ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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マルティン・ボルマン

総統の影

ベルリン1945年5月2日。ソビエト軍の猛攻が官邸の目前まで迫ったとき、4人の男が脱出を試みました。その中の一人に、ヒトラーの側近たちの中でも、最も謎に包まれた男、マルティン・ボルマンがいました。そしてボルマンは、バイデンダム橋で目撃されたのを最後に、その消息を絶ちました。

<「平和に対する罪、人道に対する罪、および戦争犯罪により以下の者を有罪とする。ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング、ルドルフ・ヘス、ヨアヒム・フォン・リッベントロープ、ロベルト・ライ、ヴィルヘルム・カイテル、エルンスト・カルテンブルンナー、ハンス・フランク、カール・デーニッツ、バルドゥール・フォン・シーラッハ、アルフレート・ヨードル、マルティン・ボルマン。」>

「あらゆる点から見て、ボルマンがいなかったら、ナチズムは成立しなかったかもしれません。彼はヒトラーに欠けている部分を補う、影のような存在だったのです。」(ナチス戦犯の追跡者 S.ウィーゼンタール)

ボルマンはすでに死亡したという弁護人の主張に、証人たちは異議を唱えました。そして被告人不在のまま、ヒトラーの影に判決が言い渡されました。

<告訴状の理由によりマルティン・ボルマンを絞首刑とする。>

「裁判は終わり、死刑を宣告されたものの、その後も父は発見されませんでした。きっとどこかで生き延びているんだろうと、思っていました。」(ボルマンの息子 M.ボルマン)

1972年、バイデンダム橋のたもとで、2体の人骨が発見されました。専門家はそのうちの一体を、ボルマンに間違いないと断定しました。

「マルティン・ボルマンは、1945年に死亡したのです。あらゆる検査結果や状況が、それを物語っています。ボルマンが、1945年に、ベルリンで死亡したことは100%確実だと思います。」(法医学者 H.ヒューン)

生い立ち

マルティン・ボルマンは、1900年にドイツ北部のハウバーシュタットで生まれました。ウィルヘルム2世が統治する、ドイツ帝国時代のことです。元銃騎兵隊の隊員だった父親は、ボルマンが3歳だった時に亡くなりました。新しい父親に馴染めず、暗い毎日を過ごすボルマン。そこに、大きな転機がやってきました。

<平和のさなかに敵が襲撃してきた。武器を取れ。迷いやためらいは祖国への裏切り行為となる。(声 ウィルヘルム2世(1914年8月))>

<「動員!」>

1914年、第一次世界大戦勃発。大きな時代のうねりを前にして、ボルマン少年は家を飛び出しました。

「父は軍隊に入りたかったようですが、15歳にしては体が小さく弱かったせいで、入隊できませんでした。でも父は家に帰りませんでした。新しい父親のもとには戻りたくなかったのです。」(ボルマンの息子 M.ボルマン)

終戦の間際になってようやくボルマンは入隊を認められましたが、すでに遅すぎました。敗戦、混乱、そして社会主義的な革命。そんな状態に危機感を募らせた右翼は、各地で実力を行使、左翼勢力に強い弾圧を加えました。

その頃ボルマンは、メクレンブルクの大農場で、監視人の仕事についていました。1923年、ボルマンは共産党員の疑いがかけられた男に制裁命令を下し、部下がそれを実行しました。男は頭がい骨を砕かれ、死亡しました。この事件によってボルマンたちは逮捕されました。しかし裁判は右寄りに偏向したもので、ボルマンは有罪とはなったものの、直接手を下していないことから、懲役11か月という軽い判決に終わりました。

同じ1923年11月には、ミュンヘン一揆と呼ばれる極右のテロがありました。首謀者であるヒトラーは懲役5年の刑を受けましたが、1年ほどで釈放されました。ボルマンもその直後に釈放され、1925年、ワイマールへ戻りました。ヒトラーも同じ年にワイマールにいましたが、まだこの頃は、ボルマンのことを知りませんでした。

