ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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アドルフ・ヒトラーの性癖と中毒

イントロダクション

悪の象徴、アドルフ・ヒトラー。彼の人生は多くの謎に包まれています。

ローラ・フロスト「彼の謎を追求し続けるでしょう。」

ヒトラーについての新たな見解を、紹介します。奇怪なサド・マゾヒズムの性的習慣。ドラッグにおぼれた独裁者。ドイツを敗北へと至らしめた不治の病。

アブラハム・リーバーン博士「彼はパーキンソン病でした。」

ヒトラーの謎に迫ります。〔原題:Hitler MEDICAL SECRETS〕

ヒトラー。史上最も冷酷で邪悪な独裁者。虐殺した人の数は、ユダヤ人600万人、旧ソビエトの捕虜、300万人、何十万人ものロマ民族や同性愛者、身体障害者を皆殺しにしました。そしてヒトラーは、世界大戦のときには、ドイツにも大勢の死者を出します。それから60年たった今でも、彼の栄光と破滅に隠された謎の追及は続いています。彼の行動を分析することではなく、彼の肉体や精神に関する謎を解き明かすことが目的です。歴史の流れに影響を与えたのかもしれません。

 

ヒトラーの母との関係

1889年、ヒトラーはオーストリアのブラウナウで生まれました。彼の屈折した考え方は、幼少時代の経験が影響を及ぼしているのでしょうか。ヒトラーは体の弱い赤ん坊でした。父アロイスはとても横暴で、息子に暴力を振るっていたようです。母クララは、気分が沈みがちでした。息子アドルフに慰めを求め、同じベッドで寝ていたほどです。

「ヒトラー一家の主治医は、あんなに親密な関係にある母と息子は、今までに見たことがないと言っていました。」GEORGE VICTOR Author, Hitler:The Pthology of Evil

1907年7月、母クララは乳がんの診断をされ、乳房を切除する手術を受けます。心理歴史学者、ルドルフ・ビニオンは、青年期のヒトラーを研究するうちに、クララを診察したユダヤ人医師の記録を発見します。この記録には、安全性が証明されていない治療にすがる17歳のヒトラーの姿があります。クララにはヨードホルムという、皮膚を焦がし、嘔吐や幻覚を引き起こす消毒剤が大量に投与されたのです。この治療は激しい痛みを伴います。

「ヨードホルムを大量に摂取することにより、母親の全身に毒が蓄積していきました。ヒトラーはその様子を見て、つらい思いをしていたようです。彼女は12月21日に亡くなりました。」(ルドルフ・ビニオン)

ヒトラーは悲しみに沈みます。彼はわが闘争に書いています。『――激しいショックを受けた。父のことは尊敬していたが、母のことは愛していた。』ヒトラーは、母親の苦しみに対して罪の意識を感じていたと、ビニオンは語ります。しかし彼はその怒りを自分にではなく、ユダヤ人の医師にぶつけました。これがヒトラーの反ユダヤ主義につながったと、ミニオンは考えます。

「彼の言葉に根拠はありませんでした。ユダヤ人を毒殺者、不当利益者と言ってののしるようになったのは、母親の死という悲劇を招いたのが、ユダヤ人だったからです。ユダヤ人全体に、恨みをぶつけるようになったのです。」 RUDOLF BINION Author, Hitler Among the Germans

もう一つ奇妙なことがあります。ルドルフ・ビニオンは、母親に対するゆがんだ思いが、ヒトラーの男性としての意識にも影響したのではないかと考えます。フロイトの心理学に基づけば、母親との関係はのちの性生活に大きく影響することになります。

ヒトラーの性生活

「ヒトラーには成人後も、性生活の形跡がありません。母親に性的魅力を感じていた彼は、母親離れが出来ず、男性としての意識が十分に発達しなかったと考えられます。」 RUDOLF BINION Author, Hitler Among the Germans

1908年、母親を失ったすぐあとに、ヒトラーはウィーンに渡りました。彼はそこで画家を目指します。彼の絵には、ウィーンの街の印象が現れています。ウィーンの社会は性に関して寛容です。それでもヒトラーは女性を避けていました。

