めました。その時、多くの人々の命を救ったのは、憎しみの海に小島のように浮かんだ隠れ家でした。ブダペストの至る所に、黄色い星のマークを付けたところが百以上も出てきました。この自由広場もその一つです。

ラウル・
バレンベリ
カール・
ルッツ

勇気ある外交官ラウル・バレンベリやスイスのカール・ルッツたちが始めたものです。彼らは自分たちの特権を生かして、一人でも多くのユダヤ人を、殺戮の嵐から救おうとしました。

この名簿に名前が載れば、保護パスポートと、保護施設が提供されます。これによって10万人以上のユダヤ人が命拾いをしました。

身の危険の予感

レジスタンス活動が激しくなるにつれ、アイヒマンは身の危険を感じるようになりました。

ナチス戦犯の追跡者 S・ウィーゼンタール「誰かが彼の写真を撮ろうものなら、烈火のごとく怒って、カメラからフィルムを抜き取ろうとしました。それで後になって、壊したカメラの代金を弁償したりしていたそうです。やがて、自分がお尋ね者になることを予感していたのでしょう。」

アイヒマンの不安は、決してただの思い過ごしではありませんでした。

元 ハガナ(ユダヤ人レジスタンス組織)M・ディアマント〔Manus Diamant〕「我々は自らの命を犠牲にしてでも、アイヒマンを暗殺する計画を立てていました。アイヒマンと刺し違えられるなら、それは名誉ある死です。」

しかし、計画は土壇場で中止になりました。ブダペストのユダヤ人に、報復措置が及ぶのを恐れたからです。

連合軍の爆撃によって、ついに死の列車は走れなくなりましたが、それでもアイヒマンは計画を曲げませんでした。ブダペストのユダヤ人5万人を、オーストリアまで徒歩で移送させたのです。

ハンガリーのユダヤ人 P・レンドバイ「私たちは、ずっと歩き続けました。それでも、ブダペスト近郊まで進むのがやっとでした。そこまで来たときのことです。疲れて自力で歩けなくなった人たちが、隊列の中で銃殺されました。私の目の前で、撃ち殺されたのです。まさに、死との競争でした。」

<♪>死の音楽を奏でるのは、ナチスドイツ。演奏を指揮するのは、もちろんアイヒマンです。

ナチス戦犯の追跡者 S・ウィーゼンタール「若い士官が尋ねました。『上官どの、何人のユダヤ人を処理されるのですか。』アイヒマンは答えました。『5以上。』5とは、500万人のことです。その士官がまた尋ねました。『戦争が終わったあと、その500万人の行方を世界中から追及されることになりませんか。』するとアイヒマンは明瞭な言葉で、冷たく、こう言い放ちました。『100人の死は痛ましい悲劇だが、100万人の死は統計の数字にすぎない。』」

(アイヒマン 法廷にて)「移送命令は遂行しなくてはなりませんでした。その先に死が待っていると――知っていたことを告白します。」

アイヒマンは、自分が移送したユダヤ人の末路を知っていました。

元アイヒマンの同志 W・ヘットル〔Wilhelm Hottl〕「絶滅収容所で400万人。殺人部隊や収容所内の伝染病で200万人。合計で600万人が死んだと教えてくれました。」

逃亡

1944年12月。ソビエト軍が押し寄せてきたため、アイヒマンはブダペストを脱出しました。戦争が終わる直前、親衛隊のトップたちは、オーストリアの山岳地帯に避難していました。

アイヒマンは故郷のオーストリアを拠点に、連合軍に対する最後の抵抗を試みようとします。しかし彼の上官は、もはや戦争の遂行をあきらめていました。

元アイヒマンの同志 W・ヘットル〔Wilhelm Hottl〕「アイヒマンは、私にこんな不平を漏らしました。長官は自分を歓迎せず、副官を通してイギリスの金貨をよこしただけだ。金貨などくそくらえ。私がほしいのはそんなものじゃない。金なら持っている。私がほしいのは、これからどうすべきかという命令なんだ。」

しかし命令は出ないため、彼は動きが取れません。同志の忠告を受け、ついにアイヒマンは逃亡を開始しました。逃げる途中アメリカ軍に捕まり、戦争捕虜の一人となりました。

いつ正体がばれるかと恐れ、自殺することさえ考えたアイヒマン。しかしまたも逃亡に成功し、新しい人生を歩み始めます。バルト、エッグマン、ヘミンガー、新しい名前をいくつも使い、職業を転々と変えていきました。

ニュルンベルク裁判では、被告人不在のままアイヒマンの犯した罪が暴かれていきます。そして本格的追跡が始まりました。しかしアイヒマンの逃亡は、その後15年間続くことになります。

ブエノスアイレス

ブエノスアイレス
(アルゼンチン)

1950年、ブエノスアイレス。アイヒマンは、リカルド・クレメントと名乗り、新しい生活を始めました。都市部を出て、身を隠しやすい田舎へ。

しかし水の研究調査をする新しい仕事で、彼は意外なほどの無能ぶりをさらけ出します。

アルゼンチン時代のアイヒマンの上司 H・リューア〔Heinz Luhr〕「彼の仕事ぶりは正確さに欠けていました。データの収集の仕方を見ていると、それがよくわかりました。とにかく仕事の段取りをきちんと整える能力が、まるでないんです。」

アイヒマンは自分の過去を完全に封印しようとしました。

アルゼンチン時代のアイヒマンの上司 H・リューア〔Heinz Luhr〕「彼に、何か過去に関することを質問しても、絶対に返事は返ってきませんでした。まるで何も聞かなかったかのように、表情一つ変えませんでしたよ。」

