ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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ヨーゼフ・ゲッベルス

ゲッベルス ヒトラーの信奉者

ヒトラーを称え続けるゲッベルスの声。彼の総統に対する忠誠は、決して装ったものではありませんでした。

(註:映像)<総統は厳かな足取りで、群衆の中を進まれます。>

ヒトラーの神話におぼれ、破滅した男。それが、ヨーゼフ・ゲッベルスでした。青年時時代のゲッベルスは、切れ者の国家主義者で、文筆家でもありました。ただしその才能を買う人物は、なかなか現れませんでした。ヒトラーと出会うまでは。

<「ゲッベルスの日記」から> “1925年11月6日、ヒトラーのあの星のように青い目が、訪ねてきた私を喜んで迎えた。私は天にも昇る気持ちだった。彼の手が、私の手を握る。ウィットや皮肉、ユーモア、そして真剣さを込めて、ヒトラーはしゃべり続けた。この人こそ、王にふさわしい。生まれながらの指導者、未来の独裁者なのだ。”

彼の人生は、この時決定されました。

当時ヒトラーの秘書 T・ユンゲ「ヒトラーはゲッベルスをとても評価していました。忠実な部下として、完璧な国民社会主義者として。また、宣伝相としての有能さも買っていました。ただ二人の間で親しげな会話がなされたところは目にしたことがありません。当時ヒトラーの秘書だった私の目には、少なくとも職務以外の関係は見えませんでした。」

1926年、ゲッベルスは、ヒトラーの求めに応じてベルリンで突撃隊を指揮します。彼は過激な暴力で、ナチスの名前を大きく広め、一目置かれました。ゲッベルスは、初めて人生の好機が巡ってきたのを感じました。彼は野心に満ち満ちていました。望むことはただ一つ。壇上に立ち、注目を集めることでした。

当時ベルリンの通信員 S・ルッセル「ゲッベルスは、やせた小柄な体格の人でしたが、体には不釣り合いな大きい頭を持ち、その身振りや動作は、どことなくぎくしゃくとして見えました。当時何より私たちの目を引きつけたのは、あのひと時も黙ることを知らない精力的な演説振りでした。壇上のゲッベルスは、それこそ憑りつかれたように、よく喋りました。けれどもそこには何かしら、権力に操られているマリオネットのような雰囲気があったように思います。」

演説の冴えを買われたゲッベルスは、選挙戦の党首として、容赦ない論戦を展開します。

(註:ゲッベルスのテレビ映像)<1932年 「我々は必ず国民を絶望から救ってみせる。ナチスの力なくして――ドイツの将来に希望は訪れないだろう。」>

焚書

1933年、脅迫と宣伝によって、ナチスが政権を掴んだその直後、ゲッベルスは大規模な言論弾圧に取り組みます。

<1933年5月、ゲッベルスは非ドイツ的書物の焼き捨てを命じた。>

当時ベルリンの通信員 S・ルッセル「焚書という言葉は、それまで、歴史の本の中でなら知っていました。遠い中世に行われた弾圧行為で、まさか、20世紀にはあり得ないと思っていました。ところが、ヒトラー政権になった途端、ベルリンの広場で突然大量の書物が火にくべられたのです。私たちは、ただただ驚いて見ていました。あのとき、炎の前には指示を出したゲッベルスが立っていました。明々と照らされた彼の表情は、不敵な感じでした。そのとき、あの人には、どこか非人間的なところがあると思いました。彼はもともとはジャーナリストでした。それもまるで売れない、世に認められない文筆家でした。その彼が、ナチスという活躍の場を得て、真っ先に取り組んだのが、ほかでもない、ジャーナリストへの弾圧だったんです。それは彼にとって、個人的復讐だったのではないか。私にはそう思えてなりません。かつての競争相手の書物を灰にしたことで、ゲッベルスは勝利を味わったのではないでしょうか。ゲッベルスは、驚くほどエネルギッシュな人でした。ただしその原動力は、他人へのコンプレックスや、憎しみではなかったかと思います。」

ゲッベルスは、国民に共通の憎しみの対象を与えようとします。選ばれたのは、ユダヤ人でした。

(註:ゲッベルスの聴衆の前での演説)<1933年4月1日「ユダヤ人ボイコット運動は午前10時に始まり、またたく間に街に広がりました。規律ある行動のため大きな混乱はありません。」>

