ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

アウシュビッツ 4.加速する殺戮

アウシュビッツ

1944年の初め、アウシュビッツでは、すでに55万人が虐殺されていました。ところが、春から初夏にかけ、わずか数週間で、さらに30万人もの人々が殺されることになります。アウシュビッツ開設から4年、これまでで、最大規模の殺戮が始まろうとしていました。

この年、アウシュビッツは、ドイツと連合国の駆け引きの舞台ともなりました。ナチスは中立国に使者を送りました。連合国を混乱させようとしたのです。

「ドイツはすでに、足元に火がついています。
敗戦が迫ったのに気づいて、交渉を望んでいるのです。」

連合国は、アウシュビッツの実態を知るにつれ、対応を迫られました。

「私たちは収容所を爆撃してほしかったんです。凄い数の飛行機が飛んできました。でも爆弾は一つも落ちてきませんでした。」

ナチスと連合国との、謎に満ちた駆け引きが進むなか、アウシュビッツでは、空前の大量殺戮が加速していました。

アドルフ・アイヒマン中佐

1944年、アウシュビッツで最も多く殺害されたのは、ハンガリーのユダヤ人でした。3月、ドイツ軍はブダペストに進駐。枢軸国ハンガリーは、ナチスよりの政策をとっていました。ヒトラーはこの国を信用していませんでした。ナチスが要求した、76万のユダヤ人の移送を拒否したからです。ブダペストに進駐して間もない4月25日。親衛隊のアドルフ・アイヒマン中佐は、ハンガリーユダヤ人のヨエル・ブラントを呼び出しました。ブラントは、ユダヤ人社会の有力な活動家の一人でした。戦後、ブラントは、このときの話の内容を証言しています。アイヒマンは彼に、驚くべき提案をしました。

「100万人のユダヤ人を君たちに売り渡す用意がある。どんなのが欲しい?子供をつくれる男女?子供?それとも老人か?……かけたまえ。」

「誰を救い、誰を見捨てるかなど、私には決められません。全員を救いたいのです。」

「ヨーロッパのユダヤ人全員を売り払うことはできないが、100万人なら何とかしよう。我々は物資が欲しい。出国してユダヤ機関や連合国と接触し、具体的な話を持ち帰りたまえ。」

元ユダヤ人救援救出委員会 ペレツ・レーヴェース「何が起きているのか、まったくわかりませんでした。ドイツ側が、私たちを翻弄しようとしているのかとも思いましたが、なぜそうするのか理解できませんでした。」

そのあいだにも、アウシュビッツでは、ハンガリーのユダヤ人の虐殺計画が進められていました。前の年、所長を退任したルドルフ・ヘスが、再びアウシュビッツに向かっていたのです。ヘスは、ハンガリーから移送されるユダヤ人の殺害を、滞りなく行うよう、命じられていました。アウシュビッツに到着すると、ヘスは第一収容所に幹部を集め、会議を開きました。

ルドルフ・ヘス著「アウシュヴィッツ収容所」から

アウシュビッツは史上最大の殺戮施設になった。私にとって、絶滅計画は正しいものだ。反ユダヤ主義は以前から世界中に存在している。ユダヤ人が悪辣あくらつに権力を追及するから、反ユダヤ主義が噴出するのだ。

ハンガリーのユダヤ人の到着に備え、ヘスは第2収容所、ビルケナウで準備を始めました。移送者を載せた列車がそのまま入れるよう、収容所の中まで線路を引く計画を進めたのです。

アウシュビッツ=ビルケナウ収容所

ビルケナウ収容所では、1942から、殺戮が繰り返されていました。ここにはユダヤ人だけでなく、ポーランド人政治犯なども収容されていました。ガス室を備えた4棟の焼却場があり、ここで囚人たちは、殺害され、焼かれました。

元ポーランド人政治犯 スタニスワフ・ハンツ「ビルケナウでの出来事のなかで、どうしても言葉では伝えられないことがあります。あの匂いです。死体を焼くときの、ひどい悪臭です。収容所から何キロメートルも離れたところまで、漂っていきました。死体の焼却は、一日では終わりません。何か月も続きました。雨が降ろうが雪が降ろうが、火はいつも、燃え続けていました。」

