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岳人連載「しぶとい山ヤになるために」 全タイトル 2009

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連載1年目内容連載2年目内容連載3年目内容岳人連載全タイトルタイトル一覧文章の誤りについて連載を楽しむために

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山岳雑誌『岳人』=マウンテニアリングセミナー

『しぶとい山ヤになるために』
 
僕の新人時代――アルパインクライマー木本哲の200日  全36回――全タイトル2009

2007年1月号から2009年12月号まで連載予定、ただいま好評連載中! 岳人は毎月15日発売です。
ここでは執筆予定のテーマと岳人に掲載されたタイトルを紹介しています。
岳人掲載後は掲載時のタイトルのみを掲げています。

 

連載を始めるにあたって タイトル一覧 山登りを始めたころを振り返って 雑感 四年目以降のテーマ

● 岳人連載「しぶとい山ヤになるために 〜僕の新人時代〜」
「しぶとい山ヤになるために」の副題を考えてみた。それは「僕の新人時代」というものだ。実際、この原稿は僕が山を登り始めて山学同志会の新人時代である在籍一年目までの山行を書いていくことに決めたのでまさに僕の新人時代を扱うことになるのである。

この連載で扱う山行日数はおよそ二百日だが、期間としては四年半あまりと長い。だけど最初のうちは年間山行日数などたかがしれていて山学同志会に入るまでの山行日数は合計83日である。平均したら一年に24日、月2日のペースでしかない。そう考えると山学同志会に入ったら突然人が変わったように山を登りに行き始めたことが分かる。

僕の山登りはもともと子どものころに裏の藪山を駆け回って遊んだ山遊びから端を発して始まったものだから、始めのうちは山にいるというそのことだけで満足していたように思う。田舎から都会に出てきて自然というものに飢えていたのだと思う。実はその点は今でも変わらず、僕は別に山頂に立てなくても、つまり単にハイキングのような森の中を歩き回るような山行でも十分満足できるのである。だからきっとその当時都会の殺風景な自然もないような場所に住んでいた僕は自然の中にいるという感覚だけで満足していたに違いなく、山を登りに行こうという積極的な気持ちはなかなか生じなかったのではないのだろうか。

実際、藪山を彷徨って遊んでいた僕には歩いて登れる山の頂に立とうという発想そのものが希薄なのではないかという気がする。そんな山では山頂に立つより山懐を彷徨っていた方がずっと楽しいのだ。だから、山を登ろうという気持ちを起こさせるにはやはりノーマルルートをたどるような山行ではなく、沢登りや岩登りなどのようなバリエーションル−トをたどるような山登りを中心にした山岳会に入らなければならない必然性があったのだろうと思う。そんな登り方を始めたころから山頂の向こうには何が見えるのだろうかと強く意識し始めた気がする。それは藪山の中の岩山や樹冠が途切れた見通しのいい場所から遠くの景色を眺めるようなものである。僕は遠くの景色を眺めながらいつかそこに行ってみたいという気持ちを育んでいたのである。でも面白いのはいくらバリエーションルートを登っていてもできるなら山頂に立ちたいという気持ちが強いことだ。バリエーションルートとして困難な部分だけを捉えるのもいいが、やはりルートの終点は山頂だと思うからである。

そうそう、ハイキングのような山といえば、実は僕は藪山をうろつきまわること、つまり道のない藪山をかき分けて進むというたわいもない山行がとても好きだ。実は、それが僕を海外登山はおろか海外登攀にまで導いた原動力になっているのである。藪山彷徨と未知の山への挑戦、この二つはまったく関わりがないようで、実はすごく深く関わっているのである。グリーンランド出発直前に大きなけがをし、グリーンランドの登攀で傷を広げた膝のリハビリのためとはいえ、今また藪山彷徨を始めた。それは心をとても落ち着かせてくれ、体を癒してもくれる。もちろん見通しの悪い樹冠の向こうにはもっと大きな山が見え隠れしている。そんな大志を抱きながら藪山を彷徨っているのだが、今は藪山彷徨がとても楽しい。いつかまたそんな大きな山に挑むために僕はとても優しい山懐に抱かれて今は英気を養っているのである。

● 副題
「アルパインクライミングへの招待」? 「アルパインクライミングの復興」? 僕が登り始めたころはアルパインクライミング如かなかったからアルパインクライミングについてのみ書いているけど、これじゃあそのマンマだもんな。やはり「僕の新人時代」とした方がインパクトが強いと思う。新人でも先輩に恵まれればこんなことができるんだということを書きたいのだから。でもまあどうでもいいか……。まだ連載が終わってもいないのに。

副題は「僕の新人時代――アルパインクライマー木本哲の200日」がよさそうだ。何だかこれがいちばんインパクトがありそうだもの。誰にもある新人時代――。しかし、山行日数二百日の内容はバラエティに富んでいる。僕の新人時代は遠回りしたせいで期間がちょっと長いけどこんな感じでした。先輩に連れられて山や沢や岩に行きながらその経験を生かして自分でも行ってみる。もしかすると一度経験したことは自分の力でできるかどうか試さないと気がすまない性格なのかも知れんな。でもこんなことができるならこんなことができるんじゃないか、こんなことををやってみようとどんどん新しいことを試みた。時にはしっぺ返しをくらうこともあったけど、大きな事故になったり死なないように気をつければ再挑戦することができる。失敗から学ぶものは成功から学ぶものより大きく、挑戦や再挑戦から得たものはどんどん身についていった。失敗したら失敗したでなぜ失敗したのか、いったいどこで失敗したのか考える人間だから余計に……。でも同じ失敗を何度も繰り返せるほど山は甘くない。難しいことを確実に行うためにはやはり考えに考えた上で行動しなければ失敗を繰り返す可能性が高い。そしてしまいにはたった一つしかない命を失ってしまう。

