ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

ホロコースト

引き裂かれた平和

1933年1月、ベルリン。国家社会主義ドイツ労働者党、通称ナチスの指導者、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に任命されました。ドイツ国民はやがて、独裁政権に基づく一連の思想を信奉するよう、求められることになります。

ドイツ社会民主党員(当時) ヨーゼフ・フェルダー「その日、ベルリン市内は、まさにかぎ十字の海でした。私も通りに出て、ナチスの突撃隊員たちが誇らしげにパレードするのを見ました。レストランやバーはどこも、一晩中営業していました。みんな酒を飲んで大騒ぎしていましたね。人々のあのすさまじい熱狂と、ナチスに対する急激な傾倒ぶりは、とても信じがたいものでした。」

ごく平凡な一般市民が、自分たちが特別な民族であると信じ込みました。そして世界は、かつてない恐怖の中へと、引きずり込まれていったのです。

〔1933年
ベルリン〕

ナチスは、一人の男の、強力なリーダーシップによって権力を手中にしました。アドルフ・ヒトラー。彼は首相の座を選挙ではなく、政治的工作によって勝ち取りました。ヒトラーはこう主張します。

ドイツが抱える諸問題の原因は、第一次大戦後のヴェルサイユ体制と、政治家たちの無能さにある、と。今や政党政治の時代は終わりをつげ、ヒトラー自らが、国家の意思を体現することになりました。

アドルフ・ヒトラー「我が国民は知っている。我らの意思が、ドイツの危機を救ったことを。15年にわたる絶望の後――偉大なる国民が再び立ち上がったのだ。」

焚書~産業と農業の復興とプロパガンダ

焚書ふんしょ(1933年
5月)

非ドイツ的な書物を焼き捨てた、いわゆる焚書ふんしょ。ナチスにとって、自由主義や共産主義といったイデオロギーは、危険極まりないものでした。

労使紛争をなくすため、組合は禁止。労働者たちは、ナチスが指導する労働運動に参加させられます。大恐慌時代、失業率は30パーセントにまで達しました。

しかしヒトラーが、再軍備と、労働者に仕事を与えることを目標に定めると、ドイツの産業は息を吹き返します。

ナチスは国中の工場から支持されました。大恐慌時代に破産に追い込まれた農民たちにも、救いの手が差し伸ばされました。

ナチスは、党と農民の心を一体化するような、大掛かりなデモを行います。古くからの慣習と、新たな思想を融合させた、収穫祭です。

ルイーゼ・エッスィッヒ「収穫祭で、私たちは心を一つにしました。同じ幸福。同じ喜び…。私たち農民の未来に再び光が差したことに、心から感謝しました。

あのころのアドルフ・ヒトラーほど、民衆に愛された政治家はいません。いろんなことを、思い出しますよ。本当に、幸せな時代でした。」

失業者対策として、ヒトラーは、大規模な公共事業計画を推進しました。全長4,000キロに及ぶ高速道路、アウトバーンの建設です。

アウトバーン
開通式典

ホルスト・ズレーシナ「私は、アウトバーンを走った、最初のラジオレポーターの一人でした。沿道には、何千人もの人々がいました。みんな興奮していましたね。

私はこうリポートしました。アウトバーンの建設は、我々ドイツ国民が誇るべき、偉大な業績であり、今後も続くであろう、とね。」

労働者たちは、国家社会主義のよき見本として、全国的に宣伝されました。

「どんなお仕事を?」
「誰も見たことのないものの建設さ」
「信頼に足る出来栄えですよ」
「誇りを持ってるんだ」
ラジオに聞き入る国民

表層化した反ユダヤ主義

フリードル・ゾンネンベルク「長いあいだ私たちは、ラジオから流れるナチスのプロパガンダを、すべて信じ込んでいました。プロパガンダに最も熱狂したのは若者たちでした。そして国民の9割以上が、ナチスの行うことを何もかも支持していました。」

