ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

マンシュタイン ヒトラーの最も有能な将軍 電撃戦の立役者

当時は「兵法」と呼ばれました。戦略ゲームとしての戦争。彼の戦争は天才的でした。フランス侵攻は、ヒトラー最大の勝利です。多くが力ずくでした。例えばクリミアや、セヴァストーポリ征服。

ヒトラーの「最も有能な将軍」。連合国の「最も危険な敵」。プロイセンの元帥。職務に忠実、批判的、従順。なぜこの戦争に関わり、最後まで忠実だったのか。

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「軍の中枢にいる人物で、ヒトラーとこれほど意見を戦わせた人物はいない。前線で必要とされる対策などについて。」

作戦卓で、不釣り合いな二人が激しく意見を戦わせます。権力の座にある総司令官と、有能な戦略家。

マンシュタイン司令部将校 H・G・クレーブス「ヒトラーは彼にとって、無知な第一次世界大戦の上等兵。知識と能力があるとうぬぼれる男だ。彼はこれを運命だと思っていた。ドイツの軍事的運命が彼にかかることを。」

彼はドイツのために戦争を率い、長引かせました。犯罪は無視しました。

軍部の抵抗運動参加者 ゲオルク・リンデマン「私は、彼の立場ならわかっていたと思う。戦争に負けることや、戦地や祖国での犯罪的な行為。事態打開の方策を打たねばならないこと。必要ならば、首をかけねばならないこと。」

彼は何もしませんでした。謀反人の希望の星は、服従するだけでした。

参謀本部将校 U・デ・メジエール「マンシュタインはナチ党員ではなかった。彼とヒトラーとの間には埋めようのない溝があった。だが伝統的な教育を受けた彼は、義務を果たそうと考えた。彼の失敗や欠点だと断言する人もいる。理解を示す人もいる。なぜならば伝統や歴史、教育が、彼らの世代の基礎となっているからだ。1000年の歴史がある王権的な教育を受けてきた。」

生い立ち

彼は幼いときから、軍人になることを夢見ました。宿命のようなものです。伝統的なプロイセン軍人の教育を受けます。先祖と同様、皇帝と祖国に仕えたい。それが始まりです。ベルリンの幼年学校での訓練。規律と服従。仲間意識。義務の遂行。

皇太子の婚礼では、幼年兵として参加しました。のちに敵となる、あるロシア大公の近習役きんじゅやくです。

第一次世界大戦が始まり、教育は繰り上げて終了。嬉々として前線に向かいました。有能な下士官(註:マンシュタイン自身のこと)は接近戦で負傷し、敗戦に驚きました。彼は立ち直りました。

共和国は混沌に等しい状態です。総勢10万人の国防軍に在籍、彼らは軍備拡張を願いました。民主主義を軽蔑しつつ、政治に関わろうとしません。

マンシュタイン連隊将校 R・V・カンシュタイン「共和国の国防軍に我々が入隊した当時――当時の国防軍に、私は1926年に入隊した。非政治的であることが、我々の義務だった。我々は選挙にも行かなかった。そのような極端な教育を受けていた。これは間違いだった。」

政治的な思想をも、彼らは拒否しました。議会での政党の論争をマンシュタインは嫌います。

マンシュタインの息子 リューディガー・V・M「父は確固たる民主主義者ではない。しかし父は、政権が合法である限り、忠誠を誓っていた。」

新政権は形式上は合法でした。民主主義に反対する政権。

ユダヤ排除への反対

<1933年2月10日 ヒトラーの演説>「彼らは破壊しつくした。14年にわたる作業は、誰からも妨げられなかった。」

この政権は悲劇ではありません。(註:マンシュタインは)暴徒を嫌いましたが、強い軍隊を望みました。軍のユダヤ人排除にのみ、反対しました。

マンシュタイン連隊将校 R・V・カンシュタイン「彼が反対したのは、ある若い士官のためだ。私が面倒を見ていた相手で、私は親しくし、評価していた。アーリア人条項をめぐり、(註:マンシュタインは、周囲と)激しく意見が対立した。ベックが仲裁に入るほどだった。」

上層部との最初の衝突。上官にこう告げました。“国家社会主義と人種思想の完全な肯定は、当然である。しかし、軍人の名誉を忘れてはならない。” 最初の対立と呼べる抵抗は、失敗します。

大統領は、姻戚関係にある伯父でした。ヒンデンブルク大統領の死去で、ヒトラーが権力を独占。突撃隊は無力化し、軍隊は彼個人に忠誠を誓います。マンシュタインは、総統に忠実に仕えました。昇進のため。マンシュタインのような人物が、戦争には必要でした。彼は天才的戦略家として、軍拡に伴い、昇進します。ほかの将校から好かれませんでした。知識があり、発言はほとんどが正当でした。将来有望な人物、新たなモルトケでしょうか?