ヘスと幹部たちは、死体の焼却に使う、巨大な穴を掘りました。既存の焼却場だけでは、今後の大量虐殺に対応できないと考えたのです。1944年5月。アイヒマンも、視察のためアウシュビッツを訪れました。ヘスは、アイヒマンの狙いをよくわきまえていました。

ルドルフ・ヘス著「アウシュヴィッツ収容所」から

アイヒマンは、任務に取りかれていた。これから先、ユダヤ人の陰謀からドイツ人を守るために、絶滅作戦は不可欠だと確信していた。

1944年、5月17日。アイヒマンの指示で、ブラントはハンガリーから出国しました。トラック1万台と、ユダヤ人100万人を交換するというナチスの提案を、連合国に伝えるためです。時間がありませんでした。ハンガリーのユダヤ人は、すでにアウシュビッツに送られ始めていたからです。いまや、ハンガリー政府当局も、移送に協力していました。

オーストリア国境に近い町、シャールバルでも、アリス・ロク・カハナと家族が、アウシュビッツに向かう列車に乗せられました。

ハンガリーのユダヤ人 アリス・ロク・カハナ「しゅつエジプト記の一場面を思い出しました。列車を見たとき、何かの間違いだと思いました。停まっていたのは、家畜用の貨車だったからです。私たちは貨車に乗せられ、扉が閉められました。トイレ用のバケツ一つと、水の入ったバケツ一つが置いてありました。私は姉に言いました。たとえどんなことがあっても、私は人前で、バケツで用を足したりしないと。そして姉と二人、貨車の隅に行きました。」

5月19日、ヨエル・ブラントは、中立国トルコのイスタンブールに到着しました。イスラエルのシオニスト指導部と繋がりを持つ、様々なグループの代表者が、ホテルの一室に集いました。

「ドイツはすでに足元に火がついています。敗戦が迫ったのに気づいて、交渉を望んでいるのです。なぜエルサレムの指導部から誰も来ていないのですか?毎日1万2,000人が移送されているのです。すぐに電報を打ちましょう。ヴァイツマンやシェルトクなど、最有力者の派遣を要請するのです。」

「電報が無事に届く保証はない。内容が正しく伝わるかどうかも疑問だ。」

話し合いは難航しました。そのころ、ハンガリーのユダヤ人は、ビルケナウ収容所に到着していました。これは、ある親衛隊員が撮影した写真です。アウシュビッツでのの写真撮影は原則として禁止されていました。なぜこのような写真が撮られたのかはわかりませんが、当時の様子を伝える、数少ない記録です。

親衛隊は、移送されてきた人々を、男性のグループと、子供と女性のグループに分け、さらにそのなかから、ガス室に送る者を選び出しました。

ハンガリーのユダヤ人 アリス・ロク・カハナ「収容所に着いたとき、家畜用の貨車よりはましだろうし、子供たちにはちゃんと食べ物をくれるだろうと思っていました。そのとき親衛隊員が言いました。子供を別の場所に移動させる。母親は子供と一緒に並べ、と。」

アリスは、子供連れの女性の列に並びました。しかしそれは、殺される人々の列だったのです。

ハンガリーのユダヤ人 アリス・ロク・カハナ「子供と母親たちの列に並びました。私は年の割に背が高かったので、親衛隊員に、お前には子供がいるのかと訊かれました。いいえ、まだ15歳ですと答えた途端、別の列に押し込められました。」

それは、アリスが命拾いした瞬間でした。彼女は、強制労働に従事させられる、健康な娘たちの列に並ばされたのです。収容所に到着した大勢のユダヤ人は、わずかな時間で、次々と選別されました。

元ユダヤ人囚人 モーリス・ヴェネツィア「ドイツ人2人が、私たちをり分けました。年寄りは右の列に、若者は左の列に。家族は引き裂かれました。右の列に入れられた人たちは、そのまますぐ、ガス室に連れていかれました。」

連合国の拒絶

トルコから、シリアのアレッポに向かったヨエル・ブラントは、1944年6月11日、ユダヤ機関の代表者、シェルトクと面会しました。しかし、イギリスの諜報機関の少佐も同席したこの席で、思いがけない通告を受けました。

