ルドルフ・ヘス
ルドルフ・ヘス ~謎の死 ネオナチのヒーロー~
1941年5月10日、ドイツの爆撃機およそ500機がロンドンに襲いかかりました。すでにその半年前イギリスを空から叩くのに失敗したドイツ空軍は、一矢報いるべく大編隊を送り込んだのです。同じ日、別の一機がやはりドイツからイギリスを目指しました。操縦するのはナチス総統代理、ルドルフ・ヘス。だが彼は知りませんでした。その日から永遠に囚われの身となることを。そして何十年ものちに、ネオナチが彼を伝説の人にしてしまうことを。
(ルドルフ・ヘスの息子 W・R・ヘス)「父は生前言っていました。ネオナチがやっていることを、自分は決して支持しない。あれはドイツに害をなすだけの、誤った行為なのだと。ですから父はネオナチに英雄扱いされて喜ぶどころか、彼らを愚か者呼ばわりしていたのです。」
(ヒトラーを前にしたヘスの演説)「我らが総統はドイツそのものである。総統が行動し決断するとき、国民はどこまでも付き従う。」
(当時 シュパンダウ刑務所長 T・ルティシエ)「ヘスは、自分の過去やナチスがやったことに関して、全く反省も後悔もしていませんでした。彼のかたくなな態度は息を引き取るまで変わることなく、ただただ自分を正当化し続けていたのです。ですから、私にとって彼は好感の持てる人物ではありませんでした。」
(当時ヒトラーの副官 R・シュピッツィ)「ヒトラーのそばにいた頃から、彼は周りからかなりの変人だと思われていました。時折奇妙なことを言ったり、夢想にふけったりする傾向があったんです。怪しげな薬草学者を信じて食事療法に凝っていたこともありました。」
(ヒトラーを前にしたヘスの演説)「党はヒトラーである。ヒトラーとドイツは常に一体である。勝利万歳。」
生い立ち
<エジプト・アレクサンドリア>
ルドルフ・ヘスは、1894年、エジプトのアレクサンドリアで生まれました。両親はともに愛国心の強いドイツ人。父親は貿易商として成功し、一家の生活はとても裕福でした。母親は常にルドルフに優しく接しました。いっぽう父親は、口答えを許さない厳しい人でした。
(ヘスの若い頃の友人 S・カモーラ)「ヘスの一家は、ドイツ人としての誇りや、愛国心をとても大切にしていました。家の中や暮らしぶりは、ドイツそのものといった感じで特に家父長的な父親は、オフィスの正面の壁にドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の肖像を掲げていました。そして皇帝の誕生日にはワインをあけ、みんなで皇帝の健康のために祈りを捧げました。」
父親の考えで、ヘス一家は夏は必ずドイツの別荘で過ごしました。父親は長男のルドルフが自分の跡を継ぐと決めていました。本人の意思を確かめようともしません。反抗することを知らなかったルドルフは、やがて自分が商人に向かないことを自覚し、悩みました。
(ヘスの義妹 I・プレール)「彼は父親に命じられ、二十歳になるまでハンブルクで商人としての修業をしました。けれどもついに父親の意向に背いて、わが道を選び取ったんです。」
時代も、ルドルフに味方しました。第一次世界大戦の勃発により、ドイツ皇帝は動員令を発布。兵役を志願することは、父親に背いてでも意義のあることと、彼は周りを納得させました。幼い頃から愛国心を培われた青年は、戦場でかつてない喜びを見出します。
歩兵連隊に所属したヘスは、西部戦線に参加。勲章を与えられるほどの勇敢な働きを示しました。二十歳の彼は、戦争に魅入られました。燃えている村々は感動するほど美しいと、彼は戦争賛美の手紙を両親に書き送っています。
しかし敗戦。拠り所を失ったヘスはミュンヘン大学で模索の日々を過ごします。そこで出会ったハウスホーファー教授の「地政学と生存圏構想」は、のちのちナチスの思想に影響を及ぼすことになります。だがこの時はまだ、ヒトラーの存在を知りません。1918年の革命でドイツ皇帝が退位すると、ヘスは強いショックを受けました。