ウィーンに住んだ5年間で、彼が女性と性的関係を持った形跡は一度もありません。男性と性的関係があったのではないかと考える歴史学者もいます。

「ウィーンで、ヒトラーは男性専用の施設にいたことがあるようです。この施設は売春宿だったという説があります。彼はそこで同性愛に目覚めたと考えられます。」 LAURA FROST Author, Sex Drives:Fantasies of Fascism

 

第一次世界大戦 同性愛のうわさ

1914年、25歳になったヒトラーは、第一次世界大戦に従軍します。彼は戦地でも男性との関係を持ったようです。仲間の兵士と性行為をしているヒトラーを目撃したとの証言もあります。彼が同性愛者だったという確証はありません。しかし彼が、同性愛者を迫害するようになるのは、彼が自分の衝動を抑えていたためだと指摘する心理学者もいます。

1918年、ドイツは第一次世界大戦で屈辱的な敗北を喫します。国内では失業と超インフレの問題が起こりました。このとき、29歳になっていたヒトラーはのちのナチス党に加わります。そしてナショナリズムと反ユダヤ主義をとなえ始めました。彼はこう書いています。『――軍部は一つ過ちを犯した。それは1918年の敗北へ導いた汚らわしいユダヤ人を全員処刑しなかったことだ。だから今、ユダヤ人をドイツ人の手によって抹殺しよう。』ヒトラーはナチス党で演説を重ねるごとに、有名になっていきます。この時も彼は依然として独身のままでした。

姪との関係

しかし1927年、37歳のヒトラーはある女性と、人生で最も奇妙な関係を築きます。彼女はヒトラーの姪でした。名前はゲリ・ラウバル。18歳という若さです。しかしヒトラーは、ほかの誰よりも彼女といる時が一番安らいだと言われています。

「ヒトラーは彼女と地方をドライブして楽しんでいました。彼女が恋人だったのか、単なる姪だったのか、これもヒトラーに関する謎のひとつです。」 RON ROSENBAUM Author, Explaining Hitler

ヒトラーの性癖 サド・マゾヒズム

ゲリはすぐにヒトラーと同居を始めます。彼らの性生活についてはうかがい知れません。同居した5年間、ずっと寝室は別でした。しかし、アメリカのある情報機関によると、ヒトラーがゲリにサド・マゾヒズムの行為を強いていたという話もあるようです。

「ヒトラーには変わった性癖があり、そのことで、ゲリは悩んでいたという作家もいます。その性癖はマゾ的で、ヒトラーは尿や便をかけられることでしか、性的興奮を感じることができませんでした。」 GEORGE VICTOR Author, Hitler: The Pathology of Evil

1931年、9月18日、ゲリは胸に銃弾を受けて、血まみれで寝室の床に倒れているところを発見されます。銃はヒトラーのリボルバー。ゲリは23歳でこの世を去ります。

「問題は自殺かどうかです。彼女はヒトラーの性的な要求に応じるのが嫌になって自殺をしたという説が有力です。彼女は自殺に追い込まれたのです。」 LAURA FROST Author, Sex Drives:Fantasies of Fascism

 

真相は謎のままです。しかし真剣に付き合ったこの女性との関係は、悲劇に終わりました。ヒトラーは悲しみに暮れます。そしてゲリの死を境に、ヒトラーは女性と個人的な付き合いをしようとは思わなくなったようです。

「ゲリとの関係は、ヒトラーにとって重要でした。ゲリはとても自由奔放な女性のようでした。彼女との付き合いが続いていれば、彼は正常なままでいられたでしょう。しかし、ゲリの死を境に、彼は非道な道を進みます。」 LAURA FROST Author, Sex Drives:Fantasies of Fascism

演説中のオルガスムス

ゲリの死後、ヒトラーは政治活動に全精力を注ぎ、世界を舞台に自分のサド・マゾヒズムを実践するようになります。ヒトラーは女性だけでなく、男性ともうまくいかず、最終的に彼は、政治力を持つことに異常なまでに執着するようになります。その熱意は演説から見てとれます。ヒトラーにとって、政治は性行為と同じものだという証拠も見つかっています。彼は自分の声に性的興奮を覚えたのです。

