ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

アルベルト・シュペーア

ヒトラーに従った罪を自ら認めたただ一人の男 ヒトラーの唯一の友

ヒトラーの第三帝国は、独裁者の威信を飾りたてる、一連の壮大な建築物を必要としました。その時一人の若者が、ドイツの建築界に彗星のように現れます。アルベルト・シュペーア。彼は20代にして、ヒトラーの建築プロジェクトを任されます。シュペーアの才能は建築にとどまらず、のちには軍需相として、目を見張るほどの辣腕をふるいました。ヒトラーはシュペーアに、最後まで特別な信頼を寄せました。独裁者が唯一、心を打ちとけることができたのは、この16歳も年下の側近だったのです。

 

若き日のシュペーア

ベルリン。1930年。25歳のアルベルト・シュペーアは、都会生活の自由を妻と満喫していました。時代は世界恐慌の真っただ中。だが、彼は仕事を確保し、順調に20代の日々を過ごしていました。

シュペーアの母校、ベルリン工科大学。彼の父親は、マンハイムの裕福な建築家でした。アルベルトは父の期待に応えるために、建築学を修めました。しかし卒業しても、当時の不況では若い建築家に仕事などありません。考えた末、彼は助手として大学に残りました。

その頃、大学の一角では毎日のように政治集会が開かれていました。とりわけベルリン工科大学は、ナチスの牙城の一つでした。1930年12月。アドルフ・ヒトラーの講演会の予告に目を留めました。

ヒトラーの演説の口調は、あの喚くような攻撃的なスタイルではありませんでした。意外な思いで聞き入るうち、シュペーアはしだいに、この演説家に心を奪われていきました。帰り道、シュペーアはヒトラーの言葉が心から離れませんでした。「人生はパンのみで生きるのではない。ドイツ民族が再び興隆するためには、ドイツ文化、とりわけ芸術を再生させなければならない。」

ナチス党員としての一歩

3か月後、シュペーアはナチスの党員になりました。彼は突撃隊のような暴力によってではなく、あくまで知的な形で運動に加わります。シュペーアがとりわけむさぼるように聞き入ったのは、ドイツ芸術の未来について語るヒトラーの言葉でした。

シュペーアが、ベルリンで初めて手掛けた建築の仕事は、ナチスの建物の改築でした。1932年、彼は建築家として、ナチス党員として一歩を踏み出しました。

明くる1933年。ヒトラーはついに政権を獲得。ナチスは勝利に酔いしれます。5月、国民的労働の日の大集会で、シュペーアは願ってもないチャンスを得ました。開場となる広場の設計を依頼されたのです。この大集会の成功によって、彼は建築界のホープとして一躍注目を集めます。のちに出演したラジオで、彼は設計の意図をこう語っています。「開場の一辺の長さは約1,000メートル必要です。総統が演説する中心部は特に工夫を凝らし、遠くから見ている人にも感動的に映るようにしました。」

ヒトラーは斬新な演出に満足し、この若手建築家の名前を記憶にとどめました。しかし、シュペーアに本格的に出番が回ってくるには、あと少しの時間が必要でした。

政権初期のヒトラーには、パウル・ルートヴィヒ・トローストというお気に入りの建築家がいました。この老練な大家(たいか)の前では、さすがのヒトラーもかしこまって聞き入るばかりでした。だがヒトラーは内心、自分が建築家でありたいという欲求を持っていました。

ヒトラーは、挫折こそしたものの、美術を志したことがあります。これらは1920年代に描かれたスケッチです。権力に近づく前から、ヒトラーは自らの帝国の姿を思い浮かべていたのです。権力の頂点に立った今、ヒトラー総統は長く温めてきた夢を空想のまま終わらせるつもりはありません。必要なのは巨匠ではなく、彼のために全力で尽くす、才能ある若手建築家でした。

大抜擢

1934年1月。建築家トローストの死をきっかけに、シュペーアはヒトラー総統から大抜擢されます。弱冠28歳。ベルリンの大集会での実績を除けば、まだ建物らしい建物まで設計したことさえありません。その彼が、総統お抱えの第一の建築家となったのです。常識をはるかに超えた、目も眩むほどの出世でした。