左遷

参謀本部長の地位は目前です。自宅を購入し、公用車もある、明るい未来です。(註:ところが)ある陰謀に阻まれました。同性愛者という不当な評価で陸軍司令官フリッチュは解任。彼に近かったマンシュタインもです。落ちた偶像は、衝撃でした。

マンシュタインの娘 ギゼラ・リンゲンタール「父はフリッチュを非常に尊敬し、彼とベックの写真を常に机に置いていました。父が疲れ切っていたのがわかりました。何も言いませんでしたが、直後に父はベルリンの家を売却しました。戻るつもりがなかったからです。」

昇進が止まります。ベルリンの参謀本部長ではなくリーグニッツの師団長。表向きは昇進でも、現実は左遷です。しかし、必要な人材でした。

電撃戦

1938年3月、ドイツ軍のオーストリア入城。マンシュタインの作成案です。ズデーデン地方への入場。彼はヒトラーの勝利に貢献しました。ポーランド侵攻が昇進をもたらします。軍集団の参謀長。「電撃戦」は彼の発案です。

ワルシャワの先勝パレードで、彼は最前列にいます。次の目標はフランス。ヒトラーは早期の攻撃を要求。草案は、過去に失敗した計画と似ていました。

V・ローリングホーフェン大尉「もともとの行軍計画の想定は――強力で適正な規模の側面部隊を使う。1914年に行ったように。だが第一次世界大戦とは違い、オランダとベルギーから、パリの方角に向けて北フランスを通って進軍する。」

ヒトラーには不満でした。奇襲の効果は?マンシュタインも考えました。彼はコブレンツで有名な対案を作り上げました。7通の意見書の一番上に長所を記し、説得を試みます。最高司令部はこの計画を危険と判断。マンシュタインは左遷され、ポーランドに向かいます。

彼の計画は日の目を見ます。ヒトラーの主席副官が注目し、官邸へ呼ばれました。1940年2月17日です。彼はフランスの裏をかく侵攻計画を説明します。A軍集団の機甲部隊が敵の最も予想しない場所へ。素早くアルデンヌを抜けます。戦車は通らないと考えられた場所。同時にB軍集団がオランダとベルギーを攻撃。連合軍の反撃を引き受けます。作戦が成功したら、敵軍の退路を遮断します。ドーバー海峡への進軍です。フランスの大鎌刈り、「電撃戦」計画です。

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「極めて大胆で、比較的危険の大きい計画だった。いっぽうで決定的な長所があった。戦争で決定的なのは意表を突くことだ。」

ヒトラーはこの計画を直ちに受け入れました。マンシュタインの日記です。

“この天才に足りないのは作戦を理解し、同じ勝利への意思を持つ将軍の補佐だ。”

そしてヒトラーのマンシュタイン評。

“確かに優秀だが、私は信用できない。”

1940年5月10日、彼は日記にこう書きました。

“西部戦線の開始。だが私は家にいる。”

数日で作戦の成功が見え、発案者は有名になりました。

V・ローリングホーフェン大尉「噂は徐々に広まった。この改編と戦略的な計画は、1人の人物に起因するものだと。当時、軍集団の参謀長だったマンシュタイン将軍だ。」

ドイツ軍はドーバー海峡を目指します。マンシュタインは兵団を指揮。ヒトラーの進軍停止の指示に驚きました。イギリス軍はダンケルクから脱出に成功。決着をつけたい彼にとって、これは「失われた勝利」でした。ドイツのパリ征服は、マンシュタインの功績です。

<1940年6月 当時のラジオ音声>「国防軍最高司令部の発表。フランス戦線全体が完全に壊滅しました。」

ヒトラーにとって、人生最高の瞬間。ヒトラーはこう言いました。

“新たな攻撃計画を理解したのは、マンシュタインだけだった。”