「自分の演説中にオルガスムスを迎えると、ヒトラーは二人の医師に語っています。彼はそのことで困り、演説をしているときに性的興奮を覚えないよう、医師たちに治療してほしいと頼みました。医師たちからのアドバイスは、自然に任せること。性的興奮がなくなると、演説の説得力を失うことになるからです。」 GEORGE VICTOR Author, Hitler: The Pathology of Evil

「演説が性行為なのです。彼はすべてのエネルギーをドイツ国民に向け、自分の激しい口調に酔いしれました。」 RUDOLF BINION Author, Hitler Among the Germans

演説は、ドイツ国民をひきつけます。何百万人もが、彼の言葉に圧倒されました。

「ニュース映画を見ても、ヒトラーという人物が及ぼした影響を正確に伝えているものは、どこにも見当たりません。人々は彼の言葉に気を失い、性的に興奮するかのごとく彼のことを話しました。女性だけではありません。」 RON ROSENBAUM Author, Explaining Hitler

 

謎の注射の開始

ヒトラーは女性に興味がないことを自分で認めます。そして宣言します。自分の花嫁はドイツだ。こうして、反社会的な人格が確立されたのです。

彼のサド的な傾向や、反ユダヤ主義の考え、全てが政治と権力に注がれるようになります。第二次世界大戦や、大量虐殺を引き起こす人格の誕生です。彼はヨーロッパに破壊をもたらします。その原動力となったのは一人の医師、そして、謎の注射でした。

1935年、ヒトラーはドイツ最大の権力者となりました。ニュルンベルク法を制定し、ユダヤ人に、ドイツ人との婚姻を禁じ、彼らの政治的権利をはく奪しました。そしてヒトラーはすぐに軍備を整え、ラインラント地方に進駐します。これはベルサイユ条約違反でした。

このころから、ヒトラーはモレルという奇妙な医師の治療を受けるようになります。モレルはヒトラーに自分で調合した秘密の薬を注射していました。それから数年かけて、ヒトラーは史上最大の軍指導者となっていきます。注射のおかげでしょうか。彼の注射には、何が調合されていたのでしょう。

精神科医のレナード・ヘストンは、ヒトラーの健康状態に注目します。

「病名は特定できませんが、彼は明らかに病気でした。症状がとても不可解なので、診断を下せません。」 LEONARD HESTON Author, Hitler: A Medical Descent

最大の疑問は、彼の急激な態度の変化でした。ヒトラーは当初、周到に計画を立てる戦略家でした。しかし次第に衝動的になり、怒りをコントロールできなくなります。そして奇妙なことに、彼は苦境に立たされているときでさえ、上機嫌でした。ヘストンは、ヒトラーの気分が変わりやすくなった原因を調査しています。ヒトラーは病気を恐れていたのです。母の死からか、彼はがん恐怖症でした。彼は自然の成分を使った、今までにない薬を好みました。

「ヒトラーは、自分の健康のことをとても気にかけていました。徹底的にけがれのない肉体を求めました。国家も同じことです。理想的な国家にふさわしくないと判断した要素はすべて排除するというのが、彼の考え方でした。」 LAURA FROST Author, Sex Drives:Fantasies of Fascism

ヒトラーはこう書いています。『――自分の健康を維持するパワーがない者には、この苦悩の世界で生きる資格はない。』

ヘストンは、モレル医師についても調べました。彼は主に、著名人の治療を行っていました。そして1936年、ヒトラーの治療を始めます。ヒトラーは消化器系の病気に苦しんでいました。腹部の腫れや痛みは、胆石から来ているものだとヘストンは考えます。

モレルは奇妙な薬を処方しました。ブルガリアの農民の排泄物から培養した、生きたバクテリア入りのカプセルです。科学的根拠のない薬の効果に、ヒトラーは満足しました。数年間、モレルは次々と薬を処方します。消化器系の病気、鈍痛、不眠症などを改善する薬。モレルは血を抜くためにヒルを使いました。