反ユダヤ主義の叫び。ユダヤ人商店を次々に襲った若者たち。その中心にいたのは、ゲッベルスの指揮下にある、突撃隊でした。暴力で反対者を黙らせるいっぽう、ゲッベルスは目も眩むような色彩で、党の権力を飾り立てていきます。

ゲッベルスの城 国民啓蒙宣伝省

(註:ゲッベルスの演説)<「今日ここに上棟式を祝えることを、心から名誉と感じます。」>

新しく設けられた、国民啓蒙宣伝省の建物。1933年3月に閣僚入りを果たした、ゲッベルスの城です。国民を煽り立て、洗脳するための一大キャンペーンが、ここから発信されていったのです。使われる手段は極めてモダンで、洗練されています。だが、伝えられるメッセージに人間の温もりはありませんでした。

(註:ゲッベルスの声)<「思想宣伝には秘けつがある。何より、宣伝の対象人物に、それが宣伝だと気づかれてはならない。同様に、宣伝の意図も、巧妙に隠しておく必要がある。相手の知らぬ間に、たっぷり思想を染み込ませるのだ。」>

ゲッベルスの巧妙な言論操作によって、国民はしだいに、統制されている現実に麻痺していきました。

ジャーナリスト H・ボルゲルト「奇妙な話ですが、私を含め、当時の国民は、社会が比較的自由だと感じていたのです。書きたいことが書けると信じ、だが何年も経って、自分があのころに書いたものを見たときは、唖然としました。まるで直立不動の姿勢で、命令を待っているような口調だったからです。これが言論統制なのだと気づきました。」

映像の力を、ゲッベルスは最も重視しました。彼の死後、遺品として残された膨大なフィルム。国民を欺くとともに、彼自身が溺れていった、輝かしいイメージの数々です。

(註:紹介映像)<映画「意思の勝利」1934年>

混沌とした世界の中で、ここにだけは秩序があることを、ナチスはけばけばしい儀式によってアピールしました。党大会はさながら、荘厳なミサのようです。そして総統は、見事なまでに大司祭の役を演じ切ります。陰で取り仕切るゲッベルスにとって、このプロパガンダはナチ会心の作となりました。だが、ゲッベルス宣伝相は、華々しい儀式を陰で取り仕切るだけでは飽き足りません。なぜなら、彼にとって目立つことは、何より重要な関心事だからです。そこでゲッベルスは、自分の家族を党のイメージアップに用いることを考え付きました。ドイツ第三帝国の理想的家庭像とはいかなるものか。宣伝相自らが、モデルを買って出たのです。

(註:映像)<ゲッベルス邸>

ゲッベルスの妻、マクダ夫人は上流家庭の出身で、しかも熱心な党員でもありました。そして、ドイツの将来を担う健康な子供たちが6人。まさにヒトラーの趣味に合う模範的な一家でした。幸せな家庭像に飾られたゲッベルスは、権力の明るい面を演出します。1930年代のステータスシンボルの一つが、ヨットでした。ゲッベルス大臣は国民の手前、あれはちょっとばかり高くつく趣味ですが、と言っていたようです。

ゲッベルスは、党の看板として行動するのが好きでした。イタリア訪問の際、彼はヒトラーの国家を代表して、ムッソリーニに会うことを許されました。光栄な任務です。華やかな生活を国民に見せる使命がある以上、ゲッベルス大臣にはそれ相応の財産が必要です。そこでベルリン市から、別荘を寄贈されることになりました。これは彼の論理では汚職ではなく、党への敬意の印にあたります。温かく豊かな家庭風景。しかし子供たちはめったに父親と過ごすことができません。父は国民への奉仕を優先しているのだと、子供たちは教わるままに信じていました。

ゲッベルス 裏の人間性

しかし、いっぽうで模範的な夫と父親を演じながら、彼は全く反対の人間性を合わせ持っていました。

(註:ゲッベルスの声)<「我々は堅苦しい道徳より、開放的な人間性を愛する。」>

女優や有名人に取り巻かれることでは、ゲッベルスは党内ではトップを競い合う存在でした。映画俳優との懇親会。宣伝相という地位は、彼の目的に非常に役立ちました。目的はもちろん、アバンチュールを楽しむことです。