ナチス入党

ナチスは突撃隊の共済基金を管理する人間を募集していました。条件は、ナチス党員であること。ボルマンはこの出世のチャンスに目を付け、1927年、ナチスに入党しました。これは、彼が映っている最も古い映像です。やがて彼は党の有力者の娘と結婚。ヒトラーとルドルフ・ヘスが立会人でした。

1933年1月30日。ヒトラーが首相の座に就きました。

<群衆が上げる歓喜の声、たいまつの明かりで広場は昼間のような明るさです。何というすばらしい光景でしょうか。>

しかし、ボルマンは喜んでもいられませんでした。

「父は党の共済基金の管理責任者でした。しかしナチスが政権に就いたことで、その役割が国の機関に引き継がれ、職を失ってしまったんです。父は総統代理となったルドルフ・ヘスに助けを求めました。その結果、ヘスの事務所の所長というポストに就くことができました。」(ボルマンの息子 M.ボルマン)

ルドルフ・ヘスを通して、ボルマンは以前よりもヒトラーに近いポジションで働けるようになりました。しかし彼は、ヒトラーやヘスと違い、人前での演説は大の苦手でした。

<「幸福は我々の手中にある。未来は余すところなく我々のものだからだ。」(ヒトラーの演説)>ボルマンの未来は、確かにヒトラーとともにありました。

「まだその頃ボルマンは、党の中では大物とみなされていませんでした。私の印象では、当時の彼は、人よりも荒っぽいことをして、羊を追いたてるシェパードのような役割でした。たとえば階段の上に立って、誰が遅れてくるかを見張ったり、ヘスのような位の高い人物にはできない仕事を引き受けていました。」(元ヘスの秘書 H.ファート)

野心

<「ナチスとはヒトラーであり、ヒトラーはドイツ、ドイツはヒトラーである。」(ルドルフ・ヘス総統代理)>

実務能力に優れたボルマンは、しだいにヘスにとって欠かせぬ存在となっていきました。ボルマンはヘスを、党内の煩わしい問題や、日常的な雑事から解放しました。一人がせっせと働くことで、もう一人は、のびやかに夢を見ることができたのです。

「ボルマンは大の仕事人間でしたが、私の父はスキーなどをしているほうが好きでした。」(ヘスの息子 W・R・ヘス)

しかし、野心家ボルマンの真の狙いは、ヘスのさらに上にいる人物でした。彼はより大きな権力を得るため、ヒトラーに近づくあらゆるチャンスを利用していきます。

「ボルマンは党に対して大きな貢献を果たしました。彼の目的は、ナチスという党を国の指導部の最終的な決定機関に押し上げることだったのです。それを実現するためには、まず何よりもヒトラーとの関係を密接にすることが必要である。そのことをボルマンはよく理解していました。」(元第三帝国将官 B・F・V・ローリングホーフェン)

そんなボルマンに大きなチャンスが訪れました。ベルヒテスガーデンにあるヒトラーの山荘が手狭になり、総統にふさわしい立派な山荘の建設が計画されたのです。ボルマンは、その建設作業の監督を命じられました。

「彼はグレーのスーツに黒いブーツ、それにつばの広い帽子をかぶって現場にいました。あの男はいったい何者だろうと、不思議に思ったものです。」(元ヒトラーの世話係 H・デーリング)

ボルマンは作業を容赦なく急がせ、すぐに現場で一番の嫌われ者になりました。しかしそんなことはボルマンにとって些細な問題でした。彼の目的は、この山荘の建設を通して自らの存在をヒトラーにアピールすることにあり、それ以外のことはどうでもよかったのです。

「ボルマンは昼も夜も監視を続けました。誰も彼の目から逃れることはできません。何かの理由で作業が遅れれば、すぐに原因を調査して、これで元通りだ、どんどん作業を進めろ、その一点張りでした。」(元ヒトラーの世話係 H・デーリング)

1936年夏、山荘は記録的なスピードで完成し、ヒトラーは大いに満足しました。主人の要求を満たすためなら、どんな無理も可能にする有能な部下。ヒトラーはボルマンを高く評価するようになりました。こうしてボルマンは、ヒトラーの影としての地位をしだいに固めていきました。

