ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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カール・デーニッツ

ヒトラーの後継者 忠実な軍人

第二次世界大戦中、ドイツ軍のUボートは、その神出鬼没の行動と強烈な破壊力によって全世界に名をはせました。ドイツ軍が誇る潜水艦。しかし、乗組員の4分の3は、帰らぬ人となりました。いっぽう、連合国側の犠牲者は3万人。敵味方ともに膨大な命が奪われました。作戦の指揮は、一人の有能な指揮官に任されていました。総統の信頼を勝ち得、ヒトラーの後継者の地位にたどり着いた男。それが、カール・デーニッツです。

(当時ドイツ軍参謀将校 K・テッテルバッハ)「デーニッツは軍人として最高司令官のヒトラーにあくまで忠実だったのです。ヒトラーの命令は、たとえ意に染まなくても従う。そういう人物でした。」

(当時従軍記者 R・G・ブーフハイム)「海軍のトップたる人物が、ナチスの野望と深く結びついたとき、悲劇は約束されました。彼には多くの兵士を死に狩り立てた責任があります。」

(当時Uボート艦長 O・クレッチマー)「100%の愛国者だったのです。つまり彼は自分を含めすべての国民を祖国ドイツのしもべとみなしたのです。」

職務への忠実さ。本来ならば軍人として称えられるべき美点ですが、デーニッツは戦後、まさにそのために法廷で裁かれました。

<(デーニッツ 法廷にて)〔1945年11月〕「神の御名に誓います。紛れのない真実を語り、一切隠し事はしません。」「戦争遂行は正しい選択だと考えます。私は自分の良心に従って行動しました。この次も同じ行動をとるでしょう。」>

生い立ち

19世紀末のベルリン。祖国と皇帝を敬う愛国の精神は、多くの市民の胸に宿っていました。1891年、カール・デーニッツが生まれたのも、そのような環境のもとでした。母親を早くに亡くし、彼と兄は技術者だった父親に育てられました。男所帯では愛情表現よりも、規範への服従が優先されました。

カールはあまり社交的ではありませんでしたが、成績は優秀でした。彼は早くから海軍士官になる夢を抱きます。1910年、ドイツ北部ブレンスブルクの海軍兵学校に入学。士官候補生のカールは希望に満ちています。しかしその2年後、父親が他界します。頼るべき両親を失った青年は、精神的な支えを求めました。ちょうどその頃、レーベンフェルト大尉のもとに配属され、以来この人物は彼の敬愛の的となりました。

第一次世界大戦が始まる頃には、デーニッツは勇敢でりりしい職業軍人になっていました。戦争中、彼は生涯を決定づけるものと出会います。それは海軍きっての新兵器、Uボートでした。1918年、デーニッツはUボートの艦長となります。だが間もなく敗戦が訪れます。デーニッツがイギリスで捕虜生活を送る間に、ドイツでは革命が起こり、共和制が布かれました。

1919年、解放された彼は混乱が続く祖国の土を踏みます。かろうじて存続を許されたドイツ海軍に、デーニッツは戻ってきました。勤勉かつ賢明というのが周りの彼に対するまわりの評価でしたが、しかし内申書には、このような人物評定も見られます。”自己顕示欲強し”。

<[仕事求む](プラカードを首に掲げた求職者)>

深刻な経済危機。仕事があるだけましですが、デーニッツ家の家計はひっ迫しました。早くに結婚した彼の家庭には、3人の子供がいました。

(デーニッツの娘 U・ヘスラー)「毎月二十日を過ぎると、おかゆかスープくらいしか並びませんでした。余程ゆとりがなかったんですね。ただうちの母は、もともとやりくりが苦手でした。ですから家計が苦しかったのは、父の稼ぎのせいばかりとも言えません。」

ヒトラー政権下のUボート指揮官

国民の危機感を利用し、力を伸ばす人物がいます。アドルフ・ヒトラーは、強大なドイツへの欲求を掻き立て、瞬く間に票をさらいました。

<[1933年1月 ヒトラー政権誕生]>

ナチスと暴力的な振る舞いさえ、人々の目には強力なリーダーシップの証と映ったのです。

<(ヒトラーの演説)「私の目標はドイツから30の政党を一掃することだ。」>

強力な指導者は、まず邪魔者の排除から始めました。ドイツ海軍は新しい国家元首に無条件に従います。多くの軍人同様、デーニッツもこの断固たる指導者を歓迎しました。ヒトラー政権の軍備拡張計画は、特に軍人としての功名心をくすぐりました。

