ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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レニ・リーフェンシュタール

レニ・リーフェンシュタール

レニは、ダンスに夢中な少女でした。

20世紀の初め、レニは、興隆期のドイツ映画界に飛び込み、魅惑的な新進女優として売り出しました。やがてヒトラーの時代、レニは映画監督として才能を開花させます。しかしその成功は、彼女を悲劇に巻き込んだのです。

20世紀の終わり、レニ・リーフェンシュタールの波乱の人生を綴った本が出版され、98歳の彼女は、再び世界の注目を集めました。

レニが監督としての栄光をつかみ、また、のちのち激しい非難を買うきっかけとなった映画。それは、1934年に撮影された、ナチス、国家社会主義ドイツ労働者党の、宣伝映画でした。

映画      
「意志の勝利」1934年

レニ・リーフェンシュタール「『意志の勝利』がプロパガンダ映画だなんて、1945年以前にはどの新聞も言わなかった。世界中が私を絶賛したわ。なのに戦後態度を一変し、突然私は犯罪者扱いされたのよ。」

映画の世界へ

1920年代、レニがモダンダンスに魅せられていたちょうどそのころ、時代は、新しい表現様式を求めていました。レニは自分の才能を信じ、あふれる情熱と野心を持って、大衆娯楽の世界に飛び込みました。

1923年、ベルリンの地下鉄の駅で、チャンスをもたらす転機が訪れました。通りすがりにふと目が留まった、映画「運命の山」のポスター。この映画をきっかけに、レニは銀幕の世界に憧れるようになり、果敢なチャレンジによって、間もなくその夢を手にするのです。

1920年代、山岳映画は、大きな当たりを取っていました。向こう見ずな男たちと、美しいヒロインは、成功といういただきを目指しました。

映画カメラマン G・ランチュナー「リーフェンシュタールは、監督が次々と出す要求に応えなければなりませんでした。雪山での演技には危険が伴い、相当の勇気が必要でした。しかし、彼女はどんな演技にも、喜々として取り組み、難しすぎる、などと文句を言うことはありませんでした。」

スタントマンさながらの演技。雪山での撮影に、当時は代役も、特殊撮影もありませんでした。雪崩までが本物でした。

映画カメラマン H・エアトル「彼女はとても優秀な女優でした。つまり、カメラの前で決して、演技をしないんです。どう振る舞うべきかを常に計算しながら演技する、その辺の女優とは大違いでした。なんというか――役と完全に一体化し、そのものになりきるんです。だからどのような演技も本当に自然でした。それが、レニの魅力です。」

無声映画から、トーキーの時代へ。

「ハロー、
ハロー?」
「まあ。
眺めのいいこと」
「まずは
基本を」
「基本…。
基本が大事よ」

次から次へと出演依頼が舞い込み、新進女優のレニは、アクションからメロドラマまで、幅広い役をこなしました。しかしそれらは、レニの野心を満たすものではありませんでした。

「白銀の乱舞」
1931年

右端の写真
は、雪を顔に塗りたくられるシーン

レニを女優として抜擢したアルノルト・ファンク監督は、カメラワークに関する、彼女の隠れた才能を見出します。レニは撮影の合間を惜しんで、カメラや機材の扱い方、露出や現像、編集の技術を学びました。

「青の光」
1932年

1931年には、彼女は自ら脚本を書き、早くも初の主演・監督作品に挑んでいます。

美貌

銀幕の才媛さいえん、レニ・リーフェンシュタール。彼女の美貌は、周りの男たちの心を捉えずにはいませんでした。

「モンブラン
の嵐」
1930年

俳優 B・フライターク「そりゃあ、魅力的でしたよ。均整の取れた体つきといい、物腰といい、相手を見るときの目といいね。彼女なら、そう――10人とは言いませんが、2、3人の俳優を自分の虜にするなんてことは、いともたやすい仕事だったでしょう。」

レニは、共演した俳優や仕事仲間と、何度も情熱的な恋に落ちています。男たちはレニの気を引こうと、さや当てを演じました。しかし、戯れの恋は、結局どれも長続きはしませんでした。人生を共にする運命の人は、まだレニの前に現れていませんでした。