「シュペーアが突然巡ってきたチャンスに舞い上がったとしても、誰も責められません。若くて才能ある建築家なら、誰だって世界を買えるほどの壮大なプロジェクトに携わりたいと思うでしょう。そこへ、とてつもない権力者が現れ、思う存分才能を生かすチャンスを提供したのです。シュペーアがヒトラーに誠心誠意尽くしたのは、おそらく金のためでも名誉のためでもなかったでしょう。総統が寄せる全幅の信頼が、彼を突き動かしたのです。」(当時のヒトラーの副官 Rラインハルト・シュピッツィ)

最初の大仕事は、ニュルンベルク党大会の会場設計でした。大まかなアイデアを出すのは総統であり、シュペーアは、それを実現する立場です。しかしこんなこともありました。ヒトラーがある建物の長さを100メートルにすると言ったとき、彼は最低でも200メートル必要だと反論しました。

シュペーアは、完成した建物への自信のほどを、こう書き記しています。これらの石の建造物は、総統の政治的意思の証として、何千年ものちまで残るだろう。

党大会の数日前、ヒトラーが会場の下見に訪れます。案内を務めたシュペーアは、照明を駆使した独自の演出プランを説明しました。その驚異的な効果は、党大会の夜に明らかになりました。夜の闇とサーチライトの輝き。そしてワーグナーの音楽。それらは誰も見たことのない、光と音の宇宙を創造しました。そしてクライマックスは、光の大聖堂と呼ばれる130代ものサーチライトの柱でした。

ニュルンベルクでは、もう一つ、空前絶後の建築プロジェクトが開始されました。ドイツスタジアム。40万人もの観客を収容する、世界最大の競技場です。建築に取り掛かる際、シュペーアはある特別なプランを提示しました。彼が取り入れたのは、廃墟の原則です。何千年も経って、荒れ果てたの姿をさらしてもなお、人々に感銘を与えうる建造物。たとえば、古代の神殿のようなたたずまいを、彼は頭に描いていたのです。しかし、戦争によってこの試みは中止を余儀なくされました。

ヒトラーのお気に入り~ベルヒテスガーデンの山荘へ

ヒトラーは自分の山荘に、このお気に入りの建築家を呼び寄せます。総統のごく内輪の集まりに、シュペーアと彼の妻は常連として加わりました。シュペーアは、党首脳部でも閣僚でもない、ヒトラーの個人的な側近でした。

「とにかく総統は、シュペーアが大のお気に入りだったのです。シュペーアが訪ねてきた時の総統の機嫌の良さといったらありませんでした。まるで、恋人が訪ねてきたかのように手放しで歓迎し、今まで手にしていた実務的な仕事など、どうでもよくなってしまうのです。やりかけの仕事を2、3日放り出すようなことは何度もありました。シュペーアが滞在している間、総統の時間を支配するのは彼だと言うことを、我々部下は実感したものです。二人はすぐに建築の見取り図を書きはじめ、図面を引いたり模型に見入ったりして何時間も過ごしました。互いに線を書き足したり消したりして夢中なんです。気の合った二人の様子を見るのは、うらやましい限りでした。」(当時のヒトラーの副官 Rラインハルト・シュピッツィ)

シュペーアは、ヒトラーの山荘の近くにアトリエを構えました。そこへ、総統からこのような伝言が届きます。「かつて、どの時代にもなかった最大級の建築を発注する」と。

「ゲルマニア」建設の有能な現場指揮

ゲルマニア。それはベルリンに築かれる、世界の首都の名前でした。シュペーアは、このベルリン改造計画の総指揮を任されたのです。最初の建造物は、新しい首相官邸でした。建設開始は、1938年1月。ヒトラーは、次の新年祝賀会を、ここで盛大に開くと決めています。シュペーアに与えられた期間は、1年足らずしかありません。

「彼は、抜群の指揮能力の持ち主でした。たとえば彼は、いくつかの会社に作業を割り振り、あちこちで同時に作業を進めさせました。全体を指揮する者にとっては、これは複雑な方法です。しかしそうでもしなければ実際、期限を守るのは不可能でした。」(当時シュペーアの部下 建築士 W.シェルケス)

建設の最終段階では、同時に8,000人以上の労働者が分担作業を行っていました。シュペーアは全体の進行状況を細かくチェックしながら、期限通りの建物の竣工を目指していました。期限二日前、ヒトラーが視察に訪れた時、作業はすべて完了していました。総統は自分のお抱え建築家を、天才と称えました。

