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岳人連載「しぶとい山ヤになるために」を楽しむために
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山岳雑誌『岳人』=マウンテニアリングセミナー 『しぶとい山ヤになるために』 好評連載中
2007年1月号から2009年12月号まで連載

<岳人は毎月15日発売です>

● 時代背景 (1975年晩秋から1980年春)

僕は山登りを始めてから二つの山岳会に在籍した。一つは埼玉谷峰山岳会といい、沢登りを中心として活動していた山岳会である。もう一つは山学同志会といい、岩登りを中心として活動していた山岳会である。ここに書いた話は、僕が山登りを始めた1975年秋、山頂の紅葉が終わった晩秋の谷川岳登山から始まる。

翌年初夏、岩登りがしたくてひょんなことから「埼玉谷峰山岳会」という名の山岳会に入り、夏の間は沢登りや岩登りをしていたが、初冬から早春の冬の間は休眠していた。恐ろしげな冬山に出かけようという気持ちはまったくなかったのだ。

数年後、突然『やはり岩登りがやりたい』と強く思うようになった。実際、僕が山岳会に入ろうと思ったのは、山登りでも沢登りでもなく、岩登りがしたいと思ったからなのである。やがて初心に帰って自分に合う山岳会を探し始めた。結局、またまたひょんなことから山学同志会に入ることになり、今度は人が変わったように山を登り始めた。どうやら山学同志会の雰囲気が自分の意思とぴったりあっていたようだ。というわけで話しは埼玉谷峰山岳会から山学同志会在籍一年目の登山へと変わる。

これは実際これは二つの山岳会で山を学んでいくという話であるが、山をまったく知らなかった人間が、山に目覚め、冬山へも出かけていくようになる過程を描いたもので、さまざまな人に影響を受けながら自分の登山スタイルを確立していく過程を描いたものである。実際には、山学同志会の新人時代を終え、山学同志会在籍二年目の山行に入る春山合宿までの話を書くつもりでいるから、ここでは1975年秋から1980年春までの山行の中から適当に面白そうな山行をいくつかピックアップして書くことになる。

この間の山行日数はおよそ200日ほどで、山学同志会に入るまでが83日、山学同志会に入ってからが120日ほどということになる。山学同志会在籍一年目後半あたりからはほかの山岳会の人たちからすごく昔から山登りをやっていたように思われていたのだが、もちろんそんな昔から登山をやっていたわけではない。実際、山学同志会に入るまでの三年あまりで83日という山行日数から見てもそれほど多いとはいえないだろう。

それは、岩登りがやりたかったのだが、岩登り中心の山岳会ではなかったのでそれほど深く興味が湧かなかったということなのかもしれない。しかも冬山にはまったく興味がないときている。冬山は山学同志会に入ってからやり始めたといっても決して過言ではない。実際、山学同志会に入るまでの冬山登山経験は3日、それもスキー場の脇からちょっと入ったところまでで敗退した経験だから何をかいわんやである。春や夏の残雪を踏んだ登山を入れても雪山登山経験は多くても20日くらいである。雪山登山の経験は知れているのだ。

この当時は、どこに行くにも毎日夜行列車が走り、週末ともなると夜行列車が登山者で溢れるくらい登山が盛んだった。週末の上越線夜行列車はまるで登山電車で、そのほとんどが土合駅で降りる人だった。今ではまったく信じられないことだが、本当の話だ。土合駅の地下駅から地上へと続く階段が人で溢れたいたなんて今でははるか昔の夢のようだ。

● 埼玉谷峰山岳会 (描写期間:1976年初夏から1978年初夏)

岩登りがしたくて僕が最初に入った山岳会。埼玉県浦和市に本拠を置き、沢登りを中心に活動をしていた山岳会。当初このあたりに引っ越す計画があったのでこの山岳会に入ったのだが、引越し先はまったく変わってしまった。でも地域研究をやるような山岳会だったからいい山行ができた。僕の興味が岩登りに向いていなかったら沢登りをやり続けていてもよかったのだろうが、僕の目は岩登りから離れなかった。