マンシュタインの息子 リューディガー・V・M「もちろん、当時の父の最高の功績だった。家族は、父の発案と知っていた。父はあまり喜んでいなかった。ヒトラー以外から計画に異議が唱えられていたからだ。そしてヒトラーに、自分の天才的なアイデアとその実行を売ったからだ。」

バルバロッサ作戦

フランスからロシアへ。「バルバロッサ作戦」です。戦争の新たな次元、目的は「絶滅」です。マンシュタインは機甲兵団を指揮。コミサール令は伝えませんでした。彼には、捕虜の射殺は「非軍人的」でした。戦争の犯罪性を、彼は黙殺しました。迅速な進軍。彼は、コミサール令を忘れ、自分が指揮する軍と新たな任務を得ます。

歩兵 G・ゲッツェナウアー「つまりクリスマスまでにセヴァストーポリを制圧する。我々の師団は、進軍を続けていた。総統のクリスマスプレゼントと考えていた。」

ばかげた戦争です。クリミアは、南チロルの人々の入植予定地でした。ドイツ風の名前も決まっていました。「物資戦」です。

ヘルムート・ハンペ大尉「彼は戦略家だった。兵士はチェスの駒として動かしていた。彼がその点で優秀だったことは認める。だが人間的な面では、私を動かさなかった。」

ソ連軍とパルチザンが相手の激しい戦闘。「絶滅戦争」。彼(註:マンシュタイン)も巻き込まれます。兵士に命じます。「ユダヤ-ボリシェヴィキ体制」を「排除」すべき。「ユダヤ人の贖罪」が必要である。(註:彼は本当に)実行したでしょうか。

V・ローリングホーフェン大尉「全く考えられない。マンシュタインらしくない。」

彼らしさとは?反ユダヤ的?楽観主義的?それとも野心的?同時に彼は、略奪や私利追求、暴力行為を禁じました。「公正な」戦争という東部戦線での幻想。

1941年12月、セヴァストーポリへの攻撃。要塞攻略に11日間を想定しました。最初の攻撃は失敗でした。

歩兵 G・ゲッツェナウアー「我々の大隊は24人にまで減った。士官も下士官も、軍曹もいなかった。上等兵が率い、常に戦闘続行が命じられた。死体の山を見て、私は考えた。あれは犯罪的だったとしか言えない。」

戦争犯罪の看過

あらゆる種類の戦闘と殺りく。国防軍の後方では、親衛隊が9万人以上を殺害。ユダヤ人や共産党員、移動型民族ロマ。彼は知ろうとしませんでした。

<ニュルンベルク裁判でのマンシュタインの証言「特別部隊の任務に関して、私が知っていたのはただ、政治的な管理の準備が目的、つまり政治的な検査――東部占領地域の住民の検査を目的としていた、ヒムラーの指示と責任で行われたということだけだ。」>

それ以上は知らない?ある大尉は特別部隊の行為を目撃しました。場所はタタールの溝です。

ウルリヒ・グンヅェルト大尉「死体が積み重なっていた。何度も一斉射撃が行われ、生き残った者は、頭を短銃で撃たれたりして殺された。根本的に大量殺戮だった。」

ニュルンベルク裁判での弁護人尋問です。

<「ユダヤ人射殺の情報を知らされなかったか?」>

<ニュルンベルク裁判でのマンシュタインの証言「私は何も知らされなかった。」>

ウルリヒ・グンヅェルト大尉「私は彼に、このことを報告する機会があった。このような経過になった。私が報告し、何らかの対策を彼に依頼したとき、彼はそれを拒否した。そして、純粋に軍事的な分野に没頭していた。そのときに限らず彼は常に言っていた。自分の指揮しない後方への影響力はないと。それに、別の問題を彼は抱えていた。」

マンシュタインは、前線にしか関心がありません。

ウルリヒ・グンヅェルト大尉「これ以上言及しないよう命令する。それに加えて、私は総司令官への服従を宣誓した、と言っていた。これは責任から逃げたとしか言いようがない。」

