ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

ハインリヒ・ヒムラー

親衛隊と警察を率いたナチズムの小心なトップ

ナチス親衛隊。かつてヒトラーの護衛隊に過ぎなかった小さな組織は、ハインリヒ・ヒムラーの手によって巨大な権力機構へと変貌しました。ドイツ国民を死の戦いに駆り立てた男。抹殺すべき人々を選び、殺人部隊を動かした男。一見弱腰で、おとなしいこの男こそ、総統が信頼を置いた死刑執行人でした。

<〔ドイツ バイエルン地方〕>

南ドイツ、バイエルン地方。ハインリヒ・ヒムラーの生まれ育った環境は、道徳と秩序、そして教養に満ちていました。彼の生い立ちからは、のちの残虐な思想や行動を説明するいかなるヒントも見出すことができません。

彼は1900年、ドイツの中流家庭に生まれました。両親は穏健なカトリック信者で、道徳や礼節を重んじました。少年期、彼は多くの政治家や学者を輩出した名門校で学びます。両親は息子に良い教育を与えることに努力を惜しみませんでした。特に教員であった父は、人間形成における教育の力を最も重視しました。学校でのハインリヒは、歴史が好きな、あまり目立たない少年でした。知的で、愛情に満ちた家庭。少年の心をねじ曲げるような体験はどこにも存在しません。それでもなお、人は自分自身の心をねじ曲げ、犯罪に突き進むことができるのです。ヒムラーの人生は、その恐るべき見本となっていきます。

第一次世界大戦が始まったのはヒムラーが14歳の年でした。多くの少年同様、彼も将校になる夢を持っていました。しかし戦場に出ていくにはまだ若すぎました。1917年6月、彼はようやく学校を繰り上げ卒業し、入隊を志願しました。前線での戦いをヒムラーは体験することがありませんでした。訓練期間を終える前に、戦争は終結。ドイツは敗戦国になったのです。軍人として活躍できなかったことは、若きハインリヒには心残りでした。このあと、戦争や暴力に対する現実離れした憧れが、彼の心の中に潜むようになるのです。

 

ヒトラーのカリスマ性への心酔

<〔1923年〕>

1923年、ヒトラーが企てたミュンヘン一揆の中に、ヒムラーの姿が見えます。彼を惹きつけたのは、ナチスが掲げるあからさまな反ユダヤの思想でした。

<「ユダヤ人を根絶せよ。生意気なユダヤ人を黙らせてやる。裏切り者のユダを打倒し絶滅することこそが、我々の聖なる使命だ。」>

1926年、ヒムラーはまだナチスの中では注目されない存在です。彼は突撃隊の傘下にある小さな組織で隊長代理を務めていました。組織の名は親衛隊。わずか数十人そこそこの、ヒトラーの私的な護衛隊です。

<〔1927年〕>

1927年、ニュルンベルクで演説するヒトラー。背後にヒムラーの姿があります。指導者と間近で接するようになったヒムラーは、この頃から、ヒトラーのカリスマ性に魅入られていきます。ヒムラーは野心を抱きます。親衛隊という少人数の組織を土台に、のし上がっていこうと決意するのです。

ヒムラーの野望

<〔1929年〕>

最初のチャンスは、1929年。ヒムラーは親衛隊の全国指導者に任命されました。隊員の数はおよそ280人。彼の野望に比べれば、まだまだ取るに足りない地位です。その少し後の集会では、ヒムラー派幹部と共に行進を眺める側に立っています。彼は、じわじわと権力に接近していきました。

(当時ヒトラーの秘書 T・ユンゲ)「私が憶えているヒムラーは、どことなく自信がなさそうで内気な感じに見えました。彼は軍人タイプでも、冷酷な指揮官タイプでもありませんでした。物腰や風貌は臆病な小市民そのものでした。」

(元強制収容所の囚人 M・ホルベーク)「一見したところヒムラーは、他人に害を及ぼさない安全な人間のように見えました。」

(ヒトラーの側近ボルマンの息子 M・ボルマン・Jr)「精彩がないというか、ほとんど印象に残らない人でした。その場にいる人への愛想は良かったような気がします。」

(当時武装親衛隊の医師 E・G・シェンク)「彼についての印象など私には全くありません。」

1920年代の末以降、ナチス内部での権力抗争はしだいに熾烈さを増します。しかしヒムラーの出世は、しばらく誰の目にも留まりませんでした。目立たないことこそが、彼の武器でした。彼はプロイセン軍に伝わる、ある格言を座右の銘として短刀に刻んでいました。<〔人の真価は外面にあらず。〕>

