ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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アドルフ・ヒトラー 権力掌握への道

第一次世界大戦

1924年、アドルフ・ヒトラーはマイン・カンプフ、わが闘争を執筆。憎悪に満ちたその最後を、次のように締めくくっています。

『人種の汚染を拒絶する国家が世界を支配する。』

ヒトラーは1889年4月20日に生まれ、1945年4月30日に自殺します。オーストリア出身のヒトラーが、なぜドイツを支配できたのか。どのようにして憎しみの連鎖を作り出したのか。そして世界を、いかにして大参事へ引きずり込んでいったのか。一体あの時代、どのようにヒトラーを崇拝する現象が生まれて行ったのか。わが闘争には、こう書かれています。

<第一次世界大戦 1914~1918>『第一次世界大戦は、私の人生で最も忘れがたく、崇高な瞬間であった。』

<ヒトラー兵長>ヒトラーはバイエルンの第16予備歩兵連隊の伝令兵として第一次大戦に従軍しました。塹壕から塹壕へと走り、伝令を伝える危険な任務です。その働きが認められ、鉄十字勲章を受章。彼はその勲章をずっと、ナチスの党章の下に付けていました。

第一次大戦の壮絶な戦いの中でヒトラーは、人の命を顧みないようになります。そして徐々に狂信的な国家主義者となっていきました。塹壕の中でヒトラーは、いつか自分が悲惨な状態にある仲間たちに代わって時代の証人として語る日が来るという、錯綜した考えを持つようになります。それは、政治の世界に入るということでもありました。ヒトラーは軍人たちの仲間意識を利用する術に長けていました。

<1933年>これは、第一次大戦の従軍後、工場労働者を前にした演説です。

「ドイツの同胞労働者諸君、私は諸君と同じ階層の出身だ。大戦の4年間、私は諸君のすぐそばにいた。その後不屈の精神で学び、飢えをしのぎながら、ここまで上り詰めた。しかし私の本質は変わっていない。」

<1918年10月>大戦末期の1918年10月13日、ヒトラーは毒ガス弾の攻撃を受け一時的に視力を失いました。野戦病院へ運ばれその後、ドイツへ移送されました。その頃、前線のドイツ軍は後退を余儀なくされ、多くの将兵が捕虜となります。ドイツ人捕虜たちは、傍若無人にふるまうフランス軍への怒りを募らせていきました。

パイプを
取り上げるフランス兵

<フランス兵>ドイツ兵の手元に最後に残ったパイプまで、フランス兵に取り上げられる有り様。

<1918年11月11日 ドイツ休戦協定に調印>1918年11月、ドイツは降伏。軍は撤退しました。過激な右翼はドイツ敗北の原因を、休戦協定に応じた非愛国的分子たちのせいだと批判しました。

砲弾神経症

絶えず体全体が痙攣したように激しく震えている

この頃ヒトラーは、人生の転機だったと語る出来事が起こりました。陸軍病院で治療を受けたヒトラーは、視力を取り戻していきます。そこでは、戦闘によるストレス反応、砲弾神経症の治療が行われていました。ヒトラーは入院中に、皇帝が退位し、ドイツが共和制となったこと、さらに、敗戦が決まったことを知ります。その時、内なる声を聞いたと回想しています。

『その声は、私にドイツの人々を解放し、偉大なドイツを取り戻せと呼びかけていた。』

ユダヤ人への妄想

ヒトラーの胸像の上には、この時私は政治家になる決意をしたという言葉が刻まれました。さらに、ある妄想にとりつかれていました。ドイツの鷲は、ユダヤ人によって刺し殺されたというものです。

<わが闘争より>『人々を堕落させる1万数千人のユダヤ人に対し、大戦中我々が一度でも毒ガスを使用していれば、何百万人もの兵士が無駄に命を落とすことはなかっただろう。』

