ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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アンネ・フランク

アンネ・フランク

アンネの家
(アムステルダム)

アンネの日記。アンネ・フランクが、ナチスの魔の手から逃れ、ひっそりと隠れ家で書き綴った日記は、世界中の人々の心をとらえました。しかし、その日記には、故意に伏せられていたページがあったのです。今回、このページが発見されたことによって、アンネの人物像に、新たな光が当てられることになりました。

1933年の夏。オットー・フランクは、故郷のドイツを逃れ、オランダへ移住しました。妻のエーディト、7歳のマルゴ、そして4歳のアンネと、新しい生活を始めるためです。その年の1月、アドルフ・ヒトラーが、ドイツの首相に就任していました。フランク一家は、アムステルダム市内の快適なアパートで、新しい暮らしをスタートさせました。アンネの小学校時代の友人で、近所に住んでいたリュシア・ファン・デイクさん(写真左)は、たびたびアンネのアパートを訪れました。

アンネの友人 リュシア・ファン・デイク「何もかも美しくて上品でした。広々とした居間には骨董品が置いてあり、台所もとても広かったですね。寝室は見てませんけどほんとに大きなうちでした。アンネの家にはセントラルヒーティングまでありました。当時ではとても珍しいことでした。」

ハンネリ・ホースラル

アンネは、幼友達おさなともだちのハンネリ・ホースラルさんともこの町で出会いました。

アンネの友人 ハンネリ・ホースラル「母に連れられて食料品店に行くと、ほかにも小さな女の子を連れた女性が来ていて、母もその人も、偶然ドイツ語しか話せなかったんです。二人は話をしているうちに、お互いのうちが近いということが分かりました。その数日後、私は初めて幼稚園に行きました。母は、私がオランダ語を話せないし、友達もいないのでとても心配していました。でも幼稚園に着くと、アンネがいました。それで、私は駆け寄って、アンネに抱き着いたんです。」

こうしてアンネは、ほかのユダヤ人難民と同じように、新しい故郷に溶け込んでいきました。

オランダは過去何世紀にもわたり、迫害された人々に、救いの手を差し伸べてきました。古くからヨーロッパ各地で迫害されてきたユダヤ人も、その多くが安住の地を求めてオランダへ逃げ込みました。当時、オランダに住んでいた14万人のユダヤ人は、中立主義を貫くオランダにいれば、ナチスの迫害を受けずに済むと考えていました。

このほどアンネの伝記を書いたメリッサ・ミュラーさんは言います。

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「オランダには、古くから大きなユダヤ人社会があって、この国に溶け込んでいたのです。アンネの父オットーも、20代の初めにオランダに滞在した経験があります。一族の経営する銀行の、支店があったからです。オットーはオランダ語もでき、事情にも通じていました。それで、オランダに移ったのです。」

ミープ・ヒース

オットーは、アムステルダムに会社を設立しました。自家製ジャムに使用する、ペクチンを製造販売する、ドイツの会社の支店です。

会社のコマーシャルには、オットーの秘書の、ミープ・ヒースが出演しています。のちに彼女は、フランク一家の、大事な協力者となります。

恵まれた環境で、アンネは、社交的な少女へ成長していきました。ジャクリーヌさん(写真右)は、アンネの遊び友達でした。

アンネの友人 ジャクリーヌ・ファン・マールセン「アンネは見栄えをとても気にしていて、特に髪形にはうるさかったわね。アンネは自分のきれいな黒髪をしょっちゅうかしてつやを出し、毎晩カーラーを巻いていました。うちに泊まりに来たときも、自分のカーラーをわざわざ持ってきたほどなんですよ。いつも鏡を見ているというほどではありませんが、自分の外見にとてもこだわっていました。」

アンネのボーイフレンド

エドモンドさん(写真右)は、アンネのボーイフレンドでした。

アンネのボーイフレンド エドモンド・シルベルベルフ「私が16のとき、アンネは13歳でした。当時16歳の少年が、3つも年下の女の子に興味を持つのは、少しおかしいと思われていましたけど、アンネはほかの子とは全然違ったんです。私は、アンネの考え方や振る舞いというものに、すっかり魅了されました。彼女にまた会いたいと思ったのを、はっきり覚えています。」