レームと突撃隊の粛清

1933年、ナチスが政権を握った直後、大勢を揺るがす権力抗争が巻き起こります。嵐の目はナチス突撃隊の幕僚長、エルンスト・レームでした。<〔突撃隊幕僚長 エルンスト・レーム〕>300万人を擁する突撃隊は、ドイツ国防軍を脅かす勢力に成長していました。レームの野望は、ドイツの軍隊の主導権を握ることでした。いっぽう国防大臣は厳しい選択をヒトラーに迫ります。国を守る軍隊は正規の国防軍か、突撃隊か。選択肢は二つに一つです。レームは自信たっぷりに振る舞います。当時300万人もの軍隊を動かすことは、たとえヒトラーといえども不可能だったでしょう。レームは突撃隊を制服の色にちなんで褐色の国民軍と称し、さらなる革命を起こす必要についても語りました。

<「我々の組織はこれまで同様存続する。総統が我々に課した任務は革命の保証人たること。我々は今後も、確実に使命を果たすだろう。」>

当時の映像は、レームの指導者としての人気のほどを伝えています。ヒトラーの他に、これほど国民から仰がれる人物はいませんでした。ヒトラーは突撃隊にブレーキを掛けようとしますが、まずは比較的穏健な演説から始めます。

<「突撃隊、親衛隊、ヒトラー・ユーゲントの諸君。軍は国民の武器を担うが諸君が担うのは武器ではない。諸君はドイツ国民の政治的意思の担い手なのだ。我々の唯一の目的は偉大なるドイツの復活である。」>

しかし舞台裏では、ある策略が練られていました。総統がこの古い同志の粛正を命じたとき、ヒムラーはお膳立てに加わります。親衛隊は突撃隊の一部でありヒムラーにとってレームは長年の上官でした。ナチスに入った当初、彼はヒトラーよりもレームからより影響を受けたほどでした。だがこの先、誰に付くべきか。彼は計算済みでした。

<1934年7月 突撃隊幕僚長レームは反乱を企てたかどで処刑された>粛正は親衛隊の手で行われました。レームは銃殺。そのほか多くの突撃隊幹部が殺害されました。

<〔1934年〕「我々は何のためらいもなく、命じられた義務を遂行した。過ちを犯した同志たちを壁際に立たせ、銃殺したのだ。我々はこの件について二度と口にすることはない。しかし命令が下されれば再び同じ行動をとるだろう。」>

<(ヒトラー)「数か月前、党内に現れた不穏な動きを、我々は断固たる態度で排除した。」>

スーパーアーミー、親衛隊の神格化

レームの粛正によってもはやヒムラーと総統の間に立ちはだかる指導者はいなくなりました。突撃隊の力がそがれた隙に乗じ、ヒムラーは親衛隊をナチスのスーパーアーミーへと仕立て上げていきます。ヒムラーは彼の親衛隊に、それまでの軍事組織にはなかった神秘的な粉飾を施しました。

<「何千年にもわたり我らの祖先は、この城山に神の殿堂を築いてきた。ゲルマン民族の精神が宿るここクベートリンクこそ、ドイツ人の聖地とするにふさわしい。」>1936年、ヒムラーはローマカトリックの大聖堂を手に入れ、親衛隊の儀式の場に定めます。ここに集う幹部たちは、あたかも自分たちが聖なる使命を帯びた結社であるかのような幻想に浸りました。ハインリヒ・ヒムラーは10世紀のドイツを、ハインリヒ1世の栄光と勝利の神話を復活させようとしました。

<「我々は以下の事実を胸にたゆみなく前進する。ハインリヒ1世の崇高なる魂と政治的遺産は我らが総統ヒトラーに継承されている。我々はドイツのため、ゲルマニアのために、思想と言葉と行動によって総統への限りない忠誠を誓う。」>幻想の王国の中でナチスのいう国民社会主義は歴史が生み出した必然として描かれました。王国をつかさどるヒムラーは、親衛隊こそドイツの未来を切り開くエリート集団であると断言します。選ばれたエリート。その確信がしだいに親衛隊を恐るべき暴力の担い手に変身させるのです。迷いを知らないナチズムの騎士たちへと。