「ボルマンは、自分をなくてはならない存在にしたのです。彼のやることはいつもうまく行きました。しかし彼は、山の上に陣取った、悪魔のような人物でした。だから個人的には大嫌いでした。ボルマンは、根っから邪悪な人間だったと思います。人に噛みつくヒキガエルのようでした。」(元ヒトラーの副官 Rラインハルト・シュピッツィ)

有能な俗物

散歩はヒトラーの日課の一つでした。彼は招待客の少し前を歩き、ボルマンは主人の声が届く範囲に、影のように寄り添っていました。

「父はいつも、ポケットの中にカードのような固い紙と、短くなった鉛筆を忍ばせていました。それらは服を乱すことなく、ポケットに収まっていました。父はそれを使って思いついたことや会話の断片を、いつでもメモできるようにしていたんです。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

ヒトラーは、冷酷で現実的なボルマンの能力を必要としていました。そしてボルマンもまた、ヒトラーの威光をバックに、自らの権力を拡大していきました。

「『ボルマンは、ずるがしこい俗物だ、だが、彼ほど有能な男はほかにいない。』ヒトラーはそう言っていました。事実彼はどんな命令であれ、最後の一点まで揺るがすことなく、完璧に片づけていきました。」(元ヒトラーの世話係 H・デーリング)

全てはボルマンの思惑通りに進み、彼は陰の実力者としてその地位をさらに固めていきました。ボルマンの目的は、国家全体に対するナチスの絶対的支配権を確立することでした。上司にあたるルドルフ・ヘスも、もはやボルマンを無視することはできなくなっていました。

「ヘスが誰かと会談するときは、常にボルマンの部下がそばに付くことになっていました。そのように決められていたんです。それでもヘスは、時々ボルマンの目を盗んで人と会っていましたけどね。」(元ヘスの秘書 R・シュレーデル)

独裁者に、代理は不要でした。ヒトラーが必要としていたのは、彼のためなら何でもやる部下でした。ボルマンは、それにうってつけの人物だったのです。

「父はこう言いました。国家社会主義とは、総統の意志そのものだと。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

1938年3月。ヒトラーは故郷であるオーストリアに戻ってきました。ヒトラーの後ろには、ボルマンの姿。このとき彼は、昔ヒトラーの両親が住んでいた家と、ヒトラーの通った学校の建物を買い取る任務を帯びていました。ヒトラーには、十分すぎるほどの資金がありました。その会計係を務めるのは、ボルマンです。

ヒトラーの誕生日に、ボルマンは素晴らしいプレゼントを用意しました。海抜1,834メートルの場所に、豪華なティーハウスを作り上げたのです。費用は、3,000万マルクという巨大な額でした。

「ボルマンは費用などどうでもよかったのです。いったいどこからそんな大金が出てくるのかわかりませんが、とにかく彼は、いつでも金を持っていました。」(技術者 M・ハルトマン)

ボルマンは、ヒトラーから任されて、かなりの政治資金を動かせる立場にいました。ボルマンは親衛隊の長官ヒムラーにも湖畔の別荘をプレゼントしています。ヒトラーの愛人エバ・ブラウンにも、絹の下着や香水、アクセサリーなどを贈っていました。それでもボルマンに、個人的好意を寄せる者は、誰もいませんでした。

「私の知る限り、誰もがボルマンのことを嫌っていました。別荘を貰ったヒムラーですら、そうでした。ナチスの要人たちも、彼と一緒にいることを嫌がりました。友達なんてものは、全くいなかったでしょうね」(元ヘスの秘書 R・シュレーデル)

ボルマンの私生活と情事

上の者にこびへつらい、下の者に冷酷な態度をとる人間が嫌われるのは、当然のことでしょう。しかし、ボルマンの妻だけは、彼に対して、どこまでも従順でした。

「彼女は幸せな女性でしたし、自分でもそう言っていました。特に8人の子供の良き母親であり、そのことを彼女自身も、誇りに思っていました。」(ボルマン家の客人 E・トップ)

ボルマンは、ヒトラーの意向に従うかのように、多くの子供を作りました。

「私たちと母は、愛情に満ちた良い関係にありました。母は陽気な人で、ほとんど子供の世話にかかりっきりでした。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