左:ヒンデンブル
ク参謀総長

右:ルーデンドルフ参謀次長

1916年の末、ヒンデンブルク陸軍参謀総長とルーデンドルフ参謀次長が、ユダヤ系兵士で非愛国的な行動が疑われる者がいたら、報告するよう命じていました。

ひげを嘲弄
されるユダヤ人男性

こうした反ユダヤ主義は、何世紀も前からありました。いつの時代も、社会情勢が悪化すると彼らは、真っ先にスケープゴートにされたのです。

20世紀の初めロシアでユダヤ人の大量虐殺事件が起き、多くのユダヤ人がドイツに逃れ、定住していました。

生い立ちと謎

ところでヒトラーには一つの大きな謎があります。彼にユダヤ人の血が本当に流れていなかったのかどうか。ナチスが厳重に守ってきた秘密の一つが、ヒトラーの父方の祖父が誰なのかわからない、ということです。彼の祖母は未婚で男の子を出産し、その後ヨハン・ヒトラーという製粉業者と結婚しました。ナチスの法律によれば、ドイツ人と認められるには祖父母4人の全てがユダヤ人ではないことを証明しなければなりません。本当の祖父を知らないヒトラーは自分に、ユダヤ人の血が流れていないと証明することができないのです。

<1889年4月20日生まれ>アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日、当時のオーストリア=ハンガリー帝国のブラウナウでカトリックの家庭に生まれました。父親は税関の役人で妻を亡くした後ずっと年下のいとこと再婚しました。<母クララ><父アロイス>ヒトラーが幼い頃、一家は父親の任地が変わるたびに転居を繰り返しました。

小学校時代の彼は模範的な生徒で、8歳の時には修道院でミサの手伝いをしていました。賛美歌を歌い、司祭たちの自己犠牲と使命感を称えるのです。

修道院の壁には、奇妙な形の十字架が彫られていました。彼はこれをずっと憶えていて、のちにナチスの紋章、鉤十字の原型としたのです。ヒンズー教では、この形は人間の永遠の営みを表す幸運のシンボルです。

しかしナチスはこれを、長身で金髪碧眼のアーリア人のシンボルとしました。さらに、アーリア人が他より優れた人種だという解釈も付け加えました。

<1938年 ヒトラーの演説>「ドイツ人男子は手足が長く野ウサギのように敏速で強靭で、鋼鉄のように頑丈でなければならない。我々は新しい人種を作り出す。」

ヒトラー自身は母親に甘やかされて育ち、この理想に適うような少年ではありませんでした。人生の節目には故郷に戻ったヒトラー。第二次大戦の引き金となったポーランド侵攻の前にも、オーストリアを訪れています。

子どものころ住んでいた家です。愛人のエバ・ブラウンが撮影、編集した映像のタイトル「総統、故郷を訪問する。1939年6月12日」。<写真右:総統、故郷を訪問する。1939年6月12日>

両親の墓に花を手向けたヒトラー。父親は厳格で酒好きでしたが、ヒトラーは特に反感を抱いてはいませんでした。

一方、47歳の若さでがんで亡くなった母親は、ヒトラーが唯一心から愛した人でした。地下壕で最期を迎えるその時まで、ヒトラーは肖像画を肌身離さず持っていました。

若き日のヒトラー~ウィーンへ

この母親の死後、19歳でヒトラーはウィーンに出ます。夢は美術アカデミーで学ぶことでした。

<ウィーン>わずかながらの遺産を手にした彼は、自由気ままな生活を送ることができました。当時ウィーンはヨーロッパ文化の中心地のひとつでした。ここで彼は、上流階級のライフスタイルに触れます。

その一方で、赤い旗を翻えらせて活動する社会主義者たちも目にしました。また帝国には、さまざまな民族が暮らしていることも、初めて知りました。チェコ、ポーランド、イタリア、クロアチア。そして、ユダヤ人。ヒトラーはのちに述べています。『――これこそ人種に対する冒とくを体現しているような状態だった。』

ヒトラーは美術アカデミーの入学試験を受けます。しかし、ろくに準備をしていなかったため、不合格となりました。第一次世界大戦の足音が近づいていました。

ヒトラーは絵葉書を模写して観光客に売り、何とか生計を立てていました。

なけなしのお金で通ったオペラハウス。ワーグナーのオペラに夢中になり、恍惚状態になっていたという証言もあります。ヒトラーは、伝説の英雄たちに自らを重ね合わせました。お気に入りのオペラは、リエンツィ。若き戦士が人々を救う使命を与えられる物語です。