1941年ごろから、モレルは不思議な調合薬を注射し始めます。彼はビタミン剤だと言いました。ヘストンは、この注射を目撃したある人物を訪ねました。側近のハインツ・リンゲです。

「リンゲの話では、ヒトラーは注射を受けると、すぐに元気になり、戦闘の指揮をとっていたそうです。針を刺したまさにその瞬間から、効果が現れたということです。しかしビタミン注射では、医学的説明がつきません。全く理にかなっていません。」 LEONARD HESTON Author, Hitler: A Medical Descent

覚せい剤中毒

ヘストンはこの謎の注射の中身を調べることにしました。国立公文書記録管理庁に、マイクロフィルムがありました。モレル医師の書いた医療記録です。彼は熟読しました。しかし真相はわかりませんでした。そのうちに、戦争中にモレルの調合薬を密かに分析していた医師がいることがわかりました。しかしその報告書は、不利な内容だったことから、ヒトラーの腹心、ハインリヒ・ヒムラーによって破棄されていました。注射の中身は、メタンフェタミンだったのです。ヒトラーは覚せい剤中毒でした。

第二次世界大戦中、ドイツ軍はアンフェタミンを使用していました。アンフェタミンとは、ナチスの薬とも呼ばれた覚せい剤です。これは脳内のドーパミンと、ノルエピネフリンを増やす薬です。意識は覚醒しますが、同時に攻撃性が高まります。精神障害を引き起こす恐れもあります。ナチス突撃隊員は先へ進むため、空軍パイロットは眠気を覚ますため、そしてヒトラーは支配力のために、覚せい剤を用いました。

医療記録から、1930年代末に、ヒトラーが錠剤で覚せい剤を摂取し始めたことがわかりました。このころ、ヒトラーは大胆で威圧的な外交戦術を遂行していました。まずはオーストリアを併合。それから旧チェコスロバキアの一部を併合します。武力行使はありませんでした。

「ヒトラーは侵略的な外交手腕を発揮し、ヨーロッパ各国の政治家を圧倒していました。会議の準備をするときには、錠剤のアンフェタミンを摂取していたと思われます。」 LEONARD HESTON Author, Hitler: A Medical Descent

ポーランド侵攻と爪を噛むしぐさ

ヒトラーは常に大胆でした。軍事行動でも同じです。1939年9月、ポーランドに侵攻します。ヒトラーのとった作戦は、電撃戦でした。照準をしっかり定め、奇襲をかけました。数か月のうちに、ナチス軍は西ヨーロッパ諸国を次々と征服していきます。

1941年6月、ヒトラーは過ちを犯します。ソ連に侵攻したことにより戦争が勃発したのです。これは軽率な判断でした。ヘストンは、この無謀な判断が、アンフェタミンの影響によるものだと推測します。

当初はドイツ軍が優勢でした。しかしソ連軍が巻き返しに成功します。ソ連軍は厳しい冬の到来を待ったのです。気温は摂氏マイナス40度まで下がります。ヒトラーは初めて、戦争のストレスを感じるようになりました。モレル医師が覚せい剤の投与を、錠剤から注射に変えたのはこのころだと、ヘストンは考えます。

「モスクワ侵攻前のヒトラーのように、興奮状態を維持したい場合は、覚せい剤を頻繁に摂取しなければなりません。ヒトラーは悪い知らせのたびに、注射を打ちました。」 LEONARD HESTON Author, Hitler: A Medical Descent

しかし、体はすぐに薬に慣れてしまいます。同じ効果を得るには、注射の回数を増やさなければなりません。実際ヒトラーは、中毒になるほどの量を摂取していました。

「スターリングラード到着以降、ヒトラーは爪のまわりを噛むようになります。これは彼の癖だったようです。しかしこの行動は、アンフェタミンを摂取する人に特有の行動であり、注目に値します。」 LEONARD HESTON Author, Hitler: A Medical Descent