著者 木本 哲
自己紹介 白夜の大岩壁から 国内の登山記録 海外の登山記録 著書・著作 映像・撮影 Satoshi Kimoto's World

● 2009年の執筆予定のテーマ  山学同志会入会在籍一年目の無雪期から積雪期を終えるまでの登山や登攀

1月号 (25) 下山してこない仲間たち  万が一のときは…谷川岳集中登山の教訓
2月号 (26) 一ノ倉沢と幽ノ沢の継続登攀  新人と先輩の力量は一日の登攀量の差に現れる
3月号 (27) 冬富士講習会  冬山登山の扉を開く総合力養成登山
4月号 (28) 難しいから面白い  冬季登攀の扉を開いた越沢バットレスアイゼントレ
5月号 (29) 谷川岳一ノ倉沢中央稜冬季登攀  さまざまな感興に彩られた初めての冬の壁
6月号 (30) 雌伏の時  空しさばかりが残った穂高岳冬山合宿
7月号 (31) アイスクライミング事始め  東沢での講習会の次は三つ峠の沢・岩・沢単独行
8月号 (32) アルパインアイスの神髄  甲斐駒ヶ岳黄蓮谷左俣から赤石沢奥壁中央稜継続登攀の企て
9月号 (33) 八ヶ岳横岳西壁大同心雲稜ルート冬季登攀  生と死の狭間、未知が持つ楽しさと難しさ
<「岳人9月号」は8月12日(水)発売 次号「岳人10月号」は 9月15日(火)発売予定です>
10月号 (34) 谷川岳一ノ倉沢滝沢第三スラブ冬季登攀  技術、体力だけでは解決できない冬季の世界
11月号 (35) 八ヶ岳三月合宿△  10月中旬発売 やさしさの中に潜む油断
12月号 (36) 進取の気性×  11月中旬発売 きのう、今日、あした(了)

三年にわたってお読みいただいた山岳雑誌「岳人」連載の『しぶとい山ヤになるめに』は2009年12月号をもって終了です。
縁あって読み始めた方には最後までお付き合いいただくとともに、残りわずかですがクライマーとしての成長をお楽しみください。

山学同志会在籍二年目以降の山行

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●残り二本
谷川岳一ノ倉沢滝沢大三スラブ冬季登攀を書き終わればいよいよ残りは二本だ。でも、実質これで終わりくらいの勢いかもしれないなと思う。原稿の量の調節が難しいのは残すところ一本、たぶんあとこれだけだろう。この登攀は冬季登攀を始めてわずか三、四ヶ月、実際三ヶ月半くらいのときの出来事であるからわずかな時間的経験の中で冬の谷川岳一ノ倉沢滝沢第三スラブを登ったことになる。しかも夏より冬の登攀の方が先である。それもこれも氷雪の登攀にそれほど難しさを感じていなかったからであろうし、いい先輩に恵まれていたからでもあろう。冬山はしっかりした登山技術、登攀技術を持った「登れる人」について学ばないと時間ばかりかかって前に進まない。経験をたくさん積むこと――。何よりそれが大切なのである。もちろん、しかも安全にである。その安全は技術や体力だけからなるものではない。困難を求めれば求めるほど精神的なものが占める割合が大きくなる。アルパインクライミングではその両方を鍛えていくという姿勢が大切である。ちなみに知識や経験が乏しいうちは凍傷や低体温症のような体の一部の切断や死亡など取り返しのつかない大きなけがや遭難死をする危険がある。これは連れて行く側の者が連れて行かれる側の者をしっかり見てやらないとあっという間になってしまうし、起こってしまう。凍傷が怖いのはもし患部を切断しなければならなくなったときはそれ以後生涯体がもとの状態に戻ることはないということである。凍傷は案外容易に防げるものだが、容易になってもしまう。だからこそ経験者が注意を促し、凍傷にならないよう教えてあげなければならないものなのだ。凍傷は切ってしまえばさまざまな後遺症に悩まされることもある恐ろしいけがであることを忘れてはならない。また、冬山は低体温症に陥りやすい。低体温症は冬の寒さや秋口や春先の冷たい雨や風などで体の熱が奪われて起きる全身の障害である。直腸温などで計測可能だが、中心体温が30度以下になると昏睡状態になって死亡する危険が高まる。低体温症で死亡することを凍死という。低体温症はそういうわけだから冬ばかりか夏にも起こる。特に産熱が低い高齢者には注意が必要だ。また森林限界を超える高さの山でなりやすい。登山や登攀経験が豊富な者はこうした危険について十分な認識があるからよほどの事態に陥らない限り防ぐことが可能だ。こうしたことを考えると、凍傷や低体温症が多発したこの冬から初夏にかけてのガイド中の遭難事故は異常事態だと思う。