女優 A・ウーリッヒ「パーティはリラックスしたムードで、ゲッベルス大臣も大いにくつろいでいる様子でした。彼は私のことを魅力的な話し相手だと褒めました。そして、一緒にドライブしましょうかと誘いました。そう言われた場合、私のような立場の者に断ることなんてできるでしょうか。私の緊張を察してか、彼はとても親切な態度でした。私たちはアウトバーンを飛ばし、美しい森と湖のある別荘地にたどり着きました。丘の上にバンガローがあり、ゲッベルスは車をそこで停めました。誰かが門を開けてくれました。暖炉の火がくべられた、居心地の良い居間でした。そしてさんざんおしゃべりを楽しんだあと、彼は、急に私に関係を迫ったのです。私は、きっぱりと断りました。もちろん断ると、今後どんな目に遭うかわかりませんでしたが、そんな計算は私にはできませんでした。私が余りにもヒステリックに振る舞ったので、とうとう彼は諦めました。そんな振る舞いでは、女優として大成することは難しいね。彼はそう言いました。それは金曜日のことでした。そして、明くる日だったか、月曜日だったか、私は、スタジオへ出かけました。けれども、撮影中だった映画は、突然、中止されていました。」

(註:映像紹介)<映画「プロイセンの恋物語」1938年>

ゲッベルスは、何十人もの女優と浮名を流しますが、その中にただひとり、彼を本気で虜にした女優がいました。チェコ出身の、リーダ・バアロヴァです。

女優 L・バアロヴァ「私が求めたのは、彼の地位ではなくて愛情でした。彼は私を深く愛してくれ、二人とも、お互いの愛情にしだいに溺れました。でも彼が、夫人<(註:映像)マグダ夫人>にそのことを打ち明けると、彼女は翌日、重大な相談事があると言って、あのヒトラーのもとを訪ねたのです。彼女の話しかたは、事実どおりではありませんでした。私が何かの目論みでゲッベルスをたぶらかしたとか、そんなふうに説明したんです。それでヒトラーはゲッベルスを呼びつけ、即座に私と別れるよう、厳しく命じました。」

<(註:映画のセリフ)女性「皆に疎まれているようで。」 軍服を着た男性「なぜ、そのようなつまらない心配を?僕が父に話そう。」>

女優 L・バアロヴァ「ヒトラーが側近たちを自分の山荘に集めたとき、ゲッベルスは大臣をやめて、私と一緒になる覚悟でした。マクダ夫人は、もはや離婚したがっていました。彼は、今の任務を退いて、日本の大使になりたいと考えていました。そして私に、たとえ日本で物売りになっても構わないと言いました。それほどの覚悟で彼は、辞任を願い出たんです。それを聞いたヒトラーは、物凄い剣幕でわめき散らしたそうです。有能な側近を手放したくなかったせいでしょう。落ち着きを取り戻したあと、ヒトラーが下した結論は、一見物わかりがよい内容でした。とりあえず、3か月間、妻と暮らし元のさやに戻る努力をしなさい。それでもだめなら、離婚を許可すると言ったからです。けれどそれは、ヒトラーの本心ではなかったと思います。ゲッベルスと私を引き離す口実を求めたまでで、3か月なんて制限は無意味だったんです。」

<(註:映画のセリフ)軍服を着た男性「8週間の別れだなんて、僕にはつらすぎる。」 女性「時間は必ずたつものよ。」

権力への飢え 忠誠への回帰

ドイツが、ズデーテン地方の割譲を画策しているさなかに起きた、妻子ある大臣と、チェコ女性との恋愛スキャンダル。これはヒトラーを大いに不快にしました。いったんは名声を捨てて恋愛を全うしようとしたゲッベルスでしたが、ヒトラーの逆鱗に触れて現実に引き戻されます。彼は、恋愛よりも総統への忠誠を選びました。

当時ヒトラーの副官 Rラインハルト・シュピッツィ「ヒトラーは有無を言わさぬ態度でゲッベルスに命じました。それは、48時間以内にバアロヴァを彼女の故郷、プラハに送り返せというものでした。ゲッベルスはもはや言いなりでした。だがこれを機にヒトラーは、ゲッベルスを重要な場から遠ざけました。それを見たライバルの側近たちは、密かに喜んでいました。」