発作的な怒り

発作的に怒るというのは、アンフェタミンの副作用です。ヒトラーは怒りを抑えられなくなりました。ゲシュタポ長官のヒムラーも、彼の行動は奇妙だと言い始めます。アンフェタミンは、ヒトラーの思考回路にも影響したようです。

「中毒になると、考え方が不自然になり、本来の思考が出来なくなります。別の選択肢を思いつく柔軟性も失われます。ヒトラーにはすべての症状が現れていました。これは大変な問題でした。」 LEONARD HESTON Author, Hitler: A Medical Descent

1943年、ドイツ軍はソ連で苦境に立たされます。厳しい冬の寒さの中、ドイツ軍の二つの部隊が、ソ連軍に包囲されました。司令官たちは降伏を主張します。しかし、アンフェタミンの乱用のせいか、ヒトラーは作戦を変えませんでした。彼は軍の退却を認めず、強硬に戦わせました。その結果、ドイツ軍は何万人もの兵士を失います。

結局、彼らはスターリングラードで降伏します。ヒトラーは大きな敗北を喫しました。それまで無敵と言われてきたドイツ軍に、亀裂が生じます。

ヘストンは、一人の医師と覚せい剤が、歴史を変えたのだと指摘します。ヘストンの発見は、ヒトラーの行動の一部を解明しました。薬がヒトラーを攻撃的にし、のちに、無謀にしたのです。覚せい剤の影響です。しかし、ヒトラーを永遠の破滅へと追い込んだのは、覚せい剤ではなく病気でした。

1940年、ヒトラーは最強の軍隊を持ち、アンフェタミンから活力を得ていました。彼は次々と、西ヨーロッパ諸国に侵攻します。ナチス軍は、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーに侵攻しました。そしてついに、最大の目的地を攻め落とします。フランスです。しかしヒトラーの勢いは続きませんでした。

エイブラハム・リーバーン博士のパーキンソン病説

一人の研究者が、新たな説を提示しました。ヒトラーを破滅させたのは、不治の病だという説です。ヒトラーが敗北したのは、ある病気に侵されていたためだったのです。

舞台はブルックリン。あるアメリカの少年が、凶悪なナチスに強い興味を持ちました。

「私の少年時代、ブルックリンでは、ヒトラーは悪魔でした。なぜヒトラーは、僕を殺したいのか。なぜユダヤ人を殺したいのか。ドイツとヒトラーのことが、つねに頭から離れなくなりました。」 ABRAHAM LIEBERMAN,M.D. National Parkinson Foundation

彼は医学部に入っても、このことを考え続けました。パーキンソン病の専門家になっても、この興味は失われません。1992年、博士はヒトラーに関するニュース映画があると知ります。

ヒトラーは自分のイメージに気を使っていました。弱さを示す要素は隠したのです。しかし隠されず、そのまま残ったテープがありました。そのテープをリーバーマン博士が見ます。1945年、スウェーデンの映像です。側近以外には見せたことのないヒトラーの姿が、浮き彫りになっています。

「ヒトラーが歩いています。彼の左手を見てください。力が入っていない様子ですが、手が震えているのがわかります。彼はまるで、手を小さく回しているようです。これは明らかに、パーキンソン病の症状だと言えます。

神経科医が見れば、彼がパーキンソン病にかかっていると一目瞭然でわかります。」 ABRAHAM LIEBERMAN,M.D. National Parkinson Foundation

衝撃的な説です。強くて健康なアーリア人の姿を示してきたヒトラーが、進行性の神経疾患にかかっていたかもしれないのです。パーキンソン病は、中脳にある黒質の障害によっておこります。黒質では、体の動きを助ける神経伝達物質、ドーパミンが作られています。パーキンソン病は、このドーパミンが減少して起こる病気です。ドーパミンが不足すると、まず震えが生じます。そして思考力が低下、最後は完全に筋肉が硬直し、死に至ります。当時は治療方法がなかったので、ヒトラーの脳と体の働きは、確実に低下していきました。