●残り三本
削除してもあまり影響のない部分を削除して提出したが、それでもまだ45行ほど削除しなければならなかった。中途半端な長さだから二つに分けることもできないし、残り期間を考えると二つに分けるなんてことはしたくはないから何とかこの見開き二ページの中に収まるようにしなければならない。文章そのものは多少収まりが悪くてもがまんするしかないのだろうが、なんだか書き残した感が強くてしようがない。じっくり表現すべきところを駆け足で表現しているからおそらく考えにまとまりがない感じがしてしまうのだろう。直前に多少手を入れうまく繋げはしたものの、紙数がないから臨場感に欠けた文章のような気がしてならない。大幅に書き足すのがいいのだろう。実は僕はこの失敗からどんな懸垂下降であっても死なないための知識と技術を得たのだけど、その点については二行でかたづけた。実際のところ、この連載は技術書ではないからそこまで詳しくは書けないし、書く必要もない。でも、本当はここが一番大切なところだ。この失敗以後も僕は知らないルートをたくさん初見で登っているし、もちろn懸垂下降も繰り替えしている。そんな技術がなければ資料の少ない岩壁や未知の岩壁をぽっと登りに行くことなどできはしない。とりあえず死ななければどんな失敗をしてもかまわないけど、その失敗から何を学ぶかという点がとても大切なところなのだ。ちなみに横岳西壁大同心雲稜ルートの登攀は全ピッチ僕一人がリードをして登った。なにせ僕は自分の力ですべてのピッチをリードして登ってみたかったし、たぶんこの時点ではパートナーの矢作や保科には登攀経験が少なく、彼らが見知らぬ岩壁をリードして登るのはまだ無理だっただろうと思う。この計画を主導した僕は当初からすべてのピッチを自分でリードするつもりでいたからもちろん彼らがリードできなくても困りはしない。だいたい僕は自分が登りたいところはいつだってすべてのピッチをリードして登ってもかまわないと思ってことに当たっているからたとえそのときのパートナーがリードできなくてもどうということはないのだ。実際そのくらいの気魄がなければ初めて見える岩壁をリードして登ることなどできやしないだろう。しかし、僕にとって八ヶ岳は初めて登る山で、もちろん冬どころか夏でさえ登ったことがない山である。当然ながら登攀ルートしても初めて触れるわけだからとても面白い冬季登攀をすることができた。冬の岩壁を初見で登る楽しさを求めるというのはもしかしたらこのときあたりから始まっていたのかもしれない。登山や登攀と言うのは知らないところを安全に登れるように体力や知識や技術を研いていくことがとても大切なことである。それでなくても危険がたくさんあるのが自然の生の姿なのだから学んだ知識や技術は経験を通して研きをかけ、迫りくる困難が予見できるような高いレベルにまで発展させなくてはならない。そこにどんな危険があるか予見もできずに突っ込むのは無謀以外の何ものでもない。実際、そんなふうにする力がなければ命がいくらあっても足りやしないし、僕の本職でもあるガイドなどできるわけがない。そこのところだけはしっかり抑えておいた方がいい。つまりこの文章は知らないところでも迷わず登れるくらいのしっかりした知識や技術や体力をつけなさいということでもあるのだ。そんな力があっても登山や登攀、殊に登攀はいろんなことが起こるからいろんなことに対応できる柔軟性が必要だ。特に経験が未熟な場合は命に関わる失敗を犯しやすい。こうした失敗に注意しながらしだいに経験を積み、どんな状況にも対応できる知恵と技術を身につけることを目標にして僕は攀じ登っていたのである。それが山学同志会在籍二年目以降の飛躍へと繋がっているのだ。しかし、今月号もそうだったけど来月号の原稿も中途半端な長さになってしまうのだろうな……。実際この号でも指定された行数よりさらに削除しているのだからもう少し短く書かねばならないということなのである。できれば二つに分けるなんてことはしたくないから強引にまとめてしまおうと思ってはいるけど、そうするとその登山の全貌は伝わりにくい。僕、案外無鉄砲な行動をしているんだけど、実はいつだって慎重に登っていたつもりだ。そうでなきゃこんな危険な場所で長生きはできない。山では時にはミスをするものだけど絶対に死なないこと――。これがとても大切なことだ。グレードというのは伊達についているわけじゃない。そのためにあるのだ。