宣伝相の指示に基づいて大量生産されたラジオは、国民の受信機と呼ばれ、たちまち各家庭に普及しました。ラジオがプロパガンダに不可欠であることを、ナチスはよく心得ていました。

ホルスト・ズレーシナ「ラジオはドイツ国民の偉大さを思い知らせました。プロパガンダによって、人々の中に自負心というものが初めて植え付けられたんです。」

宣伝相 ヨーゼフ・ゲッベルス「良きプロパガンダなくして、良き政府は存続しえず。良き政府なくして、よきプロパガンダは生まれぬ。」

彼らは、さまざまな問題の責任を、ユダヤ人に負わせました。

宣伝相 ヨーゼフ・ゲッベルス「我々をおびやかせるとユダヤ系の新聞がもし考えているなら、それは大きな間違いだ。我々の我慢が限界を超えたあかつきには、必ずやその口を閉ざしてやる。」(割れんばかりの聴衆の歓声)

ユダヤ人

ナチスは、ユダヤ人に対する潜在的な憎しみを、人々から引きずり出しました。

親衛隊将校(当時) ラインハルト・シュピッツィ「ユダヤ人たちは、ビジネスにかけては、普通のドイツ人や、オーストリア人の上を行きました。また文学や演劇、映画、科学においても、非常に優れていました。

当時ウィーンでは、医者の50パーセント以上、弁護士の70パーセント以上が、ユダヤ人でしたね。そうしたことが、反ユダヤ主義を生み出す要因になったんです。」

しかし、ドイツに住む50万人のユダヤ人のうち、伝統的なユダヤ教徒の生活を送る者は、ごくわずかでした。

ベルリン郊外に暮らしていた、ゲルダ・ボーデンハイマーさんの一家は、自分たちのことを、ユダヤ人である以前に、ドイツ人であると考えていました。

ゲルダ・ボーデンハイマー「これは、私と兄です。とても仲のいい兄弟でした。

この二人は、私たちの両親です。父は銀行家でした。

私が父に煙草をくわえさせています。これをやるのが楽しみでした。家族のなかで、ユダヤ人らしい顔をしていたのは、私だけでした。あのころドイツ人は、人の容貌に敏感で、ユダヤ人を見つけるのがとてもうまかったですね。」

1933年、3月。ヒトラーとゲッベルスは、ユダヤ人が営む商店をボイコットせよ、という指令を全国に出します。ほとんどのドイツ市民は、店が封鎖され、攻撃されるのをただ傍観しているだけでした。

商店の
ショーウィンドウを叩き割るドイツ人
怯えるユダヤ人
奥に、ダビデ
の星を塗る手が見える
「JUDE」と
書かれた店頭をのぞき込むドイツ人

ゲルダ・ボーデンハイマー「とても恐ろしい体験でしたね。母は私たちに言いました。ドイツから去ったほうがいいわ、って。その日からほぼ1年後、私たちは正式に出国し、ドイツを離れました。今でも私は、母の勇気と先見のめいに感謝しています。私たちは本当に幸運でした。」

アーリア人の神話

ナチスは、自分たちの思想を支える、歴史的神話を作りあげました。その神話はこう主張します。純潔のドイツ人は、生まれながらに、優越民族である。なぜなら彼らは、アーリア人の血を引く、中世の騎士の子孫であるからだ。ドイツ国民は、自分たちの先祖は優秀で、文化的な民族であったと教え込まれました。

ナチスに協力的な考古学者は、偽の遺跡を証拠として発掘しました。

「今、ドイツの母なる大地が、過去の高度な文明を明らかにした。」

親衛隊、通称SSは、神話に登場する中世の騎士の、いわば末裔でした。

親衛隊将校(当時) ラインハルト・シュピッツィ「私も、SSに所属していました。我々はりすぐられた人間であり――未来のドイツ国民の支柱となるべき存在だとされていました。