博士はヒトラーがこの病気にかかっていた証拠を探します。まずはパーキンソン病の初期の症状を探し出します。そこから進行をたどっていきます。彼はヒトラーの映像を300時間分集めました。そして検査官のような視点で、それらの映像を時代順に調べました。

「1920年代、30年代の、膨大な量の映像から見始めました。そして、1932年までは、演説の際、ヒトラーが両手を使って身振りしていたことがわかりました。」 ABRAHAM LIEBERMAN,M.D. National Parkinson Foundation

しかしそれ以降、左手を使わなくなりました。たいていは右手で押さえています。リーバーマン博士は、これがパーキンソン病の初期症状だと語ります。つまりヒトラーには、43歳ですでにパーキンソン病の兆候が現れていたのです。パーキンソン病は年配の人に多い病気です。ヒトラーのように50歳以下で発病する人もいますが、このような例はおよそ10%ほどです。ここで一つの疑問がわいてきます。なぜ周りは、彼の病気に気付かなかったのでしょう。

「みんな気づいたはずです。しかしヒトラーを近くで見ていた人の本に、パーキンソン病のことは触れられていません。なぜなのか、そこが疑問です。」 ABRAHAM LIEBERMAN,M.D. National Parkinson Foundation

ヒトラーは国民に病気だと知られないよう、症状を隠したと博士は考えます。ヒトラーは立派に見える写真だけを公開したのです。

演説で偉大な力を得たヒトラーは、純潔のアーリア人というイメージを守るため、徐々に公の場には登場しなくなります。ヒトラーの主治医(モレル、写真左)がパーキンソン病の診断を下したのは、1940年ごろです。当時の人にとってパーキンソン病は死を意味しました。病気の進行を抑える、L-dopaのような薬もありません。

「パーキンソン病を患っているため、あと3~4年の命だと知ったヒトラーは、焦りました。時間が足りないからです。ソ連を含むヨーロッパ全土を征服するためには、すぐに行動を開始しなければなりませんでした。」 JOHN LATTIMER, M.D. Author, Hitler's Fatal Sickness

ヒトラーは当初の予定を繰り上げました。彼はソ連に侵攻しました。そこで無謀にも戦争を始めます。その結果、ヒトラーは初めての大敗を喫し、そこから戦況が変わりました。なぜヒトラーは、あのような彼らしくない行動に出たのでしょうか。アンフェタミンのせいかもしれません。しかし重い病気にかかったヒトラーが、自分の死に打ち勝とうとした結果と見るのが妥当でしょう。このころ、ヒトラーによる迫害も、かなり本格化していました。ユダヤ人、同性愛者、ロマ民族は強制収容所に送られたのです。病人や障害者は安楽死させました。ヒトラーの自分の病気に対する恨みから出た行動かもしれません。

1944年、ついにヒトラーは、パーキンソン病に抵抗しきれなくなります。55歳の彼は、70歳に見えました。震え、よろめき、足を引きずるヒトラー。それでも彼の忠実な側近たちは、秘密を守り通しました。

「側近、使用人、秘書、エバ・ブラウン、ゲッベルス。みな沈黙を守りました。ヒトラーと親しい人たちは、誰もパーキンソン病について口にしませんでした。」 ABRAHAM LIEBERMAN,M.D. National Parkinson Foundation

病状の進行と不合理な判断

病気の影響で、ヒトラーは適切な判断を下せなくなっていました。優柔不断になり、言動にも異常が現れました。そして彼は敗戦につながる決定的な過ちを犯してしまいます。1944年6月6日。連合軍は、フランス、ノルマンディーに上陸します。ヒトラーは、奇襲そのものは予測していました。しかし、場所が違っていました。彼はノルマンディーから240kmほど離れた、カレーだと主張していたのです。ヒトラーは対応が遅れがちになっていました。おそらく、パーキンソン病のせいでしょう。軍司令官たちは、機甲部隊を送り込むよう要請します。ところがヒトラーは拒否。しばらくして彼は要請を認めます。しかし、手遅れでした。連合軍は優勢に立ちました。そしてヨーロッパ解放に向けて突き進みます。