セヴァストーポリ要塞

2度目のセヴァストーポリ攻撃。巨大な列車砲で要塞は激しい攻撃を受けました。32日の激戦の後、都市は陥落しました。ヒトラーへのクリスマスプレゼント。何万もの兵士を犠牲にして。戦場で勝利を味わうのは、比類ない経験でした。1942年7月1日の日記。“神と勝利のために血を流した者すべてに感謝。” ヒトラーは、勝利を称えるクリミア徽章を創設。彼に元帥杖を授与。マンシュタインには当然でした。元帥杖は今も、厳重に保管されています。妻への手紙では、ヒトラーの野心がおさまったか分からない、と。

総統官邸での祝辞です。(註:左の写真。セリフなし。)ヒトラーにとって東部戦線の秘密兵器(註:となったマンシュタイン)。レニングラード攻略を指揮することになります。そのとき会った息子ゲーロは、数日後前線で戦死します。

スターリングラードの第6軍

死を悼む暇もなく、任務が与えられます。スターリングラードで第6軍が孤立。少ない部隊でしたが、彼は救出には楽観的でした。第6軍の望みだった彼は、無線で伝えました。“我々は救出に全力を尽くす。”

副官 P・V・ベーゼラーガー男爵「彼はセヴァストーポリの征服と――フランス戦役で特別な存在だと思った。かなりのことができると思ったし、軍隊の指揮で成功すると考えた。ヒトラーが評価していると思ったから。しかし、それは過大評価だった。」

空輸での補給は不可能でした。しかし第6軍には防御を支持し、兵力を結集。脱出命令を求めました。彼自身は脱出を命じません。

マンシュタイン司令部将校 R・V・カンシュタイン「ヒトラーからの指示を守るべきだと考えた。要塞を死守するべきで、脱出してはならない。」

マンシュタインは、脱出許可を願います。ヒトラーは防御を主張。彼はカフカスの石油とインド進軍を考慮しました。マンシュタインは今は第6軍が重要だと主張。直ちに脱出すべきです。

1942年11月26日のマンシュタインの日記。“総統は拒否。”

最後の望みは包囲網突破です。ホト将軍が3師団を率い包囲網と戦います。「冬の嵐」作戦。目標は突破口を開くこと。状況によっては「雷鳴」作戦を直後に実行する。「雷鳴」とは脱出です。

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「パウルスにも脱出準備を命令した。それ以上はできなかった。しかしもしも命令して6時間で退却していたら、追放されたかも知れない。ヒトラーは無意味だと言っただけだった。」

(註:第6軍まで)48キロメートルまで近づきました。(註:ところが、)南部のイタリア軍戦線が突破されました。その対応のため攻撃を中止します。悲惨な状況でした。

マンシュタイン司令部将校 R・V・カンシュタイン「我々は失敗にすっかり意気消沈していた。そして我々の怒りと憎悪は、ヒトラーに向かっていた。」

包囲網の中で人々は絶望。マンシュタインは楽観視してみせます。

G・フォン・ビスマルク少尉「彼は言った。戦況は決したが、望みがないわけではない。」

1943年1月3日、将校はまだ包囲の中に送られます(←註:原文ママ)。ビスマルクは、ベルリンとの電話を聞いていました。

G・フォン・ビスマルク少尉「彼は極めて冷静に言った。あの上等兵はヴェルダンの経験から学んでいない。もっと重大なことが、ここでは行われている。限界ぎりぎりのところで。」

第6軍は、敵を引きつける任務でした。ある大尉が窮状を訴えました。

第6軍副官 ヴィンリヒ・ベーア「彼はこう言った。総統に関しては、彼の心を動かさねばならない。そう望んでいるが、効果があるかは疑わしい。」

マンシュタインは手を尽くしたと考えました。第6軍の人々の意見は違います。

第6軍副官 ヴィンリヒ・ベーア「ヒトラーに対する強い姿勢を、ある程度で止めていた。辞職や、自分の命をかけることもできた。そうすれば人々を説得できたはずだが、スターリングラード死守の判断は、間違いだ。」

軍部の抵抗運動参加者 P・V・ベーゼラーガー「彼は元帥なのだから、首をかけることもできた。スターリングラードの30万人以上の将兵で、捕虜の後、帰還したのはわずか6,000人。それを直視すべきだ。」