当時ゲッベルスの副官 W・V・オーフェン「部下の目にも明らかなほど、ゲッベルスは意気消沈していました。彼は首相官邸での慣例の食事会に招かれなくなり、またあらゆる面で日の当たらない場所に追いやられました。私は気づきました。彼がどんなにヒトラーに、ヒトラーの権力に依存していたかをです。いわば、アルコール中毒患者が、一滴の酒を切望するように、彼は権力に飢え、身悶えせんばかりでした。」

雄弁家の復活

1938年11月、ドイツ人外交官が、パリでユダヤ人青年に射殺される事件が起こります。報せが伝わるや、ドイツ国内の反ユダヤ主義が火を噴きます。

当時ヒトラーの副官 Rラインハルト・シュピッツィ「それは不運を囲っていたゲッベルスにとって、ヒトラーに存在をアピールするまたとないチャンスでした。彼は自分が今も、完璧なナチスの人間であることを示そうとしました。ドイツ人外交官の暗殺が伝わるや、彼はすぐにベルリンの突撃隊を非常招集し、一斉に街に解き放ちました。反ユダヤ主義に燃える粗野な若者たちを、したい放題に暴れ回らせたのです。制服を着た連中は、野犬のような獰猛さで、ユダヤ人商店に襲い掛かりました。」

<「ゲッベルスの日記」から “1938年11月10日、ミュンヘンで党記念集会が開かれたおり、私は総統に外交官射殺事件を報告した。総統はこう命じた。自発的デモはそのままにさせ、警察を出動させるな。ユダヤ人は民衆の怒りを肌で感じ取るべきである、と。総統の意見は全く正しい。私は直ちに警察と党内に指示を与え、党員たちの前で手短に演説した。嵐のような拍手。引き揚げようとすると、空が血のように赤かった。ユダヤ教会が燃えていた。附近に燃え広がらない限り、燃え尽きるに任せた。ブラボー。”>

水晶の夜。砕け散ったガラスのきらめきから、誰かがこの暴動に美しすぎる名を付けました。

(註:ゲッベルスの演説)<「用心して待つがいい。我々の忍耐にも限界がある。厚かましいユダヤ人の口をいつか封じてやる。」>

雄弁家、ゲッベルスの復活です。

1939年4月、ヒトラーの50歳の誕生日。支配者の心の中では戦争はもう決定的ですが、彼は部下ゲッベルスにしばらく平和的な使者を演じさせました。

(註:ゲッベルスの対談映像)<「ヨーロッパの平和を最優先すべきだと考えます。戦争という事態だけは避けなければなりません。もしヨーロッパが戦火に包まれようものなら、勝者も敗者も不幸を手にします。」>

開戦 ユダヤ人排斥の先鋭化

<1939年9月 ドイツ軍はポーランドに侵攻。戦争の火ぶたが切って落とされた。>

ヒトラーの軍がポーランドの台地を蹂躙する間、ゲッベルスは前線に出ない代わり、言葉の弾丸を放ち続けました。

(註:ゲッベルスの声)<1940年 「我がドイツ空軍の圧倒的な力は、罪深き者たちの根城を壊滅させた。」>

罪深き者と名指されたユダヤ人たちは、容赦なく収容所へと囲い込まれていきます。ゲッベルスの人種的な憎悪は、ポーランドのユダヤ人を前にしたとき、さらに先鋭化しました。

<「ゲッベルスの日記」から “1939年11月2日。ゲットーを視察した。何という醜悪さ。奴らは人間ではない。動物だ。従ってこれは、人道上の問題ではなく、衛生上の任務である。一挙に解決を図るべきだ。極めて徹底的に。”>