あのころは、とても素晴らしいと思いましたね。選ばれたということが、自尊心を大いにくすぐったものです。SSの制服は、黒い色をしたんですが、それが実に美しく見えました。制服もブーツも、何もかも気に入っていましたよ。」

SSは、もともとヒトラーの私的な護衛隊として発足しました。いまや彼らは、国民に優越民族の自覚を促す役割も担っていました。

親衛隊隊長 ハインリヒ・ヒムラー「我々は永遠の法則に従って突き進んでいる。我々は、遥かなる未来への途上にある。単に過去の世代を超えようと望んでいるわけではない。ドイツ民族を永遠のものとする、未来の世代を創造したいのだ。」

ヒムラーは、ナチスの遺伝理論に基づいて、ドイツの人種改善を図りました。健康な夫婦には、より多くの子供を設けるようにと、特別金が貸し与えられます。子だくさんの母親には、勲章まで授与されました。ナチスにとって理想的な子供とは、純潔のアーリア人種で、遺伝的な疾患のない子供でした。そのため、配偶者は慎重に選ばれなければなりませんでした。

親衛隊将校(当時) ラインハルト・シュピッツィ「私も結婚の際は審査を受けました。特に私は、SSの将校でしたから、先祖を1750年まで遡って、証明しなければなりませんでしたし、妻も、22の質問に答えなければなりませんでした。

妻は、洋服や香水の好みまでも聞かれました。我々ドイツ人は、自分たちから見て完璧だと思える、新たな人種を生み出せると信じていました。私もこの指針に従って、妻を選んだんです。」

新たなドイツ人。それは自己鍛錬を積んだ健康な人々で、誰もが憧れる模範でした。

行事の最後に
ナチス式敬礼をする市民

全国民に、ナチスの定める、理想のドイツ的生活が強要されました。それが何のためであるかを忘れさせないよう、地方の党員は、定期的に様々な行事を行います。

ヘルタ・グラバルツ「いつだって、ヒトラー総統と祖国のためでした。自分のために何かをした、ということはありません。」

ザクセン地方の小さな村、レップナーで子供時代を過ごした人々が、当時のお祭りの様子を撮影したフィルムを見ました。

ハンネ・ローレ・リュットゲリング「私はこのときまだ6歳でした。

旗がげられていますね。これは牧師さんの家です。

このポールは、お祭りの飾り。男の子がヒトラー・ユーゲントに入ったように、女の子も少女団に入ったの。

鉤十字を飾ってるわね。私は少女団の制服を着るのが好きだったし、少女団という組織を、愛していました。心からね。」

ハンス・ヘルマン「ヘンゼルとグレーテルの、ヘンゼルの扮装をしているのは、私です。」

ハンネ・ローレ・リュットゲリング「兄がヘンゼル、私がグレーテルをやりました。金髪で、青い目をしていて、背が高いと、ずいぶん称賛されたものです。旗を持って歩く代役を務めたのは、決まってそういう子供たちでしたね。」

イルゼ・ヴォイレ「この旗を持っている女の子が私よ。旗を持って歩くのは、とても誇らしかったわ。映画にも出られたしね。とても興奮しました。」

ヘルタ・グラバルツ「本当に夢中になっていたわけではないの。みんなが参加するから、私も参加しただけ。取り残されるのが嫌だったんです。」

ユダヤ人への迫害

腕を交互に
組み替えて踊るドイツ伝統の踊り

しかし、こうした国を挙げての行事に、ドイツ国民すべてが参加できたわけではありませんでした。純潔のアーリア人のみを、理想のドイツ人とするナチスは、ユダヤ人を劣等民族として徹底的に弾圧したのです。

ユダヤ系の
若者たち

ユダヤ人の子供たちは、国の教育体系から排除されたため、ユダヤ人たちは独自に学校を設けざるを得ませんでした。

ユダヤ系の学校風景

1933年から35年にかけて、ナチスは一連の法律によって、ユダヤ人が、法律、医療、行政関係の職に就くことを一切禁じ、彼らをアーリア人の職場や家庭から、追放しました。