● 山学同志会 (描写期間:1979年晩春から1980年春)

初心に帰って岩登りをしようと思い立ち、埼玉谷峰山岳会を辞めて二度目に入った山岳会。

僕は山登りのことを少しはかじっていたが、まったく初めてやるつもりになって、一から学びなおそうと思っていた。この山岳会はそうしたときに出会った、東京の下町を本拠に置く山岳会だ。勢い江東区、墨田区、江戸川区あたりに住んでいた人が多かったのだろう。僕自身は江東区に住んでいたことがあるからこそ山学同志会に興味を持ったのであった。山を詳しく知っている人はだれも皆山学同志会はすごい山岳会だというが、そんな知識は山学同志会に入ろうとしていた僕にはなかった。だいたい僕が入る山岳会が有名な山岳会かどうか、ましてや海外登山をしている山岳会かどうかなどという問題にはまったく興味がなかったのだ。僕が入る山岳会がどんな山岳会であろうとかまわないのだ。ただし、岩登りを中心に登る山岳会であるかどうかは問題であった。そこが何という名の山岳会であれ、一所懸命岩登りをする山岳会であることこそが重要なことであったのだ。

当時、山学同志会は世界に名を轟かすくらい有名な山岳会だったから日本ではトップクラスの実力を備えた山岳会であった。しばしば山学同志会といえば小西政継と結びつけられるくらいに、山学同志会は小西政継が育て上げた山岳会という印象が強い。しかし、僕はそんな有名な山岳会だとは知らずに、単に長年江東区に住んでいたという地元意識からこの山岳会を選んだのだった。

入会案内書を請求しても音沙汰はなかったのですでに諦めてはいたのだが、すっかり忘れていたころに入会案内書が届き、集会に出かけてみた。集会は月二回亀戸で行っていた。とにかく最初に訪ねてみようと思っていた山岳会だったので、山学同志会の集会に出かけて山岳会の様子を窺い、さらに山学同志会の山行に参加して山学同志会がどんな山岳会か見届けた上で山学同志会に入会するかどうか決めようと思っていたのだった。

ところが、山学同志会に入会しなければ山学同志会の山行には出席することができなかった。そこでとりあえず山学同志会に入会して様子を見ることにした。だが、おそらく僕に地元意識がなかったらすぐには入会していなかったろう。

山学同志会は縦社会――。年齢に関係なく、一年でも先に入った方が先輩だ。しかも実力社会だった。登山というのはかけたくないいと思っていても命がかかってしまうものだから当然かもしれない。技術、体力、経験は一日でも多く登山をした人の方がより多く身につく。しかし、それらすべてに高い質を求めるなら、内容の濃い山行をしなければならない。ただ漫然と登っていたのではそれ相応の技術や体力や経験しか得られない。

僕の技術や体力や経験が山学同志会在籍わずか一年で飛躍的に伸びたのは、年数をかけて培った先輩たちの努力と自分自身の中に芽生えていた山に登りたいという意識がうまくかみ合ったからに他ならない。山は経験を積む間に事故を起こすことが多い。だからできるだけしっかりした考えと技術を備えた人に学ぶのが筋だろう。そういう意味でもうまい具合にいい山岳会とめぐり合えたということができるだろう。

● 大松

亀戸駅近くの飲み屋。山学同志会の集会のあとこの店に雪崩れ込み、宴会を開くのが常だった。集会も楽しみだが、こちらで飲むのも楽しみだった。酒を飲みながら話せば話も登山計画の策定も弾む。しばしば、集会終了間際にしかいけないことがあったので、まるで酒を飲みに行っているだけのように思える日もあった。そうまでして出かけて行ったのはやはり皆と山の話がしたかったのだろうし、次にどこへ行くかという話もしたかったのだろう。