<「我々は不変のおきてに従い、どこまでも行軍していく。北方ゲルマン人種の騎士団として。国民社会主義に忠誠を誓う共同体として。我々の前に広がるはるかなる未来への道を。」>

 

1934年。親衛隊は正式に突撃隊から独立。このあとの10年間、ヒムラーは親衛隊の拡大に全精力を捧げます。彼の野望はヒトラー総統の戦争計画にぴったりと寄り添っていました。<1939年9月 第二次世界大戦勃発。親衛隊の武装部隊は軍と共に出征>

側近たちの中でも、ヒムラーは戦争を大歓迎した一人でした。戦争こそ自らの力を誇示するチャンスだからです。<1940年完全に軍備を整えた「武装親衛隊」が登場。わずか1年で11万人に拡大>ヒムラーは1936年にはナチス親衛隊の指導者にとどまらず、ドイツ警察の長官の座をものにしていました。警察国家化が急速に進みます。ヒムラーが牛耳る警察は、弱者に対して牙をむきました。これはドイツ軍が占領したポーランドでの映像です。一人の警官が、若者にユダヤの星の紋章を手渡します。何気ない光景ですが、これは事実上の死刑宣告です。

強制収容所の運営

<「ユダヤ人居住区」>戦争開始後、強制収容所は続々と増えます。チェコのテレジェンシュタットでは、1つの町全体が収容所と化しました。ユダヤ人、そしてナチスににらまれた者たちが囲い込まれていきます。親衛隊は無償の労働力から莫大な収益をあげました。生存者が減れば、補充すればよいだけです。この少女は近い未来に起こることをまだ知りません。

ヒムラーは総統からあつい信頼を得ます。山荘に招かれるのは重要な側近である証です。彼の親衛隊は今や、国家の中の国家ともいうべき巨大な権力機構に膨張していました。

(当時ヒトラーの秘書 T・ユンゲ)「側近たちとの食事会でヒトラーは、一度だけ強制収容所の話題を取り上げました。私が知る限り、ヒトラーとヒムラーが人前で収容所について話したのは、その時だけです。ヒトラーは、あれは実によくできた施設だ、人々を再教育するために精巧なシステムを採用していると褒めました。その一例として収容所の火元責任者は放火常習犯だそうだねと、ヒムラーに話題を振り向けました。するとヒムラーはすかさず、そうすればもう、放火される心配はありませんからと、得意げに答えました。聞いていた人たちは大いに感心したものです。強制労働とはいっても、そこでは人々の心理を理解した巧みな運営がなされているのだと感じたのです。みんなは、敬意と称賛の眼差しでヒムラーを見つめました。」

党大会でのヒムラーの演説。<「もちろん強制収容所は、厳しい自由はく奪を意味する。新しい価値を生み出すための過酷な労働の場である。収容者は正しい生活を強制され、身につける。清潔さ、申し分のない食生活、厳しいが公正な待遇など、収容所が掲げるモットーは人々に――自由へと至るための道しるべを示している。彼らが学ぶべきは、服従、勤勉、誠実、秩序、清潔、分別、正直、犠牲的奉仕、そして祖国への愛。」>

レーベルツブルクの古城

総統の寵愛を受けるヒムラーは、組織の中では君主を演じました。1941年、彼は莫大な費用をかけてレーベルツブルクの古城を改築させます。そこは陰鬱な王国の幻想に満ちた、親衛隊の城となりました。ヒムラーや親衛隊幹部は、自らを英雄視する神秘主義的な儀式にますますのめり込んでいったのです。戦死した親衛隊員の霊を弔う大理石の広場。聖なる城を建設したのは、強制収容所の囚人たちでした。作業場にかけられた幕には “ここで働けるのは総統のおかげ” と書かれています。

(元強制収容所の囚人 M・ホルベーク)「私たちは大広間に連れていかれました。大理石を敷き詰めた親衛隊の儀式を執り行う場所です。私たちの仕事はその大理石の床を磨くことでした。這いつくばうようにして、休みなく手で磨き上げるんです。」

レーベルツブルクで強制労働に従事した囚人の名簿。ここはいわゆる絶滅収容所ではありませんが、やはり大半の人々は亡くなりました。

(元強制収容所の囚人 M・ホルベーク)「城が完成すると、次は隊員のための住宅建設に駆り出されました。親衛隊の指導部は、隊員の住環境にとても気を配っていました。一方私たちが詰め込まれた収容所は、人間が生きていくのさえ困難な場所でした。劣悪な環境の下で、ばたばたと倒れる人が出ました。1943年のある統計では、死者の割合は63.7%となっています。私の周りでも20人以上の知り合いがあそこで亡くなりました。」