アンネの友人 ハンネリ・ホースラル「母はアンネのことを、よくこういう風に言っていました。神様は何でも知っているけど、アンネはもっとよく知っている。」

1939年、ドイツはポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発しました。第一次世界大戦で中立を貫いたオランダは、今度も中立を守れると考えていました。

コリーン首相「心配無用です。不安に思って休暇を台無しにしないで下さい。」

しかし、1940年5月、ドイツ軍はオランダに侵攻。世界屈指の港、ロッテルダムは爆撃を受け、無残に破壊されました。その数日後、オランダは降伏。オランダはナチスドイツの占領下におかれ、直ちに反ユダヤ政策が実行に移されました。すべてのユダヤ人は、胸に黄色の星を付けさせられます。

アンネのボーイフレンド エドモンド・シルベルベルフ「私たちはどこへも行けなくなりました。ユダヤ人は路面電車に乗ることを禁じられ、自転車まで取り上げられました。ですから私たちは、歩くことしかできませんでした。それも夜8時までに、制限されていたのです。」

ユダヤ人の子供は公立学校に通うことを禁じられ、特別に作られたユダヤ人学校に転校させられました。ナチスは、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を抹殺する計画に着手します。

まず初めに、ユダヤ人の男性が駆り集められました。

当時の様子を、オットーの友人、コル・スアイク(写真右、左の人物)さんは、こう回想しています。

オットーの友人 コル・スアイク「ユダヤ人たちが広場を走って、レストランや商店に逃げ込む姿が、今でも目に焼き付いています。ユダヤ人の男たちは、警官や軍人に追いかけられていたんです。捕まえたユダヤ人を乱暴に電車に放り込む様子は、見るにえませんでした。広場は、泣き叫ぶ女性や子供たちであふれていました。路面電車が走り出すと、女の人たちが、夫や息子たちの名前を呼びながら、電車を追いかけていました。その光景は到底、忘れることなどできません。」

誕生日のお祝い

ナチスの狂気が激しさを増すなか、アンネは、13歳の誕生日のお祝いに、父オットーから日記帳を送られました。反ユダヤ主義の高まりは、ナチスドイツに限ったことではありませんでした。オランダの同調者たちも、この機会を歓迎し、ユダヤ人への憎しみを爆発させていました。そんななか、アンネは、空想の友達への手紙という形で、日記を綴ったのです。

アンネの友人 ハンネリ・ホースラル「アンネは、学校でいつも何か書き物をしていました。休み時間に、紙を隠しながら書いていたんです。なにを書いてるのと尋ねると、首を突っ込まないでと言って、教えてくれませんでした。」

1942年、ナチスの反ユダヤ政策は、次の段階に移りました。ユダヤ人のほとんど誰もが、ドイツやポーランドの収容所へ送られようとしていたのです。

アンネの姉
マルゴ―
オットー・
フランク

16歳のマルゴ―に呼び出し状が届いたとき、オットーはある決意を固めました。翌日、フランク一家は忽然こつぜんと姿を消します。

アンネの友人 ハンネリ・ホースラル「アンネのうちに行って、何度も呼びりんを鳴らしましたけど、誰も出てきませんでした。」

アンネの友人 ジャクリーヌ・ファン・マールセン「アンネが消えた日、彼女のうちに行って日記を探しましたが見つかりませんでした。」

アンネのボーイフレンド エドモンド・シルベルベルフ「突然、人が姿を消すのは、珍しいことではありませんでした。」

隠れ家

オットーは、自分の会社が入っている建物の一部を、隠れ家になるように改造していました。

階段を登ると
見える風景
部屋の左側
窓から見える風景

当時、ユダヤ人をかくまってくれる人を探すのは非常に困難でした。潜伏先を見つけることができた人は少数派で、そのうち1万人がナチスに捕まっています。その半数以上が、密告によって発見されました。統計によれば、オランダにいた14万人のユダヤ人のうち、4分の3の人々が、ナチスの収容所で殺されているのです。