シュタウフェンベルクの説得

この犠牲をもっと重大視する人々がいました。シュタウフェンベルク伯爵は、国家の危機を感じました。彼らには、マンシュタインは希望の星でした。反乱を指揮できる人物。

1943年1月末、ドン軍集団司令部。シュタウフェンベルクは説得を試みました。二人の会話は、外に聞こえました。

マンシュタイン司令部将校 R・V・カンシュタイン「私が言えるのは、シュタウフェンベルクはとても失望していた。マンシュタインの同意が得られなかったから。その根拠も伝えられていた。その根拠とは…責任ある地位にいる軍の指揮官は、配下の将兵に対して、実際に任務の拒否を促すことはできない。前線全体の崩壊につながるからだ。」

(註:マンシュタインは、)国内の機が熟していないとも考えました。無条件降伏の要求を考えると、遅きに失したものでした。シュタウフェンベルクは、ある将校に言いました。

マンシュタイン司令部将校 R・V・カンシュタイン「将軍たちは、全員わかっている。だが行動する者は、ごく少数しかいない。」

彼は行動しません。マンシュタインは、服従を選びました。「プロイセン元帥は反乱しない」とも言いました。

軍部の抵抗運動参加者 P・V・ベーゼラーガー「必要ならば、元帥でも反乱するべきだ。地位が惜しいならば別だが。」

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「彼が何を想定していたのか、教えてほしい。ベルリン進軍でも考えたのだろうか。」

軍部の抵抗運動参加者 ゲオルク・リンデマン「自分の意思で動き、銃をヒトラーに向けるべきだ。彼も関わるべきだった。何らかの役目を果たすべきだった。」

ヒトラーとの意見対立

彼の部隊は全滅の危機に瀕します。ソ連軍の西進は止められません。東部戦線の崩壊?マンシュタインが対抗策を考えると、ヒトラーが嗅ぎつけます。現地での作戦介入。3日で5度の会議です。作戦卓で対立しました。

マンシュタイン司令部将校 H・G・クレーブス「マンシュタインに思想があったから、対立した。当然よく後退する。兵力を温存し、成功を求める。だから前後に動いていた。そこでいつも不信が生まれた。話したくなかったヒトラーは、言葉を遮った。」

マンシュタインは、柔軟な運用を望みました。

マンシュタインの息子 リューディガー・V・M「大きな弱点は、ヒトラーの性格や本性を読み間違えたことだ。そのため、結果として、あまりに長い期間、考えていた。客観的な議論でヒトラーを説得できると。さらにそのような説得が、ヒトラーに効果的であると。これは大きな間違いだった。」

彼は悟りました。この総統では勝てません。彼が勝ちたいと願う戦争に。空間をつくって敵を誘い込み、側面から叩く。この案は拒絶されます。

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「しかしこうなった。ソ連の戦車が目前に迫るとヒトラーは帰ってしまった。つまり、この作戦を実行するときが来た。なぜかというとその数日は、ヒトラーが何も言ってこないからだ。彼がフリーハンドを得た唯一の機会だ。」

勝利を確信して進むロシア軍を罠にかけます。彼は陣形を大胆に動かして反撃に転じます。スターリングラードへの戦線は動かず、大きな成果と考えました。この成功が誤解を裏付けます。まだ戦争に負けない。

マンシュタイン司令部将校 H・V・フンボルト男爵「彼は楽観的だっただろう。彼が心の奥底から、失敗を考えていたかどうかはわからない。彼はこのような考えに至った。動機付けがなされ、正しい時期に正しい決定がされれば、まだ引き分けに持ち込めるのではないかと。」

それは幻想でした。ヒトラーは自由にさせません。彼の戦争だからです。マンシュタインは従います。ヒトラーは戦車でソ連軍の弱体化を考えます。作戦日程は延期ばかり。

ンシュタイン司令部将校 H・V・フンボルト男爵「彼の激怒は言葉にも表れていた。日程は毎日延期になり、成功は疑問視された。」

元帥は、総司令官の決定を待ちます。陽動作戦としてブカレストに向かいます。敵が安泰と考えるなか、ドイツ軍は進みます。1943年7月、クルスクの戦車戦。開始は遅すぎました。マンシュタインは勝利を確信していました。ソ連軍の準備は十分でした。「城砦」作戦は失敗。マンシュタインの責任?