当時 国家映画総局長 F・ヒップラー「1939年だったか40年だったか、戦争初期の週刊ニュース映画の中に、ポーランドのユダヤ人の映像がありました。それをゲッベルスは、ナチスの指導者たちと見たのですが、ニュースが終わったとき、ゲッベルスは開口一番こう言いました。あのユダヤ人たちが再びドイツに戻ってくるなんてことは考えたくもない。万が一我々が戦争に負けることになろうとも、それだけは断固受け入れがたい。私は妻と折に触れて話し合ってきた。ユダヤ人とともに祖国を分かち合うくらいなら、私と妻は自殺を選ぶだろう、と、そうはっきり語ったんです。ゲッベルスは興奮を抑えきれず、ユダヤ人を罵り続けていました。あの顔を見ろ、正真正銘の犯罪人の面構えだ、などとも言いました。」

ゲットーの子供たち。この子たちも、犯罪人なのでしょうか。そして、あまりに対照的な子供の映像。こちらが、ゲッベルスの宣伝するドイツの理想です。ドイツで最も人気のあるロンメル将軍が、子供たちの仲良しとして、フィルムに加わっています。

磨かれる雄弁さ

<1940年6月 フランス降伏>

1940年6月、ドイツはフランスを降伏させます。勝利ほど、最強のプロパガンダはありません。ゲッベルスは、ヒトラーの天才を存分に謳い上げます。東部戦線と西部戦線という危険な二正面戦争をヒトラーが提案したときも、ゲッベルスは主君の直感を信じました。彼は軍人よりも軍人らしく勇敢に振る舞おうとします。

1941年6月。対ソビエト戦の開始を告げる名誉を、彼はヒトラーから与えられました。

(註:ニュース映像)<「これよりゲッベルス大臣が、総統の声明を読み上げます。」>

ゲッベルスの言葉選びは非常に巧妙です。彼が言う自由のための戦争とは、実際には殲滅戦争のこと。予防戦争とは、侵略戦争のことでした。言葉による事実の封じ込めが進行します。

(註:ニュース映像)<「確固たる攻撃は、野蛮な敵の機先を制しました。」>

ゲッベルスの毒を含んだ雄弁さは、戦争の日々の中で、いっそう磨かれていきました。

(註:ゲッベルスの声)<「国民社会主義は、ヨーロッパ全土に平和と文化をもたらす。だがその理想の達成には、ユダヤ人劣等人種の陰謀を力で退けなければならない。」>

ある戦争捕虜収容所で撮影された、未公開の映像です。捕虜と対面したゲッベルス大臣の冷ややかな表情。彼はもはや、ユダヤ人を隔離するだけでは気が済まなくなりつつあります。

ユダヤ人強制収容・抹殺の加速

<1941年、ナチスはユダヤ人の東部への強制移送に着手。>

<「ゲッベルスの日記」から “1941年8月20日。ユダヤ人問題に関しては、積極的に取り組むつもりだ。総統から許可を得て、ユダヤ人に目印を付けさせることになった。今後は法的な書類に頼らずとも、迅速に処置することができる。ユダヤ人は速やかに、我々の街から姿を消すだろう。彼らを社会から追放するのだ。”>

ユダヤ系ドイツ人 I・ドイチュクローン「私には誇りがありました。だから、見て。私はユダヤの女よと、バッジを付けた胸を張る思いでした。街中の人が差別的だったわけではありません。人ごみの中で、そっと品物を渡してくれた人さえいました。ユダヤ人は毎日の買い物さえ困っていたからです。でもやはり、大勢の人から憎しみの目で見られ、中世の魔女狩りにも似た恐ろしい行為を受けたことは、忘れられません。」

1942年1月。ユダヤ人問題の最終解決。つまり、ユダヤ民族の抹殺が、党と政府の要人たちの間で、確認、調整されました。

<「ゲッベルスの日記」から “1942年3月27日。ポーランドから、ユダヤ人を東方へ追放中である。送り込んだ先では、かなり手荒な方法がとられ、もはやそう多くは残っていない。概算ではこう確認されている。およそ6割は始末され、労働に投入できるのは4割に過ぎない。ユダヤ人は、この重い刑罰に、十分値する。”>

ユダヤ系ドイツ人 I・ドイチュクローン「ゲッベルスは表向きは退去処分と言いながら、実際にはユダヤ人をどこにも生かしておく気はなかったのです。」

敗色 総力戦

(註:ゲッベルスの演説)<1943年2月 「ユダヤの悪は放っておくと社会に感染する。ドイツはユダヤの脅迫に屈さず、いかような戦いにも応じる。ユダヤ人が絶え滅ぶまで、徹底的かつ完璧に戦い抜く用意があるのだ。」>