● 登場人物

山学同志会会員の面々。

僕=木本哲=著者
山登りに関しては無知、無経験ながら、物心つくかつかないくらいの年齢から山や川で遊んでいたので、登山の素養は身についていたのだろう。ときおりどんなスポーツをやっていたかと聞かれることがあるが、スポーツとはまったく無縁の人生である。僕が登山を始めたのは都会に住むようになってからのことで、田舎生まれの田舎育ちだから、山に行こうと誘えばきっと誘いに乗るだろうと思われ、山登りに誘われたのが登山を始めたきっかけだ。そのうち山登りには岩登りがあるというのを知り、無性に岩登りがやりたくなって、山岳会に入った。そこで目的の岩登りを学んだのだが、最初に入った山岳会は沢登りを中心に活動をしていた山岳会で、岩登りより沢登りに行くことが多く、集中して山に出かけることはなかった。冬山にはまったく興味がなく、雪には恐怖心を抱いていたので、登山活動をしていたのはもっぱら雪解けから雪が降り始めるまでのことだった。

ところがある日突然、岩登りがやりたいと強く思い描くようになり、岩登りを中心に活動する山岳会に入り直すことにしたのだ。実のところ、僕は山岳会に入って山登りというものを若干学んだが、少年時代の山遊び、川遊びをそのまま登山に応用して登っているだけの単なる野生児であった。だから普通の人とはちょっと考え方や感覚が違うかもしれない。そういうこともあって、この連載では僕が山登りを始めたころの話から書き起こし、子どものころに山や川でたくさん遊んでいたと強調しておいたのだ。

山岳会に入るはるか以前に山や川で遊んでいた時間は膨大だ。読図などの基礎知識はそのときに身につけたものであることは言うまでもない。でも、当時はもちろん地形図など持ってはいない。だから、地形図があれば初めてのエリアでもほとんど道に迷うことはないし、道を探すのも上手だ。それは日本でも海外でも山道なら同じである。

岩登りの技術は岩や石垣やがけを登って遊んでいたころの遺産にすぎないが、自然な登り方が身についていたようだ。もちろん今はそのころよりはるかにうまくなっているけれど、岩登り技術は山学同志会在籍二年目の1980年にヨーロッパアルプス行って標高差1000メートルクラスのルートを何本も登ったり、イギリスに行って当時の最先端に近い高難度のルートを登ったりした経験が技術を押し上げた。

フリークライミングは、1980年の日英岩登り交流会の翌年あたりに行われた英米岩登り交流会時の登攀ルートと英米のグレードが掲げられた対照表から自分が登ったルートを探し出してその当時に登ったグレードをピックアップすると、イギリスではE4 6a、デシマルグレードに換算して最高で5.11cのグレードを持つルートまで登ったことになる。山には危険がたくさん存在するが、その危険とは子どものころから接しているので、危険を避ける術も知らないうちに自然に身についたようである。それが僕をしぶとい山ヤにしている一端をかついている点も忘れてはならないのだろう。

自己紹介(木本哲登山および登攀歴)
 

● 同期の仲間

この当時、山学同志会では毎年新人が30人ほど入っていた。したがって同期の仲間は多い。その中でも特に何度もパーティーを組んで登った仲間がいる。そんな仲間を紹介する。考えてみれば在籍一、二年目は彼らとよく山に出かけた。どんな岩場でもたいがい朝から晩まで岩登りをしていたのでうまくなるのも早かった。特に僕は知らないところへ行くのが好きだったので、初めて訪れる岩場にもたくさん出かけていった。独りでも出かけていったから何をかいわんやだが。また、僕が先輩から得た知識や技術や経験は同期の仲間と再度同じルートを登ることで分配してもいった。そんな動きに皆を巻き込んだせいか、仲間も皆岩登りが上手だ。この年はフリークライミングのレベルが飛躍的にあがる前年だが、僕たちの岩登りもY級からZ級へ向かって変化が起きつつあった年だ。この当時はまだアルパインクライミングとフリークライミングの考え方もレベルもかけ離れたものではなかった。フリークライミングを強く意識したのは翌1980年のことだ。そして1981年以降アルパインクライミングとフリークライミングはかけ離れていったように思える。でも僕の中ではそれらはまったく別のものという意識はない。