ヒトラーとの出会い

1930年代初めのドイツ。アドルフ・ヒトラーは、政権奪取への野望を胸に、各地で精力的な遊説を行っていました。レニ・リーフェンシュタールは、何気なく参加したナチスの政治集会で、ヒトラーの激しい弁舌に魅せられたのです。

ヒトラー「100万…200万…300万…400万…500万…600万…700万。失業者は700万人になるだろう。」

後年、レニは、このときの運命的な出会いについて、回想しています。『――まるで、みるみる地表が盛り上がり、突然真ん中から裂けて、凄まじい勢いの水が噴き出してくるようでした。私はただ、しびれたように、聞き入っていました。』

レニはヒトラーに手紙を書きます。それが、運命的な友情の始まりでした。

映画史家 H・ホフマン「実は、ヒトラーのほうも、彼女の初期の映画作品を見て、感動していたのです。ですから彼は、近づきになりたいというレニの申し出を喜びました。もともと、彼の周りに芸術家などいませんでしたし、芸術家が彼にすり寄ることも、ありませんでした。ですからヒトラーにとってリーフェンシュタールは、彼の芸術への愛に、初めて報いてくれる相手だったのです。」

ナチスのプロパガンダは、聴衆の心をじわじわと麻痺させていきました。

その後、
この表情と手ぶりをする。
この有名な
手ぶりの演説の直後、ヒトラーは
眉を上げて
意外に穏や
かな顔を見せる。

ヒトラー「喜ばしく思おう。未来は我々の手にあるのだ。」

プロパガンダ

大衆を扇動する戦略を立てていたのは、ヒトラーの側近、宣伝相大臣のゲッベルスでした。

ゲッベルス「統治者が成功するためには、まずプロパガンダに成功する必要がある。政治と宣伝は一体である。国の統治がうまくいくかどうかは、政治宣伝いかんにかかっている。」

ゲッベルスは、1933年5月17日付の日記に、こう書き記しています。『――午後、レニ・リーフェンシュタールに会う。私は、ヒトラーの映画を作らないかと提案した。彼女はその企画に、夢中になった。』

戦後50年以上経ったいま、レニは当時を回想して、そのような誘いに夢中になった覚えはない、と主張しています。彼女は、シュタルンベルガー湖畔の邸宅で、追憶の世界に生きています。

〔1998年〕

レニ・リーフェンシュタール「才能があるとは思いませんでした。記録映画を撮ったこともなかったんです。私は監督よりも、女優でいたかった。でも断れなかった。」

もし彼女が言うように、初めは乗り気でなかったのだとしても、その提案は、あまりに魅力的だったのでしょう。それは、映画界での出世と、金と、名誉がもたらされるチャンスでした。

元ヒトラーの世話係 H・デーリング「ベルリンの首相官邸へ彼女は通って来ました。一時はほとんど毎日。日に何度も来ることさえありました。しかしその理由は、道楽や色恋ごとではなく、ビジネス一辺倒でした。彼らは、今度製作する映画について話し合っていたのですが、ヒトラーはなかなか決定を下しませんでした。彼は絶えず新しいアイデアを思いつき、そのたびに、レニは官邸へ呼ばれたんです。」

彼らが計画していたのは、ヒトラーと彼の党に関する、一大宣伝映画でした。

ゲッベルスの日記『レニ・リーフェンシュタールは、ヒトラーと話し合いの末、撮影に取り掛かった。』

映画「信念の勝利」「意志の勝利」「自由の日」

「信念の勝利」
1933年

ニュルンベルク、1933年。レニは、ヒトラーの権力掌握後、初の党大会を記録するという大役を任されました。リーフェンシュタールのカメラの前で、盛大な祝典が執り行われます。彼女は困難な任務に、果敢に取り組みました。

レニの伝記作家 R・ローター「いわば、度胸試しといったところでしょう。なにしろ、初めての記録映画で、いきなりナチスの党大会を任されたんです。信念の勝利は、彼女にとって完璧な出来とはいえませんでした。撮影機材も足りず、現場では、利用できるものを使うしかなかったんです。」