<[ナチス政権初期の映画 1933年]「我らは行く。目指すはイギリス。」「出動の合図だ。」「イギリス軍だ。」「さあ行くぞ。」>

1936年、デーニッツは抜擢され、大佐としてUボート艦隊の指揮に当たりました。彼は潜水艦による戦略構想を立てます。その熱意と深い知識は、総統ヒトラーの目にも留まるほどでした。

(当時Uボート艦長 H・V・シュレーター)「デーニッツは、いつ報告を求められても翌朝にはすべての資料を整えていました。そしてUボートの開発や訓練について、明確に論じたのです。彼の迅速な状況判断や決断力は、指揮官として際立っていました。」

当時の海軍総司令官は、潜水艦よりも大型戦艦を戦略の要とみなしていました。ヒトラー総統の承認を得て、開戦前には巨大戦艦の建造計画に着手します。

<[戦艦ビスマルク]>

だがデーニッツは、この戦艦重視の方針に疑いを抱いていました。ドイツ海軍の強敵は、大艦隊を誇る島国イギリスでした。そのイギリスを打ち破る一つの鍵が、海上の通商ルートを断つことでした。デーニッツは機動力の面で潜水艦の利点を強調します。しかし、彼の進言はまだ顧みられません。

<[1936年8月 ベルリン・オリンピック ナチスはドイツの威信と平和を誇示]>

見せかけの平和の陰で、人種的偏見と暴力が猛威を振るいます。ヒトラーはすでに戦争に至るスケジュールを頭の中に描いていました。

開戦 Uボートの活躍

<[1939年9月 第二次世界大戦勃発]>

1930年代末のドイツ海軍は、戦力の面でイギリスよりも格段に劣っていました。デーニッツは開戦の報せに衝撃を受けます。

(当時Uボートの指揮官 H・R・レージング)「彼はいったん部屋にこもり、30分ほどしてから現れました。その間に心を落ち着かせ、直面している現実を飲み下したのです。いかにも彼らしいやり方でした。彼はきっぱりと言いました。”我々はやらなくてはならない。どんなに絶望的な事態でも、果たすべき義務を守るのだ”と。実際あの当時、ドイツ海軍にはほとんど勝ち目はないと思われました。」

デーニッツの手元には、わずか50隻ほどのUボートのみ。彼は敵への不意打ちを命じます。イギリスの客船アテニア号は、警告なしに魚雷を浴びせられ112人が海に消えました。ニュースが世界を駆け巡るや、デーニッツの名は冷酷な指揮官の代表として連合国側の人々の胸に刻まれました。

わずか一か月後、Uボート艦隊はスコットランドのイギリス海軍基地に奥深く侵入。停泊中の戦艦ロイヤル・オーク号を撃沈します。開戦直後のベルリンは、Uボートの華々しい成功によって沸き返りました。敵を沈めた艦長とともに司令官デーニッツは海の英雄として凱旋します。ヒトラー総統のほかに、このような盛大なパレードで迎えられる者はいませんでした。

<[艦長ブリーン大尉]「我々は敵の監視の目をかいくぐり、スコットランドの英国海軍基地に侵入しました。敵艦発見と同時に魚雷を発射、大音響と共に敵艦は大破し、我々は感動に浸りました。」>

(当時イギリス海軍将校 L・ケネディ)「カール・デーニッツの名前はイギリスでは知らない者がないほどになりました。開戦直後のあのロイヤル・オーク号撃沈事件で我々は不意を突かれました。イギリス海軍基地スキャパフロウの真下に、大胆にも彼は艦隊を送り込んだのです。以来、新聞にはいつも彼の名が見えました。おそらく、ゲーリングやゲッベルスに負けないくらい有名だったでしょう。」

イギリス首相チャーチルは、予想外の攻撃に慌てました。後年、彼はこう語っています。”戦争中私が恐れたものはただ一つ。それはデーニッツの潜水艦だった。”