ヘルマン・ゲーリング「アーリア人種とユダヤ人――またはその混血種との結婚を禁止する。」(議場から歓声が上がる)

ハンス・マルグレス「あのころ私は、ベルリンの美術学校に通っていましたが、ユダヤ人であるため、アーリア人の女の子と外出することは許されませんでした。ナチスの法律のせいで、女友達は一人もできなかったんです。」

アーリア人の学校では、子供たちは、ユダヤ人を警戒するよう教育されました。ユダヤ人を毒キノコに例えた教科書。毒キノコは、無害なキノコから、り分けなければならないと説いています。

さらにこの教科書には、捻じ曲げられたユダヤ人の姿がいくつも書かれています。子供をたぶらかすユダヤ人。アーリア人女性を誘惑するユダヤ人。正直者のアーリア人を騙すユダヤ人。

子供をたぶら
かすユダヤ人
アーリア人女
性を誘惑するユダヤ人
正直者のアー
リア人を騙すユダヤ人
〔ユダヤ人の立ち入りを禁ず〕

ユダヤ人を排斥はいせきするこうしたメッセージは、決して例え話ではありませんでした。30年代後半には、ドイツ全土に、このような標識が掲げられたのです。

ホルスト・ズレーシナ「それはゆっくりとした、しかし着実な変化でした。そして、以前はそんなことを考えもしなかったドイツ国民全員を飲み込んでいきました。当初国民の多くは、ナチスの言うことを必ずしも信じてはいませんでした。それがいつの間にか、頭をくぐらされてユダヤ人こそすべての元凶だ、などというようになったんです。」

ロマの人々~身体的特徴のファイル~断種

ナチスの理想にそぐわなかったのは、ユダヤ人だけではありませんでした。伝統的な放浪生活を送る、4万5,000人のロマニの人々も、ナチスから迫害を受けました。

ロマの人々の住居
手を洗ってもらっている
幼い子供
ダンスをする
ロマの人々
輪を作って
遊ぶ子供たち
ロマの人々

アンナ・マリア・エルンストさんの一家は、音楽やダンスで生計を立てていました。

アンナ・マリア・エルンスト「美しく、素晴らしい、幸せな毎日でした。お祭りに――ダンス。女たちは、活気に満ちていました。誰かが結婚したときは、6日も7日も、盛大に祝い続けました。それが私たちの習わしだったんです。みんな、空を飛ぶ鳥のように、自由な生活を愛していました。」

ナチスの目に、ロマニの人々は、不衛生で、反社会的な厄介者と映りました。

左側の2人
がロマの母子
通りすがり
の女性に母親が声をかける
手相を見させて
貰おうとする
困った表情
をする女性
通りすがった少女も
いぶかしげに見ている

(註:)現在でも「ロマの人々」を指す名詞が物乞い、盗人、麻薬の売人などの代名詞のように使われる場合がままあり、これらの呼称が「差別用語」として忌避される傾向もある。しかしながらそのような用法は口語での「差別を隠蔽するための使用」とされ、必ずしも差別の解消には繋がっていない(ウィキペディアより)。

ロマニがドイツ人と接触することを嫌ったナチスは、何らかの対策を講じなければならないと考えます。彼らは調査員を各地に派遣し、ロマニたちに関するありとあらゆる情報を集めました。ユダヤ人や黒人、同性愛者も、同様に調査の対象となります。

様々な身体検査
(身体的特徴の検査)
目の色
の検査
髪の色
の検査

目や髪の色といった身体的特徴、家系図などを記載した書類はすべてファイルされ、当局に保管されました。

アンナ・マリア・エルンスト「私たちは持ち物を売って、アパートに移り住まなければならなくなりました。みんな定住して、住民登録させられたんです。……自由な生活は終わりを告げました。」