モザイクの間、長いホール、首相執務室。書き物机は、シュペーア自ら、総統のために設計しました。シュペーアは、図面にこう記録させます。”設計はすべて、総統のプランに基づく。”

ゲルマニアが完成した暁には、ベルリン市街の中心部は、このようになるはずでした。巨大な広場。その中心には15万人を収容する、大ホールがそびえ立ちます。ホールに比べると、旧国会議事堂などはいかにも小さく映ります。国防軍総合指令部。そして、総統の宮殿。新しい首相官邸よりも、さらに堂々たる構えです。ゲルマニアの完成は、1950年を予定していました。

ユダヤ人の犠牲の上の都市計画

<1939年以降、土地収用を進めるため、ユダヤ人の立ち退きが強行された>

都市計画のために、膨大な数の住宅が取り壊されました。そこで犠牲を強いられたのは、ユダヤ人の借家人23,000世帯でした。シュペーアは計画の責任者としてユダヤ人を立ち退かせるための、多くの命令を下しています。ある文書では、彼は1,000戸の住居の明け渡しが捗っているかどうか、部下に報告を求めています。住民調査は、ゲシュタポが一軒一軒確かめて回るほどの念の入れようでした。まず、徹底的にユダヤ人の借家人を洗い出し、名簿を作成。それが済むと、今度は官僚的な几帳面さで明け渡しの事務手続きが行われました。ユダヤ人が立ち退いた後、ドイツ人が直ちに入居することになっていました。多くのユダヤ人にとって、立ち退きの言い渡しは突然の出来事でした。

「夜、来客を送ろうとして、ドアの外に出たその時でした。二人の男がつかつかっとやってきて、名前を訪ね、いきなり立ち退きを命じたのです。あまりにも突然で、しかも一刻の猶予もありませんでした。私たち一家は、必要最小限の衣類をトランクに詰めて、ポーランドへ追放させられたのです。両親や兄とは、生き別れになりました。それっきり、二度と家族には会えませんでした。」(強制退去させられたユダヤ人 W.クリシュ)

ヒトラー総統50歳の誕生日前夜。(当時のテレビ番組の声)「首都改造計画に基づく東西幹線道路が、総統の誕生日前夜に開通しました。戦勝記念塔は装いを新たにしました。」

ここでもまた、シュペーアはきっちりと期限を守りました。さらにこの日、首相官邸には、シュペーアから総統への贈り物が用意されていました。高さ4メートルもある、精密な凱旋門の模型。ヒトラーは感動します。それは、15年前にヒトラーが描いたスケッチをもとにしていました。シュペーアは、この凱旋門をベルリンに建てようとしていたのです。1939年春。戦争の足音が聞こえる頃のエピソードです。

軍需相の後任

だが、建てるよりも奪うほうが先でした。第二次世界大戦に突入するや、ドイツ軍は快進撃を重ね、フランスを打ち破ります。

<1940年6月、パリ征服後ヒトラーはシュペーアを伴って市街を視察した。>

戦争は長引き、前線の数は増えていきます。ヒトラー総統も、もうあまり建築の夢に没頭する時間はありません。当時の軍需相フリッツ・トートは、兵器の生産に追われていました。トートはアウトバーンの建設などで功績を上げた技術者でした。しかし、1942年2月、不幸な事件が起こります。<1942年2月7日 軍需相トートが飛行機の墜落事故により死去>そしてそれは、シュペーアの人生に思いがけない転機をもたらすのです。

亡くなった軍需相の後任として、ヒトラーはシュペーアを指名しました。またも大抜擢でした。シュペーアは驚き、自分は門外漢であると断ります。しかし総統は、彼がこれまでに見せた組織能力を信頼していたのです。36歳のシュペーアは、重い任務に立ち向かう決意をしました。「総統がこの深い悲しみから早く立ち直られるよう、我々はたゆまず働き祖国に奉仕しよう。我々の労働こそがドイツを勝利に導く。私は自らの任務に全力を尽くすことを誓う。」

軍需物資は、どの戦線でも不足気味です。産業界と国防軍首脳に、彼は新たな政策を提示します。それは今後、兵器や資材の調達に、産業界が自ら責任を負うというやり方でした。これまでのように、党や官僚が介入したのでは、能率が上がらないと考えたからです。大臣は、ナチス党員以外の専門家も交えて率直な討議を促します。軍需物資を直ちに増産させること。この明確な目標に向かって、シュペーアは周りを巻き込んでいきます。