「君がブダペストに戻らなかったらどうなるのかね?」

「ハンガリーのユダヤ人は、2か月以内に全員殺されます。ワルシャワ・ゲットーの人々と同じように…。」

「残念だが、ブダペストには戻れない。イギリス軍は、君にカイロに行くよう要求している。」

「私を捕虜にすると?」

「そうだ。」

「あんまりです。私が帰らなければ、ユダヤ人は大量虐殺されるんですよ。真っ先に私の家族が…。敵を助けるのですか?私はドイツ側の回し者ではありません。死を宣告された100万のユダヤ人の使者なんです。逮捕する権利があるんですか?私がイギリスに何をしたというのです?」

イギリス軍は、ナチスの魂胆は明らかだと考えていました。ソビエト軍がついにドイツ領に侵入し、ドイツ軍の敗色は、濃くなる一方でした。ナチスは取引で得たトラックを、東部戦線、つまりソビエトとの戦いでしか使わないと主張していました。親衛隊長官、ハインリヒ・ヒムラーは、この交渉を通じて、連合国の足並みを乱そうとしていたのです。

1944年、5月31日。イギリスの戦争内閣委員会は、ナチスの提案を検討しました。その結果、これは、脅しやゆすりのたぐいであり、交渉に乗るべきでないとの決定が下されました。その裏には、いったん提案を受け入れれば、ナチスがさらに多くのユダヤ人を押し付けてくるのではないかという懸念もありました。イギリスが方針を決めたのち、アメリカとソビエトも、ナチスと交渉しないことで同意しました。

元ユダヤ人救援救出委員会 ペレツ・レーヴェース「ドイツ側は、ユダヤ人が圧倒的な影響力を持っていると信じていました。ユダヤ人が世界を牛耳っていると、繰り返し主張していたんです。ユダヤ人が頼めば、アメリカやイギリスは何でも言うことを聞くと考えていました。でも私たちには、まったくの見当違いと分かっていました。」

連合国は、交渉拒否を決めた後も、結論を、ブダペストのナチスに伝えませんでした。ヨエル・ブラントの妻、ハンジとユダヤ人活動家ルドルフ・カストナーは、アイヒマンに面会し、交渉の意思があることをもっと積極的に示すべきだと伝えました。のちに二人は、このときのことを証言しています。

「せめて子供たちだけでも助けてください。私たちが責任を持って面倒を見ますから。」

「分からない人だ。私はユダヤ人を一掃する。情に訴えても無駄だ。」

「お子さんをお持ちじゃないのね。だから非情になれるんですわ。」

「口を慎みなさい。私に対しそのような態度をとるなら、今後面会はしない。」

カストナーの列車

アイヒマンや親衛隊員は、人道的な訴えには心を動かさなかったものの、ほかの条件には応じることもありました。ナチスは正義をアピールするため、ユダヤ人を載せた列車が、一度だけブダペストを出ることを許可しました。列車に乗るための料金は、一人、1,000ドルでした。

1944年6月30日。1,684人のハンガリーユダヤ人を載せた列車が、ブダペスト駅を出発しました。乗客リストを作成したのは、ユダヤ人活動家、ルドルフ・カストナーを含む、特別委員会でした。

『カストナーの列車』の乗客 エヴァ・シュペーテル「カストナーのリストは、まるで、ノアの箱舟に乗る人を選ぶような形で作られました。あの列車に乗った人は、数少ないユダヤ人の生き残り、ユダヤ人社会の代表者だったんです。」

しかし、乗客リストには偏りもありました。カストナーの親戚や、同郷の人々、ほかの人の運賃まで肩代わりできるような裕福なユダヤ人に、多くの席が割り当てられたのです。

『カストナーの列車』の乗客 エヴァ・シュペーテル「死に直面すれば、誰でも、どんな手を使ってでも生き延びようとするでしょう。みんな自分が一番大事なんです。たとえ口では、何と言おうとも。」

列車は、中立国のスイスに向かうはずでした。ところがオーストリアのリンツで停車し、ユダヤ人たちは、降りてシャワーを浴びるように言われました。

『カストナーの列車』の乗客 エヴァ・シュペーテル「列車に乗っても安心できませんでした。これからどうなるのか、わからなかったからです。裸で医者の前に立たされたとき、相手の目をまっすぐ見据えました。誇りある、ユダヤの女の死にざまを見せてやる、と心に誓って。アウシュビッツのシャワーヘッドからは、ガスが出てくると聞いていたからです。…ところが出てきたのは、温かいお湯でした。私たちはシャワーを浴びて列車に戻りました。ほっとしました。死ぬ覚悟をしていたんですから。」