●ビバーク
八ヶ岳横岳西壁大同心雲稜ルート冬季登攀の原稿は保科雅則著「アルパインクライミング(新版)」中に記されているこの大同心雲稜ルート冬季登攀の際のビバークを取り上げたコラム記事を読む前に書いたもので、彼らがこのとき火気もなしにビバークしているとは知らずに書いたものである。でもまあ僕の記事はビバークについて書いたものではないのでそれはそれでよかったのだろう。しかし、もしこの記事を読んでいたらビバーク時の印象がちょっと変わったものになって原稿の長さに影響を及ぼしていたかもしれない。こうした厳しい行動やビバークは僕にとっては初めてのことではないからもちろん余裕があるし、こんなのしようがないもんなという感じで何とも思っていなかった。でも保科や矢作には違っていたんだろうなと言うのが分かる。彼らは僕と違ってこのビバークは衝撃のビバークだったのである。その後、ずいぶんあとになって保科と二人でトランゴ・ネイムレス・タワーをアルパインスタイルという方法で登攀しているときにも岩棚でビバークを行ったが、保科にとってはきっとどれもこれも厳しいビバークったんだろうなと思うと心が痛むが、一方では感慨深いものがある。でも僕にとってはどれもこれもそれほど厳しいビバークだったという思いはない。それはもっと厳しい条件下でのビバークをたくさんしているからである。大同心の登攀の前もあとも、トランゴの登攀の前もあともいくつもこんな厳しいビバークを重ねているけど、ビバーク技術は、大きな壁、見知らぬ壁を登るには決して欠かせない技術である。そんな状況下のビバークをいかに快適に過ごすか――。僕はそんな辛さを感じているよりもっと前向きにビバークを楽しんでしまう。実際、そういうビバークを楽しむ気持ちが生まれなければ登攀に発展はない。危険なものをいかに安全に行うか――。経験の違い、意識の違い、受け止め方の違いは案外大きく、その後の登山に与える影響も大きいだろう。実は精神的な違いもとても大きいのだけど、ここではその話しは文章がどんどん長くなるからよしておこう。「アルパインクライミング」のコラム記事を読み進めると八ヶ岳横岳大同心の登攀だけではなく、トランゴの登攀も精一杯の行動だったんだろうなという感じがする。実際、彼自身の岩と雪の記録を読んでいてもそれが察せられる。しかし、そうした経験をその先どう生かすか――。その先にはもっと大きな壁があったのだけどな……。このコラムの文章は僕にとっては晴天の霹靂のようなものだが、このまま気づかずに読まないでいるより読めてよかったと思う。同じ登攀を行っても人それぞれ感じ方が違うのだ。関心があれば「アルパインクライミング」の中の該当ページを読んでみるといい。二人の著者の大同心雲稜ルートの冬季登攀に対する捉え方感じ方がはっきり違っていて面白い。この差を考えるとトランゴタワーの登攀に誘われたとき僕がどう対応していたか、考えてみると面白い。たぶんあの時とは保科に対するイメージがだいぶ違っていただろうなと思わせる。僕はこの登攀はかなり楽しかったのだけど、保科は「われわれはこのルートに挑戦するには力不足だった」と書いているし、「満足は得られなかったもののいい経験を積んだかもしれない」としているようだから。だけど、僕にとっては初めての八ヶ岳冬季登山だったし、横岳西壁の冬季登攀だった。しかも目標とした登攀ルートのすべてのピッチを自分でリードして登ることができたので十分満足することができる登山であった。しかし、できれば右フェースを継続して登りたかった。あるいは小同心でもいい。しかし、最低限ドームは登りたいと思っていたのだが、それは叶わなかった。それだけが心残りでもある登山であった。ちなみにこの登山は雲稜ルートを登ってドーム下でビバークしたのはもちろんちゃんと覚えているのだが、その前、岩に取り付く前の行動の記憶が曖昧だ。どこかに記録が残っていると思うが、はっきりしたキャンプ地が思い出せない。たぶん大同心稜上部にツエルトを一個設営してそこに宿泊装備を置いていき、雲稜ルートを登りにいったのではないのかと思っているのだが……。何しろ今まで赤岳鉱泉に泊まったことなどわずかしかないし、基本的に僕の頭の中では行動できるところまで行動してどこか適切なところでビバークをして翌日また登るというものだから赤岳鉱泉で泊まろうという考えは確かになかった。しかし、ドーム下では岩に背をもたれながら座ってビバークし、寒いなあといいながら朝を迎えたのは確かだからである。第一シュラフを持っていたらもっと温かなビバークだったはずで、彼らも登りに行かないなんて言わなかっただろう。皆の指先の凍傷の走りは登攀中の厳しい寒気の中で落ちないようにしっかりホールドをつかんでいたことによるものでビバーク中のものではないだろう。実際、岩をつかんでいると手はずっと上に挙げっぱなしで寒気の厳しい日は指先がイカレやすい。しかも初めての厳しい環境下での登攀であったから凍傷に対する注意意識は低かったろう。しかし、これが厳しいビバークであったことは間違いない。だが、彼が書いているように辛い思いをしながら一歩一歩階段を上がっていくのがアルパインクライミングなのである。僕にとっては希望をつなぐビバークであっても、彼にとってはとても悲しいし、辛いし、寒いビバークだったに違いない。保科が「アルパインクライミング(新版)」に著した文面はおそらくそのときの気持ちを素直に表したものなのだろう。でも、この文章を読んで僕はちょっとショックを感じた。もっと早くにこのときの気持ちが分かっていたら僕の登山もだいぶ違ったものになっていたかもしれない。というのは、もしこれが彼の本当の気持ちならトランゴはとてつもなく大きなもので、僕はトランゴを保科と二人だけで登るのは難しいだろうと判断したと思うからである。八ヶ岳横岳西壁大同心右フェースの解説には右のルンゼを下ることができると書いてあった。しかし、夜中にわけのわからないルンゼをクライムダウンするより岩場を懸垂下降をする方が楽だし安全だろうと思ったのだが、結果はもしかしたら死んでいたかもしれないなというとんでもないことになってしまった。アルパインクライマーの命が生と死のどちらに傾くかはちょっとした判断力が左右する。運と言ってしまえばそれまでだが、物事には基本というものがある。登山や岩登りに対する畏敬の念と何があっても生きるんだと言う気持ちがそれを思い出させ、大きな力を発していることは間違いないだろう。