オランダ国立戦時資料研究所 歴史家 ダーウィット・バールナウ「アンネ・フランクのおかげで、大勢のアメリカ人が、オランダ人はユダヤ人をかくまった勇敢な国民だと思っています。もちろん、すべてがそうだったわけではありませんが。」

オットーの友人 コル・スアイク「私の父は、ユダヤ人を匿ってくれそうな家族を81挙げてみました。そのうち、助けてくれたのは7家族だけです。

その7家族は、11人のユダヤ人を、戦争が終わるまで匿ってくれました。当時窮地に陥っている人は、その人が何か間違いを犯した結果だと考えられていました。だからそんな人を助けてあげる必要はないと、思われていたのです。」

アンネは、2年間にわたって、隠れ家で日記を書き続けました。空想の友達、キティに手紙を書くスタイルで、自分の秘密や考えを綴っていきました。この最初の日記は、のちに「Aテキスト」と呼ばれます。

隠れ家でのアンネは、ラジオでオランダ亡命政府の文部大臣、ヘリット・ボルケステインの訴えを耳にしました。ドイツ占領下での、オランダ国民の苦しみを記録した手記などを、戦後出版したいというのです。そこで、作家になることを夢見ていたアンネは、最初に書いた日記に手を入れることにしました。書き直した二つ目の日記は、のちに「Bテキスト」と呼ばれます。

ローリーン・ヌスバウムさんは、フランク一家の友人で、アンネの日記の専門家でもあります。

フランク家の友人 オレゴン州立ポートランド大学教授 ローリーン・ヌスバウム「アンネは、二つ目の日記を2か月半で仕上げました。最初の日記を清書しながら、内容に手を加えていったのです。アンネは、1944年の5月24日に、日記を書き直すことを決意しています。それに、『隠れ家』という題名を付けました。」

フランク一家の協力者 ミープ・ヒース(1987年収録)「アンネはここに座ってあれこれ考えていたのね。夢や思いを――全部書き留めていたのでしょう。可愛い子だったわ。」

密告

収監者の名簿と
思われる書類。
オットー・フランクの名がある。

しかし、アンネがすべての書き直しを終える前、隠れ家にいたアンネたちは、密告によってナチスに捕まってしまいます。1944年8月、フランク一家は、ほかのユダヤ人たちと同じように、収容所に送られました。

一家が送られたのは、オランダの北東部に作られた、フェステルボルク収容所。ここから地獄の旅が始まりました。およそ一か月後、フランク一家は、ポーランドのアウシュビッツ収容所に向かう列車に乗せられます。アウシュビッツでは、拷問のような苦しい生活が待っていました。

その2か月後、ソ連軍がアウシュビッツに迫ったため、一部のユダヤ人はほかの収容所へ移されます。娘たちと引き離され、アウシュビッツに残されたエーディトは、間もなく死亡。父親のオットーは生き延びて、解放されました。

ベルゲン=ベルゼン

いっぽう、アンネと姉のマルゴーは3番目の収容所、ドイツのベルゲン=ベルゼンへ移されていきました。この収容所の環境は最悪でした。アンネの友人のハンネリさんは、丸坊主にされ、寒さに震えるアンネに会っています。

アンネの友人 ハンネリ・ホースラル「アンネが、有刺鉄線の向こうにいることを、友人が教えてくれたんです。私は、夜が更けてからフェンスのそばに行き、アンネの名前を呼びました。…するとしばらくして、アンネが私の名前を呼ぶのが聞こえてきたのです。アンネの姿を見て、私は愕然としました。すっかり痩せこけていて、別人のようだったんです。」

1935年3月、マルゴーに続いて、アンネも、チフスが原因で息を引き取りました。

アンネの日記の出版

隠れ家にいた8人のうち、生き残ったのは父のオットーだけでした。オランダに戻ったオットーは、新聞広告を出して、娘たちの消息に関する情報を求めました。

フランク一家
の協力者 ミープ・ヒース

フランク一家の潜伏を助けたミープ・ヒースは、一家が連れ去られたあと、アンネの日記を見つけ、いつの日か本人に返そうと、注意深く保管していました。

アンネの父 オットー・フランク(1967年収録)「娘たちが還らないことを知らされたとき、ミープから日記を渡されました。奇跡としか言いようがありません。」

ミープ・ヒース(1987年収録)「そのとき私は、机の引き出しから日記を取り出しました。『お嬢様の形見です』と言って、その日記を渡したんです。彼は日記を手に、自分の部屋へ入りました。私は彼をそっとしておきました。」