列車は、ドイツのベルゲン=ベルゼン収容所に到着。ほぼ全員がスイスに入ったのは、6か月後のことでした。列車で脱出できたのは、アウシュビッツに移送されたハンガリーユダヤ人の、0.5パーセントにも及びません。

虐殺の現場

1944年の春から初夏にかけ、虐殺は、ピークに達しました。ガス室を備えた4棟の焼却場は、フル稼働していました。2棟は、ビルケナウ収容所の西側に作られ、ガス室は、地上にありました。もう2棟は、ビルケナウに引き込まれた鉄道線路のそばにあり、ガス室は、地下に備えられていました。

囚人の中から選ばれた、特別労務班員たちが、虐殺行為を手伝わされました。焼却場は、一棟につき、およそ100人の特別労務配員と、たった4人の親衛隊員で稼働していたのです。特別労務班員たちは、拒否すれば直ちに殺すと脅され、同じユダヤ人の虐殺を手伝うよう強いられたのです。

地下のガス室

元ユダヤ人特別労務班員 モーリス・ヴェネツィア「ガス室の中からは、神を呼ぶ声が聞こえました。まるで、墓の下から、響いてくるような声でした。いまでも、私には、あの声が聞こえます。」

親衛隊員が、金網の柱の中に、チクロンBを投下し、囚人を殺害しました。最もつらい作業は、特別労務班員に任されました。おびただしい数の死体を、小さなリフトで運び、焼却炉か、屋外の穴で焼いたのです。

元ユダヤ人特別労務班員 ダリオ・ガバイ「ハンガリーのユダヤ人が大勢に送られてくるようになると、親衛隊は、できるだけ早く処分したがりました。そのため、屋外に焼却用の穴を掘ったんです。」

これは、1944年、特別労務班員が、命がけで撮影した屋外での焼却の様子です。

元ユダヤ人特別労務班員 モーリス・ヴェネツィア「来る日も来る日も、毎日、ひたすら死体を焼き続けていると、感覚が麻痺してしまうんです。疑問を感じたら最後、頭に銃弾を食らっていたでしょう。ただ、ロボットのように働いていました。」

少人数の殺害にはガス室は使われず、囚人は、特別労務班員の目の前で、銃殺されました。

元ユダヤ人特別労務班員 ダリオ・ガバイ「耳を掴んで、一人ずつ親衛隊員のほうに引っ張っていかなければなりませんでした。親衛隊員が、後頭部を打ち抜くと、ものすごい量の血が飛び散りました。それを水で洗い流すのも、私たちの仕事でした。――しばらくすると、何も感じなくなります。私の良心は、あのとき心の奥底に押し込められて、今でもそこに留まっています。時々心の奥底から、声が聞こえます。いったいなぜ私たちは、あんなことをしたんだと。」

握り潰されたアウシュビッツ爆撃要請

アウシュビッツで大量虐殺が行われていることは、すでに連合国の耳に入っていました。1944年初めから、脱出に成功した一握りの囚人や、ポーランドの抵抗勢力から、情報が寄せられていたためです。情報をまとめた資料、アウシュビッツ報告には、収容所の様子が克明に記録されています。ビルケナウの主な焼却場と、ガス室の位置をしるしたスケッチまでありました。

ユダヤ機関は、アウシュビッツに通じる鉄道線路と、収容所のガス室を爆撃するよう訴えました。要請は、ノルマンディー上陸を果たしたばかりのアメリカに届きました。陸軍次官補、ジョン・マクロイ(写真右)は、アウシュビッツ爆撃に必要な戦力を、ほかの戦地から回すことに否定的でした。マクロイが、この件を握り潰すよう部下に指示したことをうかがわせるメモも残っています。イギリスは爆撃の判断をアメリカに委ね、結局、要請は葬り去られました。

しかし、1944年8月以降、アメリカ軍は、ビルケナウから7キロメートルしか離れていないイーゲーファルベンの工場を爆撃しました。

元ユダヤ囚人 リブシャ・ブレデル「飛行機の音を聞いて、収容所に爆弾を落としてくれるよう祈りました。少なくとも、逃げ出せますから。ものすごい数の飛行機が飛んできたのに、爆弾は一つも落ちてきませんでした。神様も連合軍も、私たちのことなど忘れ去って、気にも留めていないんだと思いました。収容所で何が起きていたのか、連合軍は知っていたんですから。」