断種法施行
(1933年7月)

またナチスは、精神障がい者も危険な存在とみなしました。障害が遺伝するのを防止する、という理由で、そうした人々を、強制的に断種します。

ニュース音声「我が国の人口はこの70年間で50%増加した。遺伝的欠陥がある者は、450%も増えている。この割合だと50年以内に、全国民が病んだ子孫を持つことになる。終わりなき恐怖が国を支配するのだ。」

ユダヤ人やロマニ、障がい者たちが虐げられた生活を余儀なくされる一方で、ドイツの一般市民の暮らし向きは、1937年まで、向上し続けました。再軍備によって、失業者は400万人も減少します。ヒトラーの好戦的な外交戦略は、第一次大戦後、ドイツ人が失っていたプライドを取り戻させました。

オーストリアのナチス地方組織

ヒトラー「我々は精力的になり、勤勉になった。現在のドイツを見よ。ドイツ国民諸君、判断するのは君たちだ。ほかの国々が判断することではない。」

今やヒトラーは、国民にさらに大きな約束をしていました。ヨーロッパのドイツ語圏の民族を、一つにまとめようというのです。

オーストリア併合
(1938年3月)

1938年3月。ヒトラーは、ベルサイユ条約を無視して、オーストリアを併合します。ほとんどのオーストリア人は、歓呼の声で、ヒトラーを迎えました。

ノルベルト・ロッパーさんは、ウィーンに住む19歳のユダヤ人でした。

ノルベルト・ロッパー「オーストリアには、ヒトラーがやってくる遥か以前から、反ユダヤ主義が存在していましたが、おもてってはいませんでした。しかし、1938年以降、そうした風潮はあからさまなものとなりました。」

〔ユダヤ人で
あることは犯罪である〕

オーストリアでも、ナチスの地方組織が、ユダヤ人たちをはずかしめました。

ノルベルト・ロッパー「ある日、連中がうちに押しかけ、妹を引き立てていきました。妹は通りに連れていかれ、その道を洗ってきれいにするよう、命じられました。妹が洗っているあいだ、連中はそこに立って嘲笑あざわらっていました。…屈辱でした。」

水晶の夜~ユダヤ人の国外脱出

反ユダヤ運動は、日増しにエスカレートしていきました。ミュンヘンでは、ユダヤ教の協会が解体されました。通行の邪魔になる、というのがその理由でした。

そして1938年の11月9日から10日にかけて、ナチスは各地で、いっせいにユダヤ人を襲撃しました。いわゆる、水晶の夜です。

水晶の夜
(1938年11月)

1,000以上のユダヤ教会に火が放たれ、300人が殺され、3万人以上が逮捕されました。

翌39年1月までに、ヒトラーはチェコスロバキアのドイツ語圏地方も併合し、戦争を企てます。しかし、その原因はすべてユダヤ人に押し付け、一層厳しい弾圧に乗り出しました。

ヒトラー「共産主義とユダヤ教が勝利することはない。ヨーロッパのユダヤ人は絶滅するのだ。」(議場の歓声)

蓄えがあるユダヤ人たちは、国外へ逃げ出しました。その数は、1938年と39年だけでも、12万人近くにも達します。

裕福なユダヤ人
の引っ越し風景

※庭に何かを埋めている

しかし、脱出の手続きには時間がかかりました。ウィーンのアメリカ領事館前には連日長蛇の列ができました。このため、外国政府も、受け入れ人数を制限するようになります。近隣の国へ逃げ込んだ者たちは、まもなく、ナチスの侵略を受けることになりました。

右端の男性は何か
を必死で訴えるが、失望して立ち上がる

ハダマールの病院~精神障がい者の抹殺

第2次世界
大戦勃発
(1939年9月)

1939年、9月。ドイツのポーランド侵攻によって、世界は第二次大戦に突入しました。この戦争は、アーリア系ドイツ人が、生活圏を拡大しようとする試みでした。ポーランド人は、ナチスによって人種ごとに分類されました。