25歳~天性の弁士

<動員! 1914年8月 第一次世界大戦が始まる>1914年8月、ヒトラー25歳の時に、第一次世界大戦が始まりました。オーストリアでの兵役を逃れるため、この時すでにドイツのミュンヘンに移っていたヒトラーは、過激な国家主義の機運に飲み込まれていきました。

ドイツの宣戦布告を、熱狂的に歓迎する群衆の中に、ヒトラーはいました。この写真(写真左右)は、1932年の選挙でナチスによって都合よく利用されます。対立候補は合成写真だとしますが、ヒトラーはこの時確かにここにいて、この戦争が彼を変えていくのです。

<1919年>軍隊で4年間過ごしたあと、ヒトラーはミュンヘンに戻ります。30歳になっていた彼は、軍に残ることを望んでいました。社会民主党から共和国の初代大統領に就任したエーベルト政権の安定を保障する軍です。

<エーベルト大統領>共和制に移行したばかりのドイツは、権力掌握を目論むマルクス主義者の政治団体、スパルタクスの家の対処を迫られます。軍は、国家主義者の民兵組織、ドイツ義勇軍の助けを得てスパルタクス団を鎮圧しました。ヒトラーは、住む場所と将校の制服欲しさに、献身的に軍に仕えました。情報部員となり、共産主義者と疑われる仲間を告発しました。共産主義への恐怖を煽ることで国民を統制しようとしていた上官たちは、ヒトラーの行動に注目します。そして、帰還したドイツ兵と戦争捕虜を再教育する任務を与えました。

当時の上官は彼を、天性の弁士と評しています。「あの熱く訴える姿に聴衆は魅了され、彼と同じように考えるようになってしまう。」

ヒトラー本人も、その才能に気づいていました。やがて彼は聴衆を支配するため話術だけでなく、演出も駆使するようになります。<1933年>これは、1933年に撮影された、映像と音声です。緊張感を徐々に高め、聴衆がまさに聞きたがっていることを聞かせる方法を心得ていました。

聴衆が静まるまで、テーブルを動かす、
演説原稿に触れる、口元に手をやる、
ベルトを触るなどの所作をし続ける。
決して「静まれ」と命じないことによって
聴衆の関心を引き付けようとしている

<1919年6月28日 ベルサイユ条約調印>ドイツは1919年6月、屈辱的なベルサイユ条約に調印していました。戦勝国は何か月も議論を重ねた末、過酷な講和条件をドイツに突き付け、あたかもドイツだけに戦争責任があるかのように仕向けました。ベルサイユ条約は、巨額の賠償金の支払いをドイツに命じました。それはドイツ経済にとって大きな重荷となり、国民の不満が高まります。

さらにドイツは領土の13%と人口の10%を失いました。アルザス=ロレーヌ地方はフランスに復帰。ライン川の左岸全域が非武装地帯となりました。また、18世紀に周辺国に分割され消滅したポーランドに領土が割譲されます。

これにより、ドイツの東プロイセンは飛び地となり、ポーランドは海への通路を得ました。これがのちに、第二次世界大戦の火種となります。

さらに戦勝国は、右翼の反革命民兵組織の武装解除をドイツに求めました。これは傷口に塩を塗るようなものでした。潜水艦は爆破され、さらに戦艦、そして航空機も破壊されます。ドイツ陸軍は10万人規模に縮小されました。一方ヒトラーは、右翼の過激な組織が勢力を広めていたバイエルン地方に戻ります。

<ヒトラー>これは、ヒトラーのもっとも古い映像。極右政党ドイツ労働者党のデモに参加した時のものです。実は軍の命令で潜入し、スパイ活動を行っていたのです。ところがその後、このドイツ労働者党に入り、積極的に活動するようになるのです。

バイエルン地方は極右勢力が強いのに対し、ベルリンの中央政府は中道左派。ドイツは新憲法が制定された都市にちなんで、ワイマール共和国と呼ばれるようになりました。バイエルンで活動を続けるヒトラーは、休戦協定とベルサイユ条約に調印したワイマールの指導者たちを激しく糾弾します。これは、多くの退役軍人が抱いていたのと同じ思いです。