<1918年の革命によって、私は初めてユダヤ人への憎悪の念を抱いた。革命は彼らの陰謀だった。>
ヒトラーへの無条件服従
ヘスの国粋主義的な思想がヒトラーのもとに導かれるのに、そう時間はかかりませんでした。1920年、彼はアドルフ・ヒトラーに無条件の服従を誓いました。16番目の党員。ナチスの揺籃期、ヘスは突撃隊の人員を拡充するために奔走します。所期のナチスは暴力による政権奪取を目指しました。ヘスにとって暴動は戦場に代わる大舞台です。彼は向こう見ずで鳴らし、ヒトラーに気に入られました。犠牲者を祭るナチスの儀式では、彼は常に最前列を闊歩しました。
声:ヒトラー<初期の暴動で犠牲者となった兵士たち。彼らの献身なくしてドイツの将来はなかった。>
多くの犠牲者を出した最初の事件は、1923年のミュンヘン一揆でした。クーデターの企ては失敗し、首謀者の一人として、ヘスも逮捕されました。
「ヘスと私の姉イルゼは同志だったので、ラウツベルクの刑務所に姉となんとか、ヘスに会いに行きました。監獄といってもわりと居心地の良い場所で、面会室では相手とゆっくり話すことができました。看守の警官も寛容で、部屋の隅で居眠りしていたりしました。」(ヘスの妻イルゼの妹 I・ブレール)
この獄中で、ヘスは思いがけなく、心酔する指導者ヒトラーと語り合う時間を得たのです。彼はヒトラーのわが闘争の口述筆記を引き受けました。“僕は以前にもまして彼を尊敬し、愛している”と、ヘスは恋人イルゼに書き送っています。
時代の不安を養分として、ナチスは再び活動を始めます。釈放後のヘスは、仕事の斡旋を断り、ナチス再建に没頭します。彼が得た肩書は、ヒトラーの個人秘書というものでした。この時期、どのような集会でも、パレードでも、ヒトラーの背後には指導者を仰ぐヘスの姿がありました。
「ヘスは、ヒトラーへの絶対的服従を愚直なまでに貫きました。彼にとってヒトラー総統は、生涯の師であり、また、神聖なる救世主でした。」(ヒトラーの報道顧問の息子 E・ハンフシュテングル)
イルゼとの結婚
1927年、ヘスは、8年越しの恋人であり、同志でもあるイルゼと結婚しました。
「姉もヘスも控えめな性格でしたから、決して情熱に走らず、結婚を焦ってもいませんでした。でも物騒な時代だし早く身を固めたほうがいいと、周りに勧められたのです。」(ヘスの妻イルゼの妹 I・ブレール)
結婚の立会人は、ヒトラーでした。党員である妻は、ヒトラーに傾倒する夫に寛大でした。やがて各地を飛び回る夫から、知らせが届きます。
“夢かまことか、僕は今、首相官邸の執務室にヒトラーとともにいる。”<1933年1月 ヒトラー内閣成立>
この時ヘスは、ナチス総統代理に昇進しました。
清廉な党の看板
<映画「石の言葉」1939年 行進するドイツが、ミュンヘンの街を刷新します。>
建設ラッシュ。ミュンヘンに出現した巨大な党本部は、ナチスの誇大妄想を体現するかのようでした。
<1933年3月 全権委任法可決 ヒトラーは議会を無力化した。>
労働組合は解散。反体制的な書物は焼き捨て、弾圧と暴力をちりばめた社会には、徐々に無抵抗と服従が広がっていきました。服従のお手本は、総統代理その人です。しかし、ヒトラーの忠実な部下ヘスの影響力は、このころから少しずつ下降し始めるのです。
「ヘスは、ナチス総統代理という一見ヒトラーに次ぐ立場にあったわけですが、実はヒトラーが政権を握った後、党の民意や影響力は薄れる一方だったのです。なぜなら、ヒトラーもあまり党の力に頼らずともドイツ国家を統治できました。側近たちの一部は、ナチスを単に総統崇拝を煽る合唱クラブとみなしていました。」(当時 ヒトラーの副官 R・シュピッツィ)