矢作幸喜
思い出して見るとけっこう一緒に出かけている。新人同志で出かけた仲間の中ではいちばん多くパーティーを組んで登った仲間だったのだろう。彼は原田正志と組んで、1980年9月、小川山に「さよなら百恵ちゃん」ルート(5.9)を開拓。さらに同年9月、明星山P6南壁の「フリー・スピリッツ」ルートをフリー化(5.10a)した。そんな面白いことをするのに声をかけてもくれない冷たい奴らだなと一人憤慨してみたものの、このとき僕はヨーロッパアルプスとイギリスで岩を登り込んでいたのだから一緒に行けるはずがなかった。第四回日山協岩登り競技会。ヨセミテ。フリー・スピリッツは今や5.8とされているが5.9くらいはあるだろう。当時僕たちはEBシューズで登っていたのだ。今のクライミングシューズのフリクションとはまったく違う。今の人がこんなのを履いたら何なんだこのクライミングシューズは、と思うことだろう。

原田正志
原田も矢作と同じくらいよく一緒に登っていたのだと思う。昨年、偶然北岳の御池小屋で出会った。今はどこかで山の店を開いているはずだ。彼は矢作と組んで、翌年1980年9月、小川山に「さよなら百恵ちゃん」ルート(5.9)を開拓した。さらに同年9月、明星山P6南壁の「フリー・スピリッツ」ルートをフリー化(5.10a)した。原田とは1980年12月、谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁ダイレクトルートを冬季初登攀した。第四回日山協岩登り競技会。ヨセミテ。ヨセミテに行ってるよな、確か。

保科雅則
山学同志会に入ってきたのは僕より遅かったが、夏合宿以後、よく一緒に登った。1980年春、谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁同志会直上ルートの登攀でパーティーを組んでフリー化した。この登攀は保科と二人だけで登ろうと僕が計画したものだが、集会で計画を発表すると、先輩も加わわってきたので、二人で登ろうという計画は変更せざるを得なかった。1981年3月、冬の南稜フランケの登攀の際にも一緒に行った。第四回日山協岩登り競技会、谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁同志会直上ルートフリー化、谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁南稜フランケ冬季第二登。ヨセミテ、グレート・トランゴ、ネイムレス・タワー。保科はそのほかさまざまな場所へ登りに出かけている。放浪癖があるのは僕と同じかもしれない。信頼できるパートナーの1人。でも、保科と一緒に登っているとろくな目にあわないなあ。実はお互いにそんなことを言い合っている。

西田康二
神奈川県に住んでいたから彼の行動範囲は鷹取山や広沢寺の岩場が主だった。今頃は数学の教授かな? 鷹取山の直角ハングは違ったっけな? 広沢寺の人工ルートをフリー化したのかな? どこかフリーで登っていたのだけどな。記憶があいまいだ。

石山
始めのころよく一緒に登っていた仲間だ。石山とは越沢バットレスでフリー化をしていた記憶がある。いつから出てこなくなったのだろう。二年目途中あたりかな。仕事が忙しそうだったし、僕自身はちょうどそのころ海外登山を始めて国内が少しおろそかになっていた時期だからはっきり覚えていない。

● 先輩

一年目はいろんな先輩とパーティーを組んで登ったが、人それぞれ経験が違うし、考え方も誓うから面白い。一緒に登っていて技術や知識を学ぶだけではなく、その人に自然に身についている技術や知識を盗み取るということも大切だ。二年目からは自分で計画を立て、同期の仲間や後輩と登ることが多くなったので、先輩と登る数は激減した。その代わりに、後輩を連れて行くことが飛躍的に増えた。山では後輩が生まれれば自分が先輩になる。後輩は素直だから自分の判断が直接後輩の命を左右することにもなる。だから先輩から学ぶことと学んではいけないことをしっかり判断しなくてはならない。山は自分で計画を立て、自分がリードして登るのがいちばん面白い。だから、そうすることを目的に貪欲に学んでいくことが大切だ。