8月25日、偵察飛行の際に、アメリカ軍が撮影した写真には、ビルケナウ収容所の焼却場とガス室が、はっきりと映っています。この建物だけを爆撃することは可能だったのか。そうしていれば、アウシュビッツでの殺戮をめることができたのか。その答えは、今も謎のままです。

ハンガリーの内情

いっぽう、アメリカやイギリスを含む数か国は、ユダヤ人の移送を続けるハンガリー政府に圧力をかけ始めました。7月初め、ハンガリー政府は、移送関係者の処罰を要求する、連合国側の電文を傍受しました。それを受け、首相のレーネス・トーヤイと、ドイツの全権大使、レーゼンマイヤーが対応を話し合いました。レーゼンマイヤーの報告書から、このときの話の内容がわかっています。

「電文には、ハンガリーとドイツ当局者70人の氏名が、ユダヤ人移送の責任者としてリストアップされています。」

「なるほど。私の名前がある。当然、あなたの名前も。」

「私はこんな脅しには乗りませんよ。」

しかし、ハンガリーの摂政せっしょう、ホルティ提督にとって、国際社会の批判は深刻な問題でした。戦況がドイツにとって不利になるにつれ、ホルティはナチスから、距離を置くようになります。7月7日、今後ユダヤ人の移送に、ハンガリー首脳陣は協力しないとドイツに通告しました。

ロマの人々の虐殺

ハンガリーからのユダヤ人の移送が公式に停止されると、ビルケナウに収容されていた、別の集団への迫害がエスカレートしました。ロマの人々です。収容所のなかでも、特に劣悪な環境に置かれていました。

元ロマの囚人 フランツ・ローゼンバッハ「酷い環境でした。小さな子供も大人も、一緒くたに押し込められていました。子供たちは、お腹がすいた、喉が渇いたと泣き叫びましたが、チフスが流行っていたので、水すら飲ませてもらえませんでした。」

ロマの人々は、ひどい迫害を受けました。アウシュビッツに23,000人が移送され、うち、21,000人が命を落としたのです。ナチスはロマを、反社会的で危険な集団とみなし、蔑視していました。

1944年、8月2日の夜。収容所のロマの虐殺を決行します。たった一晩で、膨大な数の命が奪われました。

元ユダヤ人囚人 アリス・ロク・カハナ「私たちのバラックは、ロマの収容所のすぐそばだったので、すべて聞こえました。恐ろしい夜でした。金切り声や、泣き叫ぶ声、きな臭い匂いが漂ってきました。ロマの人たちは、どこに連れていかれるのかわかっていたんです。だからみんな、泣き叫んでいました。」

元ポーランド人政治犯 ヴワディスワフ・シミッド「誰もが、最後まで、抵抗していました。噛みついたり、引っ掻いたりして。親衛隊員は、子供たちをトラックに放り込みました。飛び降りて逃げようとする子がいると、こん棒で腕や手を殴りつけ、また放り込みました。逃げられないように、手足の骨を折ったんです。」

クーデター~ブダペストのユダヤ人の受難

ロマの人々が虐殺されて間もなく、アウシュビッツには、変化が見え始めます。ハンガリーやポーランドのウーチゲットーからの大規模なユダヤ人移送が終わり、1944年5月には、一日当たり1万人だった殺害人数が、秋には、千人弱に減少しました。ガス室で働かされていた特別労務班員たちは、身の危険を感じ始めました。

元ユダヤ人特別労務班員 ダリオ・ガバイ「親衛隊は、特別労務班員のメンバーを入れ替えていました。いつ殺されるかわかりませんでした。」

1944年、10月7日。第4焼却場で、特別労務班員の反乱がおきました。焼却場に火を放ち、つるはしや石で親衛隊員を襲ったのです。まもなく、第2焼却場でも反乱が起こりました。何とか脱走し、森に逃げ込んだ者もいましたが、全員が捕まり、射殺されました。反乱に参加しなかった特別労務班員も、報復のため、大勢が殺されました。

同じ月、ハンガリーでクーデターが起こりました。1944年10月15日、ナチスに従わないホルティ政権を、親ナチスの矢十字やじゅうじ党(写真右:掲げる党旗に、十字架が矢印の形をしたシンボルの一部が見える。)が倒したのです。アイヒマンは、ユダヤ人活動家、ルドルフ・カストナーを呼びつけました。