巨大な権力がヒトラーに集中したとき、忠実なヘスとは対照的に、分け前を要求する同志も現れました。最もあからさまに権力を欲したのは、突撃隊指導者、レームでした。彼はヒトラーを、お前と呼ぶ古い同志でした。しかし1934年、レームは反逆者の汚名のもと、銃殺されます。
<「突撃隊はこれまで、総統への忠誠を貫いてきた。総統もまた、彼らに対して誠実をもってこたえる。罪ある者は罰せられた。突撃隊と総統の関係は変わらない。」(註:ヘスの言葉)>
熾烈な権力ゲーム。総統代理の肩書こそ華やかですが、ヘスは次第に追い抜かれます。ヒトラーが求めるのは、有能な行政の専門家。だがヘスは、本質的に党の活動家でした。ヘスが好むのは、党の理想によって、群衆を奮起させることでした。たとえばこの、外国に住むドイツ人への演説のように。
「ここに集まった大勢の諸君は、偉大なるドイツ民族の一員である。ドイツ民族共同体の力は、国境を越えて広がる。諸君がその事実を示すのだ。ドイツは前進し続ける。アドルフ・ヒトラーと共に。」(註:ヘスの演説)
壇上のヘスは、宗教的な情熱さえ漂わせます。
「これより宣誓を行う。我々はアドルフ・ヒトラーに対し、固く忠誠を誓う。総統に対して、および総統が定めた指導者に対して。無条件の服従を誓う。」
「ヘスは、都合のいい党の看板でした。なぜなら彼ほどヒトラー一筋で、裏のない人物はいませんでした。平凡だが忠実なしもべは、おおいに利用価値がありました。」(当時 ヒトラーの副官 R・シュピッツィ)
取り巻きに囲まれ、私腹を肥やしたほかの側近たちに比べれば、確かにヘスは清廉潔白な人物でした。ヘスの暮らしは、小市民的といえるほど、つつましやかでした。酒もたばこも口にせず、息子の誕生祝などのほかは、来客もまれでした。来客名簿のページには、アドルフ・ヒトラーのサインが見えます。
知らされなかった水晶の夜
<1938年11月9日 「水晶の夜」。ドイツ人外交官暗殺の報復として、突撃隊がユダヤ人を襲撃した。>
「あれは彼の息子の1歳の誕生日でした。お祝いの準備が整い、みんなが揃うのを待っていた時、彼が暗い表情で部屋に入ってきたのを覚えています。青ざめていました。みんなが心配してわけを尋ね、それで、ユダヤ人襲撃事件を知ったのですが、彼が不快である理由はすぐにわかりました。彼は自分に知らされずに行われたことに、愕然としたのです。」(当時 ヘスの私設秘書 H・ファート)
しかしヘスは、ナチスによるユダヤ人迫害に無縁ではありません。人種差別的な法案が通るたびに、ヘスは閣僚として署名しました。ユダヤ人の医師と弁護士は、就業を禁止。ポーランドのユダヤ人に対しては、厳しい刑罰が導入されました。
「ヘスはあの時代の、ナチスの犯罪の完全な共犯者でした。なぜなら彼は党に対して全く無批判であり、まわりにも批判させまいとしたからです。ヒトラーへの彼の忠誠心は、たとえ彼が総統自身からあまり顧みられなくなっても変わらなかったし、かえって異様なほどに純粋さを増しました。」(当時の党大会参加者 A・ハンブルガー)
ヒトラーにお目通りできる機会が減るのと並行するかのように、ヘスは体の不調を訴えるようになります。イギリスから親ドイツ派のウィンザー侯爵が訪れた際、ヘスはこれでイギリスとの友情が築かれたと考えます。だが親ドイツ派は、イギリスでは少数派に過ぎません。ヘスには、外交関係の虚実を読む力がありませんでした。ヒトラーは外交を友情には頼りません。戦争の脅しをかけ、ヨーロッパ諸国から徹底的に譲歩を引き出します。
<1938年9月 ミュンヘン協定 ドイツはズデーテン地方の割譲を英仏伊3国に認めさせた。>
「義兄のヘスは神経を張りつめることが多い性格で、****(註:聞き取れず)として見えることがありました。彼は体に気を遣い、独特の疲労回復法を毎晩規則正しく行っていました。夕食後彼はベッドで身体をまっすぐにのばし、15分ほど身じろぎもしません。するとそのあとは、うって変わって、元気な様子に戻るんです。」(ヘスの妻イルゼの妹 I・ブレール)