父親のほうは、ほとんどヒトラーと一緒でした。しかし、ハンガリーの指導者、ホルティ・ミクローシュを迎える式典で、ボルマンを探しに来た士官は、そこで思いがけぬ光景を目にしました。

「ボルマンは、ある女性とベッドにいました。誰かは言えません。いずれにせよ、それがどういう状況かは、一目瞭然でした。飛び上るほどびっくりしましたが、私はそっとドアを閉め、気づかれないようにその場を立ち去りました。相手の女性が誰であろうと関係ありません。もしあのとき、ボルマンが私に気づいていたら、間違いなく私は消されていたはずです。」(元ヒトラーの副官 Rラインハルト・シュピッツィ)

1939年9月、ついに第二次世界大戦が始まり、ボルマンも情事にかまけている暇はなくなりました。ヒトラーはボルマンを、常に自分のそばに置きました。ボルマンの権力は、拡大する一方でした。

「戦争が始まったとき、父は総統代理であるルドルフ・ヘスの代理という立場でした。それと同時に、ナチスの党首代理であり、指令本部においては、事務長のポストについていました。つまりさまざまな立場で、仲介役としての役割を果たしていたのです。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

占領下のパリでも、ボルマンはヒトラーと一緒でした。しかし、ここで再び女性の影が見え隠れします。ボルマンは新しい愛人に、こんな手紙を書き送りました。”愛する人よ、男は複数の女を持つことができるが、女は一人の男のものになるしかない。私に隠れて別の男と楽しんだりすると、私は君をひどい目にあわせるかもしれないよ。あなたのマルティンより。”

「ボルマンはこんなことも言っていました。『実はほかにも子供がいるんだ。相手は妻以外の女性だ。自分は優れた遺伝子を持っているんだから、それを何倍にも増やさないといけないからね。』」(ボルマン家の客人 E・トップ)

ルドルフ・ヘスの裏切りと昇格

1941年5月、総統代理のヘスが、和平を求めて独断でイギリスに飛行するという大事件が起きました。しかもその試みは、完全な失敗に終わりました。激怒したヒトラーは、ヘスの協力者を次々と逮捕していきました。ボルマンも、自分に火の粉が振りかからないよう必死で、それを示すため、ヘスの妻に制裁を加えようとしました。

「ボルマンは、母の人生を握りつぶそうと、いろいろなことを企てました。しかし母はエバ・ブラウンを通して、ヒトラーと直接話をしました。その後、すぐにヒトラーは、制裁をやめるようボルマンに命じたのです。」(ヘスの息子 W・R・ヘス)

結局ヘスの事件は、ボルマンの出世を妨げることにはならず、彼はナチスの官房長に昇格しました。上司であったヘスがいなくなったことで、ボルマンは完全に、ヒトラーの影となったのです。

「父は、献身と努力の人でした。主人であるヒトラーにすべてを捧げ、その目的達成のためには努力を惜しみませんでした。自分自身の目的ではなく、ヒトラーの掲げた目的のためにです。それがドイツ国家のためになると、信じていたからです。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

ソビエトへの奇襲攻撃も最初は大勝利を収め、ヒトラーは軍の最高司令官として、ますます多忙な日々を送ることになりました。政治家としても、軍人としても、対応すべき事柄は山のようにあります。そこでヒトラーに報告すべき情報を、ボルマンが取捨選択することになりました。

「私も前線から戻った兵士の報告に付き添ったことがあります。しかしすべての報告は、まずボルマンに対して行わなくてはなりません。それを総統に報告するかどうかは、ボルマンが決めていました。」(元ヒトラーの付き人 K・クラウゼ)

ヒトラーは将軍たちを自分の周りに置いていました。ボルマンは唯一の党幹部であったため、ナチスに関することは、ボルマン抜きでは進みませんでした。しかしヒトラーと直接会談できる国防軍の首脳たちは、ボルマンにとって目障りな存在でした。