呼び止められ
身分証を調
べられる年配のユダヤ人男性

金髪碧眼へきがんの者はドイツに帰化することを許され、そうでない者は、強制労働に駆り出されたり、国外へ追放されたり、殺されたりしました。ポーランド国民の300万人以上はユダヤ人だったのです。

ゲーリングはこう言いました。これは単なる戦争ではない。偉大なる人種戦争なのだ。ドイツの軍用列車に書かれたスローガン。“我らは、ユダヤ人を打ちのめすためにポーランドへと向かう”。

ニュース映画はこんなデマを広めました。

「ドイツはユダヤ人問題に最も頭を痛めている。ユダヤ人どもは、ヨーロッパを犯罪の巣窟そうくつにした。スリ、ポン引き、麻薬密売人、奴隷商人。程度の低いジャーナリストたちがあふれかえっている。」

戦争が始まると、ドイツでは、肉体や精神に障がいを持つ人々に対する政策が変更されました。ヒトラーが、彼らを抹殺せよという極秘指令を出したのです。ライハンルト・シュピッツィさんは、ヒトラーがその理由を語るのを聞きました。

親衛隊将校(当時) ラインハルト・シュピッツィ「彼はこう言いました。なぜ我々がああいう連中のために金を使わなければならないのだ。その金があれば貧しい子供たちに色んなことがしてやれるではないか、とね。」

ヒトラーのこの指令は、マリー・ラウさんを、絶望のどん底に突き落としました。

マリー・ラウ「私の母は、戦争の始まる前、1931年の12月から、フランクフルトの病院に入れられていました。父とうまくいかなくなって、精神を病んでいたんです。」

ハダマール
の病院

マリー・ラウさんの母親は、回復の見込みがないと診断され、さらに別の病院に移されました。そこは、ナチスが精神障がい者たちを抹殺するための拠点としていた、ハダマールの病院でした。

この地下室で、人々は一酸化炭素ガスによって殺されました。その数は、1万人以上にのぼります。隣の部屋では、医学的研究のために、解剖が行われました。

ラウさんが、母親の本当の死亡原因を知ったのは、何年も経ってからでした。

マリー・ラウ「このようなことが、本当に行われたのだという事実は……私たちの社会全体の恥です。」

ゲットー~人間性の蹂躙じゅうりん

ナチスは、反ユダヤ主義政策を、次から次へと打ち出しました。ダビデの星を身に着けさせることもその一つです。ポーランドでは、ユダヤ人をゲットーに閉じ込めました。外界から隔離されたゲットーには、飢えと病気が満ち溢れ、人間性は徹底的に踏みにじられました。

ぼろぼろの服を
まとった女性
ぼろぼろの服を
まとった男性
赤ん坊を抱き、
天を仰いで泣きながら歩く女性

首都ワルシャワで、ドイツ人が一日に摂取していた栄養は2,300カロリー。ポーランド人は900カロリー。ゲットーのユダヤ人たちは、わずか180カロリー。餓死する人が、後を絶ちませんでした。

道端の遺体。通り過ぎる人と、気遣う人がいる→

遺体を回収するゲットーの人々↓

ドイツ占領下のゲットーで、命を落としたユダヤ人は、総計60万人に及びます。

移送と虐殺

1941年、12月。シュツットガルト。1,000人のユダヤ人が、最後の食事を終えました。彼らはこれから、東へ移送されます。彼らがどこへ向かうのか、今ではアーリア系ドイツ人たちの多くも知っていました。

炊き出しに並ぶ
ユダヤ人の人々
荷物置き場に
スーツケースを置く様子

ペーター・ビーレンブルクさんは、法学部の学生時代からナチスに抵抗し続け、ユダヤ人の強制移送に疑惑の目を向けていました。

ペーター・ビーレンブルク「私はこう推測していました。ナチスに連れ去られたユダヤ人たちは、健康である限りは強制労働に駆り出されるのだろう。そして健康でなくなれば、飢えと寒さにさらされて、死んでいくのだろう、とね。つまりユダヤ人の虐殺が、ある程度行われていたことには、気づいていたわけです。でもまさか、あれほどの規模とは、思いもしませんでした。」