優秀なゲルマン民族による、劣等人種の支配。ヒムラーはこの狂信的な思想をとめどない暴力によって実践していきます。<「我々は他民族を我々の奴隷と見なすのみで、彼らが飢えようが飢えまいが関心はない。対戦車壕の建設に従事するロシア人女性労働者が1万人倒れても、何とも思わない。私の関心は、対戦車壕が完成するかどうかだけだ。」>

ヒムラーの極秘命令

独ソ戦が始まると、東部戦線の背後ではヒムラーの極秘指令が実行されました。ユダヤ人、共産主義者など、ナチスの敵が親衛隊や保安警察の行動部隊によって大量に殺害されました。ヒムラーはかつて、射殺現場を視察して、おう吐したことがありました。以来、殺人コマンドたちの神経を気遣ってさえいました。恐怖のうわさは密かに広まります。

(当時武装親衛隊の医師 E・G・シェンク)「保安部の行動隊は私の勤務していた病院にもやってきました。もちろん目的はユダヤ人を皆殺しにすることです。まずポスターが張り出されました。“ユダヤ人は申告されたし。別の安全な場所に移される”という内容でした。何も知らない大勢の人が申告しました。実は私の周りにも助手として雇われたユダヤ人の少女たちがいました。仕事はちゃんとこなし、食事などの面で割とよい待遇を受けていました。彼女たちとは少し話す機会があり感じのいい子だと思っていました。だが、彼女たちも突然姿を消し、後になって射殺されたのだと知りました。死体は近くの谷に投げ込まれたのです。」

 

最終解決と人体実験

<〔1942年1月 ヴァンゼー会議 ユダヤ人問題の「最終解決」が調整された〕>大量虐殺が国家犯罪になります。ヴァンゼー会議の前、すでに絶滅収容所の建設が始まっていました。最終解決、すなわちユダヤ人の絶滅をどうやって能率よく行うか、ヒムラーは頭を悩ませます。考案された処刑設備の一つ。排気ガスを使います。こうしたものを開発させる時、命令書のどこにも殺害という言葉は使われませんでした。ツィクロンBベー。より効果的な毒ガスが間もなくアウシュビッツで導入されました。収容所では医師が選別という名のもとで殺害に協力しました。

(当時武装親衛隊の医師 H・ミュンヒ)「私たちが収容所の人々に施したのは、殺害ではなく選別という行為でした。選別というのも人間を死に至らしめる行為には違いありません。しかしいずれにせよ、死ぬ運命の彼らにとっては、まだましな選択でした。彼らにはもっとみじめな最期もあり得たのです。そのことを思えば、より人道的な死に方だっとさえ言えます。私の見たところ、彼らユダヤ人はみんな、生きることへの関心を失った一種の気力喪失者でした。餓死する者も多かったが、それは食べ物のせいじゃありません。食料は決してなくはなかったのです。カロリー的に見ても、死ぬ必然性はありませんでした。彼らがばたばたと死んだ理由は、生きる気力がなくなったせいです。痩せこけてみじめに死んでいくユダヤ人たちに、私たちは選別というましな死を与えただけです。」

虐殺に従事する者の間では、情け容赦しないことが義務となり、感情を押し殺すことが強さの証となりました。秘密に撮影されたアウシュビッツでの映像。子供たちは収容所の医師、メンゲレ博士によって人体実験の対象とされました。奇跡的に生き残った人たちがいます。

(当時人体実験を受けた囚人 E・ライヒェンベルク)「彼らは毎週必ずやってきて私たちを実験材料にしました。しまいには、私は研究棟に連れていかれました。常時監視されながら実験を受けることになったのです。彼らは私の喉に、直接何かの液体を注射しました。その直後、私の首は腫れ上がり、痛みと高い熱にうなされました。ひどい吐き気がして何度となくおう吐を繰り返しました。それ以来こうなりました。声が全く出ないのです。」(筆者追記:このインタビュイーは、喉元に何かの器具を当て、まるでSF映画のコンピューターの声のような、耳障りな代替音声を使って話している。)