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「オットーは、ミープから渡された二通りの日記から、原稿を作り始めました。これが、最終的に1947年に出版された、最初のアンネの日記、いわゆるCテキストです。」

「隠れ家」(1947年)
オランダ語版アンネの日記
【Cテキスト】

実際には、アンネの日記を出版するのに、オットーは苦労しました。出版元がなかなか見つからなかったのです。ようやく出版されても、本はさっぱり売れませんでした。しかし、1950年代、事情は一変します。

“THE DIARY OF ANNE FRANK”
PROCLAIMED BY CRITICS
“A FILM MASTERPIECE”
“THE DIARY OF ANNNE FRANK” のネオン

(ニュース音声)「『アンネの日記』の試写会が、ニューヨークで行われました。予想を超え、劇場の記録を塗り替えています。」

オランダ国立戦時資料研究所 歴史家 ダーウィット・バールナウ「アメリカで劇や映画になってから、本の人気が非常に高まりました。いわば、アメリカの観客に、アンネをさらわれてしまったようなものです。」


やがて、フランク一家の隠れ家は、アンネ・フランクの家として一般公開されることになり、オットーは後半生こうはんせいを、アンネ・フランク財団の活動に捧げました。

アンネの日記 幻の5ページ

アンネの日記は、1960年代から70年代にかけて世界的なベストセラーになり、およそ60か国語に翻訳されました。

いっぽう、ネオナチのグループが、ホロコーストなどは起きなかったと主張し始めていました。アウシュビッツは作り話であり、アンネの日記も、ユダヤ人たちによる偽造だと声高に叫んでいたのです。ネオナチの口を封じるため、1980年、ドイツ連邦犯罪捜査局は、アンネの日記の信ぴょう性について調査を開始します。 捜査官は、スイスに住んでいるオットーの自宅に派遣され、アンネが書いたものすべてを調べることになりました。

郵便ポスト
Otto H.Frank
オットーの家
その数日前、オットーは信頼を寄せているコル・スアイクを呼び出し、ある依頼をしました。

オットーの友人 コル・スアイク「――あれは、ドイツの捜査官が到着する直前のことでした。オットーは私に、アンネの日記の手書き原稿を5枚渡し、これを預かってもらいたいと頼んだのです。私は、どうすればいいんですか、アンネの原稿はすべて調査に必要なんですよ、と言いました。するとオットーは、この5枚は活字にはせず、削除したものなんだ、だから捜査官には見られたくない、と言うんです。見ると原稿は、オランダ語で書かれていたので、捜査官には、オランダ語は読めませんよ、と告げました。でもオットーは、おおやけにしたくない5枚を除いて、日記の原稿すべてに、すでに通し番号を振っていたのです。」

その年オットーは亡くなり、アンネの二つの日記の原稿は、オランダ国立戦時資料研究所(写真右)に寄贈されました。この研究所は、1986年に、アンネの日記の研究版を出版し、すべてのテキストを公開しています。

「アンネの日記
研究版」
1986年
最初に書かれたAテキスト、書き直されたBテキスト、そしてオットーが出版したCテキストの3つを比較、対照したものです。

編者の一人、ヘロルト・ファン・デル・ストロームさんは、アンネの日記についての専門家です。ヘロルトさんはこの日、オットーが伏せていた問題の5枚を、コル・スアイクさんから受け取ります。オットーがコルさんに託したのが、1980年。20年近くたって、初めて人の目に触れるのです。ヘロルトさんが直ちに筆跡鑑定した結果、渡されたページは、本物であることが判明しました。

『アンネの日記 研究版』編者 ヘロルト・ファン・デル・ストローム「例えば、いわゆるキティへの手紙の下に書かれている、サインが証拠です。このサインの右下に、線が引かれています。このちょっとした筆遣いは、アンネ・フランク独特の癖なんです。これを見ただけでも、これらのページは確かに、アンネ・フランク本人が書いた、本物であることが分かります。」