ユダヤ人絶滅というナチスの本音を、彼は危うくばらしてしまうところでした。1943年、戦況はすでに芳しくありません。ドイツ軍はスターリングラードで敗北。ゲッベルスのメッセージは、総力を挙げての一点に絞られていました。k

(註:ゲッベルスの演説)<「ドイツ政府は総力戦こそが未来を導くと考えている。国民に問おう。総力戦より屈服を望むか?」「いいえ。」>

当時の聴衆 S・ベベー「ゲッベルスが問いを発するたびに、私のまわりで、怒りを煽られた男たちが叫びました。ゲッベルスは、最初のうち罪もない子供や女性たちの犠牲を悼む演説をしました。そして聴衆が、怒りと悲しみに燃えだしたときに、その非を自分の引き出したい結論のほうへ煽ったんです。聴衆は最後には理性を失い、会場は一斉に怒号する状態になりました。」

(註:ゲッベルスの演説)<「諸君は総力戦を望むか?」(聴衆の絶叫)>

当時の聴衆 B・ポムゼル「信じられない眺めでした。そもそも総力戦という言葉の意味さえはっきりとわからないのに、ゲッベルスが掻き立てた熱狂と陶酔と、人々を一種の催眠状態にしたのです。諸君は総力戦を望むか、という彼の問いに、聴衆は一瞬の遅れも取らず、もちろんと叫びました。私はただ突っ立っていました。ぞっとする体験でした。するとまわりの男たちが厳しい顔でこう言ったんです。拍手だ、なぜ拍手をしない、って。」

(註:ゲッベルスの演説)<「共に立ち上がろう。突撃の嵐を起こすときが来た。」(聴衆の拍手)>

演説後、ゲッベルスはこう語っています。聴衆は、私が命じればビルの屋上から飛び降りたろう。

総力戦という言葉の本当の意味を、人々がようやく理解したときには、すでに誰ひとり、そこから逃げ出せなくなっていました。女性をも動員しての消防活動。しかし、度重なる空襲には、もう手の施しようがありません。ドイツの街が死んでいきます。しかし総力戦の火付け役は、ますます意気盛んに振る舞います。ゲッベルスにはもはや、提供できる勝利はありません。あるのは、あくまで戦い抜けというスローガンのみでした。しかし少なくとも彼は、国民を励ましに外に出ました。彼が称える総統は、一度たりとも焼跡を訪れたことはありません。今では、ゲッベルス自身にも、勝利が疑わしく思えることがあります。しかし、弱気を見せることは禁物です。そしてヒトラーは、総力戦の度合いがまだ十分ではないのだと、部下に厳しく当たります。

当時 対外宣伝機関長 H・フンケ「ゲッベルスは、戦略の決定に関しては、ほとんど影響力を持っていませんでした。彼がたいそうな計画書を携えて、興奮しながら総統司令部の中へ入っていくところをよく見かけました。ところが、ドアから出てくる時の様子といったら、そう、まるで水を浴びせ掛けられたプードルのようでした。」

最後のプロパガンダ

<1944年7月20日 ヒトラー暗殺未遂事件>

ヒトラー暗殺未遂事件。独裁者を権力の内側から倒す試みは、失敗しました。この混乱のとき、側近たちの中で、最も献身的な忠誠心を発揮したのが、ゲッベルスでした。彼のプランにほとんど耳を貸さなかった総統も、これ以後、ゲッベルスに特別な信頼を寄せたのです。忠実な臣下は、ナチスドイツにおける総力戦動員の全権を与えられました。一人でも多くの人間を戦場に送り込むことが、ゲッベルスに与えられた至上命題です。初めて、軍人としての使命を帯びて前線を視察。すでに武器や弾薬は底を突いていますが、彼はいつもながらの強気でした。

(註:老兵、少年兵を前に演説するゲッベルス)<「全ての師団は厳かに任務を遂行している。総攻撃にとりかかる諸君に忠告しよう。ミサに参加するように、敬けんな心で務めなさい。君らの勇敢な叫び声に、敵は恐怖を味わうだろう。」>