独裁者もまた、自己の演出を手探りで試みていました。その振る舞いは、まだどこか、ぎこちなく見えます。

ナチス式敬礼
をしたまま
右へ振り向くヒトラー
花束を渡しに来た少女と
ナチス式敬礼を交わし、
直後に右隣の人物に
ぎこちなく花束を渡すヒトラー

レニの伝記作家 R・ローター「この時期のヒトラーの映像には、彼自身意識していない、滑稽なしぐさが垣間見られます。ヒトラー自身、カメラの前でどう振る舞うべきか、正確には理解していませんでした。」

明くる1934年。レニ・リーフェンシュタールは、再び党大会を撮るために、ニュルンベルクへ呼び寄せられます。前の年の経験を十二分に生かし、今度こそ準備は万端でした。レニは、ヒトラーに捧げるための映画の撮影に入ります。

1998年

「『意志の勝利』の撮影はたったの10日。当初は私が監督するはずじゃなかったし、どちらかといえば乗り気じゃなかった。監督するより演じたかったから。」

「意志の勝利」は、20世紀における最も効果的なプロパガンダ映画とみなされています。様式化された映像が放つ強烈なメッセージ。それは、個人とはちっぽけな存在であり、国家こそがすべてであるという、ナチスのスローガンです。撮影のために、40人のカメラマンと、何千人ものエキストラが動員されました。そして、主役はただ一人。

「意志の勝利」
1934年

レニの伝記作家 R・ローター「特に変わっていたのは、カメラを据える位置です。彼女は様々な高さから、人物を撮影しました。彼女が意図したのは、群衆がヒトラーを見上げ、ヒトラーが群集を見下ろすという構図です。支配者とその国民の愛を演出したのです。」

ヒトラー「我々は一つの民族でありたい。青年たちよ、民族としてふさわしくあれ。我々の未来に階級や身分はいらない。

君たちの時代に、それらはあってはならない。ドイツは一つの帝国であり、君たちが担うのである。」

元ヒトラーの護衛 W・シュナイダー「レニ・リーフェンシュタールは、ヒトラーが権力を固めるのに欠かせない切り札となりました。映画のなかのヒトラーは、聴衆がそうあれと望むような指導者の姿に見えました。しかし、実像は全く異なっていたんです。ヒトラー自身、私はドイツ最大の役者だと口にしたものです。」

ヒトラーは、自分が登場する場面に満足していました。しかし、一つ物足りない部分に気づきます。それは、彼の力、軍隊をアピールする場面でした。そこで次の作品では、ヒトラーの軍隊が、前面に押し出されることになりました。

映画「自由の日」では、完全武装したヒトラーの帝国が、いかめしい音を立てて、その力を誇示しています。スクリーンに映し出される大量の兵器に、世界が驚きの目をみはりました。今はまだ、ほんの軍事演習にすぎません。しかし4年後、戦闘は現実のものとなるのです。

「自由の日」
1935年

レニは着々と実績を上げ、ナチスの指導者たちとも懇意になりました。

俳優 B・フライターク「レニは、ナチスのリーダーたちとは盛んに握手をしたり、互いに目で合図し合ったりするほどの仲でした。なのに一体どうやって、政治から距離を置けるっていうんでしょう。それとも彼女は本心を隠したまま、ナチスの思想を信奉するふりをしたんでしょうか。私は当時の彼女は、心からナチスに同調していたと思います。いったん深く関わり、あれだけの力を持ってしまうと、権力にあらがうことは非常に難しいでしょう。」