「権力にとりつかれていたボルマンは、国防軍との権力争いでも、優位に立とうと必死になっていました。そこで彼は、軍事よりも政治を優先させ、ヒトラーの意思決定に大きな影響を与えていったのです。」(元ヒトラー専属カメラマン W・フレンツ)

ボルマンは、ナチス高官たちに次々と指示を出していきました。

<(声 ボルマン 1943年10月)「軍備の状況と軍需産業について言うなら、空爆によっていくつかの困難な状況が生じている。」>

愛人

次々と帝国に指令を出すボルマン。ひっきりなしに取り次がれる電話。しかし、すべてが職務上のことではなく、時には新しい愛人にも電話を入れていたようです。指令本部の誰も知らないことを、電話交換手だけは知っていました。

「双方から、甘い言葉が交わされていました。他愛のない、優しい言葉です。女性は褒められるのが好きですからね。ボルマンは彼女をたたえ、彼女もボルマンにお世辞を返し、まるで何の憂いもない恋人同士のようにおしゃべりをしていました。」(当時電話交換手 A・シュルツ)

新しい愛人は映画女優。<映画「入浴中のズザーヌ」(1936年 映画の中のセリフ)「どうぞ。」「スケッチの件で?」「大切な女性しかスケッチしないんでしょ?」>今回は、ボルマンも本気でした。

「ボルマンは、時々詩集を送ってくれました。私が詩を朗読するのが好きだと知っていたからです。彼も詩が好きなんだろうなと思いました。」(元ボルマンの愛人 M・ベーレンス)

ボルマンは彼女と正式に結婚しようと考えました。そして家にこんな手紙を送っています。“私の愛する母であり、乙女よ。彼女を心底愛してしまった。私の望みはわかるだろう?私はなんという幸せ者なんだ。2回も幸せな結婚ができるとは。君は私というすばらしい騎士をどう思う?今までの何倍も健康に気を付けなくては。あなたのマルティンより。”

犯罪の正当化

「確かに父には、一夫多妻をよしとする傾向がありました。その傾向は、ナチズムによって植えつけられたものだと思います。遺伝的に優秀なドイツ国民は、できるだけ多くの子供を作るべきだと彼らは考えていました。戦争の犠牲となった人口を、早く補うべきだということです。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

同じ論理によって、子供のいないヒトラーは自らの犯罪を正当化しようとしました。

「ヒトラーはあの頃こんなことを言いました。『毎日一万人ものドイツ人が犠牲になっている。だがそれは、忌まわしい共産主義が、ヨーロッパの文化と、その麗しい風土を蝕むのを防ぐためだ』。そして、あの男の使った表現をあまり繰り返したくはありませんが、とにかく言った通りに再現すれば、『ユダヤ人の奴らが、のうのうと生きるのを防ぐためだ』。」(元ヒトラーの護衛 W・シュナイダー)

ボルマンはヒトラーの意向をよく理解していました。ある党員から、ユダヤ人問題について問われたとき、ボルマンはこう答えています。「解決はとても簡単だ。」

アウシュビッツをはじめとする、絶滅収容所。そこで行われた、計画的大量殺人。そのことについて口外することは禁じられていました。ボルマンも、その秘密には大いに気を使っていたようです。

「ある日ヒムラーが、ボルマンにこんな電話をかけてきました。『総統を喜ばせる報告がある。今週また計画通り、アウシュビッツで2万人のユダヤ人が抹殺された』。そう言ってから、抹殺されたというのを、移送されたと言い直したんです。それを聞いたボルマンは、ヒムラーを怒鳴りつけました。『なぜ君は電話を使って、そんな報告をしてくるんだ』ってね。」(当時電話交換手 A・シュルツ)

破滅への前兆

1943年、ボルマンはヒトラーの秘書長に任命されました。良心の咎めなど感じない、忠実な部下を求める総統。それは、破滅への前兆でした。

<「かつてのドイツは武器を捨てるのが早すぎた。同じ過ちは繰り返さない。」(声 ヒトラー)>

未来に何が待っているかは、問題ではありませんでした。

「父にとって、ヒトラーは自分の全てを捧げられる対象でした。全ての情熱、そして命さえも捧げられる人物です。それはまさに、献身的という言葉がふさわしいものでした。父にとって、ヒトラーへの献身は家族との関係よりも、もっと大切なものだったのです。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