荷台にスーツ
ケースを積み込むユダヤ人の人々
ラトビア リバウの砂丘

※写真ではわかりにくいが、奥のほうに長方形の深さ2メートルほどの処刑用の窪みがある

1941年、ラトビアのリバウの砂丘。

ユダヤ人たちは
射殺されるため
に走らされ、窪地に連れていかれる

この映像は、休暇中のドイツの海軍将校が、偶然、ユダヤ人の処刑現場に出くわして撮影したものです。

複数の人が
一列に並ば
され、左上から発砲がある

何千人というドイツのユダヤ人が、こうしてラトビアに連行され、殺されました。しかし、血に飢えたナチスの処刑人たちは、犠牲者が連れてこられるのを待っているだけではありませんでした。特別部隊を編制して各地を巡り、ユダヤ人を探し出して殺すこともしていたのです。

リトアニアのエーシスキには、3,500人のユダヤ人が住んでいました。1941年、9月。ナチスは、街の外にユダヤ人たちを連れ出しました。ズーヴィ・ミヒャエリさんは、そのとき16歳でした。

ズーヴィ・ミヒャエリ「私たちは、穴の前に連れていかれ、全員服を脱ぐように言われました。ユダヤ教のラビまでが、服を脱いでいるのを見たとき、もうこれでおしまいだと思いました。ラビが、旧約聖書を読み上げる声が耳を打ちました。自分たちは決して、こんな目には遭わないと、自信を持っていたのにね…。

すると父が――(映像欠落)――父を離しませんでした。そして、マシンガンで撃たれたんです。悲鳴と鳴き声と銃声が、交錯しました。それから、埃が、もうもうと立ち込めました。気が付いたら私は、穴の中に横たわっていました。父が、私を突き飛ばしてから、私に覆いかぶさるように、落ちてきたんです。何ということでしょう。父は私を、生かそうとしたんです。」(

このような銃殺は、何千という町や村で行われました。ユルゲン・クレーガーさんは、ある処刑部隊の通訳を務めていました。

幼い子供を
抱きしめた
母親に向けられる銃口

ユルゲン・クレーガー「彼らはユダヤ人を、劣等民族だと信じ込んでいました。隊員の一人は私に、こんなことを言いましたよ。ここにバラの茂みがあるとするだろ、ユダヤ人はこのバラの茂みに潜んでいる、アブラムシみたいなものだ。アブラムシは退治しなきゃ、って。彼らにとっては、虫けらを殺すようなものだったんです。そしてこうも言いました。人を殺すのは好きじゃない。でもこれは必要な仕事なんだ、とね。」

一般のドイツ国民は、虐殺の方法については知らされていませんでした。ただし、その目標は、公にされていました。1942年のハノーバー新聞に、次のような見出しが掲げられたのです。ユダヤ人を、絶滅すべし。

アウシュビッツ行きの切符

オランダのウエステルボルク。ここはユダヤ人を移送する列車の出発点でした。ベルリンからオランダに亡命していたハンス・マルグレスさんは、ドイツ軍に捕まって、移送に手を貸すよう命じられました。

ハンス・マルグレス「私に与えられた仕事は、移送リストに記載されているユダヤ人たちを、朝の6時に列車に乗せることでした。弱っていて歩けない者は、荷車に乗せて列車まで運んでいきました。」