●パニック
八ヶ岳横岳西壁大同心雲稜ルートの冬季登攀でのビバーク時にコンロを失ったのは僕の宙吊りと関係があるだろう。実際、そのときお互いに連絡はつかなかったから下で何が起きているのかわからないだろうし、何時間もの間ロープには体重がかかったままだ。異変を感じないわけはないが、連絡がつかず、状況もわからないから手の下しようがない。もしかしたら死んでしまったのかもしれない……。そう考えても不思議ではない。山を始めたばかりの者はそんな時どうすべきか――。実はこんなときにこそ冷静さが求められる。冷静な判断が求められる。パニックになったら負けだ。それはロープの上にいても下にいても同じだ。想像もしていなかった状況の中で生への最善の方策を探る必要がある。パニックになったら最善の策かどうか判断するのも難しくなる。大事なものを失くすのもそんなときだろう。もしそこで判断を誤れば、その先でもっと大きなミスをする。その可能性が大だ。だから状況が悪ければ悪いほど冷静にかつ慎重に素早く判断しなければならない。このとき僕は作業をやめて何度か休んだ。だからしだいに時間の観念がなくなっていった。けど、まあ落ち着いてやれば何とかなるだろうと考えていた。それでもやっぱり疲れたなあ。このときばかりはやはり失敗は起こさないようにするのがいちばんいいと思ったよ。これ以後はまったく変わった。しかしこの宙吊り唐の脱出の時間を保科は一時間だと思っていたんだなあ……。一時間って案外短いぜ。あっという間だぜ。

●残り四本
長い連載だなと思っていた原稿書きも残すところ四本になった。10月20日ころには終わるんだなと思うと感無量だが、もちろん終わらせようと思えばもっと早く終わらせることもできる。でも、9月号、10月号は苦しむかもしれんなあ。うまく収まるかな? 原稿の量は面白い分量なのだが、枠内に収めるのが大変なときもある。写真なし、文章のみくらいの方が量としてはいいのだけど……。再編集して本にするときはどのくらいの分量が書けるのだろう。それによっては少し手を入れてもう少し長くしてもいいなと思う。僕の周辺にはもっとつづけて欲しいという人がいるけど、そんなふうに思っている人はいったいどのくらいいるのだろう。登山や登攀には連れて行かれる立場と連れて行く立場がある。山学同志会在籍一年目は先輩に対しては連れて行かれる立場だったし、同期に対しては一緒に行くか連れて行く立場だった。在籍二年目以降は先輩に対しては一緒に行く立場だったし、後輩に対しては連れて行く立場であった。立場によってそれぞれのパートナーの命に対する責任の重さが違う。先輩や同期と一緒に行くときは思い切った山行ができるし、同期や後輩を連れて行くときはもちろん思い切った山行をするが、パートナーを絶対に死なすことはできないという強い思いがあった。後輩を連れて行くときは今やっているガイド登山と同じ感覚だ。すごく気を使った。僕の山行は甲斐駒ヶ岳あたりからは先輩と一緒に行くという感じになった。八ヶ岳の横岳西壁大同心の登攀は同期の仲間と登ったのだけど、これは連れて行く立場だった。谷川岳第三スラブは先輩と一緒に登ったが、お互いに対等の感じだった。山行によっていろんな立場があるけど、それぞれ面白い山行だった。この200日を振り返ると案外充実していたんだなと思う。僕としては2009年8月号以降12月号までの残り五本の原稿書きを堪能したいし、読者にあっては山学同志会在籍一年目の冬の登攀を楽しみに読んでくださいと言いたいところだ。山というのは生死が身近にある世界だ。そんな感覚も含めていろんな意味で山を考えてもらえる原稿になればいいなと思っている。

●先輩の変な言い訳
なかなか刺激的な小見出しだが、冬季登攀二年目くらいではおそらくそんな感じになるのが普通だろう。八ヶ岳の岩場ならまだしも谷川岳や屏風岩の冬の岩壁を自分がリードして登るというのはけっこう難しいものである。それにしても岩田さんの判断は面白い。今でもこの判断は正しいと思う。おかげで早く下って八峰のBCで長時間のんびり過ごすことができたのだから。おそらく北尾根くらいならいつでも登れるというのが岩田さんの判断だったのだろう。そんな状態なら何も今日無理して登ることはない。この章は登攀の失敗話ばかり書いているが、もちろんこれらの山行から学ぶものが多かったことは言うまでもない。何と言っても失敗は成功の元である。伊達に失敗しているわけではないのである。たとえ失敗してもそれを生かすことができれば大きな成功と呼べるものになるのである。

●発見
原稿を書いているといろんな発見がある。ここでそれを書いてもしようがないので書きはしないが、僕が書いた原稿をどう読むかは読者しだいだ。僕と同じ発見をするかどうかは登山経験や登攀経験に違いがあるだろうから何とも言えない。これらの原稿を見てこいつはお馬鹿だなと思うのかもしれないし、こいつすごいなと思うのかもしれない。そんな印象はともかく、これらの原稿から読者が登山や登攀に対して何ものかを得ること掴むことができればこれほど嬉しいことはない。それにしても登山や登攀が月ごとに、それどころか日ごとにどんどんどんどん発展していってる感じがする。僕の登山ってこんなだったんだな――。どうせならもっと早く読ませて欲しかったな?!