格下げ
戦争の影が迫るころ、ヘスは国政にほとんど関与せず、実質的に引きこもっていました。総統代理は平和への意思を断言します。おそらくは、総統の腹の内を知らずに。
「総統は平和への意思を何度も公言された。総統の確かな意思は、周辺諸国を目覚めさせ、必ず実を結ぶであろう。前線に立つ兵士たちも、平和への声をあげている。」(註:ヘスの演説)
<1939年9月 ドイツ軍ポーランド侵攻 第二次世界大戦へ>
ヒトラーの思惑は成功。電撃的な戦いで、ドイツ軍はポーランドの全土を席巻します。開戦とともに、ヒトラーは党内の序列について重要な発言を行いました。
「私の身にもしものことがあった場合、私の後継者はゲーリングである。その次の人物はヘスである。」(註:ヒトラーの声)
総統代理にとって、これは格下げの宣告を意味しました。
<1940年5月 フランスへ侵攻 6週間で制圧>
フランスをあっけなく打ち破ったヒトラーも、対イギリス戦の戦略については迷いました。和平交渉の余地を残したかったからです。
「ドイツはイギリスへの友情を繰り返し示してきた。友情は片方からのみ示すものではない。」
初戦の華々しい進撃で、ヒトラーは自信を深めていました。チャーチルに講和を決意させるため、ドイツ軍はイギリス本土への空爆に踏み切ります。しかし、敵が早々に態度を変えるという見込みは外れ、イギリスとの戦いは、ドイツ軍の重荷になりました。
「ある日、ヘスは首相官邸での食事に招かれました。食事が終わるころ、ヒトラーの部下が報告に入ってきました。イギリスは応じる気がありません、とその部下は言いました。当時の私には意味不明でしたが、和平交渉のことだったのでしょう。ヒトラーは言いました。やれやれ、まさかあそこまで出向いて平身低頭するなどできないからな。その言葉をヘスは聞いていました。」(当時 ヒトラー司令部兵士 R・ミッシュ)
和平の模索~ヒトラーとの永遠の別れ
首相官邸での議論が軍事一色に染まるころ、孤独なヘスは、恩師ハウスホーファー教授を訪ねます。生存権という概念を、彼に吹き込んだ人物です。教授とどのような会話がなされたかは謎ですが、ヘスは突然、単身イギリスに赴いて和平の糸口をつかもうと決意します。ヒトラーの許可なしには大逆罪にあたる行為ですが、彼は決意を誰にも明かしませんでした。
「彼は演説原稿を、私に口述筆記させました。ですから彼がイギリスの要人に接近しようとしていることはわかりました。いったいどんな方法を取るのか知りたかったのですが、記述が終わると、ヘスはこの原稿については、絶対に漏らすなといいました。」(当時 ヘスの秘書 L・シュレーデル)
ヘスは軍需工場を訪ね、飛行機を手に入れようとしますが、もちろんその意図はひた隠しにします。
「ヘス総統代理はこう言いました。自分が空軍の兵士としても役立つことを、総統に証明して見せたい。そのために、少々長距離の飛行をしたいので、一機調達してほしいのだと。私たちには、断る理由などありませんでした。で、何の疑いもなく準備を整えました。」(当時 テストパイロット F・フォス)
<1941年5月4日>1941年5月4日、この日が、総統代理ヘスが、公の場に登場した最後の日です。
「総統は今回の南東部での比類なき戦果によって、チャーチルに報復しました。」
対イギリス戦でつまずいたヒトラーは、180度方向を変えたソビエトへの侵攻を、1か月後に予定していました。ヘスはさらにもう一度、首相官邸でヒトラーと会っています。二人で4時間にわたる会談が行われましたが、ヘスの計画は気づかれませんでした。彼は、これがヒトラー総統との永遠の別れになると予想したでしょうか。
イギリスへの単独飛行