なぜコルさんは、オットーから託されたページを、もっと早くに公表しなかったのでしょうか。それは、そのページが公表されても、オットーやその再婚した妻が傷つくことがなくなる時期まで、公表を差し控えてほしいとオットーから頼まれていたからです。

オットーの友人 コル・スアイク「私に5枚の原稿を渡したとき、オットーは、その内容に関する質問は絶対に受けたくない、と言いました。彼は私を心底信頼して、このページを託したんです。ですからオットーや彼の奥さんが質問を受ける可能性がある限り、絶対に誰にも渡してはならないと、肝に銘じました。何か月かして、私はオットーのところへ行きました。まだあのページを持っているんだけど、と言うと、彼はただ手を上げて、拒絶のしぐさを返しました。」

オットーが伏せていた5枚の原稿は、オレンジ色と、水色の二組に分かれていました。オレンジ色のページには、自分が書いたものは誰にも見られたくない、と書かれていました。

『アンネの日記 研究版』編者 ヘロルト・ファン・デル・ストローム「もしオットーが、アンネの言葉に従って本にしていなかったら、私たちはアンネのことを知らなかったでしょう。そうでなくて、本当によかったと思います。結局、オットーは私たちだけでなく、アンネに対しても、正しいことをしたのだと思います。」

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「私は、オットーが誤解していたのではないかと考えています。誰にも見られたくないと書いたのは、本心ではなく――アンネが言いたかったのは、誰からもプライバシーを侵されたくないということです。彼女は自分が死んで、こんな形で日記が出版されるとは思ってもいませんでした。戦争が終わったら、日記を素材にして、小説を書こうと思っていたのです。」

フランク家の友人 オレゴン州立ポートランド大学教授 ローリーン・ヌスバウム「あれは、アンネが文章の書き出しをどうしようかと考えた、テクニックだったのです。二つ目の日記の初めに、小さな女の子の書くことなんか、誰も興味を持たないでしょうね、と書いたのと、同じ工夫です。ですからオットーがあれほど真剣にとらえる必要は、なかったのです。」

アンネの母 エーディト・フランク

エーディト
オットー

伏せられていた原稿の水色のほうには、母エーディトに対する、理解といたわりの言葉が書かれていました。アンネは、父が母を心から愛してはいないことに気づいていたのです。

いったい、アンネの母、エーディトとは、どんな女性だったのでしょう。

エーディトの実家、ホーレンダー家は、信心深く、裕福なユダヤ人の実業家一家でした。エーディトは、何の不自由もなく、誰もが羨むような育ち方をしたのです。


『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「エーディトは、決して社交的なタイプの女性ではありませんでした。でも写真を見ればわかるように、非常に快活な人でした。十分な教育を受け、何か国語も話し、さらにスポーツもこなしました。いわば、非常に豊かな暮らしをしていたのです。エーディトは裕福な家庭に生まれ、いつもいとこたちと、にぎやかに過ごしていました。でも結婚して、アムステルダムに引っ越してからは、どんどん無口になっていきました。まるで影のように、存在感が薄くなりました。」

アンネは、母に理解を示していました。と同時に、なぜ父が母に冷淡なのかを知っていました。

オットーの友人 コル・スアイク「オットーは、エーディトと結婚する前に数年間続いた、とても真剣な恋愛を経験していました。それが結婚生活に影響を与えたのかもしれません。アンネも父からそのことを聞いていました。アンネは日記の中で、オットーのその初恋が、エーディトとの結婚に及ぼした影響について、書いています。」

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「調べているうちに、オットーのような素敵な男性が、エーディトと結婚したことに、ホーレンダー家の人々が驚いていたことを知りました。お金が目当てだろうとささやかれていたのです。」

これまで、エーディトは、専門家にもあまり注目されていませんでした。

オットーの友人 コル・スアイク「私たちが、エーディトのことをあまりよく知らないのも、もっともな話です。彼女については、これまでほんの少ししか書かれていないんですから。研究版でも、エーディトのことには、ほとんど触れられていません。」