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「なぜ時機を逸したのか。日が経つにつれ、大きくなるリスク。作戦全体のリスクが指摘されなかった。だから我々やマンシュタインは成功すると考えていた。」

敗戦は確実でも、最後まで楽観的でした。マンシュタインは、引き分けを狙います。ロンメルは彼を奇術師イリュージョニストと呼びました。ヒトラーが東部の指揮権を放棄すると考えたからです。彼は説得するつもりでした。

参謀本部将校 キールマンスエッグ伯爵「話を始めようとしたとき、ヒトラーは言った。“君たちの要求はわかっている。その話はしない。元帥、まず君の軍集団の状況を説明してくれ。”」

難しい状況でした。東方前線の後退です。ヒトラーは意見を変えません。二人の関係は悪化します。

マンシュタイン司令部将校 H・G・クレーブス「ヒトラーとも戦っていた。何が影響を与えるか、考えねばならなかった。彼の前線でもあった。」

ヒトラーは損失に目を向けません。

マンシュタイン司令部将校 H・G・クレーブス「会議のあと、マンシュタインは大馬鹿者と言っていた。彼はヒトラーにも、作戦卓ではっきりと意見を述べていた。ヒトラーは結果も考えず自説を主張した。しかし彼は確信していた。最終的にマンシュタインは、典型的なプロイセンの将校として、このような状況でも常に服従を選んでいたからだ。」

彼は服従し、犯罪行為から目を背けました。反乱には沈黙し、敗戦は考えませんでした。前線では、クラシック音楽とチェス、カードの日々です。戦争に負けると考えたら負ける。彼のモットーです。使者は増加します。ヒトラーはマンシュタインを信用しません。常に反対し、権限を求める人物。アメリカの雑誌が、不信を増大します。ゲッベルスは彼を「退却元帥」と呼びました。非ナチ党員は信用できない。ヒトラーは有能な将軍を排除できません。

意見対立の激化と解任

1944年3月。対立は激化しました。再び全軍が包囲され、ヒトラーは防御を主張。マンシュタインは辞職を盾に撤退を主張。ヒトラー最後の譲歩。軍は撤退、最後の「失われた勝利」です。

6日後、ヒトラーに呼ばれました。彼の軍集団はわかっていました。解任です。1944年3月31日、オーバーザルツベルク。ヒトラーは堅い防御が必要と説明します。

モーデル元帥の副官 G・ライヒヘルム「ヒトラーは賞賛した。攻撃作戦における彼の戦略家としての能力を。しかし南部では、君を必要としない、と言った。モーデル元帥が引き継ぐ、と。マンシュタインは答えた。“総統、私から取り上げるのですか。私があらゆる戦略的手段を用いていたのは、私の息子が葬られた土地を守るためです”と。」

総統は彼を信頼するふりをし、後日の再任命を約束しました。しかしマンシュタインは解任されます。任務のない元帥。ヒトラーは絶滅戦争の前線の防御をもくろみ、マンシュタインは幻想を抱きます。総司令官は私を使うだろう。前線は崩壊します。西部でも、東部でも。

彼は1個大隊でも率いたいと考えました。できませんでした。最終的に拘束されました。戦争犯罪者として。

釈放 ドイツ連邦軍創設への協力

1949年、ハンブルクでのイギリスの軍法法廷。ポーランドとソ連での犯罪行為で告発。彼は犯罪を知りませんでした。彼だけが論点ではありません。

マンシュタインの弁護人 ビル・クルーム「予想されたような彼自身の弁護だけでなく、軍の名誉のために戦った。」

禁固18年の判決。収監に反対運動がなされ、1953年に釈放されました。新しい軍隊の創設に、マンシュタインは協力します。

連邦軍退役総監 U・デ・メジエール「古くからのプロイセンの伝統で、元帥は生涯現役だった。彼は義務感に生気を取り戻した。義務を果たさねばならないと彼は感じていた。彼は助言によって、新たな軍事力の創設に協力しようと考えていた。」

マンシュタインは兵役義務を選びます。この決定は葛藤でもありました。

軍部の抵抗運動参加者 P・V・ベーゼラーガー「私はマンシュタインを称賛する。国防軍の優秀な戦略家として、彼は鋭い理解力のある、才能に恵まれた専門家だ。彼には卓越した説得力があった。芸術的な人間で、ガチガチの軍人ではない。彼は、強く自分を律する人物、チェスの名手だった。非難すべき点は、ほかの元帥と協力して、終戦に導こうとしなかったことだ。」

戦略の天才は、倫理面で挫折していました。≪終≫

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