●ついに残り半年
6月号の原稿も書いたからついに残り半年になった。これからどんどん冬季登山や冬季登攀の話が出てくるが、中には冬山を始めて一年目で行う山行ではないかもしれないものもあるだろう。だけど冬の岩登りに比べればアイスクライミングや雪稜・雪壁登攀など氷雪のクライミングは意外にやさしいものである。どんどん挑戦してみるといい。でも安全にはくれぐれも気をつけなければならない。実は登山や登攀でいちばん難しいのが安全を確保するという点なのだから。こういったクライミングには雪崩や氷瀑崩壊や滑落の危険があることを忘れてはならない。

6月号原稿はもしかしたら二つになってしまうかもしれないと思いつつ書いたのでどうなるかひやひやものだった。そうならないよう気をつけたし、書きあがってからもずいぶん短くしたもののまだまだ書きすぎているなとは思っていたのだが、とりあえず提出した。そうしたら20行減らしてくれとの連絡があった。けっこうな量を減らさなくてはならないんだなと思いつつも、原稿は見開き二ページと決まっているため減らさないわけにはいかないので、コンピュータを起動して、目的の原稿を開いて字数を詰める作業を始める。

その昔ヤマケイで原稿を書いているときもワニ目と言われる怖い編集者に「ここに座ってね」といわれ、さらに「このペラ二枚を一枚にしてね」とかなんとかいろんなことを言われながら原稿を書いていたことを思い出す。書きあがった内容を変えないように字数を詰めていくのは大変だが、案外知的な遊びでスリルがあって面白い。久しぶりにそんな作業をしなくてはならない羽目になったのだが、原稿を提出して終わりというよりはいい感じがする。実は最初から文字数を決めておけばそれを埋める形で書くことができるのだが、わざとそうしないで原稿を書いている。その方が自由な気持ちで書けるからいい。短くするのも長くするのもどうにでもなるのだから。

●読みにくい
ある人に言わせると僕のこのページは文章ばかりで読みにくいらしい。しかし、文章だけのページを作ってやろうと思っている僕がそんなことを気にするはずはない。この原稿ってイラストをはめ込むタイプのページじゃなくてつくづくよかったなと思う。写真ならサイズにあったものを選べるし、小さくしても案外見られるもの……。たぶん僕をしごいたそのワニ目お大尽様もこの原稿を読んでいるはずなので何とか毎回いいものを書きたいものだと思い続けてここまで書き続けてきた。なんだかんだと言いながらもあと半年までこぎつけるところまできたとは、この原稿を書き始めたころを思い出すと感慨深いものがある。

●はみ出し (36) 北アルプス継続登攀春山合宿<未定>   11月中旬発売 新たな段階を迎え、明日に向かって歩み始める
この連載はもはや僕の山学同志会在籍一年目終了時までに行った登山や登攀だけで構成しようと思っている。岳人連載最終号の12月号はこの連載のまとめでもある「進取の気性」というテーマで終わろうと思っているのだが、もしかしたらこれもはみ出してしまうかもしれない。そのときは書き下ろしの章として単行本に加えることにしよう。あるいはこの章はあとがきに代えてもいい。時おり書き過ぎてしまい、予定していた章立てが狂い、独立した章として扱うほかなくなるので、テーマを考えつつも未定の項目として計画を立てていたのだが、もうはみ出せない状況だ。しかし、今はもう一つはみ出したらそのときはそのときだと腹をくくっている。

●新人時代
登山を始めた1975年10月末から山学同志会の一年目を終えた1980年4月初旬まで、僕のおよそ二百日にわたる新人時代とも言うべき時代に行ったさまざまな登山や登攀の中からピックアップして書き綴ったこの連載はいかがでしたでしょうか。これらは登ろうという気力に溢れた先達や先輩、そして同期の仲間が身近なところにたくさんいたからこその山行の数々ですが、読者の皆様の今後の登山の展開に少しでも役立つことができれば幸いです。

実は、山では失敗をたくさんします。実際そんなことを繰り返しつつ危険や安全の判断基準が構築されていきます。そんな失敗も命に関わらないものならいくらしてもかまいませんが、直接自分の命や他人の命の存続に関わってくる危険極まりない判断や失敗は一度ならまだしも、二度も三度も繰り返してはなりません。もちろん一度ならまだしもと言っても、たとえ失敗しても全員が生きていなければ話になりません。山では基本的に同じ失敗を繰り返してはならないのです。特にシビアな失敗であればあるほどそうでなくてはなりません。そうでなければ命がいくらあっても足りやしません。人間は誰しも命は一つしか持ち合わせていないので登山を行わんと思っている人にとってはこれは重要なポイントです。

一方、登山や登攀では経験の多寡、特に悪い条件下で行った登山経験や登攀経験の多寡が登山や登攀の安全性や安全か危険か状況を判断するのに直接関わってきます。それだからこそ山登りは経験豊富な人について学ぶのがいいのだということができるのですが、その経験の多寡というのはアルパインクライミングの経験の多寡のことです。アルパインクライミングには危険がたくさんありますが、経験豊富な良い先達について学べば、案外安全に技術の習得ができるばかりか、一人前になるまでの期間も短縮することができます。逆に、そうでない場合は、知識や技術の習得に多大な時間がかかるばかりか、知識や技術を習得している間に危険に遭遇し、命を落とす可能性が極端に大きくなります。この連載を読んでアルパインクライミングに興味を持った方々にはそう忠告をしてこの連載を終わりにしたいと思います。

●連載終了
この連載は槍ヶ岳北鎌尾根をこれから単独で下降するという場面で終わろうと思っていたのだが、考えてもいなかった越沢バットレスアイゼントレーニングの章が独立してしまったので北鎌尾根を描写するところまで進むのは困難になった。でも、山学同志会在籍一年目の総括と今後の展望で終われれば申し分ないだろう。あとはたぶんこのまま行けるのではないかと思うが、どうだろう。原稿を書いていると思わず書き過ぎてしまって新たな章を立てて独立させるしかないときがある。久しぶりにそうなってしまって、春山合宿の項目がこの連載からはみ出してしまった。でもこれは山学同志会在籍二年目の山行になるから(実際には山学同志会に入って一年未満の山行なのだが)外してもいいだろう。それが良くても悪くてももはや外すしかないのだが……。