就任からわずか半年後、シュペーアはヒトラーの期待に報いる成果を発表しました。

<「軍需経済に対する総統の要求水準は高く、計画目標を達成するのは至難の業に思われました。しかしここ数か月、生産は予想外の伸びを示し始め、すでに当初の設定目標を上回る勢いを示しています。各部門の生産性を示す最新のデータでは、実績が目標を下回ったところは一つもありません。総統が期待された水準の2倍に達した部門もあります。」>

総統が課題を出し、シュペーアが成し遂げる。二人の関係は、建築に関わっていた時と同じです。若く有能な軍需相は、巧みに指揮管理することへの陶酔感を味わっていました。

逼迫する軍需工場~総力戦

<1943年2月、ドイツ第6軍は、スターリングラードで壊滅。>

いかに兵器を増産しようとも、東部戦線でドイツ軍は急速に追い詰められていきました。度重なる大敗によって、軍需物資ばかりでなく膨大な兵力が失われます。

<工場への動員令>

技術者や熟練工は、特別に兵役を免除されてきました。しかし、もはや兵員の拡充が先です。軍需産業の主要部門に、続々と動員令が発せられました。産業面での欠員を埋めたのは女性たちでした。シュペーアが女性を労働力に取り込んだとき、ヒトラーは当初異議を唱えました。すらりとしたドイツ人女性を、丸太のようなロシア人女性同様にこき使うべきではないと。

ヒトラーがおおっぴらに進めたのは、強制収容所の囚人や戦争捕虜を労働力として投入することでした。総統の求めに、シュペーアも応じます。彼の頭の中には、効率的な生産性の追求だけがありました。“強制収容所の設備は必要最低限にとどめるべし。” 当時彼は、親衛隊のヒムラーに、このような手紙を送っています。

戦局が悪化するにつれ、宣伝相ゲッベルスらによって、総力戦という言葉が叫ばれ始めました。軍需相シュペーアに回ってきた役は、経済の総力戦の音頭取りでした。「祖国のために払う犠牲は何より尊い。前線の兵士に武器を提供するために、我々は今まで以上に自らの任務に取り組もう。義務を果たすばかりでなく、常にこれまで以上の成果を達成するのだ。」

<妻 マルグレート エバ・ブラウン>ヒトラーの山荘近くの田園。シュペーアの妻マルグレートは、ヒトラーの伴侶エバ・ブラウンとともにさびしい日々を過ごしています。軍需相は多忙を極めます。総統とともに新兵器の見学へ。シュペーアは、軍備のプランを練る責任者です。しかし彼には戦場経験がなく使用する兵器に関しては弱い発言権しか持ちえませんでした。そのぶん、決定権を握ったのは総統です。

「ことが建築をめぐってであれば、シュペーアはあのヒトラーと対等に渡り合うことができました。同じ興味を持つものとして、二人の間に上下の関係や、序列はなかったからです。しかし、シュペーアが内閣の一員となった以上、ヒトラー総統から一方的に指図される場面も、当然出てきます。意にそわない命令にも、たびたび従わざるを得ませんでした。それで、以前にはなかったことですが、彼はヒトラーに対する不平をこぼすようになってきました。昔とは全く違う扱いを受けている、と言っていました。」(当時シュペーアの部下 建築士 W.シェルケス)

復讐兵器V2

ミサイル開発をめぐる失敗。それは、シュペーアが総統の意見に一方的に従ったことから起こりました。シュペーアはもともと、小型で安価な対空ミサイルを開発研究させていました。そのさなか、総統はある大型兵器に目を奪われます。攻撃ミサイルV2。この堂々たる兵器の開発を優先するよう、ヒトラーはシュペーアに命じます。V2は、軍需相シュペーアが手掛けた最大の失敗作となりました。

ドイツ中部、ドーラ・ミッテルワウ強制収容所。ここに連れられてきた囚人たちは、ミサイルをはじめとする、いわゆる奇跡の兵器の生産に酷使されました。鉱山の採掘後の坑道が、巨大な地下兵器工場に変貌しました。坑道の全長20km。1943年8月以来、この洞窟で6万人の囚人が、奴隷のように働かされたのです。3人に一人は厳しい労働によって命を落としました。連合国軍が進駐した時に、工場の設備はすべて解体されました。