オランダ国立戦時資料研究所 歴史家 ダーウィット・バールナウ「アンネの母親についてほとんど知られていないのは、戦後注目されたのが、オットーだったからでしょう。それに、アンネのことは尋ねても、彼に、妻のエーディトのことを尋ねる人は、ほとんどいませんでした。彼も妻のことには触れられたくなかったのです。」

オットーは、アンネの日記を出版する際、彼女がセックスに関心を持ったことと、母親に対する辛辣な表現の部分を、削除しました。アンネの日記の研究版では、削除された箇所も発表されています。しかし、オットーが伏せていたページは、もちろん掲載されてはいません。その部分は、脚注として処理されました。

『アンネの日記 研究版』編者 ヘロルト・ファン・デル・ストローム「こういう脚注です。――ここでアンネは、両親の結婚について、不公平な見方をしています。よってフランク家の要望により、削除しました。」

アンネ・フランク財団元会長 ビンセント・フランク「理事会の決定によって、あの部分は、掲載されないことになってしまいました。これは私が、アンネ・フランク財団の会長を務めた17年間で、最大の失敗でした。私以外の全員が、掲載を認めなかったのです。…残念です。」

『アンネの日記 研究版』編者 ヘロルト・ファン・デル・ストローム「オットーによって伏せられていた水色の原稿は、私たちが点線を付けた部分に該当します。私たち研究版の編では、この部分は存在しないものとばかり思っていました。ですから、あとで出てきたときには、本当に驚きました。信じられなかった。」

こうして、アンネが、両親の結婚生活を分析して、母親を弁護した貴重な記述は、オットーによって削除され、18年間、誰の目にも触れませんでした。

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「オットーがこのページを隠してしまったのは、妻と娘を裏切ったも同然です。日記の中で、アンネが母親に同情と理解を示しているのは、その部分だけだからです。」

フランク家の友人 オレゴン州立ポートランド大学教授 ローリーン・ヌスバウム「恐らくアンネの指摘は正しすぎたのでしょう。オットーが気まずく思うほど、状況を正確に見抜いていたんだと思います。彼がページを伏せてしまったのは、アンネが、母親に肩入れするのを防ぐためではなく、むしろ、アンネの記述に、オットーが困惑したからです。」

エーディトの気が滅入っていた理由は、ほかにもあります。彼女はドイツが恋しくてならなかったのです。

ゲルトルート・ナウマンさんは、フランク夫妻が結婚当初住んでいた、フランクフルトの家の隣人です。オランダに移ったエーディトから、故郷に帰りたいという手紙を何通も受け取りました。

フランク家の友人 ゲルトルート・ナウマン「こう書いてあります。――私たちにとって、フランクフルトの家で過ごした年月は、ほんとうに素晴らしいものでした。」

1945年
1月6日
エーディト死去

しかしエーディトは、愛したドイツを再び見ることはありませんでした。アウシュビッツで、飢えと病気のため、息を引き取ったのです。

終戦後のオランダ

死の収容所から遠く離れたオランダでも、戦争によって大きな被害を受けていました。終戦直前の1945年の春には、国の基盤は完全に崩壊していました。終戦を迎え、亡命先のイギリスから帰国した、ヴィルヘルミナ女王が目にしたのは、荒れ果て、水浸しになった国土でした。連合国軍の反撃により、ドイツは降伏。オランダは解放されました。ナチスドイツ支配の終焉は、オランダ国民に、大きな喜びをもたらしました。人々はすかさず、憎きナチスの象徴を破壊しました。

SSの旗印を
ハンマーでたたき壊す市民

勝利を収めた連合国軍のアイゼンハワー最高司令官と、モンゴメリー将軍は、英雄として、熱狂的に迎えられました。オランダの解放のために戦って散った兵士たちは、手厚く葬られました。オランダ人は過去を葬り、前へ進もうとしていました。誰もが戦争を忘れたいと願い、ナチス占領下のユダヤ人問題を蒸し返そうとする人などいませんでした。

密告者は誰か

2017年1月4日のニュース アンネの隠れ家発見、「密告」ではなく偶然?