●熱心な読者
熱心な読者がいるらしいが、僕には顔が見えない。果たして本当にいるのだろうか。僕のすぐそばにいる人の中には熱心な読者が何人かいてときどき連載の話をするのだが、それが考えをまとめるのに役立ってもいる。山というのは登って、そして考えねば上手にならない。この連載が読者に何がしかのインパクトを与えることができれば、少しはアルパインクライミングというものを考えてもらえるのではないだろうかと期待しているのだが、どうであろうか。大先輩の坂下直枝さんと同じで、実は僕もアルパインクライミングの復興を願う一人なのである。それにしても、何を書いてもいいとはいえ、自分の思いの丈を書くのはやはり大変なことだ。

この間、「岳人の連載読んでるで」といわれえ面食らったが、こんな人も読んでいるのかと思った。が、山のお店をやっているのだから、ある意味当たり前なのかもしれない。そんな話から、小西政継さんの話へと発展したのだが、やはり小西さんは一味違った人で多くの人に影響を与えていたのだなと思わされた。小西さんは、山も文章もぐいぐい人を引っ張っていった人だけど、すごく優しい面があった。そんな話で盛り上がったのだけど、この連載には小西さんの話はでてこない。残りはあと七ヶ月、名残惜しみながら楽しんでくださいませ。実際には八ヶ月かな。

あとがき  これは連載が終わったらゆっくり書こう

● 連載終了時期
山岳雑誌「岳人」連載=しぶとい山ヤになるために」は2009年度を持って無事完結、終了の予定だ。勝手に好評連載中と書いてはいるが、実際のところ、この連載記事がどのくらいの興味を持って読まれているのか分からない。この連載は最初なかなか書けなくて一年でやめたい、やめようと思っていたのだが、原稿書きの方向性が定まった途中からは比較的書きやすくなり、しだいに勢いがついて連載二年目に入った。その結果、山学同志会在籍一年目の途中までという中途半端な展開のまま止めるわけにはいかなくなり、結局三年目もやめるわけには行かず、書き続けるしかなくなってしまったというのが実情である。

この連載は、自分なりには書いていて案外面白いものだったので、今どこかの章を読み返してみても個人的に“面白いじゃん”と思うことがある。案外しゃかりき、勝手気まま、無鉄砲な山行ばかりの気がするのは僕だけだろうか。特に自分で計画を立てて登りに出かけたものはそんな傾向が顕著なように思う。でもこうやってしだいに登山や登攀というものを理解していったのだなという自分自身の系譜がわかる。そういう意味では自分自身にとってはなかなかいい連載であり、テーマであり、企画であったと思う。

こんな山行をいったい何年続けてきたのだろうか。人はなぜ山に登るのだろうか――。登山は、今や死後となってしまった感がある「きつい、汚い、危険」という3Kの代表的なスポーツである。しかし、スポーツとはいいながら、負けてしまえば冗談抜きに死んでしまう非情な、しかも理不尽極まりない現実と対峙しなければならないスポーツなのである。ほかのスポーツと違って、下手をすれば、実は一生再ゲームなどできない過酷なスポーツなのである。体力、知力、技術力といったこのスポーツを行うために必要な能力は、実は、山で死なないようにするための、再ゲームを可能にするための必須の能力なのである。逆に言えば、そんな能力を高めない限り、登山者が出かけられる範囲は自ずと狭められているのである。

経験を通して危険を見抜く目と技術を養い、この縛りを解くことが夢と希望を広げることになる。だから当然この縛りを解くには努力が要る。誰も彼も夢と希望にあふれた再ゲームを楽しまんことを欲すが、そこに縛りがあることを決して忘れてはならない――。これらの文章を読んでいると、そんな思いを抱えながら自分自身の世界を広げていったのだということがよく分かる。が、一年を通して登山や登攀を経験し、これらの経験を通して、二年目以降は最も難しい登攀だと思った冬の岩登りをしようとしだいに心に決めていく新人時代の自分自身に刺激されて、何やら心に期すものも芽生えてくるから不思議だ。

これらの登山経験や登攀経験を基礎として展開した、これに続く山学同志会在籍二年目以降の山行を思い出すと、ちょっと危うい世界はやはり面白いよな、と思ってしまう。フリークライミングやアイスクライミングはクライミングの中の一つのジャンルに過ぎないけれど、アルパインクライミングはすべてのクライミングを統合させたものだから、それぞれにトップレベルの経験が必要になってくる。

自分自身の新人時代の記録を書き上げ、かつ読み返しながら、再びそんな方向に傾きつつある自分自身の心の内を見ると何だかおかしくなる。「もう歳なんだからいい加減危うい山行はやめたら」と年賀状の文面で諌められながらも、そんな方向から足を洗うことなどできそうにない自分自身がいることを、逆にその文面から気づかされてしまう。何せ50代は50代で、60代は60代でいい登攀をしたいと思ってしまう自分を見ると、現役からは外れられそうにない。

これは、読者にあっては役に立たない連載であったかもしれないが、僕にとっては山登りや岩登りを始めたころの初心を思い出させるいい企画であり、連載であった。連載の内容自体が今から30年も前の話であるから行動や考え方が古めかしいと思われても、あるいは内容が古すぎて現代の登山者の役に立たなくてもしようがないと割り切ってはいるものの、老いぼれアルパインクライマーのたわごとと笑って読んでいただけら幸いだ。