ヘスとゲーリング

1920年8月ヒトラーは、退役軍人が集まるビアホールで公演を行い、政界にデビューします。テーマは、なぜ我々は反ユダヤ主義なのか。ヒトラーの答えはこうです。ドイツ敗戦以来、ユダヤ人に対して抱き続ける本能的な憎悪以上に、反ユダヤ主義は過激な国家主義者を惹きつけやすい。

<1921年7月>ヒトラーが所属するドイツ労働者党は彼を指導者に担ぎます。そして権威の証に、自動車を贈りました。ここでヒトラーは党名を変更。より幅広い層にアピールし、反資本主義の姿勢をはっきり打ち出そうとしました。

<国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei>ドイツ労働者党から、国家社会主義ドイツ労働者党へ。略称、ナチです。ミュンヘンのビアホールに置かれた党本部でヒトラーは、当の紋章をデザインしました。

わが闘争にはこう記されています。『数えきれないほど思索を重ねた末、社会主義を表す赤を地色に、国家主義を表す白い丸、そこに、反ユダヤのシンボルである鉤十字を重ねた。』

党の集会を警備するため、突撃隊SAを創設。制服は旧オーストリア=ハンガリー帝国の税関事務所の在庫品から調達しました。党員数は1年間で2,000人から20,000人へと10倍に急増。この躍進の陰には人種差別的な秘密結社トゥーレ協会の支援がありました。

<1922年>トゥーレ協会が発行していた新聞が名称を変え、ナチ党の機関紙となります。人種差別的なその機関紙の名称は、フェルキッシャー・ベオバハター、“民族の観察者”。

編集発行人のアルフレート・ローゼンベルクはトゥーレ協会のメンバーで、反ユダヤ主義の理論家でした。ローゼンベルクはのちに、ユダヤ人虐殺ホロコーストに深く関わっていきます。

学生時代トゥーレ協会のメンバーだったルドルフ・ヘスも、ヒトラーの忠実な共犯者となっていきます。初期の入党者には第一次大戦の英雄、ヘルマン・ゲーリングもいました。誉れ高いドイツの戦闘機パイロットの一人です。戦後、市民生活に馴染めなかった彼は、ヒトラーの思想に共鳴。やがてゲーリングはナチスのナンバー2になり、強制収容所の開設に関わります。

ドイツの難局~ハイパーインフレ

<写真左:ベニート=ムッソリーニ>その頃イタリアでは、ベニート=ムッソリーニ率いるファシスト党が勢力を拡大、政権を掌握していました。ドイツのムッソリーニになるのは、ヒトラーなのか。1923年は、転機の年となります。

<1923年1月 フランス・ベルギー ルール占領開始>1月11日、フランスとベルギーの連合部隊がドイツの石炭・製鉄産業の中心地、ルール地方を占領しました。ドイツがベルサイユ条約で課せられた賠償金の支払いを拒んだからです。

<“これより先 占領地域”>フランスとベルギーは、賠償金代わりに石炭を回収しようとしました。ドイツ政府は炭鉱労働者と鉄道労働者にストライキを指示。しかしフランスは代わりに別の作業員を送り込みました。ドイツ人のもとに石炭は残りません。一触即発の事態となります。

石炭を持
ち上げる小さな男の子

3月10日、フランス軍のコルパン中尉が暗殺され、棺がいくつもの町を通って故郷に運ばれました。その途中、脱帽しないドイツ人をフランスの将校が平手打ちにしました。

一人の将校が膝
蹴りしたあと平
手打ちし、別の
将校が帽子を蹴り飛ばす
将校が左端の
人物の頭を平
手打ちし、帽子を弾き飛ばす

このような記録映像をナチスは都合のいいように利用します。例えばフランス軍に殺害されたドイツの工場労働者たち。破壊活動家、シュラゲターの処刑。ナチスは彼を殉教者に仕立て上げます。

さらに、フランス軍の植民地から来たアフリカ系兵士らが、ドイツの女性たちをレイプしたと告発。ヒトラーは権力を握ると、そうして生まれた子供たちへの不妊手術を命じました。ヒトラーは植民地のような扱いに甘んじているドイツ中央政府の弱腰を、激しく非難します。