<[1940年6月 ドイツ軍はパリを占領]>

ヒトラーの陸軍はヨーロッパ大陸の西へ快進撃しました。今や大西洋岸の多くの港が、ドイツ軍の手に入ったのです。大西洋への通路の獲得は、海軍の長年の夢でした。新しい拠点を生かし、Uボートはイギリスの護送船団へ執拗な攻撃を仕掛けました。その名も群狼作戦。狼の群れのように数隻の潜水艦がまとまり、一斉に襲い掛かるのです。勝利の帰還。ドイツ国民の熱狂的な歓迎が、Uボート戦士たちの労に報います。

(当時従軍記者 R・G・ブーフハイム)「まるでデーニッツの義勇軍とでもいうべき、特別な賞賛が巻き起こりました。彼の勲章見たさに人垣ができたものです。実際少人数しかいない潜水艦隊が、胸のすく勝利を収めたんですから、当時のドイツにとっては最高の喜びでした。」

歓声に送られ任務に就く乗組員たち。海面下には、うって変わって厳しい日常が待ち受けています。

(当時ドイツ海軍士官 A・クラーゼン)「とにかくあの狭さと臭さ。とても長時間いられるような場所じゃありません。仲間と背中が触れ合うような状態で、任務を果たし共同生活を送らなければならないんです。Uボートへの乗務は、今思い返しても私には耐えがたいストレスでした。」

イギリス海軍は威信をかけてUボートへの反撃を開始しました。爆雷の音が海上に轟き渡ります。大西洋での情け容赦ない決戦は、終戦まで繰り広げられることになりました。戦いは武器によるばかりでなく、宣伝によっても行われました。

<〔ドイツのニュース映画〕「Uボートが敵を追うとき、合言葉は1つ。準備よし、いざ撃沈。」>

潜水艦作戦の成果

<〔1940年7月から10月、ドイツ空軍はイギリス本土への激しい空爆を実施〕>

空でも海でも戦闘は激しさを増すばかりです。イギリス海軍の上層部は、防空壕の中で危機感に包まれていました。Uボートによる船舶の被害は、急激に増えていました。沈みゆく船の重油にまみれ、窒息死する兵士。大海原に飲み込まれ、消息を絶った兵士。開戦からおよそ1年で、イギリス海軍はすでに1万人以上の兵士を失っていました。

ドイツ占領下のフランス。こちらでは上機嫌の面々が、Uボートの度重なる戦果を祝っていました。司令官デーニッツは、潜水艦による戦略の有効性を実証し得たと考えました。彼が求めるのは、潜水艦戦力の一層の拡充でした。

(当時Uボート艦長 R・ハルデーゲン)「あの頃は、お祝いの連続でした。上品なテーブルを囲み、牡蠣とロブスターに舌鼓を打ちました。もちろん、シャンパンもね。それらは当然の褒美でした。なぜなら勝利をあげることが軍人の使命であり、使命を果たした者は、十分に報われるべきだからです。」

ブルターニュ半島ロリアンで、巨大な要塞建設が始まりました。停泊中のUボートを守る待避壕です。デーニッツの潜水艦戦略にとって、なくてはならない砦がようやく完成します。だがドイツ海軍には弱点がありました。それは海軍独自の航空隊を持たない点です。デーニッツは再三再四、ドイツ空軍に協力を求めました。<空軍総司令官 ゲーリング>しかし空軍総司令官ゲーリングは、海軍が空軍の作戦計画に口出しするのを、最後まで許しませんでした。

Uボートの脅威は、敵の空中パトロールです。こうして拿捕された一隻のUボートから、ドイツ海軍の重要な機密が敵に流れ込みました。

エニグマの解読~アメリカへの宣戦布告

<〔エニグマ〕>

エニグマ。天文学的な数字の配列を使い分け、解読は不可能とされていたドイツの暗号機です。しかしイギリス軍は専門家を結集し、手に入れた暗号機の全貌を解き明かしたのです。

(当時イギリス軍解読担当官 H・ヒンズリー)「これで私たちは、デーニッツたちのやり取りを全て解読できるようになりました。そしてUボートの潜む海域から、護送船を遠ざけたのです。Uボートはもう以前のような強さを誇れませんでした。敗北というよりは、勝利を逃したといったほうが正確かもしれません。突然敵が見つからなくなって、彼らは大いに焦ったことでしょう。」