ゲッベルスとの確執

レニの活躍に脅威を覚える宣伝相、ゲッベルス。1933年には、まだ二人の関係は穏やかでした。

ゲッベルスの日記『彼女は、我々を理解する、唯一のスターだ。』

元ゲッベルスの副官 W・V・オーフェン「レニ・リーフェンシュタールは、ヒトラーと非常に良い関係にありました。ヒトラーに願い出れば、映画の撮影に必要なものは何でも手に入れることができたのです。彼女は、あの大規模な映画の制作のために、非常に多くのカメラマンを必要としました。当時は、今日こんにちのように、そんなに多くの技術者はいませんでしたが、とにかく、かき集められるだけの人員を動員したのです。その影響で、ゲッベルスが権限を握る宣伝映画の制作全てが、実際のところ麻痺してしまいました。というわけで、ゲッベルスは、だんだん彼女を憎むようになり、レニもまた、彼に冷たく応じました。ゲッベルスが私の体に触れたとレニが発言したのは、二人の対立が激化した最中さなかのことでした。」

側近たちの争いに気づいたヒトラーは、二人を和解のために、わざわざ引き合わせました。

首相のそばで歓談する二人。

自然のなかでの、仲睦まじい散歩。

報道関係者の前で、二人は元通りの友人を演じました。

ベルリンオリンピックの知られざる事件

1936年、ベルリン。ドイツ第三帝国の首都は、オリンピックの開催に沸いていました。

ヒトラー政権は、世界中からやってくる人々に対して、つかの間の平和の幻想を描いて見せました。

ベルリンオリンピック マラソン優勝者 ソン・ギジョン「私たち選手はとても友好的に歓迎されました。選手村では何度も、パーティや催しに招待されました。しかし、観光はできなかったので、外の様子は全く分かりませんでした。」

独裁者が競技場へ向かいます。平和とスポーツの祭典、オリンピックは、ナチスドイツの晴れ舞台でもありました。ヒトラーは、オリンピックにプロパガンダとしての価値を認め、国庫の金を惜しみなく注ぎました。

映画史家 H・ホフマン「ドイツにやってきた外国人たちの目に、ヒトラーは好感を持てそうな人物に映りました。しかしそれは、仕組まれたイメージでした。競技場の独裁者はバラ色に飾り立てられていたのです。公表されたヒトラーの映像は、周到な準備と検閲を経て選ばれたものばかりでした。彼は常に、ある種のオーラを帯びた存在として演出され、スポーツの持つすがすがしいイメージが、重ね合わされていたのです。」

これは、当時検閲によってねられた映像です。観戦の間じゅう、夢遊病者のように体を揺らすヒトラー総統。(註:写真下。ヒトラーは前後、左右にせわしなく身体を揺らし続ける。これは観戦するために身を乗り出しているのではなく、極めて不自然に見える。このような所作をする者は、無論だが周囲の幹部たちのなかには一人もいない。)

独裁者の威厳を損なう映像は、世間には伏せられていました。

映画カメラマン H・エアトル「撮影中、ある事件が起こりました。それは、水泳競技場でのことでした。帽子をかぶった若い美しい女性が、突然場内に現れました。彼女は花束を抱えながら、ヒトラーの座っているところまで駆け寄っていったんです。もちろんそれは、本来許されることではないのですが、彼女は、花束を持ってヒトラーに近づきました。そして驚いたことに、花束を差し出すと同時に彼に抱き着き、大観衆の目の前で激しくキスしたのです。」

ハグされた
瞬間
驚いて跳ね
除けるヒトラー

映画カメラマン H・エアトル「そのあとすぐ、我々のもとへナチスの親衛隊がやってきて、今撮影したフィルムを差し出せと要求してきました。レニはしばらく彼らと言い争っていましたが、私たちに、今の部分だけを切り離して渡すようにと言いました。」

映画「オリンピア」

レニ・リーフェンシュタールは、スポーツの祭典をテーマとした壮大な映像の叙事詩に取り組みます。撮影は競技場の外でも行われました。バルト海沿岸で、レニはモデルを使ってスポーツの原点のイメージを描きます。力と美。肉体の美しさ。それは時代の理想であり、彼女の理想でした。

美しいものにしか興味はない。レニ・リーフェンシュタールは、戦後、この映像がファシスト的だと一部から非難されるたびに、こう答えました。

様々な民族のヒーローたち。ナチスが行った人種差別は、映画のなかでは押し隠されています。

オリンピック終了後、レニ・リーフェンシュタールは、膨大な撮影フィルムと共に編集室に籠りました。2部からなる、計4時間の大作が完成したのは、2年後のことでした。

「撮影したフィルムに一通り目を通すには、毎日10時間見て、10週間かかりました。編集前の素材フィルムは10万メートル。そこからたった4時間分を選んで編集するんです。気の遠くなるような作業でした。」