1941年5月10日、ヘスは、イギリスへの単独飛行を決行しました。目的地は、スコットランドのハミルトン公爵の別荘でした。公爵とは、ベルリンオリンピックのときに知り合っただけで、懇意というわけではありません。しかしヘスは、その人物が自分の意図をイギリス政府に伝えてくれると期待しました。皮肉にもハミルトン公爵は、スコットランドでの対空防衛を指揮していました。しかしヘスは幸運でした。迎撃を避け、追跡を振り切って目的に到達します。
「私たちは敵機を発見しましたが、迎え撃てないほどの上空を猛スピードで通過したので、あきらめざるを得ませんでした。だが、たった一機なので、大した被害はあるまいと思いました。」(当時 イギリスの対空防衛隊 S・ジョンストン)
不確かな未来へ、ヘスは思い切って飛び込んでいきます。彼のパラシュートは、予定地点からほんの数キロしか離れていない場所へ落下しました。その頃ヒトラーは、彼の山荘にいました。そこへ、ヒトラーに宛てたヘスの別れの手紙が届けられます。
「あのヘスがいったい何でこんなことを、とヒトラーは絶句しました。全くの人騒がせでした。何が起きたのか、どう対処すべきなのか、見当もつかないのです。ヘスの安否についても、イギリスから情報が漏れてくるまで、わかりませんでした。」(当時 ヒトラー司令部兵士 R・ミッシュ)
墜落した、ヘスの飛行機。着地を決めた直後から、彼の計算は大きく外れました。地元の民兵隊が彼を捕え、監禁します。ヘスは名前を偽り、ハミルトン公爵との面会を希望しました。
「ハミルトン公爵たちは、真夜中に到着しました。私は、監視していた人物のもとへと案内し、一応、その場を辞しました。しかし、私はとても興味をそそられていたので、ドアの上に手鏡を置き、成り行きをうかがいました。彼がかなりの大物で、これから重大な会談が行われると直感したからです。その人物、つまりヘスは、ベッドに上半身を起こし、盛んに話しかけていました。」(当時 イギリス軍保安将校 R・ショウ)
翌日のロンドン。ヘスの飛来と同じころ、ドイツ空軍が大規模な空襲を仕掛けました。街は混乱しています。チャーチルはこの対策に忙殺され、まだスコットランドで起きた事件を知らされてもいません。
「父はチャーチル首相に会いに行き、一部始終を伝えました。あのヒトラー総統の代理人が、今ここにとらわれているというのかね、とチャーチルは呆れたそうです。父はその男が、自分はルドルフ・ヘスだと名乗ったのだと言いました。だがチャーチルは、事実であろうとなかろうと、私はこれから映画を見に行くんでねと、その場を去りました。」(ハミルトン公爵の息子 J・ハミルトン)
失敗~自殺未遂
一方、ヒトラーの山荘では、延々対策が話し合われていました。連合国側は、ヘスの行動をどう受け取るでしょうか。ヒトラーは、ヘスを切り捨てることを決断します。
<「5月10日土曜日の18時ころ、党員ヘスは1人で飛び立ち、本日に至るまで戻ってきていない。遺された手紙の支離滅裂な内容から見て、彼は遺憾ながら精神に錯乱をきたしている。総統はただちに指令を出し、ヘスの副官を逮捕した。」>(註:ラジオニュースの音声)
「あの事件後、私たちはゲシュタポに監禁され、その時に彼の手紙を見せられました。あるいは実物でなく、写しかも知れませんが、とにかく彼が総統に宛てた別れの手紙です。その中に感動する一説がありました。どうかこの件で私の部下たち、副官や、運転手や、その他の人々をとがめないでください、と書き記していたのです。ヘスは、総統の気まぐれな怒りが部下に及ぶことを、心配してくれていたのです。」(当時 ヘスの私設秘書 H・ファート)
ヘスは、ロンドンへ伴われます。しかしこの突然の来訪者は、イギリスにとって都合の悪い存在でした。チャーチルはソビエト政府への手前、ナチスドイツと取引していると思われるのを恐れました。ヘスは、海を隔てた両側の首相から切り捨てられたのです。
<1941年6月 ドイツ軍ソ連に侵攻 二正面戦争始まる>
