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河口慧海・チベットへの道
Kawaguchi Ekai ・ A path to Tibet 6
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ティンキュー村の入り口にあるカンニ。仏塔の形をした門で、天井には仏画が描かれている。
「チベット旅行記」を読む限りその考え方を否定する言葉はどこにも見当たらない。「セーの霊場に行った」ということを否定するということは、河口慧海自身が「チベット旅行記」にそういう道があると書いているように、わずか10日でチベットに抜ける道を選択するに等しい。だが、河口慧海はその選択を明確に否定し、23日もの日数をかけてヒマラヤの峠を越え、チベットへ行く計画なのだから、やはり「セーの霊場(シェー・ゴンパ)に行った」と見るべきだろう。
クンコーラ出合から30分のところにある二サル村。ヤンツェルゴンパから見た7月2日の景色。
実際、河口慧海はチベットに越境する目標を掲げ、ツァーランで週一回、重荷を背負って歩く訓練をし、マルファから西チベットに10日で抜ける近道を知っていながら、わざわざ23日もの日数をかけて遠回りする道を選んで進む決心をさまざまな情報を集めたツァーランで固めていたのである。そこまで深く考えていたくらいだから、越境には明確な意思を持って挑んでいるはずなのである。そんな見方をしていくと、どう考えても慧海は「セーの霊場(シェー・ゴンパ)に立ち寄った」とみるのが正解のように思えてくるのだ。もっともそうでもしないと、河口慧海がマルパを出発してからの峠越えの日数をあわせる必要がまったくなくなってしまうのだ。
「チベット旅行記」を読んでいる最中、河口慧海の峠越えを扱い、一冊の本となり、文学賞をも手にしていた「遥かなるチベット」の著者根深誠の考え方に代表される、慧海が越えたヒマラヤの峠をはるか東の峠とする理由、またそう思いついた理由を「チベット旅行記」の中から何とか探り出そうと努力したが、何度読み返してみてもそう考えるに足る文章を見出すことができなかった。僕には河口慧海が東方の峠を選択する理由は少しも見出せなかったが、人にはそれぞれものの見方があり、何も無理して他人の考えに迎合すべきことではないので、見方の違いなど気にすることではない。もしかしたらその根拠はほかの文献から得たのかもしれないが、発想の根拠はどこにも示されていないので取り付く島はない。
自らの頭で考えるには、いくつもある越境峠説を省みることも重要であるが、それらの先入観にとらわれてはならない。些細な事実も正確に解釈し、事実を捉え、自分の目と自らの体験と文献の解釈を基にして慎重に判断すればいいのである。そう自分に言い聞かせ、思考をさらに先に進めることにした。
さて、河口慧海が「セー(シェー・ゴンパ)に行く」目的の一つは経典を読むことなのだろうとすぐに思いつくのだが、僕は「チベット旅行記」の中に書かれている「セーの霊場に行く」という「霊場」という表現が妙に気になってしょうがなかった。サンスクリット語やチベット語で書かれた仏教の経典を読むことだけが目的なら「セー(シェー・ゴンパ)に行く」というもっと簡潔な表現ですむはずなのである。それをわざわざ「セーの霊場」へ行くとしたのにはその付近に霊場としてふさわしい何かがあるのだろうと勘ぐらざるをえなかった。そのうえ、「チベット旅行記」には突然のように、上州の妙義山という岩峰が林立し、岩壁が連なる特定の山の名前が出てくるのだ。この二点を考えると、セーの霊場と妙義山との間には何か深い関わりがあるのではないかと考えないわけにはいかなかった。
シェー・ゴンパ。慧海は経典より巡礼者が行う行の方により多く興味を持っていたようである。日記によると、この回峰行のおかげでだいぶ疲れたようた。(このページに使用したトルボの写真はすべて 大西保撮影)
僕は「セーの霊場(シェー・ゴンパ付近)」に何があるのか知りたくて、妙義山のことを調べたり、今回ネパール側を現地調査した学術隊の仮報告書を読んでみたりした。きっとこの二つの間には関わり深い何かがあるはずだ――。そう思いつつ仮報告書を読み進んでいくと、やはりそこにはそれと思われるものがあったのだ。僕は、学術隊の仮報告書の中に、シェー・ゴンパ(寺)を含めた近在の四つのゴンパをまわる巡礼者の行がある、という記述を見つけたのである。
この一件から、古くからある修験道の山である妙義山という特定の山の名前を校注に表現した記述ともつながりを見出だすことができた。僕はこの発見によって、何となく僕の解釈は間違った方向には向いていないだろうという気になった。「チベット旅行記」を読んでいると、慧海は何にでも興味を持つ人のように思えるから、慧海が「セーの霊場(シェー・ゴンパ)に行った」ことはまず間違いないだろう。実際のところ、後日再発見された河口慧海の日記にはこの地に滞在し、サドゥとともに巡礼の行を行った記述があったのである。
Explorer Spirit 木本哲
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