「この通り戻ってきたよ!よく聞きたまえ。新政権のおかげで――ブダペストのユダヤ人をようやく移送できる。今回は徒歩でだ。」

これまでほとんど移送を免れていた、ブダペストのユダヤ人が、ついにアイヒマンのターゲットになります。移送先は、オーストリア。強制労働のためです。列車が不足していたため、歩いて移動させられました。11月、数万のユダヤ人が西に向かって出発し、途中、何千人もが命を落としました。


このことでアイヒマンは、親衛隊幹部の不興ふきょうを買います。戦況が悪化するなか、労働力を無駄に浪費してしまったというのです。

12月、ヒムラーはアイヒマンを専用列車に呼び出しました。

「今後はユダヤ人を死なせぬよう命令する。国家安全保安部を創設したのはこの私だ。命令は私が下す。従えないなら、そう言いたまえ。」

大量虐殺の証拠隠滅

ヒムラーは、ドイツ軍が苦戦していることを知っていました。1945年1月には、アウシュビッツの親衛隊員も、終わりが近いことを感じていました。大量虐殺の証拠の隠滅に追われ始めたのです。

元ユダヤ人囚人 エヴァ・モーゼス・コール「夜中に、爆発音で目が覚めました。親衛隊が、ガス室や焼却場を爆破したんです。私たちは行進するよう命令されました。付いていけない人たちは、その場で撃ち殺されました。1時間ほど歩いて、第1収容所に到着しました。その途端、親衛隊員は姿を消しました。」

衰弱していた、1,200人の囚人が、数日間、第1収容所に放置されました。このあと、別の部隊が収容所に入り、囚人たちを射殺することになっていました。大量虐殺の生き証人となる囚人は、ナチスにとって、生かしてはおけない存在でした。労働力になると判断された、5万人以上の囚人は、氷点下の寒さに耐えながら、鉄道の通っている場所まで、歩かされました。

元ユダヤ人囚人 イービ・マン「靴の中に入った雪を取ろうとかがむだけで、撃ち殺されました。屈んだ瞬間に、終わりでした。急げ急げとき立てられて、歩き続けました。道路の両端りょうはしには、大きな溝があったんですが、その溝は、死体でいっぱいでした。」

混乱のなか、特別労務班員たちも、この行列に紛れ込むことができました。

元ユダヤ人特別労務班員 ダリオ・ガバイ「私たちが生きて収容所を出られたのは、クラクフからソビエト軍が迫っていて、親衛隊がパニックに陥っていたからです。行く先々で、一人ずつ、お前は特別労務班員かと訊かれましたが、みんな黙っていました。」

鉄道にたどり着くと、囚人たちは、屋根のない貨車に詰め込まれ、氷点下20度を下回る極寒のなか、西に向かいました。

元ユダヤ人囚人 モーリス・ヴェネツィア「ドイツ人の男が一人立っていました。自分から、ドイツ人だと言ったんです。たぶん常習犯か何かでしょう。貨車はぎゅうぎゅう詰めでした。彼は私に言いました。煙草をやるから、座らせてくれないか。私は煙草を2、3本貰って、立ち上がり、彼を座らせてやりました。5分か10分して、煙草を吸い終わったので、立てと言いました。でも、そいつは、立とうとしませんでした。そこで私は、仲間2、3人と、その男の上に座りました。。一時間くらいして見ると、窒息して死んでいたので、死体を貨車から投げ落としました――どう感じたかって?いい気分でしたよ。私の親戚を皆殺しにしたドイツ人を、たった一人殺したからって、なんだっていうんですか。」

――でもあなたは、仲間である囚人を殺したんですよ?

元ユダヤ人囚人 モーリス・ヴェネツィア「……。私が殺したのは、ドイツ人です。本当の仲間には、そんなことはしませんよ。私だって、座りたかったんです。疲れ切っていたんですから。煙草をくれたから、助けるべきだったというんですか?そいつが立とうとしなかったから、上に座ったら、死んだんです。簡単です。」

ドイツの敗色が濃くなり、大量虐殺に加担した者が、報いを受ける時が迫っていました。アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘスをはじめ、親衛隊のメンバーは、身を隠します。裁きを逃れようとするヘスたちと、それを追う、連合国側。アウシュビッツはこのあと、衝撃的な終焉を迎えることになります。

<終>

広告

ページ上部へ