1944年7月20日、ヒトラーの暗殺未遂事件が起こりました。ボルマンは組織を総動員して犯人を次々と逮捕。残酷な報復を行っていきました。ボルマンの権力は揺るぎないものとなり、もはや国防軍も障害とはなりませんでした。ヒトラーの愛人エバ・ブラウンの妹が結婚したときも、ボルマンが立会人となりました。親衛隊国家長官のヒムラーも一緒です。ヒムラーは、ヒトラーとボルマンの間にいる最後の人物でした。しかし、国外軍の総司令官となったヒムラーは敗北を重ね、その権力はたちまち衰えていきました。

「ヒムラーの穴を埋めたのは、他ならぬボルマンでした。当然彼は軍事的な問題にも積極的に関与し、軍事会議にどんどん参加するようになりました。1944年から、45年にかけてのことです。」(元第三帝国将官 B・F・V・ローリングホーフェン)

1945年3月、ボルマンは、押しも押されもせぬ帝国のナンバー2となっていました。しかし、あまりにも遅すぎました。第三帝国の敗北と崩壊は、もはや動かしがたい現実となっていたのです。残された道は、ヒトラーと共にある破滅だけでした。ボルマンはこのとき、未来にどんな希望を抱いていたのでしょう。

「私は3月に、ベルリンの父に宛てて手紙を送りました。まだこの戦争に勝てると思っているのか、それを聞きたかったのです。しばらくして届いた短い返信には、”瀕死のライオンが最後の一撃を食らわせることもあるだろう”、そう書かれていました。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

ソビエト軍がベルリンに迫っていました。ボルマンは党員に対し、切迫した指令を出しました。”総統のために、最大限の戦闘準備をするように。今こそ、有能な者と無能な者の違いが明らかになる。指導者としての素質を持った者なら、最大限の戦闘態勢を取れることだろう。”

「ボルマンは専門的知識というものをあまり持っていませんでした。だからヒトラーが、必ず最終的な勝利へ導いてくれるという幻想から逃れることができなかったのです。総統が勝つと言った以上必ず勝つと信じていたのでしょう。」(当時電話交換手 A・シュルツ)

1945年4月20日、ヒトラーの誕生日。ベルリン陥落はもはや時間の問題でした。ボルマンも山荘のあるベルヒテスガーデンに脱出するのが最善の手段と考えましたが、総統はベルリンに残ることを決意。終末的な雰囲気が色濃くなっていきました。

「ボルマンは何日も前から、何とも具合が悪そうな顔をしていました。彼もさすがに予感していたんでしょう。最後が近いことを。」(当時総統司令部の無線オペレーター R・ミッシュ)

破壊寸前に撮影された、ヒトラーの地下壕の内部です。ヒトラーはすでにあきらめていました。コンクリートの地下壕はさながら、総統の野望を納めるための棺のようです。ボルマンもその心中を次のように書き記しています。”我々は総統と共に立ち上がり、倒れ、死するまで付き従う。”

「見通しは暗くなる一方でした。話題といえば死ぬことばかり。頭を銃で撃ちぬくか、それとも毒薬を飲むか。皆どうやって最期を迎えるべきか真剣に考えていました。事実、ほとんどの人間が、自殺用に使う青酸カリのカプセルを持っていました。」(元第三帝国将官 B・F・V・ローリングホーフェン)

ヒトラーの最後

ボルマンもすでに前途をあきらめていました。そして自分の妻と子供たちを道連れとして殺すよう、秘書に指令を出した形跡があります。

「秘書のヒルムート・フォン・フンメルは、母と私たち兄弟をバスに乗せて、南チロルへ連れて行ってくれました。私たちだけでなく、疎開していた子供たちも一緒にです。私たち親子、それに、他の人たちが生き延びることができたのは、全てあの人のおかげです。」(ボルマンの息子 M・ボルマン)

ベルリンは包囲され、いたるところで血が流れていました。ヒムラーが連合軍と和平交渉をしていると聞いたボルマンは、日記にこう記しています。“総統を犠牲にして交渉に走るとは。奴らにとって栄誉とは裏切りのことなのか。”