アウシュビッツ
行きの切符

マルグレスさんは、列車の行き先、アウシュビッツがどんなところなのか、そのときは全く知りませんでした。

ハンス・マルグレス「ユダヤ人を大量虐殺するための強制収容所があるなんてことは、考えてもいませんでした。知っていたら、作業を進めることなどできなかったでしょう。

これはユダヤ人たちが、互いにお別れを言っているところです。みんな、すぐにまた会えるさ、なんてことを話してましたね。

扉を閉めているこの男が、私です。画面には映っていませんが、私の背後にはSSの隊員が立って、命令を下していました。彼らに盾突いて作業を拒むことなど、とてもできませんでした。」

ドイツの国有鉄道は、ユダヤ人の移送費を、SSに請求しました。隊員たちは往復分。ユダヤ人たちはもちろん、片道分だけでした。移送中は、食べ物はもちろん、水さえほとんど与えられませんでした。収容所に着くまでに亡くなった人たちも、少なくありません。

終点 アウシュビッツ

アウシュビッツ
収容所跡
(ポーランド)

ドーラ・シュヴァルツ「自分がどこに連れてこられたのか、見当もつきませんでした。ここは、死を意味する場所なんじゃないかと、私たちは疑いました。煙突からは、不気味な煙が出てましたね…ぞっとするような光景だったわ。私たちもいずれ、ああなる運命なんだと悟りました。」

線路は、収容所の敷地まで続いていました。ここがまさに、終点です。到着した囚人たちはまず、男性と女性に分けられました。そして次に医師が、労働に耐えられる者と、直ちに殺す者とを選別します。

地下ガス室跡

ドーラ・シュヴァルツさんは、このとき、危うくガス室送りになるところでした。

ドーラ・シュヴァルツ「私は幸運でした。医師に選別されたとき、私は子供を連れた、母親たちのグループにいたんですが、所員の一人に、別のグループのところへ行くよう、命じられたんです。子連れの女性たちはそのあとすぐに、ガス室へ送られましたから。私はすんでのところで助かったわけです。まさに、九死に一生を得ました。」

囚人たちが選別される様子を収めた写真。1944年に、SSが撮影したものです。貨車から荷物を下ろすのは、囚人たちの役目でした。

ウィーンから送られてきた、ノルベルト・ロッパーさんも、この作業班に加わりました。

ノルベルト・ロッパー「ここに写っている人たちは、全員病気で、歩くこともできませんでした。私たちは、彼らがトラックに乗るのを手伝ってやりました。彼らはそのトラックで、ガス室まで運ばれたんです。子供たちを乗せた列車が到着したときのことは忘れられません。

子供たちはひとりひとり、ロールパンをしっかり握りしめていました。その姿は今も目に浮かびます。パンはもちろん没収されました。それから子供たちは、付き添ってやってきた看護婦と手を繋いで、ガス室に、向かったんです。」

屋外で燃やされる、囚人たちの死体。1944年の夏になると、もはや焼却炉だけでは、増え続ける死体を処理することはできませんでした。人種政策にそぐわないという理由で、ナチスが虐殺したユダヤ人は、600万人とも言われます。同じ理由で殺されたロマニの人々は、50万人にのぼりました。

アンナ・マリア・エルンスト「ナチスがなぜあんなことをしたのか、私たちにはどうしてもわかりません。なぜあんなひどいことをしたのか。なぜあれほど残虐になれたのか。まったく、わかりません。」

妄想の爪痕

ハインリヒ・ヒムラーの演説「我々は、わが国民に対する愛情から、この困難な任務を果たしたのだ。我々は、自分自身の魂にも、人格にも、何ひとつ痛手をこうむってはいない。」

自分たちが優越民族であるという妄想は、戦後、ドイツ国民に、悪夢のような現実を見せ付けました。強制収容所が解放され、その地方に住むドイツ人たちが、なかに足を踏み入れたとき、彼らは、自分たちが取り憑かれていたこの狂気の正体に、愕然としたのです。

死体の山。

医学実験の痕跡。

人間の身体から作られた品々。

一つの妄想が、20世紀の歴史に残した爪痕は、あまりにも大きなものでした。

<終>

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