ドイツ海軍の上層部は、この重大な情報の漏れに最後まで気が付きません。エニグマは機密情報を送り続けました。デーニッツにとって、不可解な失敗が増えていきます。

<〔1941年12月、ヒトラーはアメリカに宣戦布告した。〕>

ドイツはついに、アメリカを完全に敵に回しました。Uボート艦隊はいわゆるティンパニ打ち作戦を開始。大西洋を渡り、アメリカ東海岸の大型輸送船を手当たり次第撃沈します。1942年1月から半年間に、500隻もの船を乗員もろとも沈めました。Uボートは今や、何隻あっても足りないくらいです。勲章や休暇による束の間のねぎらい。乗組員たちには、この先長い戦いが待っています。

1942年秋。Uボートは戦争捕虜など、1500人を乗せたイギリスのマコニア号を撃沈しました。船長はUボートに救助を依頼。しかし、連合国軍の戦闘機が攻撃を仕掛けたため、デーニッツは救助活動を取りやめさせました。

(当時Uボート艦長 H・V・シュレーター)「心の内側では、みな同情や苦い思いを感じていたんでしょうが、しかし、それを口にすべき時ではありませんでした。」

ドイツ海軍のトップへ

<〔1943年1月 デーニッツはドイツ海軍総司令官に就任〕>

デーニッツはついに、ドイツ海軍の頂点へ登り詰め、ヒトラー総統の本営に呼び寄せられました。これで彼も側近への仲間入りです。戦況に行き詰まりを感じ始めたヒトラーは、後から来たこの有能な側近に期待を寄せます。その直後、陸軍は東部戦線でつまづきました。

<〔1943年2月、ドイツ軍はスターリングラードで壊滅〕>

Uボートへの期待は膨らむばかりです。デーニッツの望みはようやく聞き入れられ、Uボートは急ピッチで増産されました。建造作業に従事したのは強制収容所の囚人たちです。ユダヤ人への暴力に直接加担しなかったかに見える海軍でも、戦争が進むにつれて、ときにこのような提案がなされました。”船によるユダヤ人難民の亡命を阻止する案について”。これがユダヤ人殺戮を意味することは、デーニッツも承知です。

1943年、Uボートと連合国軍との戦いはピークに達しました。しかしこの頃、イギリスは新たなレーダーを開発。ドイツ軍に致命的な打撃を与えます。5月、デーニッツは一挙に41隻ものUボートを失いました。死者は2,000人。その中には彼の次男が含まれていました。その一年後には、長男も命を落とします。

(デーニッツの娘 U・ヘスラー)「1944年5月、上の弟が戦死した時のことをよく覚えています。下の弟はもうこの世にいませんでした。知らせが届いた日、私は扁桃腺を腫らして寝込んでいました。そこへ父が現れたんです。父は私の手を取り、何も言わずに座り込みました。初めてそんな父を見た私は、なんて声を掛けていいかわかりませんでした。何時間にも感じる重苦しい沈黙でした。」

しかしデーニッツには、父親としての悲しみに浸る暇はありませんでした。彼はヒトラー総統の期待に応えなくてはなりません。

(当時従軍記者 R・G・ブーフハイム)「私の考えでは、戦争末期のデーニッツの行いは、大量殺人にも等しいものです。なぜなら彼は、今やUボートに勝ち目がなくなったことにはずです。だが彼は引き下がりませんでした。それは彼が功名心に取りつかれたからです。」

側近の一人となって以来、デーニッツは模範的な忠誠心を発揮し、独裁者に心酔しました。彼はこう書き記しています。”総統が放射する力に比べ、我々はいかにつまらない存在であることか。総統よりもうまく事を運べるなど、思うだけでも愚かの極みである。”

(当時ドイツ海軍士官 A・クラーゼン)「デーニッツはよく若い将校を部屋に集め、堅苦しく構えずに語りました。私も彼の足元に座って話を聞いていた一人でした。特に印象に強いのは、『たった今総統のもとから戻ってきた』と彼が言うときの表情です。その目は誇らしげに輝いていました。それからおもむろに語りだすのです。」

連合国軍によるドイツへの爆撃が激しくなると、デーニッツはベルリン郊外の防空壕に司令部を置きます。ヒトラー総統の近くです。”あくまで踏みとどまれ。”彼が部下に送る指令は、もはやナチスのプロパガンダそのものでした。