有明正之
鹿沼の岩登り講習会のとき、午後のクライミングで初めてパーティーを組んだ先輩だ。山学同志会に入って最初にパーティーを組んで岩登りをした人ということになる。その後谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁中央カンテ、翌年のヨーロッパアルプスなどの登攀でもパーティーを組んで登った。ヨーロッパアルプス、タウチェ、アマダブラム西壁。

石橋 眞
谷川岳集中登山のときに初めて一緒に登る。先輩二人がかなり早く登るので必死についていった。普段の山行ではわからないが、いざというときには本当に力が必要なのだと身を持って教えてくれた感がある。城ヶ崎海岸シーサイドなどでも一緒に登った。チョラツェ。アマダブラムで遭難。実は谷川岳集中登山のときに登ったのは、坂下によると、石橋眞ではなく、坂下、岡野、木本の三人だったそうだ。

岩田安正
いろんなところへ連れて行ってもらった。大胆な登山や発想には憧れを抱いた。谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁継続登攀、谷川岳南面幕岩登攀時のパートナー。谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁南稜フランケ冬季初登攀、谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁同志会直上開拓・初登攀。日英アイスクライミング交流会の日本側代表としてイギリスに行った。アイスクライミングは上手だから的を射た人選だったろう。鹿沼の岩登り講習会でサーキットトレーニングを取り入れた張本人だ。

岡田 昇
新人のときの冬山合宿のチームリーダー。写真家。後年、穂高岳で遭難。

岡野孝司
夏山合宿の担当リーダー。合宿などの大まかな登山計画は担当リーダーが策定する。新人対象の行動概要はきっと岡野さんが作ったに違いない。なかなかいい登山計画だ。チョゴリ、ラトックW、エベレスト。ラトックWで大宮求とクレバスにおちたが生還した。山学同志会にはクレバスに落ちた人間が五、六人いるが皆生きている。僕もその一人だ。

加藤育夫
家が近いこともあって何かと山に行こうと誘ってくれた。越沢バットレス、瑞牆山十一面岩、谷川岳一ノ倉沢中央稜、同滝沢第三スラブの冬季登攀時のパートナー。ヨーロッパアルプスでも一緒に登った。いちばんよく一緒に登った先輩だろう。

小西政継
山学同志会の5期の会員だったと思う。山学同志会に変革をもたらした人だ。山学同志会のレベルを世界に通じるものにしようと努めた。その昔「ロッククライミングの本」というので山学同志会の新人育成システムを紹介していた。1983年エベレストで一緒に行動した。マナスルで遭難死。マッターホルン、グランドジョラス、ジャヌー、カンチェンジュンガ、チョゴリ(K2)など。

坂下直枝
いまでも現役。恐ろしいほどの体力、気力、発想の持ち主。幽ノ沢継続登攀時のパートナー。ノシャック、アンナプルナW、ジャヌー北壁、カンチェンジュンガ北壁、国際岩登り競技会、チョゴリ(K2)北陵、アマダブラム西壁など多数。日英アイスクライミング交流会の日本側代表として同じく先輩の岩田安正らとともにイギリスにも行った。ロストアロー社長。その行動や言動は現代の若手クライマーにも影響を与えている。

竹内孝一
甲斐駒ヶ岳黄連谷左俣登攀時のパートナー。唐沢岳幕岩の登攀にも誘ってくれた。マッキンリー南壁アメリカンダイレクトアルパインスタイル。アコンカグアで遭難。

渡邊良一
春山合宿のパートナー。三つ峠の岩登り講習会でもパーティーを組んだ。

和田昌平
山学同志会に入会してもいいと思わせた三つ峠個人山行のときのパートナー。谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁南稜フランケ冬季初登攀。国際岩登り競技会、ヨーロッパアルプス、チョモランマ北壁、マッキンリー南壁アルパインスタイル。アコンカグアで遭難。

大宮求
山学同志会入会時のチーフリーダー。谷川岳一ノ倉沢滝沢第三スラブ単独初登攀。カンチェンジュンガ北壁、ラトックW峰。ラトックWでは岡野孝司と一緒にクレバスに落ちた。足首を骨折していたが、這い出して救助を求め、単身下降した。僕が参加したナンガパルバット遠征時の隊長でもあった。ナンガパルバットは寒かったなあ。冬のパキスタンは雪も降るし、寒い。冬季登山は大変だ。 でもそれがヒマラヤだと思っていた。