こうしてレニは、スポーツを芸術に高め、映画史に残す傑作を生みだします。(写真下:「オリンピア」1938年)

1938年、この映画は、レニの希望でヒトラーの誕生日に封切られました。独裁者は感激し、大いに満足します。

壇上のゲッベルス「1938年度のドイツ国家賞は、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』2部作に決定。」

元ヒトラーの護衛 W・シュナイダー「レニ・リーフェンシュタールの芸術的才能は、ナチスドイツの政治宣伝に役立ち、美しい体裁を与えました。その意味で彼女は、党の立役者でした。」

封切り後、映画は諸外国でも有名になりました。監督は、映画共に世界巡業の旅へ出ます。隣国オーストリアは、ヒトラーによってドイツに併合されたばかりでした。

レニ・リーフェンシュタール「ウィーンでの封切りに立ち会えて光栄です。オーストリアは5年ぶり。総統が政権に就いてからは、初めてです。」

ヒトラーとの関係

同じころ、ニュルンベルクのカーニバルでは、グロテスクな反ユダヤ主義が、大衆の娯楽となっていました。

過激さを増す、ナチスの反ユダヤ政策。その大物指導者にはレニの友人がいました。ユリウス・ストライヒャー。戦後死刑に処せられた、戦犯の一人です。

ユリウス・ストライヒャー「人種の純粋性を失った国は、必ず破滅する。」

1938年、彼はレニに宛ててこう書いています。『親愛なるレニ。君と過ごす時間はいつも有意義だ。その笑顔で大きな使命を全うしてくれ。君のユリウス・ストライヒャー』

1938年11月。水晶の夜と呼ばれる、大規模なユダヤ人襲撃事件が起こり、これを境にナチスドイツは、公然と反ユダヤ政策を打ち出します。

レニは、当時ドイツには居合わせませんでした。彼女はそのころ、アメリカを訪問していました。報道陣は、皆の関心事を、彼女にぶつけました。

――ヒトラーの恋人との報道は?

「いえ、それは作り話です。」

――事実は?

「恋人ではないわ。」

――古い友人?

「ええ。1932年以来だから。首相就任の1年前からです。」

ヒトラーと美貌の映画監督の関係は、ドイツでも噂の種でした。果たして二人のあいだに、友情以上の関係はあったのでしょうか。

1939年、レニは、南チロルの山荘で、夏の休暇を過ごしていました。彼女の誕生日は8月22日。その3日後、ベルリンの首相官邸にレニからヒトラーに宛てた1通の電報が届きました。

『――総統が下さったお祝いの言葉は、何より素晴らしいものでした。深紅の花に触れるたびに、私は言葉にできないほどの幸せを感じています。』

この電報を、現在の彼女は、偽物だと主張しています。

戦争の足音が近づくベルリンで、ヒトラーはとてつもない、大きな計画を練っていました。ベルリンの街を大改造し、世界の首都、ゲルマニアを築くのです。

設計図には、ある広大な施設が描かれていました。総面積26,000平方メートルに及ぶ、リーフェンシュタールのスタジオ。それは、ヒトラーの彼女への友情の証でした。

元ヒトラーの護衛 W・シュナイダー「ある日、ベルリンの首相官邸で、大広間に食卓を整えるよう命令されました。やがて、親衛隊のブリュックナー大将が、レニ・リーフェンシュタールを連れて現れ、そこへヒトラー総統がやってきました。二人は挨拶を交わしましたが……そのときの様子は、強烈に私の記憶に焼き付いています。総統を見つめる彼女の美しい瞳が、ぎらぎらと燃えるように輝いていたんです。なにか、普通じゃない感じが漂っていました。」