独ソ戦の開始後、ヘスの問題はヒトラー総統の念頭から消えていきます。空いてしまった総統代理の職には、誰も任命されませんでした。ヒトラーはもう、自分の代理を必要としません。ヘスの部下だったマルティン・ボルマンは、総統の重要な側近に昇格しました。
(シュペーア元軍需相〔回想〕)「総統は、ヘスの引き渡しが実現したら、ただちに反逆罪で起訴し、死刑に処すつもりでした。」
拘禁先から、ヘスが書いたヒトラーへの手紙。彼は自分が失敗したことを認めています。自分の何が間違いだったか、思い悩むヘスは自殺未遂事件を引き起こしました。
ニュルンベルク裁判と証言
<ニュルンベルク>
4年後、廃墟の国と化したドイツ。かつてナチスの党大会が開かれた街で、連合国側はヒトラーの側近たちを戦争裁判にかけました。ヘスにとって、この4年間は空白に等しい月日でした。
「法廷の被告人は誰もかつての大物とは思えないみすぼらしい印象でした。国を牛耳っていたころの面影はなく、皆痩せて、縮こまって見えました。」(当時 裁判の傍聴人 S・V・パチェンスキ)
ヘスもこの法廷で、戦争犯罪人として裁かれています。
「被告人には、審理に耐える能力がないおそれがあります。」(註:裁判所の音声)
ヘスは最初のうち、自分が記憶喪失に陥っているという虚偽の申し立てをしていました。しかし2週間後、彼の態度は突然変化します。
「審理に耐える能力がないという意見に対し、自ら反論を提示します。記憶喪失の申し立ては意図的なものです。」(註:裁判でのヘスの証言)
最終的に、ヘスには終身刑が言い渡されました。
「振り返ってみれば、ヘスに対するあの判決は、重すぎたかもしれません。」(当時 アメリカ側検事 W・ジャクソン)
判決後の、ヘスの最後の証言。
「人生の長い月日を、最も偉大なる人物の下で過ごし得ました。ドイツの歴史が生んだ、史上最大の英雄の下でです。もしやり直せるとしても、私はあの時代を消し去ろうとは思いません。私は喜びをもって言います。自分は義務を果たしました。国を愛するドイツ人として。国民社会主義者として、総統の忠実な部下として。私は何も後悔しません。」
孤独な最期の服役者
<ベルリン・シュパンダウ刑務所>
服役した元総統代理ルドルフ・ヘスは、いっそう心を閉ざします。ともに収監されたナチスの高官たちとも、交わることはありませんでした。
1966年、禁固20年の刑に服していた元高官たちが、監獄の外へ出ていきます。元ヒトラーユーゲント、全国指導者のシー・ラッハ。そして戦争末期の軍需大臣、アルベルト・シュペーア。ヘスはついに、最後の服役者となります。
「シュペーアたちが、20年の刑期を終え釈放されたのを機に、私たちは父への恩赦を方々に働きかけました。それを知った父は手紙をくれました。そこには、感謝の意とともにこう書かれていました。我が名誉は自由よりも高き所にある。」(ルドルフ・ヘスの息子 W・R・ヘス)
1969年まで、ヘスは家族との面会を拒絶していました。彼がひとり熱中したのは、熱帯の研究でした。月日は流れますが、ヘスのカレンダーは、前に進みません。
「かなり高齢になってからは、近代的な病院のベッドを部屋に取り入れました。これだと高さの調節ができ、起きたり寝たりが楽だからです。ホットプレートの使用も認めました。食べ物を温めることができるようにとの配慮です。彼は、年齢に比べてかなりの大食漢で、食べたいものや調理法を注文しました。体のためといって塩は使いませんでした。テレビも好きで、テニスやサッカーがお気に入りでした。」(当時 シュパンダウ刑務所長 T・ルティシエ)
シュパンダウ刑務所の警護は、かつての連合国が、ひと月ごとに交代で担当していました。いまや、たった一人となった戦争犯罪者のための、厳重な警備。
「解放されるべきときが来ています。」(註:集会の音声)晩年には、人道的な立場からもヘスの恩赦を求める声が強まります。しかし、彼の釈放に最も否定的だったのは、ソビエトでした。1987年、ルドルフ・ヘス、93歳。