片平和志
夏山合宿のときにお世話になった。ジャヌー北壁。

河上晴美
夏山合宿のときにお世話になった。谷川岳一ノ倉沢烏帽子沢奥壁南稜フランケ冬季初登攀。

渋谷
夏山合宿に渋谷さんがいた。下の名前はなんだったかなあ。ヨーロッパアルプス。

近藤克之
山学同志会入会時の代表。たった一度のヒマラヤ登山を生かしてアンナプルナUに登った。途中アンナプルナWまでともに登った坂下直枝がすごい人というだけあって、アンナプルナUは強風の中単独で登頂した。僕の中では伝説の人だ。

斉藤一男
山学同志会の創立会員。会報「同志会速報」は斉藤さんの会社で岩峰社で印刷していた。都岳連の岩登り競技会のとき、帰りにこれで飯をくえと言われて金一封をもらっい、矢作と一緒に奥多摩駅前で飯を食って帰ったことをよく覚えている。原田や保科も一緒だった気がする。

嶋村幸男
夏山合宿の準備でお世話になった。ヨーロッパアルプス、ジャヌー北壁。

小川信之
僕が入会案内書を請求した先。穂高岳横尾谷本谷橋のたもとで死亡。山学同志会の次を担う人材として期待されていた。

今野和義
谷川岳衝立岩で墜死。山学同志会の次を担う人材として期待されていた。小川さんに続いて惜しい人を失った。追悼会のときに、「あんた、なんか弟と似ているから死なないように気をつけな」とお姉さんに言われたことをよく覚えている。

関根孝二
こないだ100名山をマラソンでつなぐという山行をやっていた記事を見た。山学同志会の発想だなあと、つくづく思ってしまった。ヨーロッパアルプス。

● 後輩

二年目以降の山行を書けば後輩の名前もあげることになるが、この企画は山学同志会在籍一年目までなので後輩は登場しない。登山は自分が先輩に連れて行かれる場合と自分たち同期の仲間だけで登る場合、自分が後輩を連れて行く場合の三通りがあり、それぞれの立場で責任の範囲や考え方も異なる。しかし、登山経験や体力が乏しい人間は、山では絶対的な弱者である、ということができるだろう。山で死ぬのは容易だが、山で死ぬのは、通常は弱者から順番に死んでいく。当然ながら弱者を守れば強者が死ぬ確率は高くなる。だから後輩を連れて行くのは多大な危険が伴うことも確かである。そんなことは人を連れて行くようになるまでなかなか気がつかないものだ。しかし、後輩を育てるのはすごく面白い。

「しぶとい山ヤになるために」のテーマを考える 1年目〜幻の4・5年目

「しぶとい山ヤになるために」山の用語集

「しぶとい山ヤになるために」執筆後記

「しぶとい山ヤになるために」雑感
 アルパインクライミングとフリークライミング、エイドクライミング、ほか

「しぶとい山ヤになるために」200X年度テーマ

「しぶとい山ヤになるために」200Y年度テーマ

自己紹介(木本哲登山および登攀歴)……山学同志会在籍一年目に培った技術を基礎として実行した初登攀〜第3登を中心にまとめた
木本哲プロフィール(「白夜の大岩壁・オルカ初登頂」のページから)……公開を取りやめています
僕のビッグ・ウォール・クライミング小史……公開を取りやめています
「目次」を参照してください
Satoshi Kimoto's World(木本哲の登攀と登山の世界)……海外の山もさまざまなところへ登りに出かけました
しぶとい山ヤになるために=山岳雑誌「岳人」に好評連載中……登山開始から山学同志会在籍一年目までの山行で学んだこと感じたこと

連載1年目内容連載2年目内容連載3年目内容岳人連載全タイトル文章の誤りについて連載を楽しむために

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