ドイツ国民は寒さに震え、飢えに耐えていました。

ドイツはフランスから石炭を輸入し、しかもストに参加している炭鉱労働者には、賃金を支払わなければなりませんでした。そのために政府は、大量の紙幣を発行します。マルクの価値は急速に低下。1キロのじゃがいもが10億マルク。ひとかたまりのパンが、4,600億マルクに跳ね上がりました。

凄まじいインフレと失業の嵐の中、バイエルンの極右勢力は第一次大戦の参謀、ルーデンドルフを指導者に祭り上げます。ヒトラーはルーデンドルフのおかげで、退役軍人たちを団結させることができました。ヒトラーはクーデターを起こし、ミュンヘン、さらにはベルリンへ進軍しようと考えます。『ドイツ国民は、極度の貧困にあえいでいる。我々が今行動を起こさなければ、国民は共産党に鞍替えするだろう。』

ナチスは軍内部の協力者の助けで銃の調達に成功。しかし結局軍と警察は、中央政府に忠誠を誓いました。

ミュンヘン一揆

<1923年11月8~9日 ミュンヘン一揆>ヒトラーにとっては痛手でした。しかしそれでも彼は自分とルーデンドルフに人々はついてくるという幻想を抱き続けます。そして警官隊のバリケードに向かって進軍するよう部隊に命じました。

中央に白いコートを着たヒトラーが立っています。実はこれは、勇敢なヒトラーの神話をでっち上げるために作られた合成写真です。実際の彼は、護衛の後ろですくみ上がっていました。

警官隊の発砲で、このクーデター、ミュンヘン一揆は失敗に終わります。ヒトラーは逮捕され、ナチ党は活動休止に追いやられました。

<1924年2月26日>3か月後、ミュンヘン一揆の首謀者たちの裁判が始まりました。ヒトラーは国家反逆罪と警察官4人を殺害した罪に問われます。死刑にもなり得る犯罪です。

拘束すらされていなかったルーデンドルフは、弁護士と共に高級車で法廷に乗り付けました。影響力のある支持者を味方に付けていたルーデンドルフは、無罪放免となります。自殺まで考えていたヒトラーは、法廷が思っていたほど敵対的ではないことに気づきます。

そこで弁舌を駆使し、政府とユダヤ人に罵詈雑言を浴びせました。裁判は、ヒトラーの独壇場でした。判事たちは共感し、法廷には傍聴を希望する市民が押しかけます。

“5年”

判決はヒトラーが恐れていたよりずっと軽い、禁固5年。しかも収容されたのは、田園地帯にある居心地のよい監房でした。

監房とはいうものの実態はホテルのようなところで、いつでも好きな時にナチスの支援者と会うことができました。ヒトラーを称えるために、月桂冠を携えてきた支援者もいました。

ヒトラーの政界復帰を切望する彼らは釈放のため策略を練りました。こうして近く釈放されると察した彼は、自らの人生観と政治的信念を伝える本を書こうと考えます。ヒトラーが口述し、それをヘスがタイプライターで打ちました。

紙は崇拝する作曲家、ワーグナーの義理の娘ウィニフレッド・ワーグナーが用意しました。ウィニフレッドも差別主義者で、ヒトラーを深く敬愛していたのです。ヒトラーは本の題名を、嘘と愚行と臆病との4年半に及ぶ闘争、とするつもりでした。しかしこれでは長すぎると言われ、マイン・カンプフ、わが闘争<わが闘争(Mein Kampf)>に決まります。

「わが闘争」は貴重な中世の写本のように装丁されました。支配人種であるアーリア人の闘争、領土の拡大、共産主義の撲滅、そしてフランスとユダヤ人の排除についてヒトラーは持論を展開していました。ヒトラーによれば彼らは人類にさえ属していないのです。当時読者の多くはこれを変な本だと思っただけで、注意を払いませんでした。のちに、5,000万人もの命を奪う悲劇に繋がるとは想像すらしていなかったのです。

<1924年>1924年12月20日、ヒトラーは模範囚として釈放されました。彼は自分を、ドイツ国家の礎を築いたビスマルクの後継者であるかのように夢想します。『刑務所で過ごした日々により、何者も二度と私を揺るがすことはないという確信を持てた。』しかし「わが闘争」は2万部しか売れず、失敗に終わっていました。