首になったアイヒマンは、また転々と職業を変えていきます。ウサギの繁殖、クリーニング店、工場労働。その後アイヒマンは都会に戻り、リカルド・クレメントとして平穏な生活を数年間にわたって送りました。しかし、一人のユダヤ人の情報から、イスラエルの秘密情報機関モサドが動き始めました。

モサド(イスラエル秘密情報機関)Z・アハロニ〔Zvi Aharoni〕「とにかくそこがどんな家か、誰が住んでいるのかを確かめるために、チャカボコ通り(写真右)にある家に向かいました。ところが行ってみると家はもぬけの空、ペンキ屋が室内の壁を塗っている最中でした。そのドイツ人がアイヒマンだとすれば、勘付いて逃げたに違いないと思いました。」

アイヒマンは、2週間前にその家を引っ越したところでした。ツヴィ・アハロニの執拗なアイヒマン追跡が始まりました。やがて彼は、リカルド・クレメントが、サンフェルナンド地区のガリバルディ通りに住んでいるという情報を掴みました。監視を続けたアハロニは、さまざまな特徴の一致から、そのドイツ人が間違いなくアイヒマンであると確信しました。

彼は本部に連絡を取り、次の段階に進むよう進言しました。本部を動かす決め手となったのは、隠し撮りされた4枚の写真でした。

当時モサド長官 I・ハレル〔Isser Harel〕「アイヒマンを殺すつもりは最初からありませんでした。捕まえて、イスラエルの法廷に立たせたいと思っていたんです。」

モサドのアイヒマン作戦

1960年4月、アイヒマン作戦スタート。11人のモサド工作員が、ブエノスアイレスに到着し、アイヒマン捕獲の準備に取り掛かりました。見知らぬ土地での工作活動は、彼らにとっても容易なことではありませんでしたが、アイヒマンのほうも、彼らの接近を知ることはできませんでした。

1960年5月11日、ガリバルディ通り。アイヒマンが毎日通る道を調べ上げたモサドのメンバーはバス停と自宅の間に車を停め、アイヒマンの帰りをじっと待ち続けました。その日アイヒマンは普段よりも遅い時間に帰ってきました。

モサド(イスラエル秘密情報機関)R・エイタン「最初に彼の姿を見つけたのはアハロニでした。しかしそのとき、アイヒマンがポケットに手を突っ込んでいるのが目に入りました。ポケットの中に、銃を隠し持っているかもしれない。そう思い、私たちは警戒しました。」

モサド(イスラエル秘密情報機関)Z・アハロニ〔Zvi Aharoni〕「アイヒマンがそばに来たとき、メンバーの一人が前に立ちふさがりました。捕まえる前に一応話を聞きたいと思ったんです。アイヒマンが逃げ出したので後を追いました。3~4メートル行ったところで彼は溝に転げ落ち、叫び声をあげました。」

モサド(イスラエル秘密情報機関)R・エイタン「そのときアイヒマンが叫んだんです。『うーっ!(註:少しくぐもった声)』こんな声でした。」

モサド(イスラエル秘密情報機関)Z・アハロニ〔Zvi Aharoni〕「そのときエイタンがまだ後部座席に座ったままだったので、私は怒鳴ったんです。『早く行って助けるんだ、もう隠れてる必要なんかないだろう。』そのあとアイヒマンを溝の中から引き揚げ、車に押し込みました。」

ブエノスアイレスのカフェでは、モサド長官のイサー・ハレルが報告を待っていました。

当時モサド長官 I・ハレル〔Isser Harel〕「もう夜中になった頃、二人の部下が突然カフェに姿を現しました。見るからに疲れ、服も汚れていました。しかし、彼らの晴れ晴れとした表情を見た瞬間、私は作戦の成功を悟りました。」

隠れ家で、尋問が行われました。もちろん最大の焦点は、リカルド・クレメントなる人物の正体です。

モサド(イスラエル秘密情報機関)Z・アハロニ〔Zvi Aharoni〕「最初に名前はと聞きました。答えは、リカルド・クレメント。さらに聞きました。その前の名は。答えは、オットー・ヘニング。それは確かに彼が使っていた名前でしたが、我々はそのことを知りませんでした。このぶんでは、自分がアイヒマンだという自白を引き出すのは無理かもしれないと思いました。そこで我々は、アイヒマンの個人的特徴に関する質問をたくさんしてみました。靴のサイズ、首周りのサイズ、服のサイズ、誕生日、親衛隊やナチスの認識番号。そして最後にこう質問しました。生まれたときは、どんな名前でした?すると彼はこう答えたんです。アドルフ・アイヒマン。何のためらいもなくそう言いました。あの作戦における、最大のクライマックスともいうべき瞬間でした。」

裁判~死刑

誘拐、拘禁、そして裁判。

(アドルフ・アイヒマン 法廷にて)「ここで私の意見をはっきりと申し上げます。ユダヤ人に対する虐殺や絶滅計画は、歴史上、他に類を見ないほど重大な犯罪です。」

アイヒマン裁判の検察官 G・バッハ〔Gabriel Bach〕「あの発言が、アイヒマンの真実の声だとはとても思えません。ただ単に、自分を弁護するために出てきた言葉です。あれは決して、アイヒマンの本音じゃありません。ほぼ100%の確信を持ってそういえます。」

(アイヒマン 法廷にて)「私にとっては不運でした。あのような残虐行為の遂行は本意ではありません。」

しかし、命令されたら。

(声 アイヒマン[1956年 アルゼンチン])「収容所の指揮を任されたら、断るわけにもいくまい。そこでユダヤ人殺害を命令されたら実行するしかないだろう。」

人道に対する罪とユダヤ民族に対する罪により、アイヒマンに、死刑の判決が下されました。1962年6月1日、死刑執行。その後、死体を焼いた灰は、地中海にばらまかれました。

<終>

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