ヒトラーはレニの才能を讃え、レニは彼を指導者と仰ぐ。良好な関係は、戦争に入っても続きます。

凄惨な前線でのショック

1939年9月、第二次世界大戦の火蓋は、ポーランドで切られました。最高司令官は、直ちに戦地に赴きます。

レニもまた、ヒトラーのあとを追うように、ポーランドへと向かいました。ドイツ軍の活躍を撮るためです。

映画のナレーション「流血戦や、戦場での困難に、兵士たちはよく耐え抜いた。」

あるドイツ人のアルバムに残された、リーフェンシュタールの前線訪問の写真。彼女は、勝利に沸く兵士たちを撮影するつもりでした。しかし、予想もしない事件が起こります。前線の野営地で、国防軍の兵士たちが銃撃されたのです。

映画カメラマン G・ランチュナー「野営地を撮影しようとしていた矢先でした。思いがけない事件が起きて、何人もの人が死に、それを見た彼女は動揺して、結局撮影を取りやめました。」

墓を掘ら
されるユダヤ人の人々
銃殺さ
れた通りの現場写真

国防軍兵士の怒りのはけ口は、事件とは無関係な人々に向けられました。ポーランドのユダヤ人たちが兵士の墓を掘らされ、通りで銃殺されたのです。レニ・リーフェンシュタールは、凄惨な場面を目撃し、戦争の現実に直面しました。

映画カメラマン G・ランチュナー「ショックを受けた彼女は、撮影するどころではなくなってしまいました。彼女は、ただその悪夢の場所を、一刻も早く離れたかったんです。」

映画「低地」~結婚

戦闘の撮影から手を引いたあとも、彼女のパトロンに対する従順さは、変わることはありませんでした。

快進撃を続けるナチスドイツは、間もなくフランスを占領します。このとき、彼女がヒトラーに宛てた祝電は、本物であることに疑いはありません。

『私の総統。あなたの、そしてドイツの偉大な勝利をお祝いいたします。言葉だけでは、私の感動を十分にお伝えすることはできません。あなたのレニ・リーフェンシュタールより』

戦時中のレニ・リーフェンシュタールは、かねてから希望していた劇映画、「低地」の撮影に力を注ぎました。それは、彼女にとって2作目の劇映画への挑戦でした。

「低地」の
撮影現場

「低地」の撮影は、ドイツ南部のミッテンバルトで行われました。撮影スケジュールは、1年、また1年と伸びていきます。戦争と無関係の作品を彼女が撮り続けられたのは、権力の庇護あってのことでした。

映画カメラマン H・ヘルシャー「撮影中――あれは秋のことでしたが――大雪に見舞われて、一面真っ白になってしまいました。撮影するシーンに雪は邪魔なので、彼女は首相官邸の誰かに電話し、すぐに中隊を送って、屋根の雪を払ってくれるようにと頼みました。そして実際、中隊がやってきました。その隊長が、ペーター・ヤーコブです。ヤーコブはレニに会うなり、私と私の部下に雪かきをしろとはいかれたやつだ、とぶっきらぼうに言ったそうです。このあとレニは彼に夢中になりました。驚いたことに、戦争末期には彼と本当に結婚したのです。」

しかし、この結婚も長くは続かず、戦後まもなく解消されることになります。

戦後の活動と主張

劇映画「低地」が完成したころ、すでに世間は戦争一色に染まり、軍事上重要でない映画が上映される機会はなくなっていました。誰の目から見ても、戦況は次第にドイツにとって不利になっていきます。

1944年、レニ・リーフェンシュタールは、ヒトラーの山荘を訪問します。二人の最後の面会になるこの日、独裁者は意気消沈した表情を見せました。

1944年5月。ドイツの全面降伏により、ヨーロッパでの戦争は終わりました。連合国軍は、ナチスドイツの戦争責任者、およびその協力者を徹底的に洗い出します。映画監督、レニ・リーフェンシュタールもまた、ナチスドイツの重要人物として、拘禁され、尋問を受けました。