アンネの隠れ家発見、「密告」ではなく偶然?×
「アンネの日記」の著者アンネ・フランク一家がオランダのアムステルダムでナチス・ドイツに逮捕されたのは、定説となっている何者かによる「密告」が原因ではなく、偽造配給券などを巡る捜査に端を発した偶然の出来事だった――。
アムステルダムの博物館「アンネ・フランクの家」が12月に公表した新説が注目を集めている。博物館の研究員が新たに見つかった資料などを分析したところ、アンネの父オットー・フランクともつながりのある関係者が配給券を巡る不正で逮捕されたことや、オットーの会社で不法就労が行われているとの疑惑が、一家の逮捕に結びつく捜索につながった可能性が浮上したという。
オットーは、隠れ家の下層階を会社の事務所や倉庫として使用しており、捜索はこの事務所を狙ったもので「隠れ家の一家が見つかったのは、単なる偶然かもしれない」と博物館は結論づけている。
(2017年1月4日 読売新聞)

1944年8月4日。女性と思われる声で、プリンセン運河通り263番地にユダヤ人が潜伏しているという密告の電話がありました。そこで、ナチス親衛隊幹部のジルバ―バウアーが、オランダ人の警察官とともに派遣されたのです。

フランク家の協力者 ミープ・ヒース(1987年収録)「午前11時ごろ突然、会社のドアが開きました。オランダ人の男が入ってきたのです。男は銃を私たちに向け――動くなと命じました。それで私たちは硬直してしまったんです。もうおしまいだと同僚はつぶやきました。階段を下りる音が聞こえてきました。でもアンネたちの姿は見られませんでした。」

誰が密告したのか、疑問が残ります。

アンネ・フランク財団元会長 ビンセント・フランク「隠れ家にいた人たちが、密告されたのは、確かです。密告者がオランダ人だったのも、事実でしょう。ユダヤ人を助けようとした人は、オランダ人だけでなく、ドイツやオーストリアの人々もいましたが、密告者は、オランダ人でした。」

1948年、オランダの警察は、フランク一家の密告者を突き止めるため、オットーの会社の全従業員を取り調べました。アンネたちの協力者だったミープ・ヒースたちでさえ、容疑をかけられたのです。

“ファン・マーレン”

皆が一様いちように怪しんだのは、倉庫係のヴィレム・ファン・マーレンでした。

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「このとき警察は、ヴィレム・ファン・マーレンに目を付けましたが、証拠不足のために、調査を打ち切らざるを得ませんでした。」

オランダ国立戦時資料研究所 歴史家 ダーウィット・バールナウ「1963年から64年にかけて、再び調査が行われました。ナチスの戦争犯罪人を追及しているシモン・ヴィーゼンタールというユダヤ人によって、アンネ一家を逮捕した、ジルバ―バウアーの居所が突き止められたからです。ジルバ―バウアーは、戦後故郷のウィーンに戻り、警察官に復帰していました。取り調べを受けたジルバ―バウアーは、確かにユダヤ人を逮捕したが、命令に従ったまでのことだと抗議しました。彼は、あのアンネ・フランクを自分が逮捕していたことを知って、驚きました。(ジルバ―バウアーは)愚かにも、アンネの日記に自分の名前が出ているのか聞いたそうです。」

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「1963年、隠れ家にいたフランク一家たちを逮捕したナチス親衛隊のジルバ―バウアーが見つかり、警察が取り調べを行うことができました。これで、ヴィレム・ファン・マーレンが密告者であることが証明されると、期待が高まりました。ところが結局、決定的な証言が得られず、捜査は再び、打ち切られたのです。1980年にオットーが亡くなったあと、アンネの原稿を寄贈されたオランダ国立戦時資料研究所が、密告者の調査を始めました。」

オランダ国立戦時資料研究所 歴史家 ダーウィット・バールナウ「私たちの調査も――それ以前の2回の調査と、変わりはありませんでした。結局、倉庫係のヴィレム・ファン・マーレンを検挙するだけの証拠はないという結果に落ち着いたのです。密告に関して、何が起きたのかを正確に知る人は誰もいないという結論にとどまりました。」