「坑道の中に12時間詰め込まれ、ただただ働かされました。工場は交代制で、24時間稼働していました。ナチスはあのミサイルに力を入れていたのです。囚人たちは、自力で歩ける限り工場に送り込まれました。歩けなくなった者は、射殺か、あるいは別の収容所行きでした。おそらくそこで、殺されたのでしょう。そしてまた別の囚人たちが、連れられてきました。ひどい労働環境でした。あの工場は人間を消耗させ、破壊する場所でした。」(当時ドーラ収容所の囚人 E.ハンシュタイン)

心を乱されたテクノクラート

戦況は厳しさを増すばかり。軍需相シュペーアにとって、ひと時も休まることのない日々が続きます。シュペーアは、戦地から戦地へと飛び回ります。兵士たちからありのままの状況を聞きだし、軍備に反映させるためです。シュペーアの働きぶりについて、敵であるイギリスの新聞はこう評していました。“彼はどんな党派に属しても、栄達を手にすることができる。彼は経営管理に秀でた、生粋のテクノクラート。高級技術行政官である。”

有能なテクノクラート・シュペーアは、もはや資源の備蓄が底をつき始めていることを、誰よりも痛感していました。1944年1月。シュペーアは過労から病に倒れます。ベルリン郊外の病院が、彼のオフィスとなりました。現場を離れたシュペーアは、しだいに周りのうわさに心を乱されます。うわさとは、ヒトラーがシュペーアの実績を不満とし、間もなく彼を解任するというものでした。静養中の彼には、真偽を確かめようもありません。彼はヒトラーに遠ざけられたと思い込み、ついには病院から辞職の申し出を書き送ります。有能な側近の、この意外な気弱さにヒトラーは驚きました。そしてすぐに病院へ使いを派遣します。私は君を決して疎んじてなどいない。総統の励ましによって、彼はようやく闘病生活を切り抜けます。

瀕死の軍需体制

シュペーアが職務に復帰した1944年5月。ドイツの軍需体制はもはや、死に瀕していました。連合国軍の空飛ぶ要塞は、連日ドイツ上空を脅かしていました。ここにきてアメリカ軍は、ドイツの軍需産業の生命線を空から一気に破壊する計画にとりかかります。攻撃目標は、第一にドイツ軍の燃料工場。そして産業の大動脈である輸送機関でした。

<1944年半ば、米軍の爆撃編隊がドイツの燃料工場などを集中攻撃>

ドイツ軍は、燃料施設の90%を破壊されるに至ります。シュペーアは、ヒトラーに緊急の報告書を書き送りました。”このままでは燃料不足が、軍の破局を招きます。”破局と言う言葉が、ついに軍需相の口から洩れました。しかしヒトラーは、部下の悲観的な発言を受け止めようとはしませんでした。シュペーアは再び、軍需相として任務の最善を尽くすことに没頭します。

1944年の半ば、各地の工場が甚大な被害をこうむっているにもかかわらず、ドイツの軍需生産は、過去最高の数字を達成しました。シュペーアの懸命の努力、それはすでに敗北の決まっていたヒトラーの戦いを、さらに数か月長引かせただけでした。

<「我々の軍事力はまさっている。この先幾多の困難に見舞われることがあろうとも、我々は究極の勝利を信じて疑わない。」>

<1944年10月末、アメリカ軍はドイツの西部国境を越えて進撃>

ドイツ西部の一大工業地帯、ルール地方が激しい砲火に飲み込まれます。戦いの趨勢がほぼ決まったこの冬、シュペーアは戦闘の続く地域を視察しました。当時の様子を撮影したこの映像は、今回初めて公開されたものです。軍需相ははっきりと知りました。ドイツは戦争に負けたのだと。残された時間に彼がなすべきことは、敗戦後の祖国再建のために、産業の基盤を可能な限り戦火から守ることでした。

産業施設破壊命令への猛反対

<撤退し始めた前線のドイツ軍に、ヒトラーは産業施設の破壊を命令>

戦争末期、ヒトラーは自暴自棄ともいうべき破壊を開始します。シュペーアはこのとき、総統の命令に激しく抵抗しました。

「シュペーアだからこそ、ヒトラーにあそこまで食い下がることができたのです。彼はあきらめませんでした。だめだと言われても、すぐに形を変えて提案するのです。説得の際、彼はこうも言いました。『我々が敵から奪還した時のために、工場施設は残しておくべきです。』これこそ、ヒトラーが何よりも聞きたい言葉です。彼の熱心さに、ヒトラーもしばらくは破壊を思いとどまりました。」(当時シュペーアの副官 M.V.ポーザー)