<〔1943年の末から連合国側はベルリンに集中的な空爆を行った〕>

熱狂的なナチス指導者

戦争の終わりが近づくにつれ、デーニッツの言動からは司令官としてのかつての冷静な判断力が失われていきました。彼は、ナチスの狂信的な思想と完全に一体になりました。そしてことあるたびに、若い兵士たちへ独裁者のメッセージを注ぎ込んだのです。彼はこう語りかけます。“我々に今求められるのは、情け容赦のない出撃である。我らが総統を、そして、我らが国民社会主義を支援するのだ。” 明らかに無謀な攻撃命令が、無残な結果を生みます。大型戦艦シャルムホルスト号は、捨て身の状態で敵の艦隊に挑みました。2,000人の乗組員と共に、戦艦は北ヨーロッパの海に沈みます。

(撃沈された戦艦の生存者 E・ライマン)「水面には、たくさんの人たちが漂っていました。間もなく人々の間から、船に向かって万歳が唱えられました。歌い出す者もいました。海の男の死を悼む歌です。船乗りの墓場にバラは咲いていない、という歌詞が響き渡りました。そのあと、私は戦艦の最後を目にしました。巨大な船体はゆっくりと海に没していきました。やがて真っ暗闇になりました。何も見えず、何も聞こえません。体に感じるのは繰り返し押し寄せる波だけです。私は、冷たい夜の海に一人ぼっちでした。」

冷静沈着な軍人から、熱狂的なナチス指導者へ。デーニッツの変貌を総統は喜びました。

(当時従軍記者 R・G・ブーフハイム)「デーニッツは最後には功名心におどらされたただの男でしかありませんでした。司令官としての責任感があったなら、むざむざと兵士を死なす前に、もう限界だと総統に告げたはずです。」

1944年、戦没将兵の慰霊式において、デーニッツは公式に総統の代理を務めました。

<「総統が国民の心を一つにしなければ、我々の祖国は計り知れない混乱の中にありました。乱立政党やユダヤの毒牙がこの国を引き裂いたでしょう。妥協を許さないナチズムの世界観を堅持することは、我々が戦争の重圧に負けないために必要です。」>

<〔1944年7月20日 ヒトラー暗殺未遂事件〕>

暗殺未遂事件ののち、ヒトラーは一層、側近に忠誠心の証を求めました。評価されるのは、総統のためなら何でもするような従属的な態度です。海軍諜報部に残されたデーニッツの言葉。“私の孫が、ユダヤ人種の毒に感染するくらいなら、私は土にかじりついても戦い続ける。” この記録は戦後何年も経って発見されました。

劣勢のなかのあがき

<〔1944年8月、自由フランス軍と連合国軍がパリを解放〕>

連合国軍による猛烈な巻き返し。堅牢を誇るUボートの待避壕も、爆撃にさらされます。ただしUボートの敗北は、すでに大西洋上で明らかになっていました。最後のあがき。デーニッツは、奇跡の兵器と称する一連の新兵器のテストを開始しました。

(当時司令部の医師 H・ラウテンバッハ)「必死の、だがすべて無駄な試みでした。訓練を受けた若者たちは、実際に船に乗務した経験が全くありませんでした。羅針盤がどういう物かさえ学んだばかりだったでしょう。みんなまだ子供といってもいいくらいのあどけなさでした。彼らは、命ぜられるままに敵に突進し、そしてその殆どは2度と戻ってこなかったのです。」

兵員の補充を急がなくてはなりません。海軍総司令官自らが映画に出演、若者たちに奉仕を求めています。若者たちの味わった現実が、ここに。

ヒトラー総統代理

<〔1945年1月、ソ連軍が西へ猛進撃。ベルリン決戦へ〕>

首都ベルリンにソビエト軍の足音が迫ってきています。ヒトラーの命令で、デーニッツは包囲直前の首都を脱出。ドイツ北部で戦闘の指揮を執り続けました。4月30日、ナチス官房長、マルティン・ボルマンからデーニッツに手紙が届きます。そこには、総統が彼を後継者に決めたという予想外の記述がありました。ヒトラーの自殺については明かされていません。彼は謹んで返事をしたためます。”総統への忠誠心は終生変わりません。私はあなたを、ベルリンから救出するために全力を尽くします。”

ドイツ第三帝国の終焉まぎわ。包囲された首都ベルリンでは、壮絶な市街戦が繰り広げられました。デーニッツは最後まで総統との約束を果たし続けます。大勢挽回の見込みもなく、なお続々と投入されていく兵士たち。5月1日、デーニッツは、ヒトラー総統の死を知りました。