(当時人体実験を受けた囚人 V・アレクサンダー)「背中や両腕は実験を受け縫い合わされた傷跡だらけです。忌まわしい思い出です。収容所は不潔だったので、たちまち傷が化膿して膿がたまりました。ひどい痛みと恐怖とで、私たちは泣き叫ぶばかりでした。地獄というのは、あのような所を言うのだと思います。」

(当時人体実験を受けた囚人 M・オッファー)「私は毒物を注射されました。何であったのかはわかりません。だがそのあと、体にはっきりと障害が残りました。私は今も、体の震えが止まりません。てんかんのような発作も起こります。私の人生は、あのとき以来めちゃくちゃになりました。」

科学を装った非道な犯罪。実験テーマはたとえばこのようなものです。飛行機がかなりの高度を飛んだとき、人体にどのような影響が及ぶか。囚人たちは、急激に気圧が変わる装置の中に閉じ込められました。もがきながら死んでいく様を、医師が観察するためにです。

ヒムラーの異常性~異形の家具

<「必要以上の粗暴で非常な措置は取っていない。我々ドイツ人は、たとえ相手が人間以下の畜生でも、最後まできちんとした態度を取る。」>当時ヒムラーの屋敷には、彼が囚人たちをどのように扱ったかの証拠品が並んでいました。

(ヒトラーの側近ボルマンの息子 M・ボルマン・Jr)「私は小さかった頃、ヒムラーの家の屋根裏で遊んだことがあります。そこで見たのです。屋根裏は色々な家具が置かれて雑然としていましたが、その中にいくつか、人間の骨で作られた家具がありました。たとえば、3本足の小さなテーブルをはっきりと覚えています。その足の一本一本は、人間の大腿骨でした。それから、あれは一種の椅子というべきでしょうか。人間の腰のあたりの骨を組み合わせたスツールのような家具がありました。電気スタンドもありました。傘の部分は人間の皮膚でできていると、そばにいた大人が教えてくれました。それから手書きの大きな本。アドルフ・ヒトラーのわが闘争でしたが、その表紙もやはり、人間の背中の皮膚なのだと説明されました。」

1944年、秋。東部戦線でドイツ軍が敗退を重ねても、収容所へ向かう人の列は途絶えません。秘密のうちに維持され、膨張を続けたヒムラーの帝国。殺戮のうわさがどんなに囁かれても、彼を止められる者はいないのです。だが、ヒムラーたちの犯罪が明るみに引き出される日は近づいています。<1945年1月 ソ連軍猛攻を開始 ベルリンの東に迫る>

窮地での総司令官任命~反逆

戦争末期、ヒムラーは総統から国内軍の総司令官に任命されます。始めて得た軍人の肩書き。これで青春時代の夢がかなったともいえます。しかし、軍事的経験の乏しいヒムラーは、明らかに司令官の器ではありませんでした。ドイツ軍はどこまでも窮地に追い込まれます。ヒムラーは病気を理由にベルリン郊外に引きこもります。司令官としての任務は、別の将軍に引き継がせました。もはや敗北は近いと彼は気づいています。しかし国民には、その事実を気づかせまいとします。「敵の肝に銘じさせてやるのだ。ドイツに一歩でも侵入することが、どれほど多大な犠牲を伴うことになるかを。」<1944年9月から敗戦まで16歳から60歳の男子は国民突撃隊として戦った>

ヒムラー自身は、勝ち目のない戦争に見切りを付けます。彼は生き残るために和平交渉の可能性を探りました。親衛隊の諜報機関の手引きにより、彼はスウェーデンの赤十字社代表、ベルナドッテ伯爵と極秘で会見します。「私が初めてヒムラーと面会したのは1945年2月14日、場所はベルリン近郊の邸宅でした。」

西側との勝手な交渉は、総統に対する反逆行為にあたります。しかし敗戦を目前にしたとき、ヒムラーの忠誠心は揺らぎました。小心さと打算をのぞかせながら、彼は西側との秘密の接触を続けました。

逃亡~無条件降伏の申し入れ

<ベルリン>1945年4月20日、ヒトラー総統56歳の誕生日。側近たちは首相官邸の地下壕でお祝いに集まりました。終わりが近いことは、誰の目にも明らかでした。その日を境に、側近たちはそれぞれ、敗戦をどのように迎えるか決断を迫られました。ヒムラーは逃亡生活に入ります。ベルリン北部の知り合いの屋敷に潜伏しながら、彼はそれまでの自分を忘れたかのように和平に力を注ぎました。驚くべきことに、ユダヤ人団体の代表とも交渉を試みています。ユダヤ人と協力してこの戦争を終わらせたい。厚かましい申し出が受け入れられる余地はありませんでした。焦る彼は再びベルナドッテ伯爵に接近します。その際の提案はこのようなものでした。ドイツは西側列強と和平を結び、ソビエトとの戦闘を続行したい。彼の申し出に連合軍は回答しませんでした。代わりに、ラジオからこのような報道が流れます。「ヒムラーはイギリスとアメリカに対し、無条件降伏を申し入れました。」