だがついに、命令は下ります。敵が利用できる設備、施設はすべて破壊せよ。1945年3月19日。いわゆる焦土作戦です。命令を受けたシュペーアの反応を、副官の一人はじかに目にしました。

「あれほど、怒りをあらわにしたシュペーアを見たことがありませんでした。だが、彼は決して理性を失わず、そしてあきらめませんでした。何とか手段を講じなければと、彼はすぐに行動を起こしました。」(当時シュペーアの副官 M.V.ポーザー)

シュペーアは、直ちにベルリンへ向かいます。鞄には、ヒトラー宛の親書が入っていました。“総統閣下、我々の運命が好転することを、私は3月18日まで疑いませんでした。しかし私はこれ以上、なすべき務めの成果を信じることができません。総統の命令は、国民の生活基盤を失わせるものです。破壊という手段を、総統自らが国民に行使なさいませんよう、心からお願いいたします。神がドイツをお守りくださいますように。”

総統へのあからさまな批判。彼はこのとき、反逆罪をも覚悟していました。しかし総統は、手紙の件は見過ごし、何事もなかったかのように彼を官邸から送り出しました。シュペーアはヒトラーの破局を予感し、別れを告げます。シュペーアはまだこのとき39歳。敗戦後のドイツを、生きて行かねばならないと感じていました。

謎の面会

1945年4月23日。一機の飛行機が、ドイツ北部から敵に包囲されたベルリンを目指しました。シュペーアはある緊急の目的で、突然首相官邸を訪ねているのです。すでにこのころ、彼はヒトラーとは別行動で、敗戦後の任務に備えていたはずでした。緊急の目的とは、果たして何だったのでしょうか。シュペーアに付き従った副官は、当時のことをこのように振り返ります。

「よほど差し迫った理由がない限り、あのような危険な行動は起こさないでしょう。シュペーアは、誰にも理由を明かしませんでした。しかし、当時そばにいた者の一人として、私は次のような可能性を考えています。つまりシュペーアは、ヒトラーの後継者に選ばれることを懸念したのです。あり得ないことではありませんでした。シュペーアは、たとえ敗戦後の祖国の復興に関わるとしても、ヒトラーの後継者にされることだけは、必死で回避しようとしたのです。いずれにせよ、彼がベルリンへ飛んだのは、ヒトラーの後のドイツについて総統自身と話し合うためだったと思います。」(当時シュペーアの副官 M.V.ポーザー)

首相官邸。崩れかけたその建物は、かつてシュペーアが総統に捧げた忠誠の証でした。いま彼は、最後を迎えた総統と地下壕で面会しようとしています。

「覚えています。シュペーアは総統と二人で執務室へ入り、長いこと話し合っていました。そのあとすぐ、シュペーアは出て行きました。何を話したのかはわかりません。ヒトラーはもうシュペーアのことを二度と口にしませんでしたから。」(当時ヒトラーの秘書 T・ユンゲ)

もしシュペーアが、ヒトラーの後継者となることを断ったのだとすれば、ヒトラーは彼の望みを受け入れたことになります。ヒトラーは遺書の中で、後継者の地位を海軍総司令官デーニッツに譲りました。

シュペーアが引き受けた、友ヒトラーの罪

5月初め、ヒトラーの自殺が発表されたのち、シュペーアはハンブルクのラジオ局から国民に向けて演説を行いました。

「この戦争において全てのドイツ国民はすばらしい団結を示した。いつか将来人類がこの戦争を振り返ったとき、我々の力強い態度は驚嘆を呼び起こすだろう。悲しんだり過去を悼んだりすることは、今この場ですべきではない。粘り強い労働によってのみ、我々の未来は切り開かれる。神がドイツを守られんことを。」

半年後の戦争裁判において、アルベルト・シュペーアは、進んで自らの有罪を認めました。側近たちの中で、ヒトラーに従った罪を引き受けようとしたのは彼ただ一人でした。彼はのちに、こう回顧しています。“もしヒトラーに友人というものがあったとするならば、それは私だった。”

シュペーアは、禁固20年の刑に服したのち、1981年に、その生涯を閉じました。

広告

ページ上部へ