「私が診察を担当した晩年のヘスは、いつも要求やら不平やらを口にしていました。ほんのちょっとした体の不調をとても気に病み、ここが痛い、あそこが痛いと、その繰り返しでした。それが、93歳のある日、ふっと何も不平を言わなくなり、その2、3か月後に、自殺したのです。」(当時 刑務所の医師 R・ブランク)
謎の残る死
<1987年8月17日 ルドルフ・ヘス死去。ルドルフ・ヘスの死の翌日、遺族はベルリン空港に到着。遺体の引き渡しについて、連合国側と話し合う予定です。>(註:ニュース映像)
「父の死は、自殺ではなく殺人だと思っています。その動機もおよそ推測がつきます。西側の国は、以前から繰り返し、父を釈放してもいいというそぶりをしてきましたが、それは、ソビエトが土壇場で拒否すると踏んだからでした。しかし、80年代にはソビエトの反対も薄れました。それで一部の人々が、ルドルフ・ヘスを釈放以前に消そうとしたのです。」(ルドルフ・ヘスの息子 W・R・ヘス)
殺人だという遺族からの抗議は、センセーションを巻き起こしました。ヘスが死の直前に記したとされる遺書。家族は偽造された文書だと反論しています。
「書き方がそれまでと違うんです。父は形式を重んじる人でした。あの手紙には日付がなく、またそれまで、手紙にほとんど使わなかった、別れの挨拶を記しています。中身にも疑問があります。大切に思っていた孫たちに別れの言葉もないのは、納得がいきません。」(ヘスの義理の娘 アンドレーア・ヘス)
手紙の鑑定からは、偽造だという証拠は見つかりませんでした。また家族は、独自に検死を依頼しますが、その結果が連合国側の説明と微妙にずれていることを疑問視しています。
「遺族からの依頼で2度目の検死を行ったのは私ですが、殺害説を裏付ける記述を書いた覚えはありません。ヘスの死に第三者が介在した可能性は見つかりませんでした。」(法医学教授 W・シュパン)
発見当時、ヘスは首に電気コードが巻きついた状態で倒れていました。
「目撃したという人物はこう語っています。アメリカが警護していた月に、暗殺の使命を帯びた二人の男がアメリカ軍の制服をまとって忍び込みました。8月17日、彼らは父が散歩に出るのを待ち伏せし、電気コードで絞め殺したのです。」(ルドルフ・ヘスの息子 W・R・ヘス)
「ルドルフ・ヘスは仰向けに倒れ、そばに軍服を着た二人の人物がいました。背が高い男と、小柄な男です。二人とも冷ややかな態度でした。私はあの二人が怪しいと思っています。」(当時 ヘスの看護人 A・メラウヒ)
しかし一方で、このような証言もあります。
「怪しいと指摘された二人のうち、一人はこの私だと思います。私はあのとき、医療関係者を伴って、発見されたヘスの遺体のそばにいたからです。それが誤解を呼んだのだと思います。」(当時 アメリカ軍保安将校 A・アウジャ)
独り歩きする殺人説~ネオナチのヒーローへ
決定的な証拠を欠いたまま、殺人説は、ルドルフ・ヘスの生涯に謎と伝説の色合いを添えました。
「背後にどのような意図があったにせよ、なかったにせよ、とにかくこれは、よくできたミステリーです。ルドルフ・ヘスを人々の記憶にとどめ、ある種の伝説の主人公にしたい人たちにとって、これほどふさわしい結末はないでしょう。」(当時 シュパンダウ刑務所長 T・ルティシエ)
ルドルフ・ヘス最後の飛行。だが死者に静かな眠りは訪れません。彼は今、ネオナチと称する極右の若者たちのヒーローなのです。ヘスのかつての演説、謎に満ちた行動は、伝説として独り歩きしはじめました。
「再びやり直せるとしても、同じ行動をとるだろう。後悔はしていない。」(註:ヘスの声)
かつてヘスが、一人の男に誤った信仰を持ったように、今ヘスのまわりにも、誤った信仰が生まれています。