ヒトラーユーゲント。純粋培養された少年兵もまた、戦場へ。

(註:ゲッベルスの声)<「ドイツ民族には不屈の精神が宿っている。男だけでなく妻も子供たちも英雄である。」>

当時 首相官邸警護兵士 F・ノイヒュットラー「最後の最後、希望のひとかけらもない瞬間になっても、なおゲッベルスは、青少年を死の運命へと駆り立てていました。その責任は、途方もなく大きいと思います。もし彼が、あれほど徹底したプロパガンダを流さなかったら、もう少し早い時期に気付く人だっていたでしょう。だが、国民はほとんど信じ込まされていました。敗北したら全員処刑か、奴隷になるかしかない。ゲッベルスは、マスコミを操作してそういうイメージを繰り返し吹き込みました。我々がドイツ国民として生きていくには、戦いを乗り切る以外ないのだと。私たちは、追い詰められた気持ちでした。」

最後の日を予感しつつ、ゲッベルスは言葉で時間を稼ぎます。

(註:ゲッベルスの声)<「我々は、血だるまになっても戦い抜く。敵に占領され、屈服するくらいなら、戦場で最後の息を引き取る方を選ぶ。」>

<1945年4月 最後のラジオ演説 「ベルリンは前線都市となった。野蛮な敵のもくろみは、この街で打ち砕かれるだろう。市民の結束を乱す扇動者は、ただちに逮捕、処刑する。我々指導者がベルリンに残ることは言うまでもない。私は妻子と共に、街にとどまる。」>

当時ゲッベルスの副官 W・V・オーフェン「ゲッベルスの部屋を訪ねている最中、建物のすぐわきの岩に、砲弾が命中したのです。爆発の勢いたるや凄まじいもので、部屋の窓ガラスが割れただけでなく、私たちもかなりの爆風を浴びました。壁の一部が壊れ、漆喰が埃となって舞いました。ところが、顔を上げてみると、ゲッベルスはさっき持っていた書類をまだ読み続けているんです。右手で埃やガラスの破片を払い落としながら、全く無表情のまま読んでいました。あれにはぎょっとしました。」

スターリンの軍隊が、ベルリンの心臓部にまで迫って来たとき、ゲッベルスはヒトラーの地下壕で、かつてないほど総統の身近にいました。ゲッベルスはどこまでも、総統と運命を共にすることを望みます。

ヒトラーの運命と共に

当時ヒトラーの秘書 T・ユンゲ「突然現れたゲッベルスを見て私はびっくりしました。死人のように青ざめ、目には涙を溜めているのです。誰かに気持ちをぶちまけたかったのでしょう。彼にはあまり心を割って話せる相手がなく、それでたまたま秘書の私を捕まえたんだと思います。ユンゲさん、総統は私がここを去り、ベルリンの街を見届けることをお望みだ。将来の政府において、役立つべきだとおっしゃるのだ。だが総統のもとを去ることなど、私にはできないが。彼は自分こそヒトラーと一体の部下だと感じていたのです。ゲッベルスはもう、自分の忠誠心を全うする以外に、何の関心もないように見えました。」

ゲッベルスは残り、妻子を地下壕へ呼び寄せます。残酷な結末を知りながら。

(註:ゲッベルスの子供たちの歌声)<「パパがどんなに忙しくても、パパは私のいちばんのお友だち。」>

総統地下壕の電話交換手 R・ミッシュ「ええ。もちろんあの地下壕には、つらいドラマがありました。子供たちだけでも、なんとか助けてほしいとたくさんの人を説得しました。厨房や、事務室で働いている人たちまでが、夫人に命乞いをしました。だが結局、聞き入れてはもらえませんでした。終わりの日、ゲッベルス夫人は6人の子供たちに最後の身づくろいをさせました。真っ白な服を着せ、髪をとかし、そして、逝ってしまったのです。」

当時 首相官邸警護兵士 F・ノイヒュットラー「突然私は目にしました。ゲッベルスが両手をこすり合わせながら、ぶつぶつ唱え出したのです。我々は行軍する、アドルフ・ヒトラーのために。そして、歌いだしました。ぞっとする、不気味さでした。結局彼は、死ぬまで一つのことを喋り続けたのです。」

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