(当時ヒトラーユーゲント指導者 A・アックスマン)「事態を知った総統は最大の幻滅を味わったと言い、ヒムラーを全ての役職から解任しました。そのあと、ヒトラーはこう付け加えました。彼は裏切ったが、ヒトラーユーゲントは最後まで私についてきてくれた、と。」

媚びへつらい

ヒムラーにとって最後の住まいとなった、ドイツ北部のハルクホルスト城。ここで彼は、ヒトラー総統の死と、自分に対する権力はく奪の命令とを同時に知りました。ヒムラーは権力の裏付けを失い、完全に孤立したことを自覚しました。戦争はまだ集結してはいません。ヒムラーは西側の歓心を買うために、スカンジナビア出身のおよそ1万5,000人の捕虜の解放を約束しました。悪夢からようやく救出された人たちは、しかし戦闘の続く地域を通らなければなりませんでした。こうして終戦を目の前にしながら、なお多くの捕虜たちが命を落としたのです。敗戦への最後の数日間、ヒトラーの遺言によって海軍総司令官デーニッツが国家元首の地位を引き継ぎました。急ごしらえの政府ができあがります。

(当時ドイツ軍参謀将校 K・テッテルバッハ)「政府らしきものができあがったとき、媚びへつらおうとする者たちがすり寄ってきました。その中にヒムラーの姿があったのです。陸軍元帥だったカイテルは、特に不快さをあらわにしました。そしてヒムラーにここから姿を消すようにと言いました。あからさまな非難を受けて、ヒムラーはこっそり出ていきました。」

最後の逃亡~服毒自殺

<1945年5月8日 大統領デーニッツはドイツの無条件降伏を宣言>ドイツが無条件降伏を受け入れようとする頃、ヒムラーはエルベ川の近くをひたすら歩いていました。数人の部下だけに付き従われ、徒歩による逃避行を試みたのです。彼は偽の身分証を持ち、ひげをそり落とし、眼帯を付けていました。打ちひしがれた無数の兵士たちにうずもれて、彼らはしばらくの間、誰にも注目されませんでした。

ヨーロッパは平和を取り戻します。そしてヒムラーに、終焉の時が訪れます。ヒムラーたちはイギリス軍に逮捕され捕虜として収容所に送り込まれました。まだ身元は見破られてはいません。この群衆のどこかにハインリヒ・ヒムラーがいるはずです。ヒムラーに最後まで従った二人の副官たち。カメラの前に連れ出されたこのあと、彼らは自分たちの上官が自殺したことを知らされました。

1945年5月23日、ヒムラーは毒をあおりました。目撃した兵士がこう報告しています。「ヒムラーだとは知らされず、重要人物だという情報だけ得ていました。入ってきたのは優雅な身なりの男ではなく、下着の上に毛布を巻いたみすぼらしい軍人でした。一目でヒムラーだと分かりました。私は長いすを指さして彼にこう命じました。『腰かけて服を脱ぎなさい』。『私がだれだか知らないな』と彼は言いました。私は『ヒムラーだね』と答えてから同じ命令をもう一度言いました。彼は一瞬険しい目で私をにらみつけ、そのあと目を伏せて言われたとおりにしました。医師と連隊長が入ってきていつもの検査を始めました。毒物を隠し持っていないか探すのです。足の指の間やわきの下、耳の中までのぞき込みました。髪の毛も調べ、最後が口の中でした。医師の命令でヒムラーは口を開け、舌を出して上下左右に動かしました。だが医師はよしと言わず、電灯のそばで口を開くようさらに彼に命じました。医師は彼の開いた口に指を入れようとしました。その瞬間ヒムラーは医師の指にかみつき、口の中に隠し持っていた毒薬をかみ砕いたのです。『やられた』と思いました。」

闇の帝国を築いたナチスの大物は、粗末な毛布にくるまれて葬られました。44歳でした。

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