ヒトラーはバイエルン地方の裏、ベルヒテスガーデンに小さな山荘を借り、そこで多くの時間を過ごすようになりました。

<マリア・ライター>ここで彼は、可憐な16歳のウェイトレス、マリア・ライターと出会い、恋愛関係になります。マリアは結婚を望みますがヒトラーは拒絶、そして愛人になるよう説得しました。結婚は自らの使命の妨げになると考えたのです。マリアは去っていきました。

「我が闘争」

ヒトラーは「わが闘争」の続編を執筆。これには主に、ドイツの生存権をロシアまで拡大する計画が書かれています。当初の売れ行きが良くなかった「わが闘争」は、1933年、ヒトラーが権力を掌握すると、国民の必読書となります。

結婚するカップルには国からこの本が贈られました。本棚にこの本がないと、使用人に密告される恐れもありました。

ある企業は功績を上げた社員にこの本を贈りました。独裁体制となって「わが闘争」は8,000万部以上を売り上げ、数多くの言語に翻訳されました。莫大な額の印税が、ヒトラーの懐を潤したのです。

突撃隊 SA~演説のジェスチャー研究

<1925年2月27日 ヒトラー政界に復帰>話を戻し、1925年2月27日。釈放されたヒトラーはミュンヘンで政界へのカムバックを果たし、ナチ党の指導者に返り咲きます。そして翌日、それを後押しする出来事が起こりました。

<1925年2月28日 エーベルト大統領(社民党)死去>ドイツ帝国が崩壊した後のワイマール共和国初代大統領エーベルトが、虫垂炎をこじらせ、57歳で死去したのです。経済を回復に導いていた社会民主党のエーベルトの死を、国民は悼みました。新しい大統領を選ぶ選挙が行われます。ナチ党は活動禁止措置を解かれていました。極右政党の連合体から立候補したのは、ルーデンドルフ。しかしわずか1%しか得票できず、落選しました。ルーデンドルフの落選は、ヒトラーが密かに望んでいたことでした。最大のライバルが失脚したのです。我々は彼にとどめを刺したと、ヒトラーはうそぶきます。

ドイツ国民が選んだのは第一次大戦の英雄ヒンデンブルクでした。<パウル・フォン・ヒンデンブルク>1971年、ヒンデンブルクは若き軍将校として、ベルサイユ宮殿で行われたドイツ帝国成立宣言にも立ち会っていました。彼は保守派を団結させますが、これに左派とヨーロッパ諸国は不安を覚えます。

その間ヒトラーのナチ党は、ドイツ全土に勢力を広めることに成功。党員数は17万人に達しました。突撃隊SAは、正式に党の準軍事組織となりました。彼らは新しい制服の色から、褐色シャツ隊と呼ばれるようになります。

その数年前、ローマへの進軍に成功したムッソリーニの黒シャツ隊を真似たのです。もう一つムッソリーニから拝借したのは、腕を伸ばして叫ぶローマ帝国式の敬礼。ムッソリーニには統帥万歳、ヒトラーにはハイル・ヒトラー。ヒトラー万歳と叫びます。

突撃隊の制服はドイツ人のデザイナーたちが手掛けました。その一人がシュトゥットガルトのデザイナー、ヒューゴ・ボス。彼は自社の広告で制服を宣伝しました。ヒューゴ・ボスは、ナチ党員でした。

彼は新たに作られたヒトラーの護衛部隊SSの威圧的な黒の制服や、青少年組織ヒトラー・ユーゲントの制服をもデザインしています。

これらにかかる莫大な資金はナチ党員や裕福な支援者から集められました。支援者の一人、鉄鋼王のフリッツ・ティッセンは、自社の製鉄工場で新型の大砲を製造する体制を整えていました。<写真左:フリッツ・ティッセン>当時アメリカの自動車メーカーで世界最大の自動車オーナー、ヘンリーフォード<写真右:ヘンリー・フォード>もナチスの支援者でした。

反ユダヤ主義者のフォードは、ドイツでの販売利益を全額ナチスに提供しました。加えてヒトラーの誕生日には、毎年5万ドルを個人的に寄付しています。当時としては途方もない額です。フォードはドイツ大鷲十字章を授与された最初の外国人です。