<「ドイツ国民の皆さん、そして国防軍兵士諸君。総統アドルフ・ヒトラーが亡き人となられました。ドイツ国民は深い悲しみと畏敬の念に打たれるでしょう。総統は後継者として私を選ばれました。この重大なる運命のときに責任の重さを自覚しつつ、私は総統の遺志を継ぎます。」>

(当時Uボート艦長 H・V・シュレーター)「なぜ彼が後継者なのかと問う人がいたなら、私は即座に、他に誰がと問い返すでしょう。ゲーリングもゲッベルスもヒムラーも、総統の後継者リストからは消えていたのです。」

迫りくるイギリス軍を逃れて、デーニッツは司令部をデンマークとの国境近くフレンスブルクへ移します。そこは奇しくも、デーニッツが巣立った海軍兵学校のある場所でした。彼がなすべきことは、総統が国民に吹き込んだドイツ帝国の夢を清算することです。ヒトラーの帝国は廃墟の中に沈みました。

(当時 ドイツ軍参謀将校 K・テッテルバッハ)「フレンスブルクに着いた日は、素晴らしい天気でした。海軍兵学校の門には、真っ白な制服の下士官たちが5月の日差しを浴びて立っていました。デーニッツたちが近づくと、彼らはさっと姿勢を正して迎えました。一見、限りなく平和で差し迫る現実を忘れてしまいそうでした。」

敗北が避けられない今、真っ先に取り組むべきは捕虜になる兵士を一人でも減らすことでした。デーニッツは彼の後任フリーデブルク海軍総司令官に、可能な限りの時間稼ぎを命じます。ドイツ軍は、西部戦線でまず部分的な降伏を行い、残された輸送船力を撤退するドイツ人の支援に全面的に充てました。計画はうまく運びます。バルト海沿岸部など、戦局が悪化した地域から、200万人以上の人々が逃げ延びることができたのです。

こうして多数の国民を窮地から救う一方、デーニッツは別の場所では、冷酷ともいえる指令を発しています。彼は、軍の規律を乱した一部の兵士たちを、銃殺刑に処しました。死をもって罪をあがなわされたのは、ドイツ軍降伏のニュースを聞き、許しを得ずに故郷へ帰ろうとした水兵たちでした。

(裁判当時 デーニッツの弁護人 O・クランツビューラー)「デーニッツはその件に関してきっぱりとこう言いました。『私は二重のモラルを持つことはできない。大勢の惜しまれる命を戦場で失っているからこそ、こっそりと軍を脱走するような人間を、許せないのだ』。」

デーニッツは、戦争状態をさらに引き延ばそうと図っていました。全面降伏は避け、東部戦線でのソビエト軍との戦闘を続行したいと考えたのです。しかし、西側戦勝国は彼の望みを受け入れようとはしませんでした。

望まれなかったヒトラーの後継者

<〔1945年5月7日、デーニッツの政府はドイツの無条件降伏を受理〕>

<「ドイツ国民の皆さん、ドイツは国家の土台を破壊され、いばらの道を歩まねばなりません。私はこの困難な道のりに背を向ける気はありません。もし国民が私を必要とするならば、私は職務にとどまり、全力を尽くす覚悟です。だが去れと命じるならば、それに従うのも祖国への奉仕と信じます。」>

焦土と瓦礫に包まれたドイツ国民は、もはやヒトラーの後継者を求めませんでした。

<〔1945年5月、デーニッツの政権はわずか2週間で終わりを迎えた〕>

最後の最後まで戦ったUボートの1隻は、戦勝ムードに包まれるロンドンで降伏しました。全面降伏から2週間後、ヒトラーの側近、部下たちは連合国軍によって次々に逮捕されました。この半年後、ヒトラー政権の戦争犯罪は全世界の目の前で裁かれることになります。デーニッツもまた、総統の後継者としての責任を負わねばなりません。

そして判決。禁固十年の刑が申し渡されました。

<〔1956年〕「65歳の元海軍総司令官は釈放後姿を現し、報道陣にこう宣言しました。『私は何も語らない。』」>

<〔Uボート戦没者の慰霊碑〕>

Uボート戦没者の慰霊碑。何も語らない。語ることのできない時代の証人たちは、今も大西洋の水底に眠っています。

<〔Uボート乗組員3万9千人のうち、2万8千人が戦死した。〕>

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