ヒトラーは優れた戦略家だったのかもしれません。しかしパーキンソン病の脅威には勝てませんでした。アドルフ・ヒトラーを敗北へと追い込んだのは、連合軍と病気だったと言えるでしょう。しかし、彼の死因は病気ではありませんでした。ついに、ヒトラーの死の謎が明かされます。

1945年1月、ヒトラーは追い込まれます。ソ連軍はベルリンから60kmあまりのところまで来ていました。イギリス軍がベルリンを爆撃しました。アメリカ軍も容赦ありません。活気あふれる大都会のほとんどが、廃墟と化しました。

ヒトラーと側近たちは、ベルリンの地下壕に隠れることになります。総統官邸の地下深くに作られたその地下壕は、彼らを爆撃の被害から守ってくれました。

ヒトラーの症状は深刻でした。パーキンソン病に加え、脳卒中の発作も起きました。脳と全身の血管にもダメージを受けていたのです。

「死が近づいていました。体調もひどい状態でした。最後はヒトラーが移動できるよう、数メートルおきにベンチが置かれました。」 JOHN LATTIMER, M.D. Author, Hitler's Fatal Sickness

「彼はよだれを垂らしていました。体を丸めていて、手の震えも止まりません。以前のように動き回ることも、人に向かって怒鳴ることも、できなくなりました。とても、哀れな姿です。」 ABRAHAM LIEBERMAN,M.D. National Parkinson Foundation

自殺の決意 性的不能者の可能性

次第に理性を失い、ヒトラーはもう望みがないと悟りました。そして自殺を決意します。ヒトラーは自分の死と直面した時、15年連れ添ってきた女性、エバ・ブラウンとようやく結婚することにしました。この女性とも性的関係があったかどうか、定かではありません。結婚したその晩さえも、二人は関係を持っていないかもしれません。ヒトラーはパーキンソン病のせいで、不能だった可能性もあります。

結婚した日の翌日、午後3時半。ヒトラーは最後の行動に出ます。

「ヒトラーとエバ・ブラウンは二人で書斎に入り、ドアを閉じて姿を消します。自殺した、…というのです。真相は何年も謎のままでした。」 DONALD McKALE Author, Hitler: The Survival Myth

ソ連軍は地下壕で、ヒトラーの遺体を発見したと発表します。しかし実際は見ていません。スターリンは言いました。ヒトラーは多くの謎を残して逃亡したのだろう。

「Soviet Investigators Find No Hitler Clew in Berlin Search」
(ソビエトの調査官、ベルリン捜索もヒトラーの手掛かりなし)
「Russians Believe Hitler Fled Berlin; Body Not Yet Found」
(ロシア人はヒトラーがベルリンを脱出したと考えている;遺体未発見)
「Hitler Shot by General, Swiss Are Told」
(ヒトラーは総司令官によって撃たれた;スイス人筋)
「HITLER IS ALIVE」
(ヒトラーは生きている)

ヒトラーが死亡して60年たった今、ヒトラーの遺体がどうなったのかが、ついに明かされます。ヒトラーが銃で自殺したあと、彼の遺体にガソリンをかけて2時間半焼いていたという目撃証言が出てきたのです。

「人の体が燃えると、熱で皮膚が溶けます。頭蓋骨は爆発することもあります。脂肪分と水分もなくなり、体が縮み始めます。そのあと1時間燃え続けると、どうなるでしょうか。全身が黒焦げになり、そして2時間後には、灰と化します。」 DONALD McKALE Author, Hitler: The Survival Myth

遺体は発見されませんでした。それは彼が逃げたからではありません。全てが灰となったからです。ヒトラーに関する新たな見解が示されても、彼の悪行を合理的に説明することはできません。しかしヒトラーの健康状態について、新たな真実が発見され、それによって、彼の下した判断を別の角度から見直すことが出来るかもしれません。ヒトラーの人生には、謎が多いので神話的にとり扱う人もいます。しかし、医療記録はしっかりと語っています。

悪の象徴と言われた独裁者、ヒトラー。彼は覚せい剤中毒となり、病気に苦しみ、そして最後は自殺したのです。

<終>

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