<1927年>ナチスは盛大な党大会と大々的な宣伝活動で世論を動かし支持者を勢いづけました。ナチスの旗は、ドイツの覚醒を高らかに宣言します。“ドイツよ目覚めよ”。1927年、ヒトラーは党大会を伝統ある都市ニュルンベルクで開きます。お気に入りのワーグナーの世界にも通じる中世ドイツの魅力を備えた都市。ヒトラーはこのニュルンベルクこそが、自らのイデオロギーを体現する都市だとしました。さらにヒトラーは、総統への絶対的服従を求めます。

それにはヒトラー専属の写真家、ハインリヒ・ホフマンが一役買いました。<ハインリヒ・ホフマン>生え抜きのナチ党員で、ライフのカメラを愛してやまないホフマンは、常にヒトラーのそばに付いていました。ホフマンは偉大な指導者のプライベートの一面を大衆に見せようと、意外性のある写真を撮影します。

これには、女性票を勝ち取ろうという意図もありました。ミュンヘンにあったホフマンの写真館。ここでヒトラーはオペラ歌手の演技を参考に、さまざまな威圧感を与えるジェスチャーを研究します。

それは最初の大規模な党大会で生かされました。

『大衆は女々しく愚かで、彼らを操るには憎悪をかきたてるのが唯一有効な手段なのだ。』

憎悪による政権奪取の試み

憎悪。これこそまさに、突撃隊がユダヤ人居住区を手始めに、ドイツ全土に広めていった感情でした。

オーストリアのユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクは、暴力の始まりを目撃しました。「笛が鳴ると、突撃隊が目にも留まらぬ速さでトラックから飛び降り、こん棒で人々をめった打ちにする。そしてもう一度笛が鳴ると、トラックに飛び乗り現れた時と同じ速さで去っていく。ファシストの手法がドイツ式の緻密さで実行された。」

通りすがり
に突然押
し倒される人

しかし、締め付けはこの時点で票には繋がりませんでした。1928年に行われたドイツ議会選挙でナチ党の得票率はわずか2.6%。100万票にも届きませんでした。共産党はナチ党の3倍、社会民主党が1,000万票を獲得して第一党になります。それでもナチ党はベルリン議会に新人議員12人を送り込むことができました。彼らは突撃隊の制服で議会に入り、衝撃を与えます。その中には、ヘルマン・ゲーリングの姿もありました。<ヘルマン・ゲーリング>ミュンヘン一揆で負傷したあとゲーリングはモルヒネ依存症になり、すっかり太っていました。

<ヨーゼフ・ゲッベルス>ヨーゼフ・ゲッベルスも、この時政界にデビューしました。哲学者のニーチェはかつて、こんな言葉を述べています。『狂信的行動とは、弱く決断力のない者でも到達し得る意思表示の形である。』ゲッベルスは、ナチスが理想とするアーリア人の容姿からは程遠く、子供のころから劣等感を抱き続けてきました。しかし彼には、悪魔のような狡猾さがありました。

もともとはマルクス主義を信仰していたゲッベルスは、ヒトラーとの運命的な出会いで変わります。そして、こう考えるようになりました。『ユダヤ人は私の本の出版を拒否し共産主義者は社会を混乱させた。どちらも責めを負うべきだ。羊の囲いに入った狼のように、我々は国会に乗り込む』。

しかしこの時はまだ誰も、彼の言葉の重大さを理解していませんでした。一般市民はヒトラーを、一貫した考えも思想も持ち合わせない人物と見ていたのです。フランクフルトの新聞はこう評しています。『彼は戦争中のイデオロギーをそのまま引き継ぎ、原始的な方法でここまで成り上がった。まるでローマ帝国が崩壊した時代に生きているようだ』。

ドイツ国民は、よほどの事がない限り、ヒトラーが政界で成功することはないと考えていました。イギリスの歴史家イアンカー・ショーは言います。『1929年の大恐慌と、ブルジョアやリベラル、保守層の分裂がなければ、ヒトラーは奇人として政界の片隅にとどまっていただろう』。しかしヒトラーは決して諦めませんでした。

(ヒトラーの演説)『我々は掲げた目標のために、一心不乱に墓場に至るまで闘う。』

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