アンネ・フランク財団元会長 ビンセント・フランク「この調査結果を見る限り、調査が十分ではないという印象を持ちます。…もっと綿密な調査を行えば、今でも、答えは出せると私は考えています。」

作家のメリッサ・ミュラーさんは、アンネの伝記を執筆するために、あらゆる資料を詳しく調べ上げました。その結果、倉庫係のファン・マーレンは密告者ではないという結論に達したのです。

『アンネの伝記』の著者 メリッサ・ミュラー「資料すべてに目を通した結果、彼が密告者だという証拠は、どこにも見当たりませんでした。しかもミープ・ヒースは、40年間ずっと、ファン・マーレンは無実だと言い切っています。これに私は関心を持ちました。1987年に出版されたミープの回想記のなかでも、彼女は、警察はどうかしている。密告者の可能性のある人を放っておいて、ファン・マーレンばかりに注目するのはおかしいと主張しています。それで私は、密告者の心当たりがあるのかどうか、ミープに尋ねました。すると彼女は、フランク一家を密告したのは、おそらく、レナ・ハルトホ・ファン・ブラデレンでしょうと答えたんです。」

レナ・ファン・
ブラデレン

レナは、オットーの会社に雇われて、隠れ家のあった建物を掃除していました。その夫、ランメルトは倉庫係でした。1948年の捜査のとき、この夫婦も取り調べを受けましたが、すぐに釈放されています。取り調べの際、レナは、その建物で働いたことなどない、と嘘をついていました。

オットーの友人 コル・スアイク「レナには、フランク一家を密告する動機がありました。彼女はフランク一家が逮捕されれば、隠れ家のある建物で働いている夫も、逮捕されるのではないかと心配だと、仕事仲間に打ち明けています。この話を聞いて、私に最初に思い浮かんだのは、おそらく彼女は、フランク一家を密告することによって、夫が逮捕をまぬかれるよう、取り計らったのではないかということでした。のちに私は、レナの姪からも話を聞きました。すると、叔母がフランク一家を密告した十分な動機が、もう一つ思い当たる、と言われたのです。レナは一人息子を失っていました。息子はドイツ軍の志願兵で、戦死したのです。ですから彼女は失意のどん底にいて、ほかの人も苦しめばいいという気持ちになっていたのかもしれません。」

オランダ国立戦時資料研究所 歴史家 ダーウィット・バールナウ「アンネ・フランクをはじめとして、ナチスから身を隠していた人たちの歴史を振り返るとき、誰が密告者なのか、その動機は何かという問題は、あまり重要ではありません。密告があったのは、確かに事実です。でも、たとえ密告者を突き止めても、歴史を変えることはできません。人々がこの問題に関心を寄せるのは、理解できます。でも、潜伏していた1万人以上のユダヤ人の大半は、直接ドイツ人の手によって捕まったのです。半数以上の人が密告されたにせよ、全員が密告されたわけではありません。アンネ・フランクが有名になったからといって、誰が密告者であるのかという問題は、重要ではないのです。その家族の歴史にとって、そんなことはどうでもいいことです。」

フランク一家の密告に関わる主な人々は、全て他界してしまいました。密告者を突き止めるには、もはや関連情報に頼るしか、手立てはありません。長らく伏せられていたアンネの原稿が公表されたことによって、私たちは、アンネ・フランクのことを、さらに深く理解できるようになりました。2年ものあいだ、アンネは隠れ家で怯えて暮らしながらも、人々への思いやりと、生きる希望を失ってはいなかったのです。

アンネのボーイフレンド エドモンド・シルベルベルフ「もちろんアンネは、私にとってのアンネであるだけでなく、子供のころに失った、友人や多くの罪のない善良な人々を、象徴しています。アンネはまさに、私たちの人生のなかで実際に起きた、悲劇の象徴なのです。」

アンネの友人 ジャクリーヌ・ファン・マールセン「アンネは決して、特別な女の子ではありませんでした。でも、今はみんなが、彼女のことを知っています。道で人から、アンネ・フランクの家はどこですかと訊かれると、何とも言えない、不思議な気持ちになります。」

アンネの家を訪れる人は、今も後を絶ちません。

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