「しぶとい山ヤになるために」に対するご意見・ご感想は「岳人」編集部またはメール直接僕へお送りください。

● 謝辞

● 連載を終えて=まだ終わってはいませんが……

●連載をさらに続ける場合は……
この連載はとりあえずは今年いっぱい続けるという企画なのだが、山に登り始め、数年の登山経験を経て、初めてまともに冬山登山を経験し、さらに冬季登攀に踏み込んだところまでを描いていくつもりだ。それはちょうど僕の新人時代を描き終えると同時に連載も終了するという展開になる。時間的にも内容的にも一区切りつくところなのでちょうどいいと思う。

実際のところ、海外の話も書いて欲しい……という要請もあったのだが、そこに行きつくにはその基礎作りの段階が分からないことには話しにならない。そこでこういう形の連載をすることになったのだが、基礎作りの段階から突拍子もない展開だと思っているのではないだろうか。僕自身そんな気がするが、とりあえずこの連載は今年で終わりだ。この先も連載を続けるという話を考えるとちょっと面倒で、またまた悩んでしまいそうだ。はっきりしているのは連載を続けようとすれば肩書きを考え直さなくてはならないということだ。

実は今、この連載で僕が使っている肩書きは「上級登攀ガイド」というものだが、現時点では上級登攀ガイドは国際山岳ガイドと同等の実力を持ち、国内最高クラスのガイド資格と規定されている。ところが、この上級登攀ガイドという名称は今期で廃止され、これまでの上級登攀ガイドとガイドエリアに差があった登攀ガイドをひっくるめて新「登攀ガイド」という名称に統一されることになっている。したがって、まずはこの上級登攀ガイドという肩書きを外さなければならない。

では、この肩書きを外したのち、上級登攀ガイドを登攀ガイドに単に差し替えればいいのかというとそう単純なものではない。登攀ガイドという肩書きを使ってしまうと登攀ガイドがすべてこうした登山・登攀経験を積んで登攀ガイドになってきているかのような印象を与えてしまうからだ。もちろんそれは僕の本意ではない。実際、国際山岳ガイドと同等の登攀技術を持つ上級登攀ガイドなら僕の新人時代くらいの山行は当然積み重ねてきているはずだと考えてもいいのかもしれないが、登攀ガイドの門戸を広げるとなるとどうなのかわからないという現実がある。何しろ現在の上級登攀ガイドというガイド資格の中でさえ実は上級登攀ガイドの登山・登攀能力の実力にはピンキリの差があり、上級登攀ガイドすべてが必ずしもこのような登山・登攀経験を有して上級登攀ガイドになっているわけではないからである。

これでは旧来の上級登攀ガイドにさらに旧来の登攀ガイドをひっくるめてできる新たな登攀ガイドのガイド間の実力差は以前にも増して大きく開いてしまうことは明らかである。そんな状況の中で僕の肩書きを登攀ガイドとしてしまうことには大いに抵抗がある。実際そうすることによって登攀ガイドが備えている実力は現実の実力以上に力があるのだと宣伝することになれば、登攀ガイドにとっては都合がいいかもしれないが、クライアントにとっては不都合極まりない現実である。この結果、クライアントが登攀ガイドの実力を誤解し、思わぬ展開で事故に遭うとすれば僕の本意とは程遠い現実が生じてしまう。クライアントに誤解を生じさせ、それがために事故が起きてしまっては困りものだ。実際、二年目以降の登攀は限られた人しか登れないようなルートばかり登っていたのだから。

この連載をこれからも続ける場合は僕の肩書きをどうすべきか考えねばならないが、この先はガイド資格が求める実力を超えた、勤めて個人的な登山や登攀を描くことになるので僕のガイド資格が国際山岳ガイドならまだしも上級登攀ガイドあるいは登攀ガイドという肩書きではこれらの言葉は使えないし、使いたくもない。実際、この先の登攀経験そのものを描こうとすれば上級登攀ガイドはもちろん国際山岳ガイドと言われる人でさえめったに経験することがない困難な登攀ルートに挑戦する様子を描いていくことになるので、登攀ガイドという言葉は使えないのだ。そんなことをあれこれ考えてみたが、今はまだこの連載を続けるかどうかさえ定かではないし、続けることが決まっているわけでもないので、肩書きのことはそうなったときに考えよう。

この連載は春の槍ヶ岳北鎌尾根を単独で下りていくところで終えようと思っていたのだが、もしかしたらそこまで行きつかないかもしれないなあ……。これに代わる終わり方を考えなければならない。

*

その時々の思いをいろいろと書いてきましたが、マウンテニアリングセミナーの連載「しぶとい山ヤになるために」は三年で終了する計画です。終了したら手直しすべきところは手直しして本にしたいと思っています。うまい具合に出版にこぎつけた際はお買い上げください。

200720082009

木本哲プロフィール(「白夜の大岩壁・オルカ初登頂」のページから)……公開を取りやめています
僕のビッグ・ウォール・クライミング小史……公開を取りやめています
「目次」を参照してください
しぶとい山ヤになるために=山岳雑誌「岳人」に好評連載中……登山開始から山学同志会在籍一年目までの山行で学んだこと感じたこと
自己紹介(木本哲登山および登攀歴)……山学同志会在籍一年目に培った技術を基礎として実行した初登攀〜第3登を中心にまとめた
Satoshi Kimoto's World(木本哲の登攀と登山の世界)……山学同志会在籍二年目から海外のさまざまな山や岩壁を登りに出かけた



※ 批評や批判は大歓迎――違った見方・考え方などがあればいつでも メール をお送りください。

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