元アメリカ軍士官 I・ローゼンバウム「第一印象というか、尋問中の彼女は、内面が壊れてしまった病人のようでした。実際、身体の調子が悪いようでした。私たちは彼女のことを、ゲッベルスやヒトラーの友人として、ナチスに進んで協力した人物と思っていました。しかしそうした大胆不敵なイメージは、目の前の弱々しい女性とは一致しませんでした。彼女はとても打ちのめされていました。できることなら、すべてを忘れ去りたかったんだと思います。」

ナチスのプロパガンダに加担した責任を問われ、彼女はその後、厳しい批判にさらされ続けることになります。

元アメリカ軍士官 I・ローゼンバウム「リーフェンシュタールは、自分のしたことや、その社会的責任について、理解できていたと思います。しかし、彼女は認めることを拒絶しました。そうすることで、自分の威厳を守り、正当化したかったのでしょう。しかし、彼女の言動は欺瞞に満ちていました。彼女自身でさえ、自分の弁解に、せいぜい半分しか真実味を感じなかったに違いありません。」

取り調べによって、レニ・リーフェンシュタールは、ナチスのシンパであったとの結論が下されました。その後も彼女は、自分は政治とは無関係であり、戦後の評価は不当であると主張し続けています。

レニ・リーフェンシュタール(1998年)「世間は私を抹殺したのよ。映像の仕事を愛し、没頭し、新しい芸術を模索する私を、50年間も映画製作から遠ざけた。死ねというのに等しい行為だわ。」

彼女は、映画界で働くことを禁じられたわけではありません。1956年には、劇映画、「黒い積み荷」の撮影が、アフリカで開始されました。

映画カメラマン H・ヘルシャー「『黒い積み荷』は、ある研究者の物語です。中央アフリカで失踪した夫を捜索するために、妻はある奴隷商人と共に出発します。奴隷の輸送シーンなど、撮影は実際に、アフリカの原野で行われる予定でした。」

撮影シーンを練るために、現地で数か月が経過しました。その間、撮影したフィルムは、1メートルにも及びませんでした。

映画カメラマン H・ヘルシャー「長い時間がたち、撮影用の船なども出来上がっているのに、いつ、どのシーンを撮るかといった具体的な計画がなかったんです。こんな悠長でばかげたやり方は、もはや、通用しませんでした。」

レニは、この映画で自ら主役を演じ、女優として再起するつもりでした。しかし、ようやくいくつかのテスト撮影が開始された矢先、出資者が映画から手を引くことを決断したのです。撮影は頓挫とんざしました。

映画カメラマン H・ヘルシャー「当時の監督はみんな、同じような条件で映画を製作していたわけですし、彼女だけが特に冷たくあしらわれたのではありません。しかし彼女は、そのような条件に妥協できなかった。彼女は葬られたのではなく、自ら挫折したんです。」

レニはアフリカ大陸で、映画以外に打ち込むものを見出しました。やがてスーダンのヌバ族をテーマとした写真集を出します。

レニ・リーフェンシュタール「待って。いいですか?1934年に私が監督した『意志の勝利』のことなら、あれは単なる記録で、思想とは無関係よ。」

映画史家 H・ホフマン「彼女は自分だけの真実のなかに生き、自分の言動に矛盾を感じてすらいません。彼女はもちろんナチスのユダヤ人政策を非難していますが、そのこととヒトラー自身、あるいは彼女とヒトラーとの関係は、まったく別次元の話だと信じ切っているんです。」

レニ・リーフェンシュタール(1976年)「何十年も魔女のように扱われ、神経が参ってしまいました。心ない中小に、どれほど痛めつけられたか。」

いま、世界は20世紀を振り返り、レニ・リーフェンシュタールの途方もない才能とその影響を、客観的に評価しなおそうとしています。しかし、自分のしたことを時代がどう評価するか、彼女自身はもはや関心すら払っていません。

レニ・リーフェンシュタール(2000年)「人生を全うするのみです。そろそろ幕引きが近いわ。世間の評価などどうでもいいの。」

人生という舞台の上で、レニ・リーフェンシュタールは、自分の役を演じ切ろうとしています。真実は彼女のなかにあり、彼女と共に、消えていくのです。

<終>

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