「ある日、ヘルマン・フェルゲラインが軍事会議に姿を現しませんでした。ボルマンの補佐官で、エバ・ブラウンの義兄でもある人物です。諜報部が自宅などを探したものの見つからず、手ぶらで帰ってくると、ボルマンは大声で怒鳴りました。『すぐに逮捕して連れてこい!』」(当時総統司令部の無線オペレーター R・ミッシュ)

フェルゲラインは私服で酒に酔い、妻以外の女性と一緒にいるところを見つかりました。荷物の中には外国の貨幣や金貨も入っており、戦線離脱の意志は明らかでした。彼はすぐに地下壕に連れ戻されました。

「フェルゲラインが地下室に連れて行かれるところを見ました。前に二人、後ろに二人親衛隊の隊員が付いていました。それまでの戦いで貰ったたくさんの勲章や懸賞は、全て引きはがされていました。」(元第三帝国将官 B・F・V・ローリングホーフェン)

フェルゲラインは処刑されました。その直後。ヒトラーは秘書を呼んで、遺言を書き取らせました。

「あのときヒトラーには、もう生命力が感じられませんでした。かつての強烈なまなざしは、どこかへ消えていたのです。そこにいるのは、ただの絶望に打ちひしがれた男でした。」(元ヒトラーの秘書 T・ユンゲ)

ヒトラーはこのような遺言を残しました。“私の所有する物は、党に帰属する。もし党が存在しない場合は国家に、もし国家が滅亡していたら、もう私の意志は無視してかまわない。遺言の執行人には最も忠実なる党員、マルティン・ボルマンを指名する。” カール・デーニッツが総統の後継者に、ボルマンがナチスの党首に任命されました。総統の影は、ついに総統にはなれなかったのです。ボルマンは地下壕で、主人の最後を見届けました。

ボルマンが失ったもの

「ヒトラーの自殺は、ヒトラー自身が最終的な勝利を信じておらず、卑怯にも責任逃れをしたことを示していました。その時になってようやく、ボルマンも気づいたようです。自分が大きな思い違いをしていたこと、それによって、人生を犠牲にしたことにです。」(当時電話交換手 A・シュルツ)

しかし、すべては遅すぎました。

「ボルマンは、恐怖を感じていたようです。以前のように、積極的に意見を言うこともありませんでした。将校たち、少なくともゲッベルスに対しては、何にも言いませんでした。」(当時 総統司令部の無線オペレーター R・ミッシュ)

ボルマンはすでに、抜け殻となっていたのです。

<(声 カール・デーニッツ)「ドイツ国防軍の諸君に告ぐ。我々のヒトラー総統は亡くなられた。悲しみと畏敬の念にドイツ国民はこうべを垂れる。」>

しかし国民は、ヒトラーの死に涙するよりも、生き残ることに必死でした。それはボルマンも同様でした。

「卑怯者のボルマンは、何とか地下壕から脱出し、生き延びようとしていました。我々に向けられた総統の命令や言葉は、勇気を持って最後まで戦おうというものでした。その言葉に従って、多くの人間が死んでいきました。ところがボルマンは、そんな犠牲者たちのことは無視して、なんとか自分だけは生き延びようと目論んでいたのです。」(当時総統司令部の伝令 A・レーマン)

1945年5月2日、ソビエト軍は官邸まであと90メートルのところに迫っていました。ボルマンが最後にメモした言葉は、”脱出の試み”でした。

「ボルマンは決定的な敗北に直面しました。しかし、その時の用意を何もしていなかった。戦車などを使えば、何とか脱出できたかもしれません。ところが、そういうことを何一つ計画していなかったのです。」(当時 総統司令部の無線オペレーター R・ミッシュ)

午前2時ごろ、ボルマンをはじめとする4人の男が、地下室の窓から這い上がってきました。彼らは、バイデンダム橋までたどり着いたものの、それ以上進むことは不可能でした。観念したボルマンは、そこで青酸カリのカプセルを噛